2012年05月21日

天皇陛下について110

仁徳天皇崩御82年後の第二十二代、清寧天皇、せいねいてんのう、の御代を書く。

西暦480年頃であり、紀元は、すでに千年を超えて、1140年である。

この時、危機が起こった。
皇統、天子さまのお血筋が絶える。
現在も、女性皇室・・・云々などと、天皇家の問題があるが、当時も同じく、世継ぎが無いという、危機であった。

日本民族は、天皇、皇室の存在なくしては、考えられない国である。
そのことを、十分に知る人は少ない。
天皇が無くても、国があるという人もいるだろう。

本当だろうか・・・
権力は、いずれ倒れる。しかし、権威というものは、倒れない。
そして、その権威を重んじる日本民族。いや、先祖たちである。
それが、国を安定させる、智慧だったという。

更に、独裁制ではなく、まず、祖先の気持ちを鑑みて、更に、祖先の御霊をお守りして、その教えを、脈々と続けて行くこと。
合議制、つまり、話し合いの政治である。
そして、どうしても、結論が出ない場合は、そのままにして、時を待つ。
それでも、駄目な時は、天皇の、お言葉に従うという、国である。

天皇の、お言葉を、詔、みことのり、という。

さて、この時期に、播磨の国司の祖である、小楯という人が、朝廷の命を受けて、田税を収めて歩く途中で、赤石の郡の、忍海部細目、おしみべのほそめ、の家に、招かれた。

新築祝いである。

祝宴であり、酒が振舞われた。
歌が出る。

末座に、二人の少年がいた。
兄を、島郎、しまのいらつこ、弟を、丹波小子、たにわのわらわ、である。
二人は、細目家の、使い走り、賎しい火焼童だった。

月が二人を照らした。
小楯は、それを見て、ハッとした。
何か、普通の子とは違う。
たたずまいが、貴人の様子である。

誰か、舞う者はいないか・・・
細目が言った。

郎でも、少子でもいいから、舞え・・・
と、命じる。
二人の間で、兄が、いや、弟がと、やり取りがあった。

人々は、そのやり取りを見て、賎しい火焼きの子にしては、礼儀正しいと、感じた。

実は、この日の昼間、二人で話し合っていた。
私たちは、後胤(天皇の血筋)でありながら、この家の下男となり、馬を飼い、牛を追って年月を過ごした。これは、すべて素性を隠すためである。しかし、あの国司は、立派な方だと思う。素性を明かしてみましょう。

弟の少子の提案である。

兄は驚いた。
まて。今、名を明かしては、父、皇子のように命を奪われることにならないか・・・
父とは、履中天皇の子、市辺押磐皇子、いらべおしはのおうじ、である。

しかし、弟は、剛毅な性格である。
今宵こそ、機会です・・・

兄は、その気持ちに負ける。
そして、それは、お前の使命だと言う。

しかし、そういったが、まず、兄の郎が舞った。
続いて、弟である。

弟、少子は、歌った。
いなむしろ 川添柳 水行けば なびき起きたち その根は失せず
繰り返し舞うのである。

小楯は、更に歌って舞ってみよ、と言う。

もののふの わが夫子が 取りはける 太刀の手上に 丹画きつけ その緒には 赤幡をたち 赤幡立てて 見ればい隠る 山の三尾の 竹をかき刈り 末押しなびかすなす 八弦の琴を調べたる如 天下治めひし いざほわけの 天皇の御子 市辺之押歯王の 奴末と歌い舞う。

意味は、
もののふは、赤旗をなびかせ、太刀を腰にという、勇姿をみて、悪人どもは、皆その威厳に服した。また、竹を切り、それを手に取り、さらさらと、葉末を鳴らすように、国民に号令し、八弦の琴を調べるように、国民の心を一つにまとめた履中天皇の皇子、市辺之押歯王の子である。

