2012年05月01日

もののあわれについて557

幼きここちに、母君を忘れず、折々に、玉葛「母の御許に行くか」と、問ふ給ふにつけて、涙絶ゆる時なく、女どもも思ひこがるるを、船道ゆゆし、と、かつはいさめけり。面白き所々を見つつ、「心若うおはせしものを、かかる道をも、見せ奉るものにもがな。おはせましかば、われらは下らざらまし」と、京の方を思ひやらるるに、かへる波もうらやましく、心細きに、ふなごどもの荒々しき声にて、「うら悲しくも遠くに来にけるかな」と、謡ふを聞くままに、二人さし向ひて泣きけり。




幼い心に、母親を忘れず、何かの時に、お母様のところへ行くのと、尋ねるにつけて、涙の絶える間もなく、娘たちも、女君を慕うのを、船旅に不吉だと、涙を抑えて叱るのだった。美しい風景をあちこち見ながら、気の若い方だった、こうした所を見せることが出来れば。生きていられれば、私どもは、筑紫などへ下りはしない、と、京のことが思いやられて、寄せては返す波までも、羨ましく、心細くなる時、舟子どもが、荒々しい声で、うら悲しくも、遠くに来にけるかな、と、歌うのを聞くなり、娘二人は、差し向かいで、泣くのだった。




船人も たれを恋ふとか 大島の うら悲しげに 声の聞ゆる

来し方も 行方も知らぬ 沖に出て あはれいづくに 君を恋ふらむ

ひなの別れに、おのがじし心をやりていひける。




船頭も、誰を恋しく思うのか。大島の浦で、裏悲しい歌声が響く。

来た方向も、行方も、分からない海原に出て、本当に、どちらに向かい、あの方を恋うているのか。

辺鄙な所に来た寂しさで、それぞれが、慰みに言う。




金の御崎過ぎて、「われは忘れず」など、世とともの言ぐさになりて、かしこに至り着きては、まいて、遥かなる程を思ひやりて、恋ひ泣きて、この君をかしづき物にて、明かし暮らす。夢などに、いとたまさかに見え給ふ時などもあり。同じさまなる女など添ひ給うて、見え給へば、なごりここちあしく、なやみなどしければ、なほ世になくなり給ひにけるなめり、と思ひなるも、いみじくのみなむ。




金の岬を過ぎると、私は忘れません、などと言うのが、明け暮れの言い草になり、かの地に着いてからは、ひとしお、遠く離れたことを思い、慕い泣く、この若君を主人として、日を過ごした。夢などに、稀に、女君が見えることもある。同じような姿の女の方などが、傍にいる夢を見るので、覚めた後は、気分が悪く、病気になったりするので、矢張り、お亡くなりになったらしいと、思えてくるのが、たまらいのである。

金の岬とは、現在の福岡県、玄界灘町にある。岬の向こうに、大島がある。




少弐任はてて、のぼりなむとするに、遥けき程に、ことなる勢ひなき人は、たゆたひつつ、すがすがしくも出で立たぬ程に、重き病して、死なむとするここちにも、この君の十歳ばかりにもなり給へるさまの、ゆゆしきまでをかしげなるを見奉りて、少弐「われさへうち捨てて奉りて、いかなる様にはふれ給はむとすらむ。あやしき所におひ出で給ふもかたじけなく思ひ聞ゆれど、いつしかも、京に率て奉りて、さるべき人にも知らせ奉りて、御宿世に任せて見奉らむにも、都は広き所なれば、いと心安かるべし、と思ひいそぎつるを、ここながら命たへずなりぬること」と、うしろめたがる。男三人あるに、少弐「ただこの姫君京に率て奉るべき事を思へ。わが身の孝をば、な思ひそ」となむ言ひ置きける。




少弐は、任期が終わり、京へ、上ろうとする。遠く離れたところで、たいした勢いもない、この人は、ぐずぐずして、すぐに出発しないうちに、重い病気にかかって、死にそうになりつつも、この若君の、十歳ばかりになった、お姿の、こわいほどに美しい様子を拝して、私まで、見捨ててしまい、どのような姿で、さ迷うことになるだろうか。片田舎で、御成人になるのも、勿体無く、思う。早く、京にお連れして、知らせるべき方に、知らせ、御運に任せて、お世話をしようと思うが、都は広く、田舎に連れたことは、わかるまいと思い、仕度をしていたのに、この地で、命が尽きてしまうとは、と、気にしている。男の子が三人いるのに、何よりも、この姫君を、京にお連れすることだけを、考えるのだ。私の葬式のことなど、気にするな、と遺言するのである。

わが身の孝
亡くなった人の、回向、葬式などのこと。




その人の御子とは、たちの人にも知らせず、ただ、孫の、かしづくべき故あるとぞ言ひなしければ、人に見せず、限りなくかしづき聞ゆる程に、にはかに亡せぬれば、あはれに心細くて、ただ京の出で立ちをすれど、この少弐の、中悪しかりける国の人多くなどして、とざまこうざまにおぢ憚りて、我にもあらで年を過ぐすに、この君、ねび整ひ給ふままに、母君よりもまさりて清らかに、父大臣の筋さへ加はればにや、品高く、うつくしげなり。心ばせおほどかに、あらまほしうものし給ふ。




これこれの人の、お子様だとは、邸の誰にも知らせず、孫で、大切にするわけがあると、言い繕い、人には、見せず、この上なく大切に、育てているうちに、少弐が亡くなり、悲しくて、心細く、ひたすら、上京の仕度をするのであるが、この少弐と、仲の悪かった、土地の人が大勢いて、あれやこれやと、怖くて、気が気でないままに、年を送る。この姫君は、大きくなるにつれて、母君よりも、一層美しく、父大臣の血を引いているせいか、気品があり、可愛らしい。気立ても、鷹揚で、理想的な方でいらっしゃる。

姫君の乳母の目である。
いよいよ、この物語が、これから展開してゆく。
源氏物語の、もう一つの流れ、玉葛系の物語である。

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2012年05月02日

もののあわれについて558

聞きついつつ、好いたる田舎人ども、心かけ、消息がるいと多かり。ゆゆしくめざましく覚ゆれば、誰も誰も聞き入れず。乳母「かたちなどはさてもありぬべけれど、いみじきかたのあれば、人にも見せで、尼になして、わが世の限りは持たらむ」と言ひ散らしたれば、「故少弐の孫は、かたはなむあんなる。あたらものを」と言ふなるを聞くもゆゆしく、乳母「いかさまにして、都に率て奉りて、父大臣に知らせ奉らむ。いとなき程を、いとらうたしと思ひ聞え給へりしかば、さりとも疎には思ひ聞え給はじ」など言ひ嘆くほど、仏神に願を立ててなむ念じける。




