2012年04月01日

国を愛して何が悪い5

1900年10月、義和団事件に乗じた、ロシア軍が、ハルピンを制し、満州各地を占領し、全域を支配下に収めた。

アヘン戦争以後、愛軍条約で、清国政府から、黒竜江以北後と、ウスリー江以東の土地を手に入れたロシアは、シベリア開発と領土防衛のために、どうしても、朝鮮半島が必要だった。

日清戦争の後の、三国干渉により、ロシアは、遼東半島、旅順、大連を手に入れると、シベリア鉄道や、東清鉄道の建設にも、着手しはじめたのである。

さて、1895年、朝鮮国内では、反日クーデターが起きて、ロシア公使ウエーバーと結んでいた一族が、政権を把握した。
これに対して、ソウル駐在の、日本公使三浦梧楼は、その一族の、政敵である、大院君を擁して、クーデターを起こし、守備隊が王宮に入り、一族を殺害した。

すると、ロシア公使館は、仁川に停泊していた、ロシア軍艦に連絡を取り、陸戦隊100名あまりを、ソウルに派遣した。
保護の名目で、朝鮮国王と世子を、公使館に、一年以上拘束し、親露政権を樹立させた。

このままでは、ロシアの支配下に入ることになる。
更に、それは、ロシアの、搾取の場所となるはずだった。

どうであろうか・・・
今の、韓国人は、それを、どのように解釈するのか。

さて、1897年、朝鮮から、大韓民国に改称した当時の、韓国の国民は、日韓併合に対して、どのようだったのか・・・

抵抗を示していないのである。
黄文雄氏は、
それは投入された、警察力からもわかる。
と言う。

日韓併合から、3,1独立運動の9年間に、4000人以上の朝鮮人警察を入れても、朝鮮総督府の憲兵警察は、7000名のみである。

しかも、併合反対の決起というものは、無く、無抵抗に受け入れている。
これは、事実である。

つまり、韓国人が、ロシアより、日本の方がいいと、判断したのである。
そして、その判断は、正しかった。
それは、日本が韓国にしたことを、挙げれば、よく解る。

日本の、朝鮮半島、満州への進出は、半島住民を、清とロシアから解放したたけではなく、清の禁令地であった、満州開拓に参加できる、チャンスも与えたのである。

半島に閉じ込められていた、朝鮮人は、日本帝国の発展と共に、満州から、シベリアへと、進出できたのである。

更に、彼らは、日本と、日本軍に守られていた。

現在の、韓国人は、それを、どう解釈するのか・・・
今、独立国としてあるのは、どうしてなのか・・・
よくよく、考えて欲しい。

1910年の、日韓併合から、36年に渡り、九人の総督によって、統治された、韓国である。
それは、台湾より、安定していたという。

韓国では、少しの抵抗があったが、少数派である。
それは、韓国人の心に、それまでの、両班、ヤンバン、つまり、朝鮮の文武両官支配に、終止符を打ちたいという、思いがあったのである。

ヤンバンの支配は、日本の統治より、陰湿なものだった。

更に、韓国は、日露戦争後は、満州における権益を、日本人と同様に、享受したのである。

日本に対する、反抗の運動が行われ始めたのは、日韓併合から、9年を経た、1919年の、3,1独立運動以降である。

だが、朝鮮は、日韓併合以前から、財政が破綻し、日本統治時代の36年間も、赤字財政であり、日本からの、莫大な資金投入を受けていた。

日本国民も、韓国に、金を注ぎ込む政府のあり方を、批判した。

日本の知識人の中には、韓国が自立できるならば、独立させた方がいいと、考える人たちもいた。
だが、日本が手を離せば、中国、ロシアが確実に、植民地にすることが、解っていたのである。

アメリカのルーズベルト大統領も、朝鮮が自立できないならば、日本と合併したほうがいいとの、意志を示していたのである。

ゆえに、1905年、高平公使にも、韓国の保護国化に承認を与えたのである。
アメリカの、タフト陸軍長官も、朝鮮の日本による、保護国化は、アジアの恒久平和に貢献するとしている。