小楯は、仰天した。
二人は、履中天皇の御孫であらせられる・・・

ものども どけ どけ
下座に下りて、小楯は二人の元にすがり、大声で泣いたのである。

島郎は、億計王、おけのみこ、丹波少子は、弘計王である。

後に、兄のたっての、提案で、弟君が、第二十三代、顕宗天皇となり、その後が、兄君の、第二十四代、仁賢天皇であらせられる。

現在も、このように、天皇の血筋を持つ、男子を推すとよい。
敗戦後に、皇室から、剥奪された、皇族の中にも、いらっしゃる。

兎に角、皇統を守るという、精神が、日本民族の、宝であり、智慧である。

この、権威が、今年2012年、平成24年で、皇紀、あるいは、紀元2672年である。
堂々たる、歴史である。



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2012年05月22日

天皇陛下について111

仁賢天皇の皇子が、第二十五代の、武烈天皇である。498年から506年。

この天皇にも、お子様がいらっしゃらなかった。
そこで、大伴金村は、皇室の御血統を四方に求めた。

そして、現在の福井、越前から、応神天皇五世の孫である、オオトノミコトをお迎えする。
継体天皇である。507年から531年。

その皇子が、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇である。

第二十九代、欽明天皇の13年、百済の聖明王から、仏教を伝えてきた。
王の使者が、持参したのは、釈迦仏の金銅像一体と、経文である。

手紙が添えられていた。
仏教は、諸法の中でも、最も優れた教えです。遠く天竺から、三韓まで、すべてこれを尊んでいます。謹んで、日本へもお伝えします。

天皇は、大変、喜ばれた。
しかし、それをそのまま受け入れてもいいものかと、群臣を集めて、お尋ねになった。

大臣の蘇我稲目が、
すでに西の諸国が信仰していますなら、わが国だけが信仰してはいけないということは、ありません。
と、言う。

大連、おおむらじ、の、物部尾輿と、中臣鎌子が、
わが国には、昔から、春秋四季に、お祭りしている天地の神々があります。今、外の神を拝むのは・・・
と、反対である。

中臣は、代々、神々を祭る役目であった家系である。

蘇我氏は、竹内宿禰の子孫である。
度々、朝鮮諸国と、交渉の任に当たっていた。

天皇は、
それでは、仏像は、望むものに授けて、お祭りすることにしょう。
と、稲目に、賜わった。

稲目は、家に安置して、礼拝した。
やがて、向原の家を寺として、そこに移す。

ところが、まもなく、国内に伝染病が流行し、死者が次々と出た。
尾輿と、鎌子は、それは、仏像のせいであると、天皇に申し上げた。

日増しに、死者が出ているゆえ、天皇も、その意見を聞き入れた。

仏像は、難波の堀江に投棄し、寺は、灰になった。

ここから、蘇我、物部の不和、対立が、決定的になっていったのである。

それから、18年後、稲目が、死んだ。

その間に、仏教の伝来の前年に、百済の聖明王は、高麗、高句麗を討ち、漢城の地を得て、更に、平壌を討ち、六郡の地を取り返していた。

だが、仏教伝来の夏に、百済は、日本に、援軍を求めてきた。
高麗と新羅が連合して、百済と任那に大攻撃をかけて、滅ぼそうとしているというのである。

百済の失地回復が、新羅の攻撃で白紙になった。

更に、聖明王の子が、翌年の春に、日本に仇を捕って欲しいと、言ってきたのである。

だが、それから、七年目の欽明天皇32年1月、任那の日本府も、新羅によって、亡ぶ。

その六月、無法であるとして、新羅征伐の詔、みことのり、が下る。
七月、日本府の回復のために、紀男麻呂を主将とし、カワベノニベを副将として、新羅に派遣される。

ところが、カワベは、主将の命令を聞かず、勝手に兵を進めたために、勝ち戦だったが、破れたのである。

蘇我稲目が、死んで、二年目、第三十代敏達天皇が即位された。572年から585年。

その年、大臣になったのが、稲目の子である、蘇我馬子である。
最高位の大連には、物部守屋である。

馬子は、仏像が欲しかった。
ある年、百済に向かった使者が、一体の仏像を持参して、帰国した。

馬子は、それを譲り受けて、寺を建て、高麗の僧、慧便を招いて、三人の女を尼として、礼拝させた。

すると、また、伝染病の流行である。死者も続出した。

またも、守屋と、鎌子の子の、勝海と、朝廷へ申し出る。
二代も続き、悪い病が流行し、多くの人が死んでいます。これは、蘇我氏が仏法を信じているからではありませんか。

それでは、と、朝廷は、詔を下した。
仏教を禁じたのである。

守屋が、先頭に立ち、寺を焼き、仏像を捨て、愚か者の馬子と、辱めたのである。

馬子の恨みは、強いものだった。

まもなく、天皇も、伝染病にかかられた。
そして、馬子もである。
天然痘と言われている。

馬子は、天皇に申し出た。
私の病は、仏の力に頼らなければ、治りません。どうか、仏を・・・

天皇は、
それでは、お前一人で、仏法を行うことである。
と、仰せられた。

まもなく、馬子は、回復し、天皇は、その後二ヶ月ほどで、お隠れになった。

敏達天皇14年8月15日である。


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2012年05月23日

天皇陛下について112

第三十一代用明天皇、585年より、587年。

その御生母は、蘇我堅塩媛、そがきたしひめ、である。
蘇我稲目の娘であるから、蘇我馬子と、兄弟である。

物部守屋は、穴穂部皇子を擁立したが、皆は、欽明天皇第四皇子、大兄、橘豊日尊に帰した。

だが、即位二年後に、病に罹る。
天皇は、蘇我馬子の後援、御生母の影響もあり、群臣に
仏に頼ろうと思う。いかがだろうか・・・
と、問い掛けた。

皇子の頃より、仏法を信じ、神ながらの道を尊ばれた皇子である。

宗教的には、中立な立場をとられていた。

その天皇が、崇仏とは・・・

大連の、守屋と、中臣勝海は、
とんでもないことでございます・・・
二人は、仏法に反対の立場である。

大臣の馬子が言う。
天皇の仰せである。それに背くとは・・・

そして、即座に、豊国法師という僧を連れ、奥御殿に入った。

それを見た、守屋に、一人の役人が、囁く。
あなたの帰り道に、待ち伏せして、討ち取ろうとしています・・・
それを聞いた守屋は、即座に、帰宅し、兵を集めた。

中臣勝海も兵を集めたが、まもなく押し寄せた、馬子の兵によって、殺された。

更に、馬子も兵を集めて、守備の態勢に入った。

大臣蘇我と、大連物部の、対決である。
これは、一見、仏教の理由に見えるが、実は、豪族の覇権争いである。

それは、後々に解る。

だが、用明天皇は、その間に、お隠れになる。

馬子が、動いた。
まず、穴穂部皇子の宮を襲撃し、殺したのである。
皇子を殺すという、無礼であるから、馬子の考えが解るというもの。

そして、馬子自ら大軍を率いて、守屋の屋敷を攻めたのである。

守屋は、物部であるから、武人である。
馬子の軍勢は、三度、追い返された。

この、馬子の軍勢の中に、14歳の、後に聖徳太子といわれる、厩戸皇子が、従軍されていたのである。

要するに、当時の天皇家は、蘇我の血が入り、親戚関係であり、そうする他に手は、無かったのである。

厩戸王子は、その苦戦を見て、ぬりで、という木の一枝から、小刀で、四天王像を作る。
そして、勝たせてくだされば、四天王のために、寺を建てましょうと、祈られた。

馬子もまた、勝たせてくだされば、寺を建て、仏教を広めますと、祈った。

その後の戦いは、馬子の軍勢に、勝どきを与える。
榎の大木の上から、矢を放っていた、守屋を、馬子の兵が、射殺したのである。

結果、物部一族は、全滅し、滅びた。

蘇我氏の勢いは、旭日昇天になった。
そして、その本性が現れることになる。
無道である。

この戦いの後で、用明天皇の弟である、皇子が、即位した。
第三十二代祟峻天皇である。587年より、592年。

天皇は、任那の再興を願い、蘇我馬子の無道を、懲らしめようとした。
それを知った、馬子は、何と、東漢直駒、やまとのあやのあたいのこま、に命じて、天皇を殺害させたのである。

これは、後に、大逆事件として、知られる。

更に、馬子は、駒を殺した。
つまり、わが身の非道を、駒に擦り付けたのである。

天皇に対し奉り、不届き、不忠であるとして・・・
馬子の横暴が、ここに極まるのである。

日本書紀には、馬子の娘である、河上娘と密通したとあるが、違う。

天皇崩御の後、即位したのが、欽明天皇の皇女、豊御食炊屋姫、とよみけかしきやひめ、である。
日本における、最初の女帝である、推古天皇である。592年より、628年。