噂を耳にして、田舎の好き者どもが、思いを掛け、文を送りたがるのが、大勢いる。
忌々しく、癪に障るので、家の者は誰も、相手にしない。器量などは、まあまあですが、実に、困った不具のところがあるので、誰にも嫁がせず、尼にして、私の生きている間は、傍に置きます、と、言いふらしたので、亡くなった、少弐の孫は、不具だそうだ、惜しいことだ、と言うのを、耳にすることも、忌々しいのである。
乳母は、どうかして、都にお連れして、父大臣に、お知らせしよう。小さな時分、とても可愛く思っていらしたから、幾らなんでも、放ることはないし、見捨てることもないでしょう。などと、嘆くが、一方では、神仏に願いをかけて、祈りもする。




女どもも、男子どもも、所につけたるよすがども出で来て、住みつきにたり。心のうちにこそいそぎ思へど、京のことは、いや遠ざかるやうに隔たりゆく。物おぼし知るままに、世をいと憂きものにおぼして、年三などし給ふ。二十ばかりになり給ふままに、生ひ整ほりて、いとあたらしくめでたし。この住む所は、肥前の国とぞいひける。そのわたりにも、いささか由ある人は、先づこの少弐の孫の有様を聞き伝へて、なほ絶えずおとづれ来るも、いといみじう、耳かしがましきまでなむ。




娘たちも、息子たちも、土地相応の相手が、それぞれ出来て、住み着いてしまっている。心の内では、焦るが、京へ帰ることは、いよいよ遠退く気持ちで、隔たるのである。姫君は、物心がつきはじめると、世の中を、とても辛いものと、思い、年三などをされる。二十歳くらいになると、顔形が整い、こんな所には、惜しい美しさである。一家の住む所は、肥前の国といった。その辺りでも、少し由緒ある家の者は、第一に、この少弐の孫の様子を、噂に聞いて、今も変わりなく、次々に訪ねて来るのだが、煩くて、耳に喧しいほどである。

年三、ねんざう、とは、一年のうちで、正月、五月、九月の前半15日の間、精進して、来世を祈ることを言う。




太夫の督とて、肥後の国に族広くして、かしこにつけてはおぼえあり、勢ひいかめしき兵ありけり。むくつけき心の中に、いささか好きたる心まじりて、かたちある女を集めて見むと思ひける。この姫君を聞きつけて、督「いみじきかたはありとも、我は見隠して待たらむ」と、いとねんごろに言ひかかるを、いとむくつけく思ひて、乳母「いかで、かかる事を聞かで、尼になりなむとす」と言はせたりければ、いよいよあやふがりて、おしてこの国に越え来ぬ。




太夫の督といって、肥後の国に、一族が沢山いて、国の中でも、人望があり、大変な勢いの武士たちがいた。荒々しい心の中に、好き心があり、器量の良い女を集めて、自分の傍に置きたいと思っていた。が、この姫君のことを、聞きつけて、酷い不具でも、我が目を瞑り、世話をしようと、心を込めて、求婚するのが、気味悪く、乳母は、とても、そんなこと。こんな話は聞かずに、尼になるのだと言います。と、言わせたところ、益々心をかけて、無理矢理、この国に、押し掛けて来た。

督、げん、とは、大宰府の三等官で、五位に当る。

むくつけき心の中に
荒々しい。今では、野獣系男子であろうか。




この男子どもを呼びとりて語らう事は、督「思ふ様になりなば、同じ心に勢ひをかはすべきこと」など語らふに、二人はおもむきにけり。二人「しばしこそ、似げなく、あはれと思ひ聞えけれ、おのおのわが身のよるべと頼まむに、いとたのもしき人なり。これに悪く数まへられ奉らず、世に知られでは、何のかひかはあらむ。この人の、かくねんごろに思ひ聞え給へるこそ、今は御幸なれ。さるべきにてこそは、かかる世界にもおはしましけめ。逃げ隠れ給ふとも、何のたけき事かはあらむ。負けじ魂に怒りなば、せぬことどももしてむ」と言ひおどせば、いといみじと聞きて、中の兄なる豊後の介なむ、豊後「なほいといたいたしく、あたらしき事なり。故小弐の宣ひし事もあり。とかく構へて、京にあげ奉りてむ」といふ。




この家の、息子たちを、呼び寄せて、言うことは、思いが叶えば、仲間になり、力を貸しあおう、などと、相談を持ちかけるので、二人は、そちらに付いてしまった。
その息子の二人は、初めのうちは、身分こそ違い、気の毒だと思ったが、我々の後ろ盾とするのは、とても頼もしい男だ。これに憎まれては、この辺りでは、世渡りが出来ないだろう。貴い方の血筋だといっても、親御に認められていず、世間にも、知られていないのでは、何の役の立つのか。この方が、このように親切に思い寄せているのであるから、今となっては、幸せであろう。このような運であった以上は、負けない気で怒ると、どんな事でも、するでしょう、と、脅すのである。困ったものだと、聞いていたが、一番上の息子である、豊後の介が、矢張り、けしからん、勿体無いことだ。亡き、小弐の、ご遺言もある。何とかして、京に、お連れもうそう、と言う。

豊後は、現在の大分県。
介とは、次官のことで、従六位上相当である。

数まへられ
子として、数の中に、入れてある。子として、扱うのである。
られ、は、受身。

何やら、物語らしくなってきた。
ただ、矢張り、心情が、こんがらかっているので、よく読まなければ、解らない。

だが、物語は、面白いか、否かである。
これは、面白い。

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2012年05月03日

もののあわれについて559

女どもも泣き惑ひて、「母君の、かひなくて、さすらへ給ひて、行方をだに知らぬかはりに、人なみなみにて見奉らむとこそ思ふに、さるものの中に交り給ひなむこと」と思ひ嘆くをも知らで、「我はいと覚え高き身」と思ひて、文など書きておこす。手などきたなげなう書きて、唐の色紙かうばしき香に入れしめつつ、をかしく書きたり、と思ひたる言葉ぞ、いとたみたりける。みづからも、この家の次郎を語らひとりて、うちつれて来たり。三十ばかりなる男の、丈高く、ものものしく肥りて、きたなげなけれど、思ひなしうとましく、荒らかなるふるまひなど、見るとゆゆしく覚ゆ。色あい心地よげに、声いたう枯れてさへづり居たり。懸想人は、夜に隠れたるをこそ、よばひとは言ひけれ、様かへたる春の夕暮れなり。秋ならねども、あやしかりけりと見ゆ。




娘たちも、なきうろたえて、母君が、残念なことに、家を出て行ったままに、行方さえ解らない。その報いに、人並みになって欲しいと思うのに、そんな者のところに、縁を作ろうとは、と嘆くことを、監は知らず、自分は、とても人望のある者なのだ、と思い、手紙など書いて寄こす。
字は、下手でもなく、舶来の色紙を香り高い香で、十分に焚き染め、気のきいたように書きたいと思うが、文字が、実は、とても訛りが多いのだ。自分自身も、この家の、次郎を味方に引き入れて、連れ立って来た。
三十くらいの男で、背が高く、どっしりと太って、見苦しくはないが、気のせいか、嫌な感じで、声は、酷くしわがれて、喋っている。懸想人とは、夜に紛れて来るからこそ、夜這いと言うのに、風変わりな、春の夕暮れです。秋ではないのに、人恋しいのでしょう。

