2012年04月11日

霊学55

1969年に書かれた、ジョン・コーエンの、著書、人間性の心理学から、引用している。

およそ、40年前である。

認められなければならぬことは、心理学上の諸問題が実験的取り扱いや数学的操作に適っているあり方はきわめてまちまちだということである。それにもかかわらず、心理学の膨大な文献がこうした操作の目標に向けられている。・・・
コーエン

こうした操作とは、商業上の、教育上の、産業上の、軍事上の圧力である。
それが、心理学の目的を形作ったという。

人間は単に研究の「対象」であるばかりではなく、また諸科学の発展にとって欠くことのできない知識の源流でもある。
人間はまた芸術と人文科学の発展のための知識の源である。
心理学は、一方では諸科学と芸術との間に、他方では自然科学部門と社会科学部門との間に、一つの戦略上の位置を占めている。
心理学がこれらすべての学問に対してもっている関係は複雑である。
学問の世界における心理学と種々の学科との間の精確な論理的な関係を窮めることは、やりがいのある仕事であろう。
文学、言語および言語学、歴史、芸術史、比較宗教学、これらそれぞれが心理学とはっきりしたきずなをもっているが、同じことは、建築および都市計画、経済学、行政、そして法律にもあてはまる。
そして、認識論に対し、心理学と共通の関心を抱いているのは、ただ数学と物理学だけなのではない。
コーエン
改行は、私。

心理学というものの、定義を模索している。

心理学は、それが一切の豊かさと情念とをかけた人間の研究にゆきあたったとき、はじめて究極において学問の世界に正しい位置を占め、実生活のできごとの世界(家事や社会的または国際的なできごとの世界)において、その固有の役割を果たすことになるだろうとわたくしは思われる。
心理学にとって人のモデルは、人のあらゆる行為と業績とを考慮し、人の創造的な熱望はもちろんのこと彼の闘争と力の限界を考慮に入れるようなものでなければならない。
コーエン

あまりにも、広大な考えである。
とすれば、安易な心理学の知識を持って、小手先で、人の心なるものを、分析してみせても、説得力は無い。
そういう、心理学の知識を持ち、単純な解説をする、賢い馬鹿が、日本の心理学者に多い。
また、賢明だと、自分を信じて疑わない、賢い馬鹿も、である。

隣の、爺さんに、聞いた方が、もっと、実りある解説が聞ける場合もあるのだ。

コーエンの書き出しは、とても、激しい否定と、過激な言葉である。

心理学はいろいろな学問のなかで最も修練の足りない学問であり、あらゆる狂想的な作品の養育所であり、その遊び場であり、あらゆる既知と未知のことばで混乱しているバベルの塔であり、偽札と偽造貨幣の造幣局であり、こじつけの、そしてありそうもないさまざまな理論を売りつけるあらゆる行商人のための市場である。
コーエン

私などの、激しさとは、違う。
自己主張を主にする、欧米人のそれである。

心理学は、ごまかし、陳腐、鋭い直観、素朴さ、想像の高い飛翔、退屈なドグマ、鋭敏な推理とそして全くのたわごと、これらの混合物である。
コーエン

更に、酷くなり、
心理学図書室の書棚にあるすべての教科書書類には、それを読むときに必要な塩を書き付けておくべきであり、図書室の読書机には大皿に盛った塩を置いておき、定期的に塩を補充しなければならない。
ある種の書物(特にパーソナリティの神秘的な内奥を開明すると自称しているものには)思い切って「毒薬」と書いておき、読後に服用するよう解毒剤か吐剤を処方しておくべきである。
コーエン
となる。

パーソナリティなどとは、実際、言ったが、勝ちなのである。
すると、お馬鹿が、追従して、世間に広めてくれる。
更に、お馬鹿は、それを持って、人にパーソナリティを説くという・・・

どこから、取り上げても、パーソナリティというものを、作り上げることが、出来るということだ。

更に、フロイト、ユングなどを付加すれば、信じるのである。
信じる者は、騙される。

そうして、小此木氏に、戻ると、色々なことに、疑いが起こる。
その、疑いのために、長々と、書き続けてきた。

操作原則感覚だけが、肥大した、
自己愛人間は、自分の外の対象とかかわりにおいて、つまり対象との相互関係の中で生きるのではなく、むしろ、自分の内側の、内的自己空間の中で、自らの空想・幻想による満足を味わい楽しむ内的嗜好性があります。
小此木

と、観察した、事柄を上げて、解り易く解説している。
本当は、よく見続けていれば、誰もが解ること。
その、誰もが解らなくなったということに、問題があるという、気づきである。

そして、それは、ウォークマンで、音楽を聞き入る、現代人だけに言えることではないのだ。
内的嗜好性は、いつの時代もある。

それが、突然、出て来たものではない。
当たり前のことを、精神分析医が、書くと、当たり前ではなく、最も、学問的な言葉に聞えるのである。

学問ではない。
学問的である。

要するに、占い師の、別物のようである。

日本の心理学者で、それに、早々と気付いた、岸田秀は、それを書いたのである。
また本人も、そう言う。
勿論、彼の論文には、無い。
エッセイの形で、書いている。

現代の物質文明は、人々の感覚的感受性を、ますます繊細に、そして巧みなものに向上させていくが・・・
こうした感性の世界の質と量の進歩は、外界を内界化し、内界を外界化する作用をもつだけに現代人の自己愛人間化を促進する一つの要因になっています。
小此木

この本の題は、自己愛人間、である。
出版した当時では、現代の人間評論であり、心理学とは、言わないだろう。



posted by 天山 at 06:48| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月12日

霊学56

自己愛人間とは本当の意味で自己愛の満足を知らない人たちだともいえるし、病的な自己愛の肥大した人たちともいえるわけです。
小此木

自己愛人間は、存在しないだろうと、私は言う。
小此木氏が言う、自己愛人間は、病的自己愛人間のことである。

大変、参考になった。

もう少し、説明すると、非常に苦痛なことや、恐ろしいこと、醜いことを直視するとき、その現実を否認して、それをとても、良いものとみなす、理想化して、良いものと思い込む、心の防御作用がある。

自己愛パーソナリティは、この理想化のメカニズムが、異常に肥大して、恐ろしいこと、苦痛なことを、排除することで、幻想的な自己愛を満たし続ける、パーソナリティという。