18歳で、敏達天皇の皇后となられ、34歳の時に、天皇崩御にあわれている。

即位後、御甥の、厩戸皇子を、摂政として、任命された。
政治の、すべてを、任せたのである。

厩戸皇子は、第三十一代用明天皇の第二皇子である。

幼少の頃より、その聡明さは、知られている。

厩戸皇子にとって、馬子は、叔父に当る。

皇子は、推古元年に皇太子となり、摂政に任じられ、荒稜の地にお移りになられた。
これが、今日、大阪の茶臼山の東にある、四天王寺のはじまりである。

現在のものは、文化9年、1812年に出来たものだが、場所と寺名は、昔のままである。

posted by 天山 at 06:24| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月24日

性について201

性同一性障害という言葉は、精神疾患を病理現象として、捉えたものになりやすい。
故に、精神病の範囲として、捉える専門家もいる。

確かに、一時期、少し古い時代は、そのように捉えたのだが、精神障害というより、何か、もっと、違うものであるような、気がする。

精神科の専門ではなく、もっと広い意味での、人格障害のようであり、また、それは、異常と判断するのも、適当ではない。

時代性と、時代精神ということで、考えると、当然なこと、と、思われる。

更に、社会現象としては、トランスジェンダーの方が、受け入れやすいのである。

社会学からは、トランスジェンダーで、充分である。

トランスジェンダーとは、アメリカで、その先行事例が多い。
これは、性別二元性と、異性愛主義に対する、脱構築的な立場を基本とすることが、前提となる。

日本では、まず、見世物としての女装から、話がはじまった、経緯がある。
女装と、ニューハーフである。
更に、そのニューハーフが、性転換をしたという、話題になった。

それは、あくまで、マスコミの中だけで行われる行為のように、イメージが出来たが、違う。

1990年代、埼玉医科大学が、性同一性障害の治療を発表してから、社会的に、少し前向きに考えられるようになった。

そして、それが、急激に、音を立てて、性転換をするという、事例が多くなった。

トランスジェンダー・・・
自分の生まれつきの性に、不全感を感じて、生活も、真っ当に出来なくなるという、ジレンマが、更に、病的になり、生きるに、不自然な感覚を持つようになる。

また、性転換といっても、百人百様の形がある。

男が女になるのは、男の体が嫌だから・・・ではなく、
もっと、根本的に、美しくないと、考える男子も登場した。
そこで、美しい女のような、を求める。

少し、贅沢と思えるものも、トランスジェンダーの中に入ってきたのである。

更に、女ではなく、男として、男と愛し合いたいと考える、女子も、登場した。
こうなると、頭が、こんがらかるのである。

私の知り合いにも、その友人で、男が女になり、女が男になったカップルが、結婚したという、話があり、聞いているこちらは、理解に苦しむのである。

それじゃあ、はじめから・・・
いや、そうじゃなければ、結婚できなかったのだ・・・

ここで、日本の伝統的、稚児の存在と、トランスジェンダーを混同しては、いけない。稚児は、あくまで、女の代用として、扱われたのである。
男色とも違う。

限りなく、女に近い、少年を稚児として、女の代用にする。
それと、男色は、全く違う。

これらを、一緒くたにして、考えるから、おかしくなる。

江戸時代の、男色と、陰間といわれる、少年愛、男性性行為は、女としての、代用だったと、考えることである。
ただし、代用といっても、男の方が好きという、好き嫌いの問題もある。

女が好きといっても、色々あるように、男が男を好きといっても、色々ある。
兎に角、一概に言えないということである。

特に、女装をさせて、遊ぶというのは、明らかに、女の代用となるのであり、男色とは、違うものである。

さて、トランスジェンダーである。
男から、女へとトランジションを行うケースと、女から男へと、トランジションを行うケースがある。

つまり、幼少時より、自分が女であることがそぐわない感覚、求められる女らしさとの軋轢などがある。長じても、そうしたことが周囲との摩擦を引き起こして、自尊感情の低下を招く。しかし正しい情報に触れることで、気持ちの持ち方を変えることができ、男性として生きるようになると、ようやく社会に居場所が見出せ、自分の満足がいくようになる。という流れが、おおむね全員に見られるのである。
性同一性障害の社会学 佐倉智美

勿論、男性の場合は、その逆である。

日本の社会は、無関心と、興味本位が多いので、冷静な見方が、まだ、出来ていない。

これが、タイになると、少しの差別はあるものの、緩やかである。
更には、あって、当たり前・・・

差別というのは、至る所に発生するので、それを一々、書けば、切が無い。

タイでは、普通のスーツ姿の男が、薄化粧をしている。
あれっと、思うが、傍の人たちは、普通に接している。
聞けば、カトゥーイだという。
つまり、性同一性障害であるか、同性愛者である。

だが、タイの場合は、すべてを、カトゥーイと呼ぶので、レディボーイも、カトゥイであるから、難しい。

ゲイと、別にして、聞くと解る。
ゲイも、カトゥーイと呼ばれるが、別にして、尋ねると、理解するのである。

女の同性愛者は、トンボイと呼ばれる。

だが、タイの場合は、矢張り、男たちの方が、華やかである。
それは、多分に、文化的な状況が違うということ。
幼少時から、女の子に育てられる男の子もいるという、文化である。
この子は、女の子向きと、親が思えば、そう育てられるのである。

勿論、例外もある。


posted by 天山 at 05:43| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月25日

性について202

男性ホルモンは、胎児の性腺と、脳の分化の時に、甚だしい影響を与える。
そして、生後は、強く逞しい肉体を作る。
それを、大二次性徴という。

思春期前の成長は、男女差があまりない。むしろ、女の方が、一時的に男を凌ぐこともある。

しかし、思春期になると、女を凌ぐようになる。
睾丸の大きさも急激に、その容積を増す。
この、睾丸で作られる、男性ホルモンが、また、拍車をかけるのである。

おおよそ、人間では、八歳まで、男女共に、成長するが、それを過ぎると、男が女に追いついて、25歳には、性差は歴然とする。

男性ホルモンは、内、外性器を成熟させ、陰毛がはえ、ヒゲが濃くなり、甲状軟骨を突き出して、声変わりさせる。
更に、蛋白同化作用により、黒字のたんぱく質を、筋肉に蓄えて、発達させる。

サルの社会で、血液中の男性ホルモン量を測ると、群れの中で順位の高いほど、濃度が濃いという。
ただし、そのような、オスを、他のオスの中に入れると、急減するという。
つまり、ストレスに最も弱いのが、男性ホルモンであるという。

性行動、即、生殖という、動物は、男性ホルモンの増加するときに、交尾し、減ったときに、休止するのである。

人間の場合は、神経、ホルモン環を更に、上位の脳で、統合させているゆえに、性行動も、男性ホルモンに、大きく左右されることはない。

男の、男性ホルモンの濃度は、季節性がある。
秋に高く、春から夏にかけて、低いのである。

ただし、いつの頃からか、人間の男は、発情するという、制御機構を喪失して、いつも、セクシャル・ドライブ、つまり、性欲、セックスへの欲求に、悩まされるになったのである。

問題は、脳の男性化と、女性化である。
ホルモンの多少で、様々なタイプのオス脳、メス脳が作られるということを、前提にして、考えると、人は、それぞれ、百人百様の、性の形があるといえる。