最後は、作者の言葉。

秋ならねども
古今集
いつとても 恋しからずは あらねども 秋のゆふべは あやしかりけり




心を破らじとて、祖母おとど出で会ふ。監「故少弐のいと情けび、きらきらしくものし給ひしを、いかでかあひ語らひ申さむ、と思ひ給へしかども、さる心ざしをも見せ聞えず侍りし程に、いと悲しくて、かくれ給ひにしを、そのかはりに、いかうに仕うまつるべくなむ、心ざしをはげまして、今日はいとひたぶるに強ひて侍ひつる。このおはしますらむ女君、筋ことに承れば、いとかたじけなし。ただなにがしらが、私の君と思ひ申して、いただきになむささげ奉るべき。おとどもしぶしぶにおはしげなることは、よからぬ女どもあまたあひ知りて侍るを、聞し召し疎むななり。さりとも、すやつばらを、ひとしなみにはし侍りなむや。わが君をば、后の位におとし奉らじものをや」など、いとよげに言ひ続く。




機嫌をそこねまいと、祖母が出て会う。監は、故少弐は、とても情け深く、まぶしいほど、立派でありましたので、なんとか、お近づきを得たいと、存じておりました。その願いも、申し上げないうちに、残念にも、お亡くなりになってしまったので、その代わりに、心を尽して、姫に、お仕え申すために、気を出して、今日は、精一杯にして、やってきました。こちらに、おいで遊ばす、姫君は、貴いお血筋と賜わっておりますので、まことに勿体無いこと。ただもう、拙者の、ご主人と思い申し上げて、頭の上に、おしい抱きましょうぞ。祖母君も、しぶり気味でいる様子を、それは、いやしい女どもを、沢山世話して、いることを、聞いて、嫌っているとのこと。そうとしても、そんな者どもを、どうして、同じように、扱いましょうか。わが姫君をば、后の位にも負けさせないない積もりなのに、などと、ひどくうまい話しを喋り続ける。

よからぬ女どもあまた知りて
知る、とは、所有するという意味。




乳母「いかがは。かく宣ふを、いと幸ありと思う給ふるを、宿世つたなき人にや侍らむ。思ひ憚ること侍りて、いかでか人に御覧ぜられむと、人知れず嘆き侍るめれば、心苦しう、見給へわづらひぬる」と言ふ。監「さらにな思し憚りそ。天下に目つぶれ、足折れたまへりとも、なにがしは仕うまつりやめてむ。国の内の仏神は、おのれになむ靡き給へる」など誇り居たり。その日ばかりといふに、「この月は季の果なり」など、田舎びたる事を言ひのがる。下がりて行くきはに、歌よままほしかりければ、やや久しう思ひめぐらして、


君にもし こころたがはば 松浦なる 鏡の神を かけて誓はむ

この和歌は、仕うまつりたりとなむ思ひ給ふる」と、うち笑みたるも、世づかずうひうひしや。




乳母は、どういたしまして。こんなにおっしゃって下さることは、とても幸せだと、存じますが、運の悪い子なのでしょうか、人並みではない事がありまして、どうして、人に嫁いだり出来ようと、一人静かに、嘆いておりました。可愛そうで、私も、困っているのです、と言う。
監は、決して、遠慮されるな。目が潰れ、足が折れていようとも、それがし、お世話申して、治しましょう。国中の神仏が、自分について下さっています、などと、自慢している。これこれの日に、お迎えにと言うので、今月は、季節の終わりゆえ、など、田舎びた事を行ってごまかす。帰る間際に、歌を詠みたくなったので、やや長く思案して、


姫君に対して、私が心変わりしましたら、どんな罰でも、受けますと、松浦の鏡の明神にかけて、誓います。

この和歌は、うまく詠めたと存じます。と、にっこりとしているのが、女の相手をしたことがなく、初心なものだ。

世づかずうひうひしや
世、とは、男女の仲をいう。
ここでは、男女のやり取りに慣れていないというのである。
作者の言葉である。

乳母、監、作者の思い、こもごもと入り、まともな文章ではない。
だが、これから、日本の文学が始まるのである。

推理小説にように、楽しむ読み方もあるかもと、思う。
これは、誰の心境か・・・

前後の、文の間を見て、納得する場合もあり、それでない場合もある。

玉葛は、別の作者であることが、よく解る段である。

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2012年05月04日

もののあわれについて560

あれにもあらねば、返すべくも思はねど、女どもに詠ますれど、女「まろはまして物も覚えず」とて居たれば、いと久しきに思ひわびて、うち思ひけるままに、

乳母
年をへて 祈る心の たがひなば 鏡の神を つらしとや見む

と、わななかし出でたるを、監「待てや、こはいかに仰せらるる」と、ゆくりかに寄り来るけはひに、おびえて、おとど色もなくなりぬ。女たち、さは言へど心強く笑ひて、女「子の人の様ことにものし給ふを、ひき違へ侍らば、つらく思はれむを、なほほけほけしき人の、神かけて聞えひがめ給ふなめりや」と説き聞かす。監「おい、さりさり」とうなづきて、監「をかしき御口つきかな。なにがしら田舎びたり、といふ名こそ侍れ、口惜しき民には侍らず。都の人とても何ばかりかあらむ。みな知りて侍り。な思しあなづりそ」とて、また詠まむと思へれども、堪へずやありけむ、往ぬめり。




乳母は、おろおろして、返歌できそうにないと思うが、娘たちに詠ませようとしても、私は、なお更に、気が遠くなりそうです、と、言って動かず、あまり長引くのに、困り果てて、心に浮かんだままに、

乳母
長年に渡り、願いをかけていましたが、叶わぬことになったら、鏡の明神をお恨み申すことでしょう。

と、声を震えさせて、返事をしたところ、監は、待てよ、これは、何とおっしゃる、と不意に近づいて来る。その気配に、怯えて、祖母の顔色が変わった。
娘たちは、そのように言ったが、強気で笑い、この姫君は、困ったことがありますので、もし、この話しが壊れたら、恨めしく思うでしょう。何としても、耄碌した人で、神様を出して、変なことを、申したのでしょう、と説明する。監は、ああそうか、と頷き、結構な歌です。私などは、田舎くさいと言われていますが、つまらない、百姓では、ありません。都の方とて、どれほどのことがあろうか。歌くらいは、皆知っています。馬鹿になさっては、なりません、と、言い、もう一首を詠もうと思ったが、中々出来ずに、帰って行くようだ。

ひき違へ侍らば
ひきたがへ、とは、姫の幸を祈ってきたが、それが、無駄になる、期待とは、違うという、意味。

乳母は、こんな男に娶られるなどとは・・・との、歌であるが、娘たちは、いえいえ、ほけほけしき人、呆けた人の言うことと、誤魔化すのである。




次郎が語らひとられたるも、いと恐ろしく心うくて、この豊後介をせむれば、豊後「いかが仕うまつるべからむ。語らひ合はすべき人もなし。まれまれの兄弟は、この監に同じ心ならずとて、仲違ひにたり。この監にあたまれては、いささかの身じろきせむも、所狭くなむあるべき。なかなかなる目をや見む」と思ひわづらひにたれど、姫君の人知れず思いたる様のいと心苦しくて、生きたらじ、と思ひ沈み給へる、ことわりと覚ゆれば、いみじき事を思ひ構へて、出で立つ。妹たちも、年頃経ぬるよるべを棄てて、この御供に出で立つ。あてきと言ひしは、今は兵部の君といふぞ、添いて、夜逃げ出でて舟に乗りける。