更に、理想化のメカニズムは、さらに、躁的防御のメカニズムになる。

正常な自己愛の場合は、母親が可愛がってくれるときには、喜び、可愛がってくれないときには、腹を立てるという、現実との相関関係が細かい。
しかし、病的な場合は、現実との微妙な関係ではなく、非常な一方的な思い込みでいる。

更に、思い込みの中にいると、調子がよいが、思い込みが外れると、たちまち相手との関係性を断ち切る。自閉的になる。

続けて、小此木氏が言う、健康な自己愛は、
自己愛を満たしてくれるときには、それなりに相手に対して感謝や愛情を感じる。
自分の要求が、叶えられる範囲で、要求する。
自己中心の態度には、相手も自己中心であると、認め合うところがある。
周りの人から、愛されること、誉められたいと思うことが、具体的である。
ということになる。

病的な自己愛の場合は、すべて、その逆になるというもの。

幻想的なものを、要求する。
自己中心性は、非常に冷たい。当然と思う。
抽象的で、具体的ではない。

そして、病的な自己愛の人たちは、被害的な攻撃性があらわれたり、他の人が、自己愛を持つことを、認めることが出来ない。

他の人が、自己愛的に喜ぶと、途端に、不愉快になる。
そして、それを許容すると、離人感に陥るのである。

解りやすい例は、自分がその場で、人気者にならなければ、行かない人。
そして、激しい攻撃性。
それを処理するために、猛躁的になる。

一般に「気むずかしい人」といわれている人の中にはこのような病的な自己愛人間が多いのではないでしょうか。
小此木

人から、本当に理解される、共感される、ということが、本当の意味での健康な自己愛の満たし方であるということ。

この当たり前のことを、いうために、小此木氏は、延々として、語り続けた。

そして、
ところが、現代ではそういう人間同士の温かい理解や共感によって自己愛がみたされるということが失われていく傾向があります。お互い同士が競争相手になって、誇大自己をぶつけ合っている。そしてお互いに相手を道具にして利用したりし合っているわけです。
小此木

自己愛人間になってしまうと、人間的な触れ合いを避けてしまうということになる。

自己愛人間は主観的な思い込みによる楽観主義者であるといえます。
小此木

小此木氏の、個人的研究の成果を、見てきた。
実に、狭い世界のお話しである。
ところが、これを、全体に広げて考え、更に、人を分析するという、愚かな人がいる。

端的に言えば、こういう人たちを、嫉妬の人たちということが、出来る。
世の中は、多く、嫉妬によって、感情を左右される。

または、女性、特に、若い女性たちに、このタイプの自己愛人間が多い。
勿論、年を経ても、そういう人がいるが、老いには、適わない。
そして、誰も相手にしないという状況になり、孤立する。
若い頃は、若いというだけで、誰かが相手にした、老いると、終わりである。

老いても、イリュージョンの中にいて、死ぬことも、錯覚だと、幸せである。

そろそろ、限界に近づいたので、
ですから自己愛人間の病理としては、登校拒否のように一見してわかるおちこぼれと有名なスターやエリートの人間、世間的には失敗者と成功者にみえますが、その両方ともが病的な自己愛パーソナリティであり、自己愛人間の病理としてあげられるわけです。
と、言う。

それで、結局は、イメージの中で、自己愛を満たすという、未来の人間が描かれる。

つまり、死ぬこともなければ、生きていることもない、純粋に、イメージだけの愛の対象と主観的な思い込みの中でともに暮らすようになるのではないでしょうか。
小此木

これにより、小此木氏が、病的自己愛人間の一人であることが、解る。

心理分析、精神分析が、まだまだ、未熟であり、更に、研究が進んでも、ゆくべき先は、おおよそ、予測できる。
どんな人間像を描いても、その時代のものであり、普遍的なものではないこと。

対処療法の域を出ないのである。

更に、世間を混乱させる、言動である。
学問の世界にいるというだけで、世間に発言力がある、心理学者、精神科医である。

最も、それは、本人に必要なものだった。
彼らこそ、それが、必要だったのである。
だから、徹底した、心理学、つまり、他の学問を取り入れ、模索する、心理学の学者がいることが、救いである。

だから、心理学を批判出来る。
批判出来るものこそ、批判に値する学問である。


posted by 天山 at 07:00| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月13日

霊学57

心理学の大海に正しいダイビングを行おうとする試みは、その飛び込む人の居住地や国民性が彼の心にいろいろな限界を与えているということから、ときどき批判されることがある。・・・ニーチェは次ぎのような疑問を提出した。すなわち、ロックよりこのかたイギリスに生まれた哲学者たちが、心の単一の普遍的な原理を、“彼らの民族の知的自尊心がそれを認めることを最もいとうような一角“に求めてきているのはなぜか。”たとえばそれを、習慣の慣性とか、忘れっぽさとか、観念の盲目的で偶然的なからくりと連合、あるいはまぎれもなく受動的で、反射的で、基本的にはくだらないような要因のなかに“求めてきた”のはなぜかというのである。

ウィリアム・ジェームズは、ドイツの高名な科学者の「精神物理学」を評して、退屈することを知らぬような民族の国でなければ起こりえない「微視的」心理学とよんだ。
ジョン・コーエン

このような、話しが延々と続く、心理学を学ぶ人のために、という、コーエンの序章である。

最初に、心理学というものを、めためたに、切り捨てている。

勿論、人間性の心理学、という、タイトルであるから、心理学の講義に入っててゆくのだが、既成の心理学というものの、定義を、撹乱させている。

一体、心理学が、この世に果たす役割は、何か、である。
プロも、素人も、同じ位置に立つ事が出来る、心理学という、一見、学問に似たもの。

更に、多くの統計を集めて、それを基にして、何やら分析めいたことをする、輩。
更には、奇想天外な人間の心理を披露して、皆を、素人を脅かせる学者。
最も、最低なのは、占い師の如くに、先を預言してみましようと、ノタマウ、心理学というものの、怪しさ。

心についての理論を作るにあたって第一歩は、特に理論家の個人的性格と彼の社会的相続財産によって影響される。これらニ種の影響は、それぞれ思考の心理学および知識の社会学によって研究される。またこれらは、心を限定する特徴を示しているが、それは、心が自身の性質を吟味する際に明らかになるものである。しかし、これらの限定のタイプを、ここで追求するつもりはない。
コーエン