その日本の韓国統治は、実に、韓国には、恵まれたものだった。
韓国人の、皇族、貴族は、日本の華族と同じ扱いを受け、日本の朝鮮総督統治下で朝鮮人道知事も、総数42人いて、日韓併合後、侯爵は、7人、伯爵は、4人、子爵は、20人、男爵は、36人、総数69人の貴族が、認められた。

更に、列強時代である。
軍人教育は、重要視された。

1896年、朝鮮人は、11人もの仕官が、日本陸士に入っていたのである。

以後、敗戦まで、朝鮮人は、日本人と同じように、軍事教育を受けて、中将まで出ていたのである。

当時の日本にとって、韓国人は、異母兄弟か従兄弟のようなものであった。
と、黄文雄氏は、書く。

戦前は、朝鮮を植民地として見る、見方はなかった。
特に、明治の人は、耳にしたこともないのである。

朝鮮を、合邦国家、併合国家として、植民地ではないという、考え方は、論拠のないところではない。

当時掲げられていた「内鮮一体」「一視同仁」というスローガンはまさに政策であり、それこそ本音だったという人も多い。
黄文雄

要するに、現在の、韓国人の学者、識者は、当時の状況を把握せず、現在の有り様から、解釈する。それが、間違いの元である。

何故、当時の、世界的状況を把握して、日韓併合を理解できないのかということだ。
列強が世界を制覇する環境を、鑑みてこそ、日韓両国が、生きていくには、連合国家を造る必要があったのだ、という、判断が生きてくる。

であるから、当時、百万の会員を有すると、自称する、一進会の李容九らの、憂国の志士たちが、日韓併合の推進役を買って出たことも、自然な成り行きである。

韓国は、冷静に、当時の状況を鑑みて、日韓併合の恩恵を思うべきである。
更に、歴史は、断絶してあるものではない。
連続してあるものであるという、歴史の在り方を、身につけるべきである。

でなければ、今頃は、中国か、ロシアの一部とされ、独立なども、ままならなかっということを、実感として、感じ取る、感性が必要である。

チベットのように、扱われていたかもしれないのである。
朝鮮の伝統文化などは、大中国の前には、無きものである。

歴史の捏造は、いずれ、その報いを受ける。そして、それに至れば、誰も、助けることが出来ないほど、痛められるのである。

それは、日本が証明している。
日本の自虐史観は、日本人の心を傷つけ、回復するのに、100年を要する。
気付いた時、気づいた者が、正していかなければ、国家の存亡にかかることになるのである。


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2012年04月02日

神仏は妄想である。363

第二は、
我々は奇跡から神の本質乃至存在を、従って又神の摂理を認識し得ないこと。むしろこれらはすべて確固にして不可変的な自然の秩序から遥かによく把握され得ること。
である。

これは、当時としては、大変な反論である。
奇跡を否定するのである。
つまり、旧約聖書、ユダヤ教と、ユダヤ人の考え方を否定するのである。

ユダヤ教から、破門されても、当然である。

神の存在は、それ自体では知られないから、必然的に諸概念から、―――その真理たることが確固不動でこれを変える得る如何なる力も存在し得ず又考えられ得ないような諸概念から結論されなければならぬ。
スピノザ

この思想が、カトリック神学に寄与したことは、当然であろう。
とても、有効に機能したはずである。

我々は一切が確実且つ不可変的な自然の秩序に従うことを知りさえすれば奇跡などに依らず充分に神の存在を確知し得るのに。
スピノザ

その前に、
だから奇跡を自然の秩序に矛盾する出来事と解する限り、奇跡は我々に神の存在を証明することなどとても出来ぬのであり、反って我々に神の存在を疑はしめるばかりである。
スピノザ

何度も言うが、ここでは、新しい神についての、観念を創り続けている。

しかし奇跡を自然発生的原因によっては説明され得ない出来事と仮定すれば、それは二様の意味に解される。一は奇跡は自然発生的原因を持ちはするがその自然的原因が人間の知性によっては探求され得ないという意味みであり、もう一つは奇跡には神或いは神の意志以外の如何なる原因をも認められないという意味である。
スピノザ