男の脳に、女への方向付けが、行われると、成長するに従い、性と、心の中の性とに、違和感を感じるようになる。

そして、心とからだの性の、不同一性に悩むのは、人間だけである。
つまり、脳の進化なのである。

オスでなければ、メスか、という、考え方は、できないのである。
オスとメスとの、エレメントが、重なるという・・・

人間の場合は、染色体、性腺、からだの性差、行動の性差が、様々な、男女混合を作るのである。
つまり、100パーセントの、オス、メスというものが存在しないのが、人間なのである。

心の性を、ジェンダーと呼ぶようになった。
最初は、性心理学からである。

それ以来、性同一性、性役割という、言葉も、使われ始めた。

性役割は、生物的要因を基礎に、文化的、社会的要因がかかわり、その相互作用により、形成される、とは、人文科学の解釈であり、この場合は、胎児の時の、脳の性分化のありようが、深く関わっているということを、理解しなければならない。

胎内の脳の、性分化は、生物的、身体的要因の方であり、性役割への、生物的要因の関与する度合いが一層深いのである。

自然科学によれば、脳の男、女への、方向付け、思春期のホルモン分泌による、性的な体質、生理機構の発達による、性的自覚が、重要だとされる。

100パーセントの男がいないように、100パーセントの中性者もいない。仮面をかぶって人間だけがそれを装うことができる。
大島清

基本は、女だった。
そこから、男に成った。

すべては、メスの体から、始まったのである。

そして、男の度合いは、人それぞれだということだ。
ここにおいて、差別する何物も、無くなる。

その昔、ゲイ、男性同性愛者を、精神分析により、治療すると言われた。しかし、大間違いだったのである。

成功例が上げられるが、失敗例は、上げられないのである。
失敗した方が、圧倒的多数であった。

更に、心理学による、分析・・・
全く、役立たずである。
しかし、そこにも、成功例だが、上げられた。

問題は、心理ではなく、脳が、先決だったのである。

心理学とは、統計学であるから、無理なのだ。
統計で、計ることが出来ないのが、人間の性の、あり様である。

男の脳の女性化を、脳により、理解することで、差別が消える。
それは、女の脳にもいえる。

トランスジェンダー
性同一性障害・・・
体と、心の性が、合わない。
不都合を感じる。
更には、深い悩みに冒される。

日本では、早くから、それを病気として認定し、更に、性転換手術をした者の、性別を国籍で、変更することができるようになった。

それは、多分に、宗教的な、規制が無かったである。
未だに、宗教的理由で、それが許されない国々がある。


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2012年05月26日

性について203

日本語の、性別という、言葉は、正しいと書いた。

そして、この場合は、生物学的、社会的な、性別である。

さて、話は、少し横道に入るが、2012年5月9日、アメリカ大統領オバマが、同性婚を支持した。
更に、カトリックのイタリアでも、最高裁判所が、同性婚も、異性婚と同じ、権利を持つことであり、それは、政府が決めるべきだとの、判定を下した。

西欧の多くの国では、同性婚、更には、パートナーシップ制として、同性婚を容認している。
法律により、その権利が認められたのである。

これは、歴史上の、驚嘆である。

私がこれから書く、ジェンダー問題は、セックス、恋愛の対象ということである。
性的指向・・・

日本では、性同一性障害は、病気として、認知された。
精神疾患である。
だから、法律でも、性転換者の戸籍を変更できるようになった。

ちなみに、性同一性障害が最も目立つタイでは、法律上の変更はできない。

それは、病気ではなく、指向の問題たちという考え方が強いと、考える。

私の立場は、精神疾患でも、障害者としての、認識はない。

性的指向の問題である。
ただし、社会的に公然とそれが認められるのであれば、病気としたり、障害としたりしても、良しとする。

つまり、生きやすくなるのであれば、いい。

生物学的に、完全な、男や、女はいない。
更に、脳学からも、完全な、男、女は、いない。
そして、心理学的にも、完全な、男、女は、いない。

幾人かの、青年に出会い、話を聞くと、同性が好きであるが、異性とのセックスも可能であり、それで、悩んでいるという。

精神的に愛せるのは、同性である。
肉体的には、異性も愛せる。
それで、心が揺れている。

バイセクシャルでもいい、とは、思わないのである。
若者だからか・・・

友情と、愛情のぎりぎりの線にある、関係。
そして、彼らは、好きな同性とも、セックスの経験がある。

異性との、セックスは、決して嫌な行為ではないのである。
しかし、本当に好きな相手はと、問われると、同性なのである。

普通の社会にいても、そのような悩みを抱える。
異性のいない、男子のみの世界の話しではない。

再度、性同一性障害とは、体の性と、心の性が、分離している状態である。

もっと、踏み込むのは、後にする。

同性婚・・・
何故、今、世界がそれに向かっているのか。
それは、体の性と、心の性が分離している人たちが、存在することを、教える。

同性だが、心の性が、異性の場合、同性愛になる・・・
それを容認する、寛容な社会を目指すと、理解する。

更には、体の性も、心の性も、男であるが、同性を愛するという場合。
女の場合も、同じく。

タイで出会った、レディーボーイが、面白いことを言った。
多くのレディーボーイたちは、手術をするが、どうして、手術しないの・・・
すると、彼は、ペニスのあるレディーボーイが好きな人もいる・・・
更に、ペニスがあることも、レディーボーイの特徴の一つだ、と。

こうなると、こんがらかるが、それは、性の多様性という問題になる。

これはを、心理学でやると、限りなく、男に近い、女に近い・・・
だが、完全な男、女は、存在しないから・・・
直線では、表せないということになる。

と、すると、直線ではなく、円の方が解りやすいのか・・・

この、ジェンダーの問題は、実は、年を追うごとに、複雑化しているのである。

体の性とは別に、性別を持たないという、無性という存在も、現れてきたのである。

これは、あの馬鹿者たち・・・
性差を差別するな・・・という、人たちによって、もたらされた。

男女平等であるという、実に、偏狭な考え方の持ち主たちである。

性差が、区別であることを、無視しているのである。

そんな議論に入らないという、人たちが、現れたのが、無性である。

性別を男女という、世界観から、脱却する。
とてつもない、試みが始まっている。
これは、夫婦、家族というものを、考える上でも、画期的な思想になる。

じつは両端に「女」「男」を配して軸を設定する発想自体が、すでに二元的な性別認識にとらわれている。性が多様なら、その多様なものが「女」「男」というコードを参照する必要は、もはやないはずなのだ。
佐倉 智美 性同一性障害の社会学

性のありよう、つまり、広い意味での、セクシャリティであれば、それは、その人の個性となる。

個々人の資質の一分野としての概念である。
佐倉

セクシャリティが多様化した時代になったのであるということ。

それは、最早、避けては通れない、道になった時代なのである。


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2012年05月27日

もののあわれについて561

かく逃げぬる由、自ら言ひ出で伝へば、負けじ魂にて追ひ来なむ、と思ふに、心も惑ひて、早船といひて、様異になむ構へたりければ、思ふ方の風さへ進みて、あやふきまで走りのぼりぬ。ひびきの灘もなだらかに過ぎぬ。「海賊の船にやあらむ、ちひさき船の、飛ぶやうにて来る」などいふ者あり。海賊のひたぶるならむよりも、かの恐ろしき人の追ひ来るにや、と思ふに、せむ方なし。