ここで、追求するつもりは、無い。
ところが、それを追求する者を心理学者と呼ぶ人の多いこと。

心が自身の性質を吟味する際に明らかになる・・・
一体、心理学を学ぶ者は、どうして、心理学を選ぶのか。
他者を理解するのではなく、私自身を理解したいがために、学ぶといえる。

それなのに、ああそれなのに・・・
それで、他者を心理学の枠に嵌めて判断するという、誤りを犯す。

最初に、コーエンが書いたように、心理学とは、他の学問の基礎的知識があり、理解があって、はじめて、成り立つものであることを、書いていた。

心理学、唯一つでは、如何ともしがたいのである。
心理学は、もぐら叩きに似るものである。

こちらを叩けば、あちらに出る。あちらを叩けば、こちらに出る。
どうも、せん無いものなのである。

人間の心を扱うということは、その心が、いつも、流動的であることを、知る以外に無い。それでも、傾向という意味では、まあ、何とかなる程度である。

いくつかの仮定が、ときどき、次の文章におけるように、とまどうほどの率直さで表されることは注目してよかろう。
わたしは、将来の研究では、仮にネズミなら、かくかくの食欲に結びついたかくかくの要求と、かくかくの程度の分化などの結果として、どのように行動するだろうかを、さらに想像し続けてゆくつもりである。とーーー
いわば、この理論家は、初めに彼らネズミであったならどう行動するかを想像し、そこでこれに基づいてネズミの行動を解釈し、終わりに、このことから、彼のような人びとが実際に行動する仕方を立証することを提案しているのである。
コーエン

これは、心理学を学ぶ者が、知らずに陥る穴、大穴である。

上記の文を、笑う心理学者がいるだろうか。
しかし、彼らのやっていることは、これと、同じなのである。

セックス分析のことで、相手の気持ちになり、相手がして欲しいと思うことを、するべき。相手、女の気持ちになり、どのようにされたいか・・・
さて、女の気持ちになり、考えてみましょう。
自分が女であれば・・・
どのように乱れるだろうか・・・

実に、馬鹿馬鹿しいが、心理学者が、それをやるのである。

ゲイの女役であれば、考えられる限りのことは、考えるが、ノーマルな男が、女になって云々など、考えようがないだろう。

ところが、心理学は、平気でそのようなことを、やる。

お笑いになるのである。
そして、お笑いは、心理学の最高の批判でも、ある。

エール大学のクラーク・ハル博士の入念の体系は・・・
彼は一つの摩天楼を打ち立てようと努めたのであるが、それが砂上の楼閣と化してしまったことは確かである。彼は、あらゆる人間の行為は、「動因解消」の快を通じて獲得された習慣族階級によるということを自明のこととする。その結果、われわれの思考と感情、夢、目的、そしてその他の心のあらゆる創造物は、神経系という墓の中に永久に葬られるのである。
コーエン

時代に迎合すれば、何でも、心理学で、解決されると思う心の哀れさ、である。

日本語で、読むと、心のことわりの学、である。
訳語が悪い。
心霊学と言うと、げーーーとなる者が、心理学だと、げーーーと、ならないのは何故か。

心流学であろう。
心が、ながれる学である。

心理家で、定義を持つことは、危険極まるのである。
定義みを当て嵌めて、ハイ、一丁上がり・・・

幼児期に、糞をするたびに、叱られた。
ゆえに、私は、糞をするたびに、嫌悪感と、罪悪感に苦しむのです。

高学歴の、エリートが、浣腸セックスを好むのは、幼児期の、糞をする快感が忘れられず、それを繰り返すことにより、自己のアイデンティティを取り戻すのです。

こうなれば、何でもありの、心理学である。
更に、パーソナリティーとなれば、百花繚乱の形相である。

あたかも、人生を悟ったような、心理学者の、お説を後生大事と抱き続けている、アホの多いこと。

心理学が、世のために働くのは、臨床の場である。
机上の空論ではなく、実際の現場における、理論を忘れた、人間性によるものである。

posted by 天山 at 06:34| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月14日

まだ悲しいプノンペン

最高気温5度と、中々気温が上がらない日本から、最高気温35度の、タイ、バンコクへ向かい、それから、カンボジア、プノンペンに向かう旅。

プノンペンには、二度出掛けている。
しかし、一年以上も、出掛けていなかった。
プノンペンにある、貧しい子ども達を支援する、ニコニコの家に支援物資を持参して行く計画である。

今回は、私一人である。

カンボジアは、およそ35年前に、あの悪名高い、ポル・ポト政権が消滅した。
自国民を、300万人虐殺した、共産主義に憑かれ、妄想の人、ポル・ポトが行った、大虐殺の国である。

以前の、旅日記に、共産主義黒書から、色々紹介した。
そして、今回も、それから紹介する予定の旅日記を書くつもりだったが、止めた。

そうでなくても、暗いのである。

現状から、それを探ることにした。

バンコクで、三泊する。
それは、暑さに慣れるために。

黙っていても、外では、汗が噴出す。
寒いところから、暑いところは、嬉しいが、差が激しいのも、また辛いもの。

バンコクでは、いつもの、マンション・アパートの、ホテル仕様となっている、部屋に泊まる。
700バーツである。
これが、今では、円安で、一万円が、3600バーツ程度なので、高い。
しかし、前回、4000バーツの時に、少し多めに両替していたので、助かった。
今の、レートだと、2100円ほどになるのである。

30キロの荷物と、もう一つ、7キロの荷物が、支援物資で、自分のバッグが一つで、三つのバッグを持ち歩く。
これが、また、大変である。

バンコクから、プノンペンまでは、飛行機で、一時間程度である。
泊まる、ゲストハウスは、前日、電話で予約した。
前回も、泊まった、ゲストハウスである。

一泊、15ドル。
一ドル、80円とすると、1200円である。

カンボジアの場合は、ホテルとゲストハウスの違いは、あまり無い。
勿論、ホテルの方が高いが、レベルはゲストハウスも、変わらないところもある。
更に、ゲストハウスより、安いホテルもある。

プノンペンの国際空港は、こじんまりとしている。
日本の地方都市の、空港程度である。

入国審査は、メールでビザを取ってあったので、スムーズ。
ただし、両手の指紋を取られる。
事件や、事故の際に、身元確認が出来るので、いいことだと、思う。

そして、荷物を持って、外に出る。
と、その前に、私に、タクシーと言って、一枚の紙が渡された。
そこには、7ドルとある。
その料金は、トゥクトゥクの料金である。

あら、この人、私が空港前で、また騒ぐ人と知っているのか・・・
何せ、どこの空港でも、タクシー料金で、騒ぐ私である。
ただ、今回は、一人旅なので、冷静に行こうと思っていた。