つまり、奇跡は、自然発生的原因を持とうと、持つまいと、原因的には、説明され得ない事であり、人間の把握力を、超越するのである。

故に奇跡から、即ち我々の把握力を超越する出来事からは、神の本質も存在も、否およそ自然に関する如何なることも理解し得ない。反対に一切は神によって決定され確立されること、自然の諸活動は神の本質に生ずること、自然の諸法則は神の永遠なる決定乃至意欲であること、そうした事どもを我々は知っているから、我々は断然こう結論せねばならぬ、我々は、自然的事物を益々よく認識するにつれて、また如何なる風に自然的事物がその第一原因に依存するかを、並びに如何なる風にそれが永遠なる自然の諸法則に従って活動するかを益々明瞭に理解するにつれて、益々よく神と神の意志とを認識し得るのである、と。
スピノザ

とても、挑戦的である。
そして、既存のユダヤ教に対する、過激な否定的表現である。
それは、新しい思想を創り出す時に、当然な結果である。

要するに、スビノザは、反自然的奇跡、超自然的奇跡は、不条理以外の何物でもなく、聖書における奇跡は、人間の認識、把握力を超越するもので、自然の業以外の、何物も、意味しないと、結論する。

自然の諸法則に反した奇跡は、逆に、無神論に導くというのである。

奇跡という、意識によって、逆に、神の存在を否定してしまうと、訴える。

それは、超自然といっても、自然の中で、行われることである。そこで、超自然を認めることは、神の決定に基づいた、確固、かつ、不可変的であると考える、その秩序を、中断させるという。

これは、奇跡に関しての、考察であるが、自然というものを、どのように、捉えているかを知る上で、非常に参考になる。

日本には、このような、自然に対する、意識は無い。
そして、神という、絶対的存在による、自然の認識は無い。

兎に角、神の存在を主にして、七転八倒して、考え続けたのである。

だが、スピノザが、ここで語るのだが、今も、奇跡というものを、妄信する人たちが、多数存在する。
更に、これを取り入れた、カトリックでさえ、その信者も、奇跡を求め、更に、奇跡的な事柄を、神の存在につなげる。

それが、神を否定することになるとは、知らずに、である。

だから、スピノザは、それは無知であると、断定する。
否定と過激な発言である。

だから、長く、この著作は、眠っていたのである。
出版出来なかった。

実は、今も、キリスト教は、ユダヤ教から、逃れられないのである。
同じ事を、繰り返している。
あの頃から、人間は、いやキリスト教は進化、進歩していないと、言える。

旧約、奇跡の無知を指摘した、スピノザは、新約聖書のイエスの奇跡に対しては、どのように考えたのか、興味がある。

旧約聖書と、新約聖書を、聖典とした、キリスト教は、その矛盾に苦しむことなく、ただ、淡々と、蒙昧な信仰を繰り返しているといえる。

真実、神の存在に向き合うことは、その存在のギリギリまで、追求し、考え得る限界まで、考える。そして、言葉にする。
そして、言うに言われぬ思いなどとは、言わない。

すべては、語れると、確固たる信念に基づき、思索を続ける。
それは、賞賛すべきことだ。

勿論、私は、それに組しない。
私は、日本人として、言挙げせずを、選ぶ。

だが、スピノザを続ける。
とても、面白い、思索の模様が見られるのである。

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2012年04月03日

神仏は妄想である。364

スピノザを、見ていても、欧州思想の語りは、行間など無い。
隙間を埋めるように、書き尽くす。

全く、思考方法が違う。
それが、良し悪しの問題ではなく、民族的、風土的とでも、言うものである。
だが、現代日本人が、それに陥った。

語り尽くす前に、昇華させるのが、日本の特徴である。

そして、その心奥のことは、言葉にしない。
感じるものにする。

だが、欧米の思想に馴染んだ者や、賢い馬鹿の連中は、それが本当の語りだと、思い込んだ。

そして、我を忘れた。

これから第三の点に移り、神の決定と命令、従ってまた神の摂理が実際に自然の秩序以外の何物でもないことを示そう。
スピノザ

スピノザの、批判は、ユダヤ教、そして、それらの、神学者たちに、向けられている。
神に対する、批判は、皆無である。

神の存在を前提にしての、語りである。
更に、その神に対する、解釈を、妄想であると、言う。
スピノザも、イエスと、同じく、ユダヤ教指導者に対する、徹底批判を繰り返している。