憂きことに 胸のみ騒ぐ 響きには ひびきの灘も さはらざりけり




こうして、逃げたことが、誰言うとなく、伝わるならば、負けん気を起こして、追って来るだろうと思うと、心うろたえ、早舟といい、特別に造ったものなので、その上、思い通りの風が吹き、不思議なほどに、走るのである。ひびきの灘も、何事もなく、過ぎた。海賊の船かもしれぬ。小さな船が、飛ぶように追って来るなどと言う者がいる。海賊の欲深さのある者よりも、あの恐ろしい、監が追ってくるのではないかと思うと、どうしてよいのか、解らない。

この憂き事で、胸が騒ぐ動悸には、ひびきの灘の響きほど、応えることもしない。

ひびきの灘、とは、播磨、兵庫県である。




川尻といふ所近づきぬ、といふにぞ少し生き出づる心地する。例の船子ども「唐泊より川尻おすほどは」と、謡ふ声のなさけなさも、あはれに聞ゆ。豊後の介、あはれになつかしう謡ひすさみて、豊後「いとかなしき妻子も忘れぬ」とて、思へば、「げにぞみなうち棄ててける。いかがなりぬらむ。はかばかしく身の助けと思ふ郎等どもは、皆率て来にけり。われを悪しと思ひて追ひまどはして、いかがしならむ」と思ふに、「心幼くも、顧みせで出でにけるかな」と、すこし心のどまりてぞ、あさましき事を思ひ続くるに、心弱くうち泣かれぬ。「胡の地の妻児をば空しくすててつ」と誦するを、兵部の君聞きて、「げにあやしのわざや、年頃従ひ来つる人の心にも、にはかにたがひて、逃げ出でにしを、いかに思ふらむ」と様々思ひ続けらる。




川尻というところに、近づいたという、声を聞いて、少し生き返った気持ちがする。あの、船子どもの、唐泊また川尻と漕ぐうちは、という謡う声の、荒々しいのも、しんみりと、聞える。豊後の介も、感動して心に沁みる歌いようで、本当に、愛しい妻子も忘れた。歌い、考えてみると、よくも、皆を捨てて来たものだ。どうしているだろう。しっかりして、頼りになる、郎等どもは、皆、自分が連れて来た。監は、私を憎らしく思い、妻子を追い回して、どんな目に遭わせることだろう、と、思うと、年甲斐もなく、妻子を捨てて、飛び足したものだと、少し落ち着いた頃になり、分別の無いことだったと、次々と思われ、いくじなくも、つい泣いてしまう。
胡の地の妻児をば空しく捨てすてつ、と、詠ずるのを、兵部の君が耳にして、本当に変なことをしたものだ。長年従ってきた夫の気持ちにも、急に背いて、逃げ出したのを、どう思っているのか、と、あれこれ、次々に、心に浮かんでくる。

川尻、とは、淀川が生みに流れ出る場所。

胡の妻児をば空しく捨てすてつ
白氏文集より。




かへる方とても、その所と行き着くべき古里もなし、知れる人と言ひ寄るべき頼もしき人も覚えず。ただ一所の御為により、ここらの年月住みなれつる世界を離れて、浮かべる波風に漂ひて、思ひめぐらす方なし。この人をも、いかにし奉らむとするぞ、とあきれて覚ゆれど、いかがはせむとて、いそぎ入りぬ。




帰る先といっても、どこそこに、落ち着くことの出来る家もない。知り合いとして、頼りになる人も、浮かばない。ただ、この方お一人のために、長年住み慣れた土地を離れて、長い波路を風に任せて、越えてきた。思案のしようもない。このお方をも、どのようにして差し上げようとするのか、と、途方に暮れる。今更、どうしようかと思って、急ぎ、都に入った。

古里もなし
住む家も無い。




九条に、昔知れりける人の残りたりけるを、とぶらひ出でて、その宿りをしめおきて、都のうちといへど、はかばかしき人の住みたるわたりにもあらず、あやしき市女商人の中にて、いぶせく世の中を思ひつつ、秋にもなりゆくままに、来し方行く先悲しき事多かり。豊後の介といふ頼もし人も、ただ水鳥の陸に惑へる心地して、つれづれに、ならはぬ有様のたづなきを思ふに、帰らむにもはしたなく、心幼く出で立ちにけるを思ふに、従ひ来たりし者どもも、類にふれて逃げ去り、本の国に帰り散りぬ。




九条通りに、昔知り合いだった人が残っていたのを、捜し出して、一同の宿と決めたが、都の中とは、いいながら、相当の身分の人の住んでいる所ではなく、卑しい物売りの女や、商人の中にいて、うっとうしく、世間を思いつつ、秋になるにつれて、これまでのこと、これからのことと、何かと、悲しくなるのである。
豊後の介という、頼りにする男も、全く、水鳥が陸に上がって、戸惑うような気がして、何もすることのないままに、慣れない生活の難しさを思うと、帰ろうにも、具合が悪くて、年甲斐もなく、飛び出してきたことが、悔やまれるばかりである。付いて来た、従者たちも、縁故を求めて、逃げ去り、元の国、筑紫にぽつりぽつりと、帰ってしまった。

これは、乳母の長男の思いであろう。
乳母は、大弐の妻である。

何とも、心もとない心境である。
だが、物語は、これから急展開を見せる。

八幡参詣、長谷参詣と、続き、そして、右近と出会うのである。
そして、右近によって、源氏へと報告される。

この展開は、物語らしくなってくる。


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2012年05月28日

もののあわれについて562

住みつくべきやうもなきを、母おとど明暮嘆きいとほしがれば、豊後「何か、この身はいとやすく侍り。人ひとりの御身に代へ奉りて、いづちもいづちも罷り失せなむに咎あるまじ。われらいみじき勢ひになりても、わが君を、さる者の中にはふらし奉りしては、何心地かせまし」と語らひ慰めて、豊後「神仏こそは、さるべき方にも導き知らせ奉り給はめ。八幡の宮と申すは、かしこにても、参り祈り申し給ひし松浦・箱崎同じ社なり。かの国を離れ給うとても、多くの願立てて申し給ひき。今、都にかへりて、かくなむ御験を得て、罷り上がりたると、早く申し給へ」とて、八幡にまうでさせ奉る。そのわたり知れる人に言ひ尋ねて、五帥とて、早く親の語らひし大徳残れるを、呼びとりて、まうでさせ奉る。