その紙を掲げながら、外に出ると、タクシーの人たちは、トゥクトゥクと、その場を示す。そのままに、従う。
一台のトゥクトゥクが、あった。
一台しかないの・・・

それに、運良く乗る。
そして、外に出ると、何と、ズラッーとトゥクトゥクが、並んでいるのだ。
これは、交渉で、料金を決めるタイプの人たちである。
つまり、ボッタくることが出来る。

私の紙は、市内のどこでも、7ドルなのである。
だから、今回は、静かに行動出来た。

以前と変わらぬ風景である。
町まで20分程度は、かかる。
そして、ゲストハウスに着くまで、30分以上を要した。

タイとの、時差は無い。
ところが、私は、トゥクトゥクで時計を落として、日本時間に戻っていることに、気付かないのである。

つまり、日本時間は、二時間早いのである。

それに気付くのは、支援の当日である。

ゲストハウスに、顔見知りのお兄さんがいた。
オーッ・・・
と、二人で、声を上げた。

だが、他の人は、全員変わっていた。
フロントには、若い女性がいた。
以前は、いなかった。

ワンベッド、ワンルームである。
ダブルベッドが一台ある部屋。
以前、泊まった部屋の、斜め前の部屋だった。

シャワーを浴びて着替える。
そして、時計を見て、もうこんな時間なんだ。日本時間である。

そろそろ、ご飯を食べにと思う。
以前に行った、店に行くことにする。

そのゲストハウスには、四泊したので、その付近の道は、覚えた。
だが、プノンペンの道は、同じ道が多くて、迷う。
ただ、規則正しく道があるので、迷ったら、大きな通りに出ると、解る。

ポル・ポトの時代、この街に一人が一人もいなくなったという。
皆、田舎に連行されて、再教育を受けるのだ。
再教育とは、共産主義教育である。
そして、誰も彼もが、農業をするという・・・

そこで、知的作業をしていた人たちは、皆、虐殺されたのである。
労働者のみが、生きられる国にしようとした。
完全に、狂っていた。


posted by 天山 at 06:46| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月15日

まだ悲しいプノンペン2

カンボジアに、ポル・ポトの支配が終焉したのが、1979年とすると、今年は、それから、33年の月日が流れたことになる。

当時、生き残った者が、現在の年齢から、33年を引き算するとよく解る。

33歳の人は、その年に生まれた。
43歳の人は、その年に、10歳だった。
53歳の人は、その年に、20歳だった。
それ以上の人たち・・・

私が地元の人たちの行く食堂で、大声で話す人たちの、大半は中華系の人たちで、その騒動の後に、カンボジアに入り、商売をした人たちである。

それ以外の、つまり、カンボジア人の、多くの人たち、特に高齢者は、寡黙であり、多くは口を開かない。
静かに、食事をし、静かに、お茶を飲んで、ただ、じっと一点を見つめる様子である。
ニコリともしない。

そして、街中での、活動の中心年齢は、40代である。

高齢者の物乞いも多い。

貧しい国、最貧国の一つであるから、高齢者保護など無い。

そして、最も、私が心を痛めて見るのは、感じるのは、生きていることが、辛い、切ないという、彼らの心情である。

生きているということは、何らかの、人道的、罪なるものを犯したと、感じるほどに、ポル・ポトの支配は、徹底していた。
それは、前回の旅日記を読んで欲しい。

裏切り、密告・・・
親兄弟、親類、友人、知人と誰も信じられない状態になったのである。

更に、少年兵、少女兵として、多くの人を、殺した人たち。
今、生き延びて、何を思うか・・・
悪夢である。

お前は、何人、人を殺したのか・・・
もし、そう問い掛けたら、人々は、そっと逃げ出すだろう。

子供と、若者以外は、無口になる。
当然である。
もう、話す言葉が無いのである。

ある昼間、大きな食堂に出掛けてみた。
勿論、観光客など来ない、食堂である。
結構、満席だったが、高齢の店主であろうか、私に、一つのテーブルを示した。

そこに座ると、斜め前に、一人の高齢のおじいさんが座る。
すでに注文したものを、食べていた。

私の英語は、通じない。
ライススープといっても、駄目。

しかたなく、斜め前のおじいさんの食べている、麺類と同じものと、示した。
そして、そのおじいさんが食べていた、揚げパンを求めた。

だが、丸い揚げパンを持って来た。
私は、おじいさんの揚げパンが欲しいと言うと、おじいさんが、店員に何か言う。
私に、上げなさいとでも言うのか。

店員は、その一つを私の皿に乗せた。
すると、別の店員も、同じものを持ってきて、二つになった。
二つで、一組のようである。

おじいさんは、何も話さない。
黙って食べて、コーヒーを注文し、それも、さっさと飲んで、支払いし、立ち上がった。そして、私の横を通る時、おいしいかい、と、英語で尋ねたような気がした。
その声は、あまりに小さくて、聞き取りにくかった。

それ程、用心深いのである。
高齢の人に、話しかけられたのは、それが最初で最後だった。

後は、夜に屋台連合のように所に行き、おばさんたちから、話しかけられたのみである。

控え目に、外国人の私に、気を使うのが、感じられた程度。
紙や、楊枝などを、そっと、私の横に置いてくれる。

何も言わない。

プノンペンには、カンボジア最大の、ツールスレン刑務所があり、現在は、ジェノサイド博物館として、残っている。

そこには、あらゆる拷問の器具が残され、更に、外には、そこに吊るして拷問したという、鉄棒まである。

殺す前に、拷問を続けるという、狂気である。
そして、殺さぬ程度の烈しい拷問をして、最後の最後に、息の根を止めるという。

人間が、ここまで、残酷になれるのかという、見本である。
勿論、中国の、文化大革命の際も、そのようだった。

その博物館は、私の泊まる、ゲストハウスから、徒歩で、15分位のところにある。

さて、私がホテルの顔馴染みのボーイに、トゥクトゥクを御願いしていた。
その夜、偶然に、トゥクトゥクのおじさん、ラ・モンさんに会う。
あああーーー
前回、ウンドという虐殺の場所に慰霊し、その帰りに、農民に支援した時に、貧しい人たちの部落を教えてくれた人である。

