2012年04月02日

神仏は妄想である。363

第二は、
我々は奇跡から神の本質乃至存在を、従って又神の摂理を認識し得ないこと。むしろこれらはすべて確固にして不可変的な自然の秩序から遥かによく把握され得ること。
である。

これは、当時としては、大変な反論である。
奇跡を否定するのである。
つまり、旧約聖書、ユダヤ教と、ユダヤ人の考え方を否定するのである。

ユダヤ教から、破門されても、当然である。

神の存在は、それ自体では知られないから、必然的に諸概念から、―――その真理たることが確固不動でこれを変える得る如何なる力も存在し得ず又考えられ得ないような諸概念から結論されなければならぬ。
スピノザ

この思想が、カトリック神学に寄与したことは、当然であろう。
とても、有効に機能したはずである。

我々は一切が確実且つ不可変的な自然の秩序に従うことを知りさえすれば奇跡などに依らず充分に神の存在を確知し得るのに。
スピノザ

その前に、
だから奇跡を自然の秩序に矛盾する出来事と解する限り、奇跡は我々に神の存在を証明することなどとても出来ぬのであり、反って我々に神の存在を疑はしめるばかりである。
スピノザ

何度も言うが、ここでは、新しい神についての、観念を創り続けている。

しかし奇跡を自然発生的原因によっては説明され得ない出来事と仮定すれば、それは二様の意味に解される。一は奇跡は自然発生的原因を持ちはするがその自然的原因が人間の知性によっては探求され得ないという意味みであり、もう一つは奇跡には神或いは神の意志以外の如何なる原因をも認められないという意味である。
スピノザ

つまり、奇跡は、自然発生的原因を持とうと、持つまいと、原因的には、説明され得ない事であり、人間の把握力を、超越するのである。

故に奇跡から、即ち我々の把握力を超越する出来事からは、神の本質も存在も、否およそ自然に関する如何なることも理解し得ない。反対に一切は神によって決定され確立されること、自然の諸活動は神の本質に生ずること、自然の諸法則は神の永遠なる決定乃至意欲であること、そうした事どもを我々は知っているから、我々は断然こう結論せねばならぬ、我々は、自然的事物を益々よく認識するにつれて、また如何なる風に自然的事物がその第一原因に依存するかを、並びに如何なる風にそれが永遠なる自然の諸法則に従って活動するかを益々明瞭に理解するにつれて、益々よく神と神の意志とを認識し得るのである、と。
スピノザ

とても、挑戦的である。
そして、既存のユダヤ教に対する、過激な否定的表現である。
それは、新しい思想を創り出す時に、当然な結果である。

要するに、スビノザは、反自然的奇跡、超自然的奇跡は、不条理以外の何物でもなく、聖書における奇跡は、人間の認識、把握力を超越するもので、自然の業以外の、何物も、意味しないと、結論する。

自然の諸法則に反した奇跡は、逆に、無神論に導くというのである。

奇跡という、意識によって、逆に、神の存在を否定してしまうと、訴える。

それは、超自然といっても、自然の中で、行われることである。そこで、超自然を認めることは、神の決定に基づいた、確固、かつ、不可変的であると考える、その秩序を、中断させるという。

これは、奇跡に関しての、考察であるが、自然というものを、どのように、捉えているかを知る上で、非常に参考になる。

日本には、このような、自然に対する、意識は無い。
そして、神という、絶対的存在による、自然の認識は無い。

兎に角、神の存在を主にして、七転八倒して、考え続けたのである。

だが、スピノザが、ここで語るのだが、今も、奇跡というものを、妄信する人たちが、多数存在する。
更に、これを取り入れた、カトリックでさえ、その信者も、奇跡を求め、更に、奇跡的な事柄を、神の存在につなげる。

それが、神を否定することになるとは、知らずに、である。

だから、スピノザは、それは無知であると、断定する。
否定と過激な発言である。

だから、長く、この著作は、眠っていたのである。
出版出来なかった。

実は、今も、キリスト教は、ユダヤ教から、逃れられないのである。
同じ事を、繰り返している。
あの頃から、人間は、いやキリスト教は進化、進歩していないと、言える。

旧約、奇跡の無知を指摘した、スピノザは、新約聖書のイエスの奇跡に対しては、どのように考えたのか、興味がある。

旧約聖書と、新約聖書を、聖典とした、キリスト教は、その矛盾に苦しむことなく、ただ、淡々と、蒙昧な信仰を繰り返しているといえる。

真実、神の存在に向き合うことは、その存在のギリギリまで、追求し、考え得る限界まで、考える。そして、言葉にする。
そして、言うに言われぬ思いなどとは、言わない。

すべては、語れると、確固たる信念に基づき、思索を続ける。
それは、賞賛すべきことだ。

勿論、私は、それに組しない。
私は、日本人として、言挙げせずを、選ぶ。

だが、スピノザを続ける。
とても、面白い、思索の模様が見られるのである。



posted by 天山 at 00:02| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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