次郎が、あちら側に着いていることも、恐ろしく情けなく思えて、この豊後の介を責めると、どのようにして、差し上げたらいいのだろう。相談できる人もいない。数少ない、弟は、私が監に賛成しないと言い、仲違いしてしまった。監に、睨まれては、少しの身動きも出来ない。何かしようものなら、かえって、酷い目に遭うかもしれない。と、心配するのだが、人に隠れて、悲しんでいる、姫君の様子が、とても辛く、生きていまいと、沈みこんでいるのも、当然のことと思い、思い切った決心をして、その地を出発する。妹たちも、長年連れ添った夫を捨てて、この姫君のお供に、出発する。あてき、といっていたのは、今は、兵部の君というが、それが付き添って、夜に、逃げ出して、舟に乗ったのである。

いよいよ、船出の場面である。




大夫の監は、肥後に帰り行きて、四月二十日のほどに、日取りて来むとするほどに、かくて逃ぐるなりけり。姉おもとは、類広くなりて、え出でたたず。かたみに別れ惜しみて、あひ見むことの難きを思ふに、年経つる古里とて、ことに見棄て難きこともなし。ただ松浦の宮の前の渚と、かの姉おもとの別るるをなむ、顧みせられて、悲しかりける。

浮島を 漕ぎ離れても 行く方や いづくとまりと 知らずもあるかな

ゆく先も 見えぬ波路に 船出して 風にまかする 身こそ浮きたれ

いとあとはなかき心地して、うつぶし伏し給へり。




大夫の監は、肥後に帰り、四月二十日頃に、日を決めて、迎えに来ようというので、こうして、逃げるのだった。姉君は、子供が多くて、出発する事が出来ない。互いに別れを惜しみ、再び会うことも、難しいと思うと、長年住んだ土地だから、去りがたいということはないが、ただ松浦の宮の渚と、この姉君に別れるのが、ついつい振り返り見ることで、悲しく思うのだった。

浮き島を漕いで、離れたものの、この先、どこへ泊まり、どうなるのか、解らない。

行く先も見えず、この広い海に船出して、風に行方を任せる私の身の上こそ、辛いものです。

とても、不安な気持ちで、姫君は、うつぶせに、臥している。

姉おもと
おもと、とは、敬意や、親しみを示して、言う。

類広く、とは、一族、家族、知人を言う。

この辺りは、物語らしい雰囲気である。
わくわくさせるのである。
物語の作り方が、練られて行く過程である。



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2012年05月05日

国を愛して何が悪い6

私が驚くのは、日韓併合により、韓国に、大いなる文字の意という、ハングル文字を日本が指導して、普及させたことである。

更に、韓国の独自の文化を保護し、近代化教育をほどこしたのである。

韓国は、独自の国語を捨ててきたのである。

ハングルは、15世紀に朝鮮独自の文字として、作られた。
しかし、朝鮮人は、逆に、いっそう漢字や儒教に傾倒し、狂信的というほどになった。そして、ハングルは排斥され、漢語が韓国語の中の、70から80パーセントを支配する。

更に、驚くべきは、朝鮮の歴史さえ、定かではないのである。
朝鮮の歴史より、中国の歴史が主であり、それを良しとしていた、朝鮮人である。

それを、事大主義といい、千年属国の伝統を墨守していたのである。
属国とは、中国の属国であり、それを当然の如くに受け入れていたのである。

韓国の若者に、それを教えたら、卒倒するであろう。

自ら、自国の文字を捨てたのである。
そして、それを復活させるために、どれほど、日本が努力したか・・・

「日帝」時代にはさらに倭(和)語が韓国語の世界に入ってきた。これにより、戦後いくら倭語や倭色の追放に躍起になっても、言語の世界では漢語と倭語がなければ言語の自立、独立はありえなくなってしまった。これをもって、日本が国語である韓語を奪ったという人がいるが、日本どころか誰も奪っていなかった。実態は、韓国人みずからが外国語を借用し、みずから伝統母語を棄ててしまったのである。
黄文雄 韓国は日本人がつくった

民族主義は、大いに結構なことであるが、実は、民族主義を立てるための、歴史と伝統を、蔑ろにしてきたのは、韓国人自身なのである。

だから、奇想天外な歴史観が、登場するのである。
曰く、韓国は、世界の中心であり、世界の文化発祥の国・・・
中国文化も、韓国から出た・・・
中国の思想も、韓国からのものだった・・・

何も知らない子ども達は、それを信じるしかない。

朝鮮史などの、意識がなかったのである。
すべて、宗主国の中国の歴史のみ。

極めて明確に言えることは、朝鮮は、中国の属国であることを、自ら、求めて、更には、それを誇りにしてきたのである。

もし、日本が関わらなければ、今の、韓国は、無いのである。

要するに、日本は、韓国にとっての、救世主である。
日本によって、独立国としての、意識を持ち、更には、国家観なども、無かったのが、国家というものを、意識できるようになったのである。

日帝支配がなければ、中国か、ロシアの属国になり、今も、搾取され続けていたのである。

自国の歴史さえ、まともではないから、本来は、韓国人のアイデンティティというものを、持つことが出来ないのである。
しかし、反日ということで、漸く、国家国民の、アイデンティティを持つという、悲劇である。

反日思想が無くなれば、韓国には、何も無くなるという・・・

世話になって、恩を仇で返すというのが、韓国人のアイデンティティのようである。

中国を崇めていた、事大主義であるから、その宗主国に似て、当たり前でもある。
真実、誇れるものがない、国民とは、実に哀れである。

ちなみに、私は、韓国音楽が大好きである。
民族音楽である。
そこに、郷愁を感じる。
そうして、韓国の民族的な様々を、評価したいが、それさえも、出来ない、させないという、彼らの狭量さは、属国化されたまま、今の今まで、来ているからである。

民族の潜在意識は、未だに、属国化なのである。

真っ当に、国を造られないのである。
そして、その建国を彼らは、よく知らない。

知らないから、妄想する。
史実に忠実には、なれないのである。
何せ、その史実も、よく解らないから。

中国で、書かれたものから、探る他に無いのである。

さて、本来、朝鮮半島には、漢字流入以前から、独自の古代語があった。
それは、高句麗、百済、新羅の三国である。
しかし、それは、方言を表すもので、外国語としての、関係ではなかったという。