その、ラ・モンさんも、色々な名所を見ないかと、私を誘ったが、ツールスレン刑務所、博物館へ行こうとは、言わなかった。

ラ・モンさんは、毎日、トゥクトゥクを運転するせいか、顔が真っ黒に日焼けして、更に、日差しから体を守るために、厚手のセーターを着ていた。

奥さんが亡くなり、男手一つで、男三人と、女三人の子供を育てている。

その、ラ・モンさんと、親しくなったが、過去の話しは、決して、聞く事が出来なかった。

彼が、自分で話すまで、こちらからは、聞けないのである。

しかし、過去のことは、話さないだろう。
誰もが、心に負い目を持つことだから・・・

年齢から察すると、少年兵だったという、可能性もある。

ポル・ポト政権、クメール・ルージュは、少年少女たちを、洗脳して、手先として使った。
とても、残酷なことを、平気で出来る人間に育て上げたのである。


posted by 天山 at 00:00| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月16日

まだ悲しいプノンペン3

支援の日は、到着して、一日置いて、三日目である。
午後三時に出発することにした。

トゥクトゥクの、ラ・モンさんには、行き先を告げてある。
ところが、私の時計では、三時になって、ロビーに下りて行くが、ラ・モンさんが来ていない。
変だーーー
と、思いつつ、フロントの時計を見ると、一時である。

そこで、部屋に戻り、時計を確認すると、何と、日本時間に戻っていた。
それまで、私は、日本時間で過ごしていたのである。
唖然とした。

朝は、やけに遅いし、夜は、やけに長いし・・・
日の光が、時間帯と合わないのである。

すべての支援物資を、ロビーに置いたまま、部屋で時間を待つことにした。

三時10分前に、下に降りると、ラ・モンさんが来ていた。
ニコニコの家では、30分程度過ごす予定である。
子ども達は、集まっているはずだと思う。

朝と、夕方に子ども達が集うと聞いていた。
街中を走り、20分程で、到着する。

子ども達が、遊んでいた。
こんにちは・・・
声を掛けると、こんにちは・・・と、日本語で答える。
日本語を学んでいるのである。

中に入ると、代表の先生がいらした。
今回で、三度目であるから、向こうも、私を知っている。
だが、他の先生方は、知らなかった。

新しい先生が、三人いらした。
少し雰囲気が違う。

その、少しが大違いだった。

ラ・モンさんが、荷物を運んでくれる。
その間、私は子ども達に、話し掛けた。

今日は、日本から、プレゼントを持って来ました。
服も、ノートも、えんぴつもあります。

そう言うと、先生たちが、子ども達を、小さな子から、順番に男女別に分けて、並ばせた。

私は、まず、文具を取り出して、見せた。
これは、先生に預けますから、皆さん、使ってください・・・

子供たちから、えんぴつ、という声である。
幼稚園児程度から、中学生までの年齢である。

大きな子たちは、私を知っていた。
そして、大きな子たちは、以前と同じように、礼儀正しいのである。

しかし、衣服を取り出し始めると、様子が違ってくる。
以前は、順番を待つのだが、今回は、違う。
雑然とした雰囲気である。

更に、カメラを出して、先生に撮って貰う。すると、子ども達も、撮りたいらしく、私は、使い捨てカメラも出した。
子ども達に、撮らせると、どんな様子になるのか、興味もあった。

途中から、何か、今までとは違う感触を感じた。
更に、一応、一人一人に渡し終えて、子供たちと、一人一人、握手をして、それぞれの名前を聞くことにした。

その一人一人の際に、手を出さない子もいる。
ポケットに手をいれて、出さないのである。
何となく、ふて腐れた雰囲気である。

そして、何気なく、一人の女の先生を見ると、その表情が、とても複雑で、私を侮蔑したように見ている、と、感じた。

意味がよく解らない。
私が、そのように、感じたのであり、彼女が、どのような気持ちなのかは、聞いていないから、私の想像である。

更に、子ども達の態度である。
小さな子と、大きな子たちは、以前と変わりなかったが、新しい子供たちが、違っていた。

更に、驚いたのは、子ども達が、騒いで、混乱すると、一人の男の先生が、彼らを叩いて、叱りつけるのである。
そんなことは、以前はなかったのである。

何かが、違う。

代表の先生が、支援した人の、名簿を出して、私に記入を求めた。
それは、いつも、コータが記入していたので、私は、初めてである。

それを見て、驚いた。
今年に入り、日本から、色々な団体や個人が、支援に来ているではないか。
カンボジアの支援者は、一つの団体のみ。

そして、支援物資は、私と同じく、衣類と文具である。

更に、代表の先生が、色々と英語で説明する。
その中に、こんな言葉があった。
物資も必要ですが、マネーも、必要です。

以前は、そんな言葉は聞かなかった。
この施設は、日本の団体からの、支援金によって、成り立っていることは、後で調べて解ったことである。

子ども達に、食事も提供し、更に、先生たちの、給与も出す。
当然、お金が必要である。

日本は、大震災により、多くの寄付が、そちらに回った。
それは、とても、良いことであるが、既成のボランティア団体は、寄付が少なくなり、休止、撤退、更に、活動とは別なことで、資金を得るために、本来の活動が疎かになるのである。

私の活動は、基本的に、お金ではなく、物資で、差し上げることにしている。
食糧支援も、物資を差し上げている。
お金は、最後の手段である。

その、物に心を託す。
私の言葉で言えば、物に、大和心を託している。

時に、何度もそれを言うが、物だけを渡して、心を渡していないという、変なメールや、書き込みがある。
私と、行動を共にしていない人が、変なことを言うものだと、無視しているが・・・

勿論、何も行為していない人である。

更に、物だけを渡すとは、どういうことかと、思う。
こちらは、飛行機に乗り、物資を持参して、差し上げている。
十分に心を、尽している。
丸投げをしているのではない。

そして、それが、明確に解ったことが、今回の旅で、納得したのである。
それは、私自身にとって、とてもショックなことだったが・・・


posted by 天山 at 00:29| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月17日

まだ悲しいプノンペン4

子ども達全員と、写真を撮ることにするが、中々、まとまらないのである。
こんな光景は、初めてである。

私が知らない、子ども達は、何か、見透かしたようである。
支援に来る人たちの、態度・・・
憐れまれるという、態度・・・

子供は、敏感である。
更に、先生たちの、意欲・・・
以前の先生たちは、使命感のようなものを持って、子供たちに対処していた。
今は、叩いて、強制しなければ、騒がしい子ども達。

