2012年04月11日

霊学55

1969年に書かれた、ジョン・コーエンの、著書、人間性の心理学から、引用している。

およそ、40年前である。

認められなければならぬことは、心理学上の諸問題が実験的取り扱いや数学的操作に適っているあり方はきわめてまちまちだということである。それにもかかわらず、心理学の膨大な文献がこうした操作の目標に向けられている。・・・
コーエン

こうした操作とは、商業上の、教育上の、産業上の、軍事上の圧力である。
それが、心理学の目的を形作ったという。

人間は単に研究の「対象」であるばかりではなく、また諸科学の発展にとって欠くことのできない知識の源流でもある。
人間はまた芸術と人文科学の発展のための知識の源である。
心理学は、一方では諸科学と芸術との間に、他方では自然科学部門と社会科学部門との間に、一つの戦略上の位置を占めている。
心理学がこれらすべての学問に対してもっている関係は複雑である。
学問の世界における心理学と種々の学科との間の精確な論理的な関係を窮めることは、やりがいのある仕事であろう。
文学、言語および言語学、歴史、芸術史、比較宗教学、これらそれぞれが心理学とはっきりしたきずなをもっているが、同じことは、建築および都市計画、経済学、行政、そして法律にもあてはまる。
そして、認識論に対し、心理学と共通の関心を抱いているのは、ただ数学と物理学だけなのではない。
コーエン
改行は、私。

心理学というものの、定義を模索している。

心理学は、それが一切の豊かさと情念とをかけた人間の研究にゆきあたったとき、はじめて究極において学問の世界に正しい位置を占め、実生活のできごとの世界(家事や社会的または国際的なできごとの世界)において、その固有の役割を果たすことになるだろうとわたくしは思われる。
心理学にとって人のモデルは、人のあらゆる行為と業績とを考慮し、人の創造的な熱望はもちろんのこと彼の闘争と力の限界を考慮に入れるようなものでなければならない。
コーエン

あまりにも、広大な考えである。
とすれば、安易な心理学の知識を持って、小手先で、人の心なるものを、分析してみせても、説得力は無い。
そういう、心理学の知識を持ち、単純な解説をする、賢い馬鹿が、日本の心理学者に多い。
また、賢明だと、自分を信じて疑わない、賢い馬鹿も、である。

隣の、爺さんに、聞いた方が、もっと、実りある解説が聞ける場合もあるのだ。

コーエンの書き出しは、とても、激しい否定と、過激な言葉である。

心理学はいろいろな学問のなかで最も修練の足りない学問であり、あらゆる狂想的な作品の養育所であり、その遊び場であり、あらゆる既知と未知のことばで混乱しているバベルの塔であり、偽札と偽造貨幣の造幣局であり、こじつけの、そしてありそうもないさまざまな理論を売りつけるあらゆる行商人のための市場である。
コーエン

私などの、激しさとは、違う。
自己主張を主にする、欧米人のそれである。

心理学は、ごまかし、陳腐、鋭い直観、素朴さ、想像の高い飛翔、退屈なドグマ、鋭敏な推理とそして全くのたわごと、これらの混合物である。
コーエン

更に、酷くなり、
心理学図書室の書棚にあるすべての教科書書類には、それを読むときに必要な塩を書き付けておくべきであり、図書室の読書机には大皿に盛った塩を置いておき、定期的に塩を補充しなければならない。
ある種の書物(特にパーソナリティの神秘的な内奥を開明すると自称しているものには)思い切って「毒薬」と書いておき、読後に服用するよう解毒剤か吐剤を処方しておくべきである。
コーエン
となる。

パーソナリティなどとは、実際、言ったが、勝ちなのである。
すると、お馬鹿が、追従して、世間に広めてくれる。
更に、お馬鹿は、それを持って、人にパーソナリティを説くという・・・

どこから、取り上げても、パーソナリティというものを、作り上げることが、出来るということだ。

更に、フロイト、ユングなどを付加すれば、信じるのである。
信じる者は、騙される。

そうして、小此木氏に、戻ると、色々なことに、疑いが起こる。
その、疑いのために、長々と、書き続けてきた。

操作原則感覚だけが、肥大した、
自己愛人間は、自分の外の対象とかかわりにおいて、つまり対象との相互関係の中で生きるのではなく、むしろ、自分の内側の、内的自己空間の中で、自らの空想・幻想による満足を味わい楽しむ内的嗜好性があります。
小此木

と、観察した、事柄を上げて、解り易く解説している。
本当は、よく見続けていれば、誰もが解ること。
その、誰もが解らなくなったということに、問題があるという、気づきである。

そして、それは、ウォークマンで、音楽を聞き入る、現代人だけに言えることではないのだ。
内的嗜好性は、いつの時代もある。

それが、突然、出て来たものではない。
当たり前のことを、精神分析医が、書くと、当たり前ではなく、最も、学問的な言葉に聞えるのである。

学問ではない。
学問的である。

要するに、占い師の、別物のようである。

日本の心理学者で、それに、早々と気付いた、岸田秀は、それを書いたのである。
また本人も、そう言う。
勿論、彼の論文には、無い。
エッセイの形で、書いている。

現代の物質文明は、人々の感覚的感受性を、ますます繊細に、そして巧みなものに向上させていくが・・・
こうした感性の世界の質と量の進歩は、外界を内界化し、内界を外界化する作用をもつだけに現代人の自己愛人間化を促進する一つの要因になっています。
小此木

この本の題は、自己愛人間、である。
出版した当時では、現代の人間評論であり、心理学とは、言わないだろう。



posted by 天山 at 06:48| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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