都に住む手立てのないことを、母が朝に夕に嘆き、申し訳ないと、気の毒がるので、豊後が、なあに、私は何とも思いません。姫君御一人にお代わりして、どこへなりと、流れて行き、行方も知れずになっても、誰も何も言いません。私たちが、豪奢な身になっても、姫君を、あんな者どもの中に置いては、どんな気持ちがしましょうか、と、言葉を尽して語り、安心させる。神仏こそは、こんな時に、良いようにしてくれるでしょう。近い所で、八幡宮と申すのは、向こうでも、参ってお祈りした松浦と箱崎と、同じ神社です。あの国を離れる時も、沢山の願いを立てて、お祈りいたしました。今、都に帰り、そのお陰を頂いて、都に上れましたと、早くお礼をおっしゃいませ、と言って、八幡に、お参りさせるのである。
その辺りのことを知る人に、色々と尋ねて、五帥の中に、ずっと以前に付き合いのあった、高僧が、まだ生きているので、呼んで来て、お参りさせる。

まうでさせ奉る
お参りを申し上げる。
つまり、敬語の複雑な言葉になるので、お参りさせて差し上げる・・・とか・・・
今では、使えない、敬語のあり様である。

さる者の中にはふらし奉り
さる者とは、監ような者で、はふらす、とは、落ちぶれるという意味で、その中にいれば、落ちぶれるというのである。

八幡の宮とは、石清水八幡宮のこと。




豊後「うち次ぎては、仏の御中には、長谷なむ、日の本の中には、あらたなる験あらはし給ふと、唐土にだに聞えあんなり。まして、わが国のうちにこそ、遠き国の境とても、年経給ひつれば、わが君をばまして恵み給ひてむ」とて出だし立て奉る。ことさらに、徒歩よりと定めたり。ならはぬ心地にいとわびしく苦しけれど、人のいふままに、物も覚えで歩み給ふ。「いかなる罪深き身にて、かかる世にさすらふらむ。わが親、世になくなり給へりとも、われをあはれと思さば、おはすらむ所に誘ひ給へ。もし世におはせば、御顔見せ給へ」と仏を念じつつ、ありけけむさまをだに覚えねば、ただ親おはせましかば、とばりの悲しさを嘆きわたり給へるに、かくさしあたりて、身のわりなきままに、とりかへしいみじく覚えつつ、からうじて、椿市という所に、四日といふ巳の時ばかりに、生ける心地もせで、行き着き給へり。




豊後は、次に、み仏の中では、長谷が、日本のうちで、あらたかなご利益を得られると、唐土まで評判になっています。わが国のうちで、遠い辺鄙な所といえ、長年過ごしていらっしゃるのだから、姫君は、一層の、お助けがありますでしょう。と言い、初瀬に立たせて差し上げる。
わざと、歩いて行く事に決めた。慣れない身には、とても情けなく、苦しいが、人の言うままに、夢中でお歩きになる。
姫は、どのような罪深い身で、こうした辛い世間をさ迷っているのだうろか。母様は、この世に、いないとしても、私を可哀相だと思うなら、居られる所に、お連れ下さい。もし、生きているならば、お顔を見せてください、と仏に祈りつつ、昔の面影さえ思い出せず、ただ、母様がいればと、悲しく思い続けているが、この、差し当って、今の難儀に、改めて辛く思いつつも、やっとのことで、椿市という所に、四日目の、巳の刻頃に、生きた心地もせず、辿り着いたのである。

突然、姫が、主語の文になるのである。




歩むともなく、とかく繕ひたれど、足の裏動かれず、わびしければ、せむ方なくて休み給ふ。この頼もし人なる介、弓矢持ちたる人二人、さては下なる者、童など三四人、女ばらある限り三人、壺装束して、ひすましめく者、古き下衆女二人ばかりとぞある。いとかすかに忍びたり。大御明の事など、ここにてしくはへなどする程に、日暮れぬ。家あるじの法師、「人やどし奉らむとする所に、何人のものし給ふぞ。あやしき女どもの、心に任せて」とむつかるを、めざましく聞く程に、げに人々来ぬ。




歩くのでもなく、あれこれと、手当てをしたが、足の裏が傷み、動かれない。我慢できずに、仕方なく、お休みになる。
この頼りにしている、介と、弓矢を持った者二人、それに下男や童などが、三、四人、女たちは、皆で、三人、壺装束をして、ひすまし風の者のほか、年寄ったはした女二人ばかりが、一行である。
とてもひっそりと人目を避けて、来ている。お灯明の準備などを、ここで予定以上に整えているうちに、日が暮れた。宿の主人の法師は、他の方を泊める積もりなのに、どなたがおいでいなのか。けしからぬ女どもが、勝手なことをして、と文句を言うのを、嫌な気持ちで、聞いていた。そうすると、人々がやって来た。





これも徒歩よりなめり。よろしき女二人、下人どもぞ、男女かず多かんめる。馬四つ五つ牽かせて、いみじく忍びやつしたれど、清げなる男どもなどあり。法師は、せめてここに宿さまほしくして、頭掻き歩く。いとほしけれど、また宿りかへむも様あしく、わづらはしければ、人々は奥に入り、外に隠しなどして、かたへは片つ方に寄りぬ。軟障など引き隔てておはします。この来る人も恥づかしげもなし。いたうかいひそめて、かたみに心使ひしたり。




この人たちも、歩いて来たようだ。卑しからぬ女が二人、供の者も男女数多くいるらしい。馬を、四、五ひかせて、特に目立たぬようにしているが、身綺麗な男などもいる。法師は、どうにかして、ここに泊まらせたい様子で、頭を撫でつつ、おろおろしている。気の毒に思うが、宿を変えるのは、大変で、面倒なので、人々は、奥に入ったり、他の部屋に隠れたりして、残りは、隅のほうに寝る。襖などを間に仕切り、姫がいらっしゃる。新しく来た人も、気を使うような相手でもない。とても、ひっそりとして、互いに、遠慮しているのである。

ここが、名場面となるのである。
この、相手が、姫の母である、夕霧に仕えた、右近である。
玉葛の一つのクライマックスなのだ。


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2012年05月29日

もののあわれについて563

さるは、かの世と共に恋ひ泣く右近なりけり。年月に添へて、はしたなきまじらひの、つきなくなり行く身を思ひなやみて、この御寺になむ、度々詣でける。例にならひければ、かやすく構へたりけれど。徒歩より歩み堪へ難くて、寄り臥したるに、この豊後の介、隣の軟障のもとに寄り来て、参りものなるべし、折敷手づから取りて、豊後「これは御前に参らせ給へ。御台などうちあはで、いとかたはらいたしや」といふを聞くに、わがなみの人にはあらじ、と思ひて、物のはざまよりのぞけば、この男の顔、見し心地す。