その中でも、年長の女の子たちは、男の子たちを、指導していたから、驚いた。
そして、最後まで、私に対して、礼を尽してくれたのも、彼女たちである。

何かが、変わった。
貰うことが、当たり前になったのか・・・
更に、私のように訪れる人が多くなり、またか・・・という、思い。
その度に、何ものかを、演じるのは、嫌だ・・・

実は、私は、もう一つの孤児院にも、出掛けている。
そこの、子ども達は、皆、孤児である。

しかし、その施設の代表が、私を案内してくれた際に、教室に行くと、この机と椅子を、新しくしたい、シャワー室に行くと、この設備も、新しくしたい、そして、極め付けが、子ども達に、制服を作りたい、だった。

日本人は、金がある。
そして、頼めば、してくれる。
そんな感じを持った。

初回で、そんなことを言われると、返答に窮するのである。
私は、そこに、二度行っていない。

シェムリアップの孤児院が、子供を利用して、利益を上げて、経営者の懐に入れるように、何か、不信なものを、感じる。
勿論、出来る人は、して上げると、いい。

そこで、また、お金は、すべて子ども達のために、使います。
寄付されたものは、すべて、子ども達に・・・

国連からの、食糧支援を受けていたが、その食糧も、支援金で用意したいと言う。

あまり、繰り返されると、うんざりしてくるのである。

さて、そろそろ、子ども達と、お別れである。
もう、きっと、暫く来ないだろうと、私は、思った。

年長の女の子たちが、日本語で、ありがとう、と言う。
最後まで、見送ったのも、彼女たちである。

私が必要な場所は、あの、農民の部落など、何も無いところの人たちだ。

更に、ラ・モンさんが、ゲストハウスに着いて、私に言った。
スラムが酷い状態です。
私の知り合いも、いますが・・・
どんどんと、スラムが大きくなっているという。
つまり、地方から、仕事を求めて、プノンペンに来るのである。

一枚しかない、シャツが、ボロボロで、寒い時期には、可哀相ですと、ラ・モンさんが言う。次は、そこに、衣類を御願いしますと。

更に、市外から離れると、離れるだけ、厳しい生活状態である。

前回、ラ・モンさんの案内で立ち寄った、部落は、本当に、何も無かったのである。
現地を知る、ラ・モンさんに、次は任せて、支援に来ることにする。

この、ラ・モンさんは、皆に信頼されている人だということが、後で解る。

ゲストハウスに着いた時、私が料金を尋ねると、帰りの空港までの料金は、あなたに任せるから・・・と言う。
最初は、日本人の心情を知ってのことかと、疑ったが、違った。

ニコニコの家を出ると、ラ・モンさんは、私に、メコンの埋立地を見に行こうと誘うので、従った。

丁度、建設ラッシュの場所である。

メコン川の、浅瀬を埋め立てして、巨大ホテルが、建設されていた。
更に、多くの建物が、完成している。

色々と説明しつつ、進む。
ある、塀で囲まれた、住宅地を見た。ほぼ、完成されている。
私は、こんな所に住む人は、ビッグマネーを持つ人だね、と言うと、すかさず、ここは、日本人の住宅ですと、答えた。

日本企業の駐在員たちが住むのであろう。
塀には、門まであり、安全を示してある。

そこは、多く外資系の資本投入で、建設されているのである。

ラ・モンさんが、車を止めた。
そして、色々と話しをしてくれる。
聞き取り難い英語であるが、何となく、理解した。

先ほどの、日本人の住宅地に関しても、日本と日本人は、金持ちだ・・・
カンボジア人は、いつまでも、貧しく、そこから抜け出す道が見えない・・・

外国人が来て商売をするが、カンボジアの人のためになれば、いいが・・・
日本の企業に勤めれば、ビッグマネーを得られるだろうが・・・

15分ほど、話して、次は、どうすると、聞かれたので、ゲストハウスに戻ると、言うと、オッケー・・・
暑くて、黙っていても、汗が出るのである。

長い時間外にいるのは、危険だ。
更に、街中は、とても乾燥していて、喉に悪いのである。
浴衣を着ていたが、全身、汗が噴出していた。

posted by 天山 at 00:37| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月18日

まだ悲しいプノンペン5

東南アジアに出掛ける私の食事は、多く、地元の人たちが利用する、食堂、または、屋台である。

レストランには、行く気がしない。
観光客もいない、食堂、屋台が美味しいし、面白い。

プノンペンでも、そうである。
食堂に出掛けた。
英語も通じない場合がある。

指で示す、または、身振りも出る。
スープライスが、通じず、結果、スープだけを持って来られた。しかたなく、食べている人の物を指して、注文する。

タイでは、スープライスを、カオ・トムという。
これが、お粥ではなく、米をスープの中に入れて食べるもの。

写真をつけている店なら、写真を指すと、いいが、メニューの無い店の場合は、大変。

ようやく、お粥のある店を見つけて、食べたが、ゲストハウスからは、結構遠いのである。

しかし、ゲストハウスの近くに、良い屋台を見つけた。
よく、横を通っていたが、何があるのか、あまり解らなかった。

そこで、毎朝、ラ・モンさんが、朝食を食べているのを見て、私も、道に置かれたテーブルの椅子に座った。
カンボジアコーヒーもある。

最初は、インスタントかと思いきや、本格コーヒーである。
小さな、コップ一杯、1000リアルである。
一ドル、4000リアルであるから、25セントである。
日本円にすると、20円。

ドルと、リアルと、円と、時々、勘違いするが・・・

また、一度、ゲストハウスから、20分ほど歩く、屋台連合のような場所でも、食事に出た。そこは、全く英語が通じないので、他の人の食べているものを見て、注文したりする。
作る様子をすべて見られるので、安心である。