それは、実に、否定的で、激しい。

換言すれば、このこと或いはかのことが神域は神の意志によって為されたと聖書が言っている場合、それは実際にはそのことが自然の法則と秩序とに従ってされたということを意味しているにすぎないのであって、一般の人々が考えるように、自然がその間活動を停止したとか、自然の秩序が一時的に中断されたとかいうことを意味しているのではないのである。
スピノザ

私も、換言して言えば、彼らは、神を前提にしてしか、物事を考えられないのである、と言う。

聖書は、ものを自然的原因によって説いたり、純粋に思弁的な事柄を説いたりすることを、目的とはしない。そして、仔細に、且つ多くの付帯的事情を交えて、語られる物語から、推論によって、帰結されなければならないと、言う。

聖書の中にその原因が我々に分らぬような事柄、また自然の秩序を離れて、否自然の秩序に反して起こったかに見える事柄が書かれてあっても、我々はそのために躊躇すべきではない。むしろ我々は実際に起こった事柄は自然的経路おいて起こったのであることを固く信じなければならぬ。
スピノザ

奇跡における付帯的諸事情こそは奇跡が自然的原因を必要とすることを明示するものである。
スピノザ

この時代に、スピノザによって、宗教的迷信、宗教的脅しのような、奇跡が否定されているのには、驚く。

だから、
人間の罪が洪水の原因になったり、人間の祈りが土地の豊饒の原因になったり、信仰が盲目者を癒したり、その他、聖書に語られる奇跡の種類は、否定されるのである。

聖書は、民衆に敬神へ最も強く拘り得るような、順序あるいは表現法において、述べているのであると、スピノザは、言う。

聖書は、理性を説得しようとではなく、ただ人間の想像力と表象力とを刺激し、感銘させようと努めているからである。
スピノザ

聖書の中に実際の出来事として語られているすべてのことは、おおよそ生起する一切事と同様に、必然的に自然の法則に従って生起したのである。
そしてもし自然の法則に矛盾すること或いは自然の法則の結果ではないことが不可疑的に証明されるように何事かが見出されるとしたら、それは冒神の徒によって聖書へ付加されたものであることを我々は固く信ずべきである。何故なら自然に反することは理性に反し、理性に反することは不条理であり、従ってまた排斥されねばならないのであるから。
スピノザ

つまり、ユダヤ教の指導者たちは、スビノザの言う、排斥されなければならない、者たちであるということだ。

長く、この著作を発表出来なかったということも、納得する。

だが、理性によっても、神の存在が、前提なのである。
如何に、神と、格闘したかということだ。
ニーチェが、神は死んだ、を、書いたのも、スピノザの流れにあるといえる。
勿論、二人には、一切のつながりは無いが。

自然という、大前提と、神の存在という大前提の前に、奇跡は、無いと理性的に、解釈する、スビノザである。

聖書解釈が、それでは、その後、どのようになったのか・・・
何も、変わらない。
聖書の奇跡は、奇跡として、多くの信徒たちが、信じるのである。

スビノザの努力も、水の泡。

そして、第四番目の、テーマが、
人々が奇跡を見当違いに解釈して、聖書の中に自然的光明に矛盾する事柄を見つけたと早合点することのないようにするため・・・
書き続けるのである。

私は、神道における、自然観を書いている。
その、自然観と、西欧の自然観の相違を見て、神道の自然観、自然感覚を、遠くから眺めるという方法を取っている。
何故か。
神道には、言葉が無いからである。

そして、神道の自然感覚を説明すると、嘘になる。

スピノザが、理性という言葉を使うので、私は、感性という言葉を使い、神道の自然観を言う。
これは、いたし方ないのである。


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2012年04月04日

神仏は妄想である。365

人間は物事を語るのに自己の判断を少しも交えることなく単にその起こった通りに語るということは極めて稀なものである。
それどころか彼らは何か新しいことを見或いは聞く場合、非常に用心しない限りは、概ね自己の先入的見解によって強く支配され、彼らが実際に見或いはこととはまるで違ったものを受け取る。
殊にその出来事が語る人或いは聞く人の把握力を超越する時にそうであり、わけてもその事柄がある一定の様式で起こることがその人自身に重大な意味を持つ時に最も然りである。
スピノザ
改行は、私。