つまり、漢字以前に、言葉が、文字があったのである。

韓国人は、先祖をことのほか大切にすると、聞いているが、先祖の名を捨て、シナの姓を名乗るという、シナ人以上に、シナ人らしい、名を名乗るのである。

それが、現在でも、続いている。
そして、それさえも、意識していないのである。

自分たちを、小中華として、自負していたほどであるから、何をかいわんや、である。

東アジアにて、最も早く独自の文字を作り出したのは、日本である。
そして、最も遅く、ようやく、腰を上げたのが、朝鮮である。

朝鮮半島で、独自の文字が考案されたのは、李朝朝鮮の世宗25年、1443年である。

国王、世宗により、訓民正音、民に訓える正しい音の意味である。
28文字が創出された。
これが、ハングルである。

新しい韓国人は、日本か、中国にて、徹底的に、朝鮮の歴史をお勉強すべきだ。
そして、民族の誇るべき、朝鮮史を、大系させるべきだ。

妄想の、朝鮮史などを、語るうちは、世界の独立国として、認められない。
更には、その民族性まで、疑われる。

実は、私は、在日の子供に、学習の手伝いをしたことがあり、その親から、色々と韓国の話しを聞いていた。
更に、とても、良い人であり、私も公私に渡り、お世話になった。

その子も、韓国人である、誇りを身につけたいと、祖国に行くことを楽しみにしていた。
このように、個人的な付き合いでは、とても、仲良くできる。

また、お弟子さんにも、在日の女性がいたが、人間味溢れる人柄だった。
私には、韓国人のイメージが本当に良いのである。

ところが・・・
集団になると、大変付き合いにくくなるのである。


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2012年05月06日

国を愛して何が悪い7

韓国は、文明国のなかで独自の文字創出がもっとも遅かったこともあり、世界各国の文字を参考にして、集団的創作によって表音文字の創出をしたと思われる。
黄文雄

唐の時代から、日本の仮名文字、西夏文字、契丹文字、女真文字、パスパ文字、アラビア文字、突厥文字、ウイグル文字、チベット文字、インドの梵字などのサンスクリット系の文字が流入していた。

ハングルは、それらを参考にしたのである。

なぜ朝鮮だけが独自の民族文字をつくるのに、こんなに時間がかかったのだろうか。それは、千年属国の伝統を墨守し、事大主義に徹していたため、創造性に欠けてしまったからだ。また、中華帝国の誤解や嫌悪を避けるためでもあっただろう。
黄文雄

ところが、作った、ハングル文字は使わず、公文書は、漢文で書かれた。
宗主国への遠慮からであろう。

世宗が三年をかけてハングル28文字を作った時に、両班、ヤンバンから猛烈な反対が起きた。
その一人である、崔万理の反対理由は、実にくだらない、屁理屈である。
日本やモンゴル、チベットなどには独自の文字があるが、それは野蛮な地域だからだ。我々が独自の字をもったら、彼らと同様に野蛮人になってしまう。そのうえ、我々は中国を宗主国として仰いでいるのだから、新しい文字をつくることは中国からしてみれば謀叛であり、怒りを買う恐れがある。

属国精神から、抜け切れないのである。

更に、ハングルの使用には、中華王国の是認が絶対不可欠な条件だった。
世宗の側近も、猛反対したのである。

韓国の若者は、このような歴史を教えられているのか。
自分たちの、先祖が、中華帝国に対して、どれほどの、権威を見ていたか。

結果は、ハングルは、婦女子専用になった。
無学な庶民が用いるという。

日本の漢字カナ混じり、そして、平仮名の登場でも、最初は、女物であった。
が、それを使い、日本の心情を縦横無尽に書き付けた、世界初の小説、源氏物語がある。

更に、和歌は、すべて平仮名によって、詠われた。

公文書は、漢字でも、日本人は、うまく使い分けしたのである。
文学・・・漢字カナ混じり、そして、平仮名である。

15世紀に創出された、ハングルが正式に使用されはじめ、そして、ハングルという名称が考案されたのは、20世紀に入ってからである。

恐ろしい蒙昧は、これだけではない。

李朝までの朝鮮では、両班が使う漢字が貴く、国語である朝鮮語は愚民の言語として、蔑視された。

更に、正音庁に所蔵されていた、諺文口訣、日本の送りカナに似た読み方の記号などは、10代の燕山君によって、ことごとく、焼き払われたという。

1504年、学問の府であった、成均館が遊蕩の場とされてしまい、ハングルの教授と学習が禁止された。
正音書籍を燃やし、ハングル使用を厳禁とし、正音を使用しているのを知っていながら告発しないような場合まで、罪としたのである。

次ぎの、中宗は、1506年に即位する同時に、諺文庁までも、閉鎖し、ハングルは、完全に廃止されたのである。

ハングルが、再びこの世に、出るのは、日帝36年の朝鮮総督府時代を待たなければ、ならなかった。

朝鮮事情を書いた、ダレ神父の中に象徴されている。
中国と朝鮮の間には、学問研究と科挙において二つの明確な相違点がある。その一つは、朝鮮における学問はまったく民族的なものではないという点である。読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語ではなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。
写本はいつも原本より劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは、当然の帰結である。
これよりもっと大きなもう一つの差異は、朝鮮では自らの特権に過度に執着し、特権維持のために絶対権力を発揮する多くの両班が、国王と人民との間に存続している点である。

現在の、韓国人若者たちは、これを学んでいるのだろうか。

私は、色々な国に出掛けて、韓国人たちが、国旗を振り回し、太鼓を叩き、韓国人であることを、矜持する行為を見ているが、彼らは、自国の歴史を、真っ当に学んではいないと、思う。

学んでいれば、もっと、謙虚であるはずだ。

日本が、敗戦してから、勝手な歴史解釈を、子ども達に教えて、奇想天外な韓国史を、作り上げたのだろうと、思えるのである。

その先祖たちは、
朝鮮の学者たち自身も、自国の文献に何ら信用を置いておらず、また決して研究対象にする事なく、中国の歴史書だけを読むことにしている。
ときどき朝鮮語で書かれた簡略な歴史本に出くわすこともあるが、それは婦女子の気晴らし用の真偽取り混ぜた奇譚集に過ぎない。学者たちはといえば、それを開いて見ることさえ恥辱だと思っている。
ダレ神父

また、別な人も、
朝鮮人は自分の固有のハングル文字を軽蔑して、中国文字である漢字のみをひたすら尊重するおかしな国民である。

こんな国だったことを、韓国人は、知っているのだろうか。
そして、それを、尊重するように、指導した、日本のことを、知っているのか。

日本は、朝鮮の文字を奪ったなどという、全く、逆のことを、平然と言う。
度し難い国と言われても、反論できないだろう。

朝鮮民族は、大切な一つの民族である。
だが、世界に、多く民族が存在する。
今のまま、朝鮮、韓国が、世界史のはじまりだ・・・・
などという、蒙昧な言葉は、慎むべきであり、謙虚になるべきである。

朝鮮と、日本は、長い付き合いが、ある。
それだけでも、歩み寄り、友情を深めることが、新しい時代の精神となる。

時代性と、時代精神を忘れると、先に進めないのである。

posted by 天山 at 00:23| 国を愛して何が悪い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月07日