屋台での、一食は、3000リアルからある。
贅沢して、6000リアル。つまり、一ドルと2000リアルである。
日本円にすると、100円である。

ここで、少し説明すると、シャツを買うと、3ドルから、5ドルである。
つまり、12000リアルから、20000リアルである。

ゲストハウス系の人たちの、一ヶ月の給与は、50ドル。
200000リアル。
家賃、7ドルの部屋を借りて住んでいる、従業員の一ヶ月の経費を考えてみた。

一日、最低の食事代として、9000リアル。2ドル25セントである。
30日として、270000リアルである。

すると、足りないのである。
7万リアルが足りない。それに光熱費など・・・

10ドルが、4万リアル。
どうだろうか・・・
20ドル近くが、不足する。
だから、一日、二食にするだろう。

私が、シャツを上げると、3ドルから、5ドル浮く。
そして、シャツやパンツは、長く持つ。
つまり、衣類にかかるお金が、食費に回せるのである。

だから、衣類支援が喜ばれる。

ちなみに、屋台連合の場所では、古着が売られていた。
それは、韓国、オーストラリア、アメリカからの物が多数。

一ドル、二ドル、三ドル・・・

屋台でも、食事が出来ない人は、1000リアルの、とうきびを買って、一食分にしたりする。
また、果物など・・・

現地の人たちの生活の中に入って、解ることが多々ある。

一日、三食を食べられる人は、幸せである。
更に、一食、6000リアル以上の食事が出来る人は、更に幸せである。

韓国料理店に行くと、最低の料理でも、4ドルである。
来ている客は、観光客だった。

何故、私が、その店に出掛けたか・・・
それは、18歳の少年に、日本食があると、勧められて、出掛けたのである。
彼は、韓国と日本食の区別があまりつかなかったようだ。

その少年との出会いについては、詳しく書くことにする。

観光客は、5ドルから20ドル程度のレストランで食事をする。
更に、もっと高いホテルのレストランもある。

地元の人から見れば、高嶺の花である。

カンボジアのプノンペンでも、スラムがあり、小学生くらいの子ども達が、靴磨き、リヤカーを引いて、ダンボールを集めて、仕事をしている。

地方から出て来た人たちであろう。
家の壁から、道にテントを張り、そこでホームレスの生活をしつつ、ダンボールを集めて、金にして生活している。

一ドルが、いかに、貴重な金額か・・・
カンボジアは、貧しい・・・
貧しい国の中でも、貧しい国なのである。

プノンペンの近郊に出ると、更に、それが酷くなる。
一体、何を食べているのか・・・

私の衣服支援が、とても喜ばれることを、想像して欲しい。

先の、少年も、シャツが三枚あると言ったが、上半身裸だった。
三枚共に、ブロークンと言った。

ちなみに、食堂、屋台の衛生は、安全である。
時に、水洗いした、生の野菜が危ないことがある。

タイのように、まだ、水に対する、しっかりした、衛生観念が無いからだ。
しかし、それは、地元の人には、何でもないこと。
外国人には、危ないということだ。


posted by 天山 at 00:00| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月19日

まだ悲しいプノンペン6

プノンペンに四泊して、五日目、バンコクに戻る日である。
飛行機は、5時発。
ゲストハウスを出るのは、2時過ぎにした。

ラ・モンさんには、連絡してある。
それに、時々、ラ・モンさんに会うから、問題なかった。

日本から出て、一週間が過ぎていた。

朝、七時過ぎに、屋台に向かった。コーヒーを飲みたかった。
行くと、ラ・モンさんが、食事をしていた。
英語で、挨拶し、色々と話しをする。

互いに、ブロークン英語だから、気が楽。

カンボジアコーヒーである。
小さなコップに注いである。一杯、1000リアル、25セント、20円である。

食堂に行くと、2000から3000リアルになるから、安い。
コーヒーカップで飲むのではなく、グラスである。

ノーシュガーと言って、出されたものを飲むが、何と、やや甘さのあるコーヒーである。

朝の食事をするために、働く前の男たちが、食事をしている。
3000リアルの定食である。

少し経て、一人の男の子が、現れた。
屋台の周囲をバイクで走る。
それが、終わると、屋台にやって来た。

私が彼に、目をやると、微笑む。
最初は、お客かと、思ったが、違った。

屋台のママの子供であるという。

私は、すでに、そのお姉さん、更に、もう一人の男の子、17歳の子に昨日、会っていた。
お姉さんと、ママさんの、姉妹が手伝いに来ている。

新しい男の子は、実にハンサムで、可愛い。
私と、ラ・モンさんの席に近づいて来た。
ハローと、私が挨拶すると、ハローと答える。

それから、話しが始まった。

私は、彼の英語に驚いた。
見事にスマーで、ペラペラペラ・・・・
聞き取れないほどである。

私が、インターナショナルスクールかと、尋ねた。
そう、インターナショナルスクールに行ってます。

幾つ・・・
18・・・・
ママさんの子・・・
はい・・・

彼は、英語を学んでいるが、お客は、皆、カンボジア人であるから、英語を普段話す機会がないのだろう。私に向かい、英語で、どんどんと話してくる。

兎に角、彼との話しが始まり、お姉さんも加わり、ラ・モンさんもいて、英語、クメール語での、会話である。

私は、コーヒーをお替りした。
お姉さんが、新しく、お湯を注ぎ、煎れてくれる。
おいしい・・・と、クメール語で言ったのか、彼が、英語で、私に聞く。

彼は、リップという名である。
発音が難しいが、リップで通した。
正確には、リァップのような発音。

リップは、上半身裸である。
少年の半身裸体を晒して、ママの手伝いをする。

客がいなくなると、リップが私の前の椅子に座った。
そして、ママが、リップに、お粥を差しだした。

私は、あっ・・・これこれ、これ、私も食べたい・・・
お粥の店を探して、しばらく歩いたのであるから、ここで、食べられるのは、上等である。

オッケー、オッケーと、ママさん。
ラ・モンさんも、これは、美味しいよと言う。

おかずは、干物の焼いたものである。
日本の鱈に似た魚に、ミリンで漬けたもののようである。

朝ごはんである。
私と、リップは、一緒に、それを食べた。

リップは、英語で、カンボジアの文化遺産の話しをしてくれた。
私は、リップに、カンボジアを旅したことがあるのかと、問い掛けると、僕は、プノンペンしか知らないんだと、言う。
まだ、一度も、旅など、したことがない・・・

インターナショナルスクールは、三講義あるらしく、午前の部、午後の部、そして、夕方の部である。
リップは、午後の部に行っている。

私は、今日、バンコクに戻る日だ・・・
と言うと、バンコクから、日本に帰るの・・・
そう・・・
日本に来たい・・・
行きたいけど、お金がないよ・・・

ここからが、問題だった。

私は、彼に、
その格好で、スクールに行くの、と尋ねた。

リップは、笑って答えない。

だって、裸でしょう・・・
うん、シャツはあるよ、でも、三枚とも、ブロークンなんだ・・・
えーーー、じゃあ、私がプレゼントするよ、と言うと、ラ・モンさんが、マーケットに行きますかと、聞いてきた。
そうだね・・・・じゃあ、後でと、答えた。