実は、あのいつまでも、涙と共に、姫君を慕っていた右近なのである。
年月のたつにつれて、生半可な奉公が居心地悪くなってゆくわが身を案じて、このお寺に、度々、御参りするようになった。幾度も来て、慣れているので、身軽に、してきたのだが、歩いて来たので、我慢できず、横になっていると、豊後の介が、隣の障子のところにやって来て、召し上がるものなのだろう、お盆を手に持ち、これは、姫君に差し上げてください。お膳などなく、誠に恐縮です。と言うのを聞いて、自分などのような身分の人ではないと、思い、障子から覗くと、この男の顔に見覚えがある、気がする。

ドラマであれば、名場面である。
つまり、ドラマ性が出て来たのである。
紫式部の手ではないことは、確かである。

物語作りが、進化してきたのである。




誰とは覚えず。いと若かりし程を見しに、太り黒みてやつれたれば、多くの年隔てたる目には、ふとしも見分かぬなりけり。豊後「三条、ここに召す」と、呼び寄する女を見れば、また見し人なり。故御方に、下人なれど、久しく仕うまつりなれて、かの隠れ給へりし御住処まで、ありし者なりけり、と見なして、いみじく夢のやうなり。主とおぼしき人は、いとゆかしけれど、見ゆべくも構へず。思ひわびて、「この女に問はむ。兵藤太といひし人も、これにこそあらめ。姫君のおはするにや」と思ひよるに、いと心もとなくて、この中へだてなる三条を呼ばすれど、食物に心入れて、とみにも来ぬ、いとにくし、と覚ゆるもうちつけなりや。




右近は、誰だとは、思い出せない。若い頃を知っていたのに、今は、太り、色が黒くなって、みすぼらしい身なりであり、長年見ないでいた目には、すぐに見分けがつかないのである。豊後は、三条、こちらに、お呼び遊ばすと、呼び寄せる女を見ると、これも、知った顔である。亡き御方さまに、下々ながら、長く仕えていた、あの、お隠れされた御住まいまで、お供した者である。と気付いて、本当に夢のようだ。
主人と思える人は、誰か知りたくてたまらないが、見えそうにないのである。思い余って、この女に尋ねよう。兵藤太といったのも、この男に違いない。もしや、姫君がいらっしゃるのではないか、思うと、じっとしてはいられない。この仕切りのところにいる、三条を呼ばせたが、食べ物に気を取られて、すぐには、来ない。
本当に、憎らしい、と思う。とは、勝手なものです。

最後は、作者の言葉である。
兵藤太とは、豊後のむかしの名前であり、三条とは、下女のことである。

そして、いよいよ、出会いの名場面となる。




からうじて、三条「覚えずこそ侍れ。筑紫の国に、二十年ばかり経にける下衆の身を、知らせ給ふべき京人よ。人違にや侍らむ」とて寄り来たり。田舎びたるかいねりに、衣など着て、いといたう太りにけり。わが齢もいとど覚えて恥づかしけれど、右近「なほさしのぞけ。われをば見知りたりや」とて、顔さし出でたり。この女の、手を打ちて、三条「あが御許にこそおはしましけれ。あなうれしともうれし。何処より参り給ひたるぞ。上はおはしますや」と、いとおどろきおどろきしく泣く。若きものにて見なれし世を思ひ出づるに、へだて来るける年月かぞへられて、いとあはれなり。




ようやく、三条は、思いもかけぬことです。筑紫の国に、二十年ばかりも、暮らしていた、賎しい者を、見知ってくださるような、都の方がおられるなど。人違いでは、ありませんか。と言って、寄って来た。田舎びた、かいねりに、衣など着て、とても酷く太っていた。自分の年も、ひとしお思われて恥ずかしいが、右近が、よく見なさい。私を知っているか。と言い、顔を差しだした。この女は、はたと手を打ち、あなた様でしたか、ああ、嬉しい、嬉しい。どちらから、御参りなさっているのです。奥様は、おいで遊ばすのですか。と、大声を上げて泣く。若い姿を見慣れていた頃の事を思い出すと、過ぎ去った過去の年月の数も思われて、胸が熱くなる。

年月かぞへられて、いとあはれなり
年月を思うと、感無量である。

いと あはれ
とても、大変に、あはれ、なのである。

この、あはれ、で、すべてを語る。

かいねり、とは、練って柔らかくした絹である。





右近「先づおとどはおはすや。若君はいかがなり給ひにし。あてきと聞えしは」とて、君の御事は言ひ出でず。三条「皆おはします。姫君も大人になりておはします。先づおとどにかくなむと聞えむ」とて入りぬ。皆驚きて、「夢の心地もするかな。いとつらく、言はぬ方なく思ひ聞ゆる人に、対面しぬべきことよ」とて、この隔てにより来たり。気遠く隔てつる屏風だつもの、名残なくおしあけて、先づ、言ひやるべき方なく泣きかはす。




右近は、何より、乳母さまは、いらっしゃるのか。姫君は、どうなりました。あてき、と言った方は、と言い、女君のことは、言わない。三条は、皆、おいで遊ばします。姫君も、大人になって、おいでです。何よりも、乳母さまに、これこれだと、申し上げます。と言い、奥へ入った。
皆、驚き、夢のような気持ちがする。酷いと、言いようもないと、お恨みしている人に、対面することになるとは、と言い、仕切りに寄って来た。よそよそしく、仕切っていた屏風のようなものを、すっかり押し開けて、まず、言葉も交わせず、共に泣きあうのである。

おとど
一家の主人のこと。これは、夕霧の乳母、大宰少弐の妻のこと。

名残なくおしあけて
隔てていた気配も、残さず・・・

まさか、こんな所で、右近と、乳母たちが、再会するとは・・・
物語である。

posted by 天山 at 00:07| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月30日

もののあわれについて564

老人は、ただ、「わが君はいかがなり給ひにし。ここらの年頃、夢にてもおはしまさむ所を見むと、大願を立つれど、遥かなる世界にて、風の音にても、お聞き伝へ奉らぬを、いみじく悲しと思ふに、老の身の残りとどまりたるもいと心憂けれど、うち棄て奉り給へる若君の、らうたくあはれにておはしますを、よみぢのほだしに、持てわづらひ聞えてなむ、またたき侍る」と言ひ続くれば、昔、その折、いふかひなかりし事よりも、答へむ方なくわづらはしと思へども、右近「いでや、聞えてもかひなし。御方は早う亡せ給ひにき」と言ふままに、三人ながらむせかへり、いとむつかしくせきかねたり。