国を愛して何が悪い8

李朝朝鮮では、ハングル語が蔑まれ、漢字ばかりが、尊ばれた。

時代が流れ、東アジアに近代化の波が押し寄せる。
だが、朝鮮は、変わらず、事大主義を守り、近代化への道を、拒否し続けた。

これに対し、日本が、非常に危惧を感じたのである。
もし、日本が、何もしなければ・・・
今の韓国の存在があったのか、どうか、解らない。

朝鮮がこのまま中国との宗属関係を続け、独立・近代化を断行しなければ、やがて欧米列強の波に飲みこまれてしまう。そしてそれが地政学的に考えて、日本の脅威となることは明らかだった。
黄文雄 韓国は日本が作った

日本の脅威だけではない。
朝鮮自体が、脅威を感じるはずだった。しかし、危機感は、全く無いのである。

現在の韓国人は、どう考えるのか。
どう考えるも何も、考える手立てさえ棄ててしまったのである。

日本は、日清戦争による、朝鮮半島の独立、そして日韓合邦へと、突き進んだ。
その過程で、日本は、朝鮮に急務と考えたのが、近代化と、国語教育である。

19世紀末から、福沢諭吉が提案した、漢字・ハングル混じりの、文章体系を使用しはじめる。

初めて使われたのが、日本で鋳造した、ハングル活字で、印刷されたという。
若い韓国人が、聞いたら、決して、信じない内容である。

1886年、明治19年、新聞「漢城週報」で、これは、朝鮮の新聞第一号「漢城旬報」の復刊である。
そして、学校教育に組み込まれ、一般的に普及するのである。

韓国人は、日帝によって、国語を奪われたというらしいが、一体、何の、どこの国語が奪われたのか・・・

奪われたのではなく、日本によって、作られたのである。
それも、日本語ではない。
今、韓国が誇る、ハングル語を、である。

もし、そのままだったら・・・
考えてみると、よい。

中国、ロシアが、そんなことをするか・・・
朝鮮語は、方言となり、中国語、あるいは、ロシア語を使用していたであろう。

更に、日本は、韓国語研究を、1872年、対馬巌原が、朝鮮語学所を設置したことから、はじまる。

翌年、釜山に移転して以来、朝鮮語研究は、日本人の一人舞台になる。
それは、特に、現代語表記の原則の確立に多くの成果を上げた。

それまで、朝鮮語の辞書は、漢字を韻により分類した字書と、漢字の部首別字書のみで、ハングルを基にしたものは、皆無というより、排除していたのである。

本格的な朝鮮語字典は、1911年、明治44年から、1920年3月に至るまで、朝鮮総督府によって、完成された。

韓国人による、自国語の科学的研究と、関心が起こったのは、20世紀に入ってからであるというから、驚く。

朝鮮人が、自ら字典を作ったのは、1939年、昭和14年である。
文世栄の「朝鮮語字典」である。

何とも、情けないことである。
これが、我民族が、世界で最初の文明を作り出したという、戯言でも、言えないことである。

世界の中心は、韓国である。
とは、宗教団体が言うなら、理解するが、一般人が言えば、気が狂っているとしか、思えない。

日韓合邦後、金沢庄三郎と小倉進平の両博士を中心とする日本人学者たちは、近代朝鮮語の表記を科学的に体系化し、言語として完成させたのだった。
小倉博士の「朝鮮語学史」によれば、朝鮮が清国の文化から離脱し、独自性を強調するために国学・国文の使用を鼓吹し、ハングルを奨励しはじめたのは1897年の日清戦争後からで、朝鮮が大韓民国として清から独立してからであった。このとき、はじめて公文書での漢字の使用をやめ、漢字・ハングル混じりの新訂国文を公布し、使用を奨励することとなったのであろう。
黄文雄

ハングルが、韓国の全国民に、教えらはじめたのは、1910年の日韓併合以降である。

だが、地域によって、朝鮮語も方言があり、朝鮮総督府は、現代ソウル語を標準語とする、朝鮮語を、教育を通じて朝鮮社会に、普及させることにしたのである。

だが、漢字・ハングル混じりの文章体系は、未確立で、日も浅い。
だから、教育内容に適する教材がなかったのである。

次ぎに、総督府は、日朝の学者を集めて、研究と普及に当らせる。
そして、学校用の普通学校用諺文綴法を決定し、教科書として、採用したのである。

だが、ハングルは、除外されてきたので、漢文を知らなければ、朝鮮文化を知らないということだけではなく、ハングルさえ、読み書きが出来ないことから、寺内総督が着任してから、一年後の1911年、朝鮮教育会が発足され、朝鮮語及び漢文を、教育することが決まったのである。

そして、同年、朝鮮教育令により、普通学校、高等普通学校、女子高等普通学校に、朝鮮語及び漢文の、毎週の授業数を規定した。

更に、日本人子弟も、小中高ともに朝鮮語を学んでいた。

朝鮮総督府は、ハングルも漢字も禁止せず、日常の手紙すら朝鮮文字で書けない、朝鮮人知識人のような人たちのためにも、双方を教えることになった。

朝鮮人の、文字創出は、東アジアで、最も遅かったのであり、国字、国文としての、体系化は、後にならなければ、進まなかったのである。

更には、朝鮮人の歴史的知識も、蓄積も、遅れに遅れたのである。

黄氏は、
もともと独自の歴史の蓄積がない文化なのだから、奪えといわれても奪うものはあまりない。
と、言い切る。

これでは、余りにも、お粗末過ぎる。
私は、現在の韓国人を、軽蔑するのではない。
歴史的認識をしっかりと、見つめてから、日本に対して、言いたいことを、言うべきであると、言うのである。

それとも、何も無かったから、勝手に想像して、創り出したものを、信じろというのだろうか。

このまま、日本に対する、中傷が続けば、歴史が、判断するだろう。
恩を仇で返す、朝鮮民族として。


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2012年05月08日

国を愛して何が悪い9

日帝時代、朝鮮人の児童は、ハングルよりも、日本のイロハ文字の方を、好んで学び、上達するのも、早かったという。

戦後の韓国人は、日本が言語、文字、文化を奪ったとか破壊したとか言っているが、きわめて史実を無視した現実離れした話である。・・・
そもそも朝鮮人の独自の文字創出は、ただでさえ東アジア史上もっとも遅かったのに加え、両班による排斥にあったことから、国字・国文としての体系化はずっと後にならなければ進まなかった。そのため、朝鮮人の歴史的諸知識の蓄積もかなり遅れてしまったのだ。もともと独自の歴史の蓄積がない文化なのだから、奪えといわれても奪うものはあまりない。
黄 文雄

この時代は、日本語教育も、行われていた。
日韓は、合邦国家だったのだから、当時の日本帝国が、朝鮮語ではなく、日本語を国語にするのは、当然である。

そして、朝鮮総督の教育政策は、ハングルや漢文も禁止するどころか、日常の手紙すら、朝鮮語で書けない、知識人のような者のためにも、双方を教えるということを、したのである。