支援物資は、何も無いので、買うしかないか、部屋に戻り、私の持っている、シャツから、上げるか・・・
しかし、私の着替えのものは、支援物資に出来ないものばかりである。
色落ちしたり、汚れが落ちないものなど・・・

私は、ラ・モンさんの食事代と、自分の分を支払い、一度、部屋に戻ることにした。

その時、リップは、私に、自分の名前と、電話番号、メールアドレスなど、紙に書いて渡してくれた。

それじゃあ、後で、お姉さんに、君のシャツを渡して置くからね・・・
リップは、何度も、ありがとうを、繰り返した。

これで、もう会えないと思った。
スクールが、午後の部だから、私が空港へ向かう時は、リップはいない。だから、お姉さんに渡して行くと約束したのだ。


posted by 天山 at 00:00| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月20日

まだ悲しいプノンペン7

部屋に戻ると、まだ九時前である。
矢張り、着替えのシャツを出してみたが、上げるものはなかった。

それにしても、暑いのである。
ベッドに、横になって、休む。

マーケットに行く・・・
とても、面倒に思える。
だが、約束したことである。

さて、しかし、私は、バンコクに戻るという、気の重さと、暑さで疲れた体で、出掛けるのが、大儀なのである。

どうするか・・・
今なら、リップは、まだ、屋台にいる・・・

私は、5ドル紙幣を出して、もう一度、屋台に向かった。
そして、歩いて行くと、リップが見えた。
向こうも見たので、手を振り、こっちへと、誘った。

屋台の向かい側の道に出て来たので、そこで、リップに、ソォリー・・・
これで、君の好きなシャツを買って・・・

と、5ドルをリップの掌に握らせた。
リップは、戸惑ったようである。

少しの沈黙の後で、リップが、英語でペラペラと話し出した。

おおよそ、
僕のシャツをあなたが、マーケットに行って買ってくれるんだよね・・・
どうして・・・僕は、それが楽しみだったのに・・・
僕に似合うものを、探してくれるはずだったよね・・・

ウーン
私は、それでも、ソォリー、暑さで疲れて、部屋で休みたいんだ・・・

リップは、腑に落ちない顔をした。
私は、本当に、ごめんなさいと、言った。

リップは、解ったと、言う。
私は、握手して、もう一度、ごめんなさいね・・・と言った。

リップは、少し笑った。
良かったと、思った。
そして、別れて、ゲストハウスに戻る際に、何か変だと、感じた。

部屋に入り、矢張り、おかしい。
リップが言った。僕のために、あなたがマーケットに行って、僕に合うシャツをプレゼントしてくれるって・・・という、言葉に、ハッと気付いた。

これは、何と言う事をしたのか・・・
私は、常々、物に心を託して、大和心を託して・・・と言い続けていた。
更に、日本の人たち、特に、金で解決という人たちに対して、批判と批難を繰り返していた。
金で買えないものを、知っている私は・・・

衣服など持参するより、金を渡せば・・・・という、アホなど・・・
何度も書いていた。

しかし、私も、その人たちと、同じではないか。
日本の、そういう人たちと、同じ空気、水を飲んでいる私というものを、実感した。

自己嫌悪。
私も、彼らと同じではないか・・・

ベッドで、横になりながら、私は、酷い自己嫌悪に襲われ、更に、何て事をしたのだという、慙愧の思い。強く、強く、感じた。

彼は、私から、金ではなく、シャツを貰いたかったのである。
そして、彼には、5ドルとは、大金である。

貧しい子にとって、5ドルは、手に出来ないお金である。

私は、時計を見て、10時過ぎであるのを、確認して、マーケットに行くことにした。
急いで、部屋を出る。
ラ・モンさんを探してマーケットに行くと決めた。

屋台に行くと、ラ・モンさんの姿は、辺りに無い。
お姉さんがいた。
リップは・・・
ああ、どこかに行ったは・・・
ラ・モンさんは・・・
少し前までいたけれど・・・どうしたの・・・
マーケットに行きたい・・・
私が、言うと、丁度、お姉さんの旦那さんが、バイクに乗って来た。

お姉さんが、私の夫ですと、紹介してくれた。
そして、マーケットに行きたいらしいの・・・と、夫に言っているように感じた。
すると、旦那さんが、私に、オッケー、マーケットと言う。
俺が連れてゆくよ・・・と感じた。

そして、屋台の後ろの小屋に入った。
着替えてくるようだった。
と、その時、ラ・モンさんのトゥクトゥクが、近づいて来た。

あっ、ラ・モンさんだ・・・
私がお姉さんに言って、ラ・モンさんに連れて行ってもらいます・・・

ラ・モンさんのトゥクトゥクに飛び乗った。
マーケット・・・
オッケー

近くのマーケットは、安いと聞いていたので、任せた。

そして、マーケットの衣類店に行き、少し時間を掛けて、半袖のシャツと、長袖の、ワイシャツよりも、カジュアルなものを選んだ。
二つで、12ドルを、11ドルに、ディスカウントしてもらった。

それを持って、また、屋台に戻る。
お姉さん夫婦がいた。
私は、買ったシャツを、お姉さんに見せて、どうだろう・・・と聞いた。
ゥワーと、お姉さん。その夫も、自分のことを指して、欲しいな・・・
更に、夫は、ハウマッチと、尋ねてきた。
私は、ノーノー・・・

シャツ一枚買うということは、大変なことだろう。
10ドル、4万リアル。食事が10回以上出来る。

お姉さんに、手渡して貰おうと思ったが、また、リップか戻ってくると言うので、私は、それを持って、一度、部屋に戻った。

ゲストハウスを出るまでは、十分に時間がある。
それに、昼食も出来る。

私は、何としても、私の取った行動を、取り戻したいと思った。
日本人は、お金があるから、お金で何でも、解決する・・・・
そんなことを、リップに思われては、日本人の恥じであると・・・

ちなみに、リップは、家族で唯一、インターナショナルスクールに通っている。
屋台の母親が、せめもとの思いである。
だが、それ以上の教育は、無理なのである。
大学に行くには、お金が無いと言った。

posted by 天山 at 00:03| まだ悲しいプノンペン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。