2012年04月13日

霊学57

心理学の大海に正しいダイビングを行おうとする試みは、その飛び込む人の居住地や国民性が彼の心にいろいろな限界を与えているということから、ときどき批判されることがある。・・・ニーチェは次ぎのような疑問を提出した。すなわち、ロックよりこのかたイギリスに生まれた哲学者たちが、心の単一の普遍的な原理を、“彼らの民族の知的自尊心がそれを認めることを最もいとうような一角“に求めてきているのはなぜか。”たとえばそれを、習慣の慣性とか、忘れっぽさとか、観念の盲目的で偶然的なからくりと連合、あるいはまぎれもなく受動的で、反射的で、基本的にはくだらないような要因のなかに“求めてきた”のはなぜかというのである。

ウィリアム・ジェームズは、ドイツの高名な科学者の「精神物理学」を評して、退屈することを知らぬような民族の国でなければ起こりえない「微視的」心理学とよんだ。
ジョン・コーエン

このような、話しが延々と続く、心理学を学ぶ人のために、という、コーエンの序章である。

最初に、心理学というものを、めためたに、切り捨てている。

勿論、人間性の心理学、という、タイトルであるから、心理学の講義に入っててゆくのだが、既成の心理学というものの、定義を、撹乱させている。

一体、心理学が、この世に果たす役割は、何か、である。
プロも、素人も、同じ位置に立つ事が出来る、心理学という、一見、学問に似たもの。

更に、多くの統計を集めて、それを基にして、何やら分析めいたことをする、輩。
更には、奇想天外な人間の心理を披露して、皆を、素人を脅かせる学者。
最も、最低なのは、占い師の如くに、先を預言してみましようと、ノタマウ、心理学というものの、怪しさ。

心についての理論を作るにあたって第一歩は、特に理論家の個人的性格と彼の社会的相続財産によって影響される。これらニ種の影響は、それぞれ思考の心理学および知識の社会学によって研究される。またこれらは、心を限定する特徴を示しているが、それは、心が自身の性質を吟味する際に明らかになるものである。しかし、これらの限定のタイプを、ここで追求するつもりはない。
コーエン

ここで、追求するつもりは、無い。
ところが、それを追求する者を心理学者と呼ぶ人の多いこと。

心が自身の性質を吟味する際に明らかになる・・・
一体、心理学を学ぶ者は、どうして、心理学を選ぶのか。
他者を理解するのではなく、私自身を理解したいがために、学ぶといえる。

それなのに、ああそれなのに・・・
それで、他者を心理学の枠に嵌めて判断するという、誤りを犯す。

最初に、コーエンが書いたように、心理学とは、他の学問の基礎的知識があり、理解があって、はじめて、成り立つものであることを、書いていた。

心理学、唯一つでは、如何ともしがたいのである。
心理学は、もぐら叩きに似るものである。

こちらを叩けば、あちらに出る。あちらを叩けば、こちらに出る。
どうも、せん無いものなのである。

人間の心を扱うということは、その心が、いつも、流動的であることを、知る以外に無い。それでも、傾向という意味では、まあ、何とかなる程度である。

いくつかの仮定が、ときどき、次の文章におけるように、とまどうほどの率直さで表されることは注目してよかろう。
わたしは、将来の研究では、仮にネズミなら、かくかくの食欲に結びついたかくかくの要求と、かくかくの程度の分化などの結果として、どのように行動するだろうかを、さらに想像し続けてゆくつもりである。とーーー
いわば、この理論家は、初めに彼らネズミであったならどう行動するかを想像し、そこでこれに基づいてネズミの行動を解釈し、終わりに、このことから、彼のような人びとが実際に行動する仕方を立証することを提案しているのである。
コーエン

これは、心理学を学ぶ者が、知らずに陥る穴、大穴である。

上記の文を、笑う心理学者がいるだろうか。
しかし、彼らのやっていることは、これと、同じなのである。

セックス分析のことで、相手の気持ちになり、相手がして欲しいと思うことを、するべき。相手、女の気持ちになり、どのようにされたいか・・・
さて、女の気持ちになり、考えてみましょう。
自分が女であれば・・・
どのように乱れるだろうか・・・

実に、馬鹿馬鹿しいが、心理学者が、それをやるのである。

ゲイの女役であれば、考えられる限りのことは、考えるが、ノーマルな男が、女になって云々など、考えようがないだろう。

ところが、心理学は、平気でそのようなことを、やる。

お笑いになるのである。
そして、お笑いは、心理学の最高の批判でも、ある。

エール大学のクラーク・ハル博士の入念の体系は・・・
彼は一つの摩天楼を打ち立てようと努めたのであるが、それが砂上の楼閣と化してしまったことは確かである。彼は、あらゆる人間の行為は、「動因解消」の快を通じて獲得された習慣族階級によるということを自明のこととする。その結果、われわれの思考と感情、夢、目的、そしてその他の心のあらゆる創造物は、神経系という墓の中に永久に葬られるのである。
コーエン

時代に迎合すれば、何でも、心理学で、解決されると思う心の哀れさ、である。

日本語で、読むと、心のことわりの学、である。
訳語が悪い。
心霊学と言うと、げーーーとなる者が、心理学だと、げーーーと、ならないのは何故か。

心流学であろう。
心が、ながれる学である。

心理家で、定義を持つことは、危険極まるのである。
定義みを当て嵌めて、ハイ、一丁上がり・・・

幼児期に、糞をするたびに、叱られた。
ゆえに、私は、糞をするたびに、嫌悪感と、罪悪感に苦しむのです。

高学歴の、エリートが、浣腸セックスを好むのは、幼児期の、糞をする快感が忘れられず、それを繰り返すことにより、自己のアイデンティティを取り戻すのです。

こうなれば、何でもありの、心理学である。
更に、パーソナリティーとなれば、百花繚乱の形相である。

あたかも、人生を悟ったような、心理学者の、お説を後生大事と抱き続けている、アホの多いこと。

心理学が、世のために働くのは、臨床の場である。
机上の空論ではなく、実際の現場における、理論を忘れた、人間性によるものである。



posted by 天山 at 06:34| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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