朝鮮教育令が、日本語を国語にし、同時に学校では、朝鮮語も教えるというアイディアを採用したのは、きわめて当然であり、更に、寛容であったといえる。

イギリスは、アイルランド語を禁止した。
中国の少数民族の中で、満州人は、完全に言語も奪われた。
モンゴル人も、モンゴル語を話せる人は、少ない。

日帝時代の朝鮮社会では、日本語の普及は、20パーセント程度であり、日本時代の台湾が、70パーセントに比べると、非常に低い。

この、20パーセントの日本語使用者は、朝鮮語も放棄していない、バイリンガルな知識人層である。つまり、日本時代の、教育水準が高いということを、表す。

歴史の事実は、朝鮮総督府が、学校をはじめとする日本人公職者に、朝鮮語学習を奨励したというのが、本当である。

両班時代以来、儒教思想の影響が濃い朝鮮人は、自分では何もせずすべて人まかせであった。
黄 文雄

その、朝鮮人に対して、日本は、国語である日本語と、朝鮮語及びに、漢文を、並列で教えていたのである。

本来ならば、国語の方に、重きを置く。しかし、日本は、そうしなかったのだ。
朝鮮人は、総督府による、朝鮮語習得による、民族文化の育成もできたのである。

感謝するのが、当然である。
しかし、奪われたと、恩を仇で返す。
彼らは、恩というものを知らないらしい。

当時を、記憶する術もなかったということか。
本当に、残念である。

更に、驚くべきは、大正8年、1919年、原敬内閣時代から、一視同仁による、差別撤廃を唱えて、内地、つまり日本と同じように、教育を行ったのである。

日中戦争開戦後の、南次郎総督府時代になると、皇民化運動などを進めて、1938年からは、朝鮮教育令が全面的に、改正されて、日本国内と、同じ教育をしたのである。

愚民化政策ではない。

そんな中で、日本語を獲得した、朝鮮人の中には、言語体系化されていない、朝鮮語より、日本語を常用しようと、考える人たちも、出て来たというから、凄いことである。

その中には、朝鮮語の廃止、朝鮮人の日本化を唱える人もいたのである。
その人は、併合前の朝鮮は、地獄であったといってもよい、とまで言うのである。

朝鮮の民族主義も、社会主義も、批判し、学校で朝鮮語を教える必要は無い。そして、国語、日本語を強く主張したというから、驚く。

もし、そのようになっていたら、韓国の発展は、もっと、早かったに違いない。
今も、偏狭な民族主義が、韓国と、韓国人を、歪にしている。

日本化運動の代表人物である、玄エイショウは、1938年、日中戦争一周年を記念して、国民精神総動員朝鮮連盟を結成し、翌日に、3,14運動における、33人の代表の一人だった、朴キドウと共に、南次郎総督に会いに行き、そこで、朝鮮語の全廃を提案したのである。

しかし、総督は、日本語使用はよいが、朝鮮語排斥は、好ましくない、と拒んだのである。朝鮮語を、守ったといってよい。

この頃、日本の努力によって、漢字・ハングル混じりの、朝鮮文が、体系化されつつあった。

その他にも、日本語推進する人たちが、大勢いたというのである。
しかし、それらから、日本が、朝鮮語を守ったといえるのだ。

当時の、歴史的背景を考えれば、同然だったといえる。
ハングルは、普及していなかった共に、国際性に欠けていたからである。

黄文雄氏は、
実際、多言語社会である台湾では、日本語がもたらした功績いくら評価してもし足りないほどだ。
と、言う。

途上国では、外国語を国語として、使用することも、少なくないのである。

日本語の歴史と伝統は、古く、漢字仮名混じり、そして、漢字平仮名と、成長していたのである。

漢字という、文字を完成させたのも、日本語の中である。
現在の中国は、その漢字文化を、脆弱にさせた。
今の、漢字を見れば、それは、一目瞭然である。

古い漢字を読めるのは、中国人ではない。日本人である。

漢字文化を受け入れて、咀嚼し、それを独自の文字、言葉にまで高めた日本人の感性を、素晴らしいと思うのである。

それなのに、ああそれなのに・・・
戦後、韓国では、漢字の、非効率性、非大衆性が、叫ばれて、ハングル国語純化運動が進められて、漢字を放棄したのである。

1965年から、韓国では、一切の漢字使用を禁止した。

それから、転がるように、狭義の民族主義に陥り、自らの、首を絞め続けている。
そして、歴史観は、妄想にまみれた。

歴史が、韓国では、夢、ドリームになってしまったのである。
こんな悲劇は無い。

だから、自国民を30万人も、虐殺した事件など、何処吹く風・・・
国民保導連盟事件という、悲惨な事件も、なんのその、である。

醜い韓国人、の、朴泰セキ氏は、
韓国解放後の歴史の中で、今日まで公にされなかった、恥ずべき大虐殺事件です。
と、言うのである。

何せ、無抵抗で非武装の国民を、30万人以上、虐殺した事件である。

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2012年05月09日

国を愛して何が悪い10

戦後になり、韓国では、突然、漢字の非効率性、非大衆性が叫ばれて、ハングル国語純化運動が進められた。

1948年、李承晩大統領が、ハングル専用に関する法律を、制定し、漢字を暫時的に廃止する路線をとる。
59年には、臨時漢字制限法令を発布し、日本の漢字規制のように、漢字を1300字に制限する。

更に、65年から、一切の公文の漢字使用を禁止したのである。

67年には、朴大統領が、漢字廃止五カ年計画、を指示。
70年以降、総理大臣訓令で、漢字使用を全面的に禁止した。

このように、一時的にではあるが、すべての教科書から、突然、漢字が消えたのである。

ここで、解るように、韓国では、伝統を断絶させるということが、当たり前なのである。日本は、漢字文化を取り入れ、更に進化させて、本場、中国よりも、充実した漢字文化を、継承した。

また、そこから、カナが生まれ、平仮名が生まれ、実に見事な、日本語を作ったのである。

それ以前に、日本にも、古代語があったということを、付け加えておく。

韓国では、それまで、公文書には、漢文が90パーセントを占め、大韓民国の憲法でも、90パーセントの漢語が含まれていた。
当然、韓国社会に与えた影響は、大きい。

同音異義語の氾濫、更に、抽象度の高い概念語の、理解力と利用率が低下した。
その一方、韓国の伝統的固有語を漢語で代用することを、積極的に行ったが、ハングル単用の推進者たちは、新しい代用語を創造することができず、失敗に終わる。

それでも、作った新韓国語も、創った本人が使用したたけで、自然消滅した。

結果は、様々な問題が噴出し、金大中政権時代には、再び、漢字復活論が出でくる。

ただし、国民の10パーセントの賛成であり、言葉に対する意識の低さを、露呈したのである。

黄氏は、
韓国人が伝統の漢字を棄てたことは、李朝時代の「揚儒斥仏」と同じく、誰からみても伝統文化の破壊、絶滅である。伝統文化というのは「自生的」なものだけを指すのでは決してない。伝来したものでも、たとえば仏教などのように永い年月にわたってその地に土着したものも含まれるのである。そのため、漢字も仏教も儒教も、韓国にとって立派な伝統文化である。
と、言う。