老人、おいびと、ただ、御方様は、どのようになりましたのか。この長年、夢にでも、おいで遊ばす所を見たいと、大願を立てますが、遥か離れた田舎で、風の便りにさえ、聞く事が出来ないのを、酷く悲しく思うので、老いた、この身が後に残り、情けなく、残された、若君の、可愛くて、いとおしくいらっしゃるのが、あの世へ行く、妨げになり、どうして上げたらよいのかと、困り果て、目を閉じらずにいます。と、言い続ける。当時、話しをした時より、答えようもなく、困ったことだが、右近は、いえいえ、申し上げても、何にもなりません。御方さまは、もうお亡くなりになりました。と言うなり、三人が、涙にむせ返り、溢れる涙を抑えかねている。

老人とは、大弐の妻、姫君の乳母である。




日暮れぬ、といそぎたちて、御明かしの事どもしたためはてて、急がせば、なかなかいと心あわただしくして立ち別る。右近「もろともに」といへど、かたみに供の人のあやしと思ふべければ、この介にも、事の様だに言ひ知らせあへず。われも人もことにはづかしくもあらで、皆おり立ちぬ。右近は、人知れず目とどめて見るに、中にうつくしげなるうしろでの、いといたうやつれて、卯月のひとへめくものに、着こる給へる髪のすき影、いとあたらしくめでたく見ゆ。心苦しう悲しと見奉る。




日が暮れてしまうと、あわてて、灯明の用意など整えて、人々が、急がせるので、再会したために、かえって、せわしない感じで別れる。右近は、一緒に行きましょうと言うが、お互いに、供の者が、変だと笑うであろうから、この豊後の介にも、事情さえ説明することも出来ずに、お互いが、気兼ねもなくなり、一同、外に出た。
右近は、そっと注意して見ると、人々の中に、美しい後姿で、とても忍んだ姿で、四月の頃の、単衣のようなものの下に、着込めて、髪の透けて見えるのを、勿体無いほど、立派に見えるのである。それを、たまらない思いで、いたわしいと、拝するのである。

着こめ給へる髪のすき影
長い髪を垂らして、その上から、薄物を着ているが、下の髪が透けて見えるのである。




すこし足なれたる人は、疾く御堂に着きにけり。この君をもてわづらひ聞えつつ、初夜行ふ程にぞ上り給へる。いとさわがしく、人詣でこみてののしる。右近が局は、仏の右のかたに、近き間にしたり。この御師は、まず深からねばにや、西の間に遠かりけるを、右近「なほここにおはしませ」と、尋ね交し言ひたれば、男どもをばとどめて、介にかうかうと言ひ合わせて、こなたに移し奉る。




少し歩き慣れている、右近は、早く御堂に着いた。乳母たちは、この姫君を介抱するのに、困りつつ、初夜の勤行の頃に、寺へ上がった。とても騒がしく、人々の御参りで、混雑している。右近の局は、本尊の右のほうで、近くにいる。一行の御師は、まだ地位が高くないせいか、西の間で、遠くだったのを、右近が、構いません、こちらへ、と捜しあってて、言うので、男たちは、そこに置いて、介にこれこれだと、打ち合わせして、こちらに移して上げるのだ。




右近「かくあやしき身なれど、ただ今の大殿になむ侍ひ侍れば、かくかすかなる道にても、らうがはしき事は侍らじと、頼み侍り。田舎びたる人をば、かやうの所には、よからぬ生者どもの、あなづらはしうするも、かたじけなきこと」とて、物語いとせまほしけれど、おどろおどろしき行ひのまぎれに、騒がしきにもほされて、仏をがみ奉る。右近は心の中に、「この人をいかで尋ね聞えむと申し渡りつるに、かつがつかくて見奉れば、今は思ひのごと、大臣の君の、尋ね奉らむの御心ざし深めるに、知らせ奉りて、幸あらせ奉り給へ」など申しけり。




右近は、こんなつまらない者ですが、今の大臣の御宅にお仕えしていますので、こんな少人数の道中でも、変な目に遭う事もありませんと、心丈夫に思っています。田舎めいた人を、このような所では、たちの良くない者どもが、小ばかにするのは、勿体ないことです、と言い、話しをもっとしたいが、やかましい勤行の声に紛れ、騒がしい辺りの様子に、混じり、仏を拝むのである。右近は、心の中で、このお方を、なんとかして探し出そうと、御願いしてきたところ、やっとのことで、こうして、お会いする事が出来たので、今は思いの通り、ご主人さまの、探し出そうとする御心が強いゆえ、お知らせして、御幸せにして、差し上げたいと、祈るのである。




国々より、田舎人多く詣でたりけり。この国の守の北の方も詣でたりけり。厳しく勢ひたるをうらみて、この三条がいふやう、「大悲者には他事も申さじ。あが姫君、大弐の北の方ならずは、当国の受領の北の方になし奉らむ。三条らも、随分にさかえて、かへり申し仕うまつらむ」と、額に手をあてて念じ入りて居り。右近、いとゆゆしくも言ふかな、と聞きて、右近「いといたくこそ田舎びにけれな。中将殿は、昔の御おぼえだに如何におはしましし。まして今は、天の下を御心にかけ給へる大臣にて、いかばかりいつしき御中に、御方しも、受領の妻にて、品定まりておはしまさむよ」といへば、三条「あなかま、給へ。大臣たちもしばし待て。大弐の御館の上の、清水の御寺、観世音寺に参り給ひし勢ひは、帝の御幸にやは劣れる。あなむくつけ」とて、なほさらに手をひき放たず、拝み入りて居り。



国々から、田舎の人が、多く参っている。この国の、守の北の方も、参っているのだった。大した勢いなのを羨んで、この三条の言うことは、観音様には、他の事は、御願いしません。私の、姫様を、大弐の北の方でなければ、この国の受領の北の方して差し上げますように。三条らも、それなりに、出世して、お礼いたします。と、額を手に当てて、一心に祈るのである。
右近は、縁起でもないことを言うと、酷く田舎じみてしまったようですね。中将さまは、昔の御声望でも、どんなにしていらっしゃったか。今は、それ以上に、天下を御心のままに、なさっている大臣さまです。親子であられるのに、こちらさまが、受領の妻になるなんて。と言うと、三条は、いえいえ、止めてください。大臣とかも、暫く、置いてください。大弐の御宅の奥方が、清水のお寺、観世音寺に御参りなさったときの勢いは、帝の行幸に劣っていましたでしょうか。本当に嫌なことと、言って、一層、手を下ろさずに、一心に祈るのである。

大悲者
大慈悲者という意味で、観世音菩薩をいう。

ここで言う、中将とは、昔の源氏の位である。
いつかはしき御中、とは、いかめしい御間柄、親子であるということ。

ここでは、下女である、三条の心意気が、書かれている。
大臣などという、位は、信じられない、想像できないのだ。


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