2012年04月03日

神仏は妄想である。364

スピノザを、見ていても、欧州思想の語りは、行間など無い。
隙間を埋めるように、書き尽くす。

全く、思考方法が違う。
それが、良し悪しの問題ではなく、民族的、風土的とでも、言うものである。
だが、現代日本人が、それに陥った。

語り尽くす前に、昇華させるのが、日本の特徴である。

そして、その心奥のことは、言葉にしない。
感じるものにする。

だが、欧米の思想に馴染んだ者や、賢い馬鹿の連中は、それが本当の語りだと、思い込んだ。

そして、我を忘れた。

これから第三の点に移り、神の決定と命令、従ってまた神の摂理が実際に自然の秩序以外の何物でもないことを示そう。
スピノザ

スピノザの、批判は、ユダヤ教、そして、それらの、神学者たちに、向けられている。
神に対する、批判は、皆無である。

神の存在を前提にしての、語りである。
更に、その神に対する、解釈を、妄想であると、言う。
スピノザも、イエスと、同じく、ユダヤ教指導者に対する、徹底批判を繰り返している。

それは、実に、否定的で、激しい。

換言すれば、このこと或いはかのことが神域は神の意志によって為されたと聖書が言っている場合、それは実際にはそのことが自然の法則と秩序とに従ってされたということを意味しているにすぎないのであって、一般の人々が考えるように、自然がその間活動を停止したとか、自然の秩序が一時的に中断されたとかいうことを意味しているのではないのである。
スピノザ

私も、換言して言えば、彼らは、神を前提にしてしか、物事を考えられないのである、と言う。

聖書は、ものを自然的原因によって説いたり、純粋に思弁的な事柄を説いたりすることを、目的とはしない。そして、仔細に、且つ多くの付帯的事情を交えて、語られる物語から、推論によって、帰結されなければならないと、言う。

聖書の中にその原因が我々に分らぬような事柄、また自然の秩序を離れて、否自然の秩序に反して起こったかに見える事柄が書かれてあっても、我々はそのために躊躇すべきではない。むしろ我々は実際に起こった事柄は自然的経路おいて起こったのであることを固く信じなければならぬ。
スピノザ

奇跡における付帯的諸事情こそは奇跡が自然的原因を必要とすることを明示するものである。
スピノザ

この時代に、スピノザによって、宗教的迷信、宗教的脅しのような、奇跡が否定されているのには、驚く。

だから、
人間の罪が洪水の原因になったり、人間の祈りが土地の豊饒の原因になったり、信仰が盲目者を癒したり、その他、聖書に語られる奇跡の種類は、否定されるのである。

聖書は、民衆に敬神へ最も強く拘り得るような、順序あるいは表現法において、述べているのであると、スピノザは、言う。

聖書は、理性を説得しようとではなく、ただ人間の想像力と表象力とを刺激し、感銘させようと努めているからである。
スピノザ

聖書の中に実際の出来事として語られているすべてのことは、おおよそ生起する一切事と同様に、必然的に自然の法則に従って生起したのである。
そしてもし自然の法則に矛盾すること或いは自然の法則の結果ではないことが不可疑的に証明されるように何事かが見出されるとしたら、それは冒神の徒によって聖書へ付加されたものであることを我々は固く信ずべきである。何故なら自然に反することは理性に反し、理性に反することは不条理であり、従ってまた排斥されねばならないのであるから。
スピノザ

つまり、ユダヤ教の指導者たちは、スビノザの言う、排斥されなければならない、者たちであるということだ。

長く、この著作を発表出来なかったということも、納得する。

だが、理性によっても、神の存在が、前提なのである。
如何に、神と、格闘したかということだ。
ニーチェが、神は死んだ、を、書いたのも、スピノザの流れにあるといえる。
勿論、二人には、一切のつながりは無いが。

自然という、大前提と、神の存在という大前提の前に、奇跡は、無いと理性的に、解釈する、スビノザである。

聖書解釈が、それでは、その後、どのようになったのか・・・
何も、変わらない。
聖書の奇跡は、奇跡として、多くの信徒たちが、信じるのである。

スビノザの努力も、水の泡。

そして、第四番目の、テーマが、
人々が奇跡を見当違いに解釈して、聖書の中に自然的光明に矛盾する事柄を見つけたと早合点することのないようにするため・・・
書き続けるのである。

私は、神道における、自然観を書いている。
その、自然観と、西欧の自然観の相違を見て、神道の自然観、自然感覚を、遠くから眺めるという方法を取っている。
何故か。
神道には、言葉が無いからである。

そして、神道の自然感覚を説明すると、嘘になる。

スピノザが、理性という言葉を使うので、私は、感性という言葉を使い、神道の自然観を言う。
これは、いたし方ないのである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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