更に、ハングルは、韓国の伝統ではないのである。

あまりにも、短絡的、単細細胞的な、対応であるから、驚く。
自国の文化という、意識が希薄であり、更に、伝統などという、観念も、曖昧なのである。

ただ、兎に角、韓国は、素晴らしい・・・
そして、誇大妄想に浸り、世界の文明は、韓国から・・・などと、全く根拠のない幻想を語るのである。

韓国語における、漢語の含有率は、60パーセントから70パーセント、更には、80パーセントとも言われる。
それなのに、漢字全廃を行うというのは、狂っている。

そして、その結果、韓国語の、言語伝達能力が低下し、韓国人は、世界でも、読書率の低い国に、転落した。

あれほど、日帝時代に、高い水準を持っていたにもかかわらず、教育とは、有名無実になってしまったのである。

漢字漢文放棄が、どれほど韓国社会に混乱を招き、伝統文化を放棄するということで、どれほど国にとって、マイナスとなったかということ。

だが、韓国人は、それさえも、気付かないのである。

韓国は漢字を捨て、ハングルを自慢するようになった。・・・それまで蔑まれてきた、ハングルを朝鮮に普及させたのは日本だった。にもかかわらず、韓国人は「日本人に言語を奪われた」と非難している。なんと矛盾と屈折に満ちていることだろうか。


ところが、知識不足か、何も知らないのか・・・
世界でもっとも合理的、科学的かつ芸術的な、文字と自画自賛するのである。

ハングルが完璧だというのは、韓国の言語学者が無知なだけに過ぎない。


韓国語は事物を正確に表現するのに充分でない点が多い。名詞においても、単数と複数の区別がはっきりせず、人称や数の区別もない。格に該当するものもなく、助詞(格助詞)で格を表している。また、ある状況を表す用語法としての否定法もない
インタイリン 韓国人とその意識構造

黄氏が、まとめたものを見る。
韓国語は代名詞がない。関係代名詞は前出の語句を受けて、思考過程を漸次発展させる語法である。
したがって、科学的表現には向かない
論理的・科学的思考能力の発達を阻害している
事物を客観化かつ対象化して理解しようとしない
客観的事実を直視し、自己の生活を反省する力に乏しく、無批判に外来思想に追従する傾向がある
推理力に欠ける時、常に感性にのみ依存し直観的技術に頼ろうとして、合理的に把握しようとする精神が欠如している

戦前の韓国の新聞や雑誌を読んで感じるのは、その情報伝達の不正確さである。ことに、数字的な情報は信じられないほど混乱している。これは、当時の朝鮮人知識人の水準を表しているとも言える。


日帝時代の、日本語の使用は、朝鮮語使用以上に、文明開化をもたらしたのである。

当時のアジアで、日本語ほど、近代的で体系化された、言語はなかったのである。

韓国人が、ハングルを自画自賛すれば、するほど、その評価は、遠退く。
それは、韓国人が、内省できない民族だとしか、言えない。

現在の、教科書は、反日を中心として、作られている。
これが、将来の子ども達の感性を、破壊する。
訳の解らないうちに、ただ、反日だけを、教えられているのであれば、先は無い。

憎悪と、攻撃だけを、教えられているようなものである。

共感など、全くない。
韓国の子ども達は、反省も、教えられない。
ただ、兎に角、悪いのは、他であるという、思考法、外省志向のみである。

国民が真っ当に、育つはずがない。

更に、朝鮮の歴史を書き残していないから、ただ、妄想の古代史を教えるだけ。
結果、中国の属国意識のみで、歩んできた朝鮮だと気付くと、韓国人を止めたくなるだろう。

真っ当な国民意識を、創るために、100年は要する。

それは、日本にも、言える。
永い間の、自虐史観から、抜けるには、100年を要する。


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2012年05月10日

沈黙を破る62

戦争犠牲者の追悼慰霊から、はじめた、活動。
そして、衣服支援を始めて、テラの会とした。

今年で、六年目に入る。
よくぞ、やってきたと思う。

慰霊地に出掛けて、その土地に住む人たちの、貧しさに絶句し、驚愕した。
そして、子ども達の衣服でもと、始めた。
それが、大人、更に、文具や、ぬいぐみ・・・・

それから、大変な状況になった。
衣類の支援を求めると、保管場所が必要になり、三つの保管場所を得た。
それだけではない。
手渡しが基本だから、持参する。

それが、続いて、私は、足腰をやられた。
使いすぎと、医者に言われた。

足が、重要である。
不自由になると、活動に支障が出る。

更に、現地で出会った人に、支援物資を送るようになる。
勿論、それも、私が出掛けて行って、差し上げるのである。

そして、更に、大変なことは、経済的なことである。
お金がかかる。

更に、大変なことは、お金が無い。

仕事をすれば、いい。簡単なことである。
しかし、仕事をすると、活動が半分以下、それ以上に減らさなければならない。
と、すると、死ぬまでに、出来ない。

それでは、支援物資を送られ方々に、寄付を求める。
ところが、支援物資を送るが、寄付となると、断然、支援する人が少なくなる。

中には、支援物資の中に、数千円などを入れてくれる人がいた。
その人は、ボランティア活動には、お金がかかると、知る人である。

それなのに、私は、ミャンマーの孤児院、更に、ミャンマー難民の、タイ側にいる、孤児たちに、食糧支援を思いついた。

行くたびに、何を食べているのか・・・
国連から、米を貰うだけ。
だが、米だけで、後は、どうするのか・・・

その米も、満足ではない。

人生の後半を、晩年を、ゆっくりと、静かに・・・
なんて気持ちは、更々無くなった。

何とかしなければ・・・

しかし、一人で踏ん張ってみても、たかが知れている。
矢張り、多くの人からの支援を必要とする。

私には、何の支援団体も無い。
孤立無援である。

これでは、続けられない。

不労所得・・・という、歌い文句で、様々な金儲けがある。
しかし、金を得るというのは、大変なことである。
もし、簡単に、スムーズに、不労所得を得たという人がいたなら、それは、魔物である。

そこに至るまで、七転八倒の苦労がある。

更に、不労所得を得て、人を見下すような生活をしたいようである。

年収、一億、二億、三億・・・
平然として、言ってのける。
多数の人が群がるのが、見える。

だが、全員が、そうならないのは、見ての通り。

一人の人の、成功が、皆の成功のように、語る。
あまりにも、稚拙である。

そして、その方法は、無料で、手に入る。
年収一億の方法が、無料である。
少しばかり、賢い人たちが、思いつく言葉である。

さて、私は、これから金を得て、活動を続けなければならない。
勿論、誰に頼まれたわけではない。

私の、勝手な希望であり、活動である。
私の、自己責任に帰す。

心ある人、興味を持つ人たちに、私の活動が知れること。
それ以外に、方法はない。

何で、そんなこと、やってるの・・・
何の得にも、ならないでしょう。
得にならないことを、する人もいるのだ。

得に、執着しない。

何故なら、この世に欲しい物が無い。
この世に、未練も無い。

死ぬことが、救いだと、考えている。

ただ、これを続けると、日本のためには、得になる。
私は、日本人として、行動しているからだ。
その見返りがあるとしたら、日本である。

傲慢を言うと、
千年の日本のために・・・

posted by 天山 at 05:34| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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