つまり、結果は、出来事そのものを、語るのではなく、自己の見解を語るのだ、と言う。

確かに、御もっとも、である。
非常に、注意深く、見ても、それがあるのだ。

同じ物を見ても、人により、全く違うものになる。
更に、解釈となると、もう、駄目。
観念に、まみれる。

スピノザは、それを聖書の記述で、取り上げるのである。

だから、聖書における、奇跡を記したといわれる、物語を理解するためには、その奇跡を最初に語った人、または、最初に書き記した人の、当時の見解を知り、その見解を持ちえた、感覚的知覚と、区別するべきなのだと、いうこと。

そうでなければ、その見解や、判断を、実際に起こったままの奇跡と、混同することになると。

出来事を、表象的なものか、予言的幻影に過ぎないものか。

例えば、
神が火に囲まれてシナイ山へ降りて来たので、山が煙を上げた。
エンアが、火の車と、火の馬とを懸けて天に昇った。
という事柄などは、実際の出来事として、伝えた人の、平素の見解に、順応した幻影に、他ならないと、言うのである。

何故なら、民衆より多少勝れた知力を持つ者なら誰でも神には右手も左手もないこと、神は運動もせず静止もしないこと、神は限定された場所に居るということはなくむしろ絶対に無限的であること、神の中には一切の完全性が含まれていること、そうしたことを知っているからである。
スピノザ

あえて言う、ものを純粋知性の諸概念によって判断し、表象力が外的感覚から触発されるところによって判断しない者は、これを知っている。
スピノザ

要するに、迷信のような考え方は、哲学者は、持たないのであると、言う。

最後に奇跡をその実際に起こったとおりに理解する為にはヘブライ人たちの言い回しや修辞的表現法を知ることが大切である。
スピノザ

奇跡の話しから、自然に関して、説明しているスピノザの、当たり前といえば、当たり前のことを、言うのである。

一つの例を上げると、
神は彼らをして砂漠を行かしめ給える時、彼らは渇くことなかりき、神彼らの為に岩より水を流せしめ、また岩をさき給えば水ほとばしり出でたり
イザヤ書
これに対して、スピノザは、
あえて言うが、彼がこれらの言葉によって述べようとしているのは、ユダヤ人たちが砂漠の中で泉を見つけ(これは普通にあることである)それによって渇きを鎮め得るのであろうということだけである。事実彼らがクロスの承諾を得てエルサレムに戻った時、前記のような奇跡はーーー人々の知る通りーーー彼らに起こらなかったのである。
と、言う。

自然的光明に矛盾することを、証明するような出来事を、ほとんど聖書の中に、見出しえないのである、ということだ。

これは、つまり、自然の法則に反する、矛盾するようなことは、起こらないとの、判断である。

更に、聖書には、若干の箇所で、自然一般について、自然が確固として、不可変的な秩序を守ることを、肯定しているとの、判断である。

スピノザは、確かに、真っ当な事を言った。
しかし、現在も、それを受け入れているとは、思われない。

信者は、奇跡を信じている。
更に、奇跡が神によって為されているとも、信じている。

自然は、自然以外の、何物でもない。
そこに神を、介入させると、それはウソになると言うのである。
真っ当な、神学的姿勢である。

人の目に見えて、行われる奇跡などは、神のすることではない。

神は、我々に知られ、知られない、すべての世紀を通じて、同一であつたこと、自然の法則は、極めて完全かつ豊穣であり、それに何物を加えることも、そこから、減ずることも出来ない。

最後に奇跡は人間の無知の故にのみ何か新しいものと見られること、そうしたことを明瞭に教える。つまり聖書にはこうしたことがはっきり説かれているのであり、これに反して自然の法則に矛盾するような或いはその法則の結果でないような何事かが自然の中に起こるということは聖書の何処にも説かれていない、従って我々はそうしたことを聖書に対して虚構してはならぬのである。
スピノザ

新しい神学の登場であった。
しかし・・・

無知の故に・・・である。
今も、それが、正されていないのである。

さて、西欧の自然観が、このようにして、明確にされると、日本の自然観との、相違が、実に、明確に分る。

ユダヤ人たちは、異教徒に対して、自然は、神の被造物であり、そこで起こる奇跡は、すべて神が関与して起こるのである。
だから、ユダヤ人の神を、信じるべきだ・・・

それは、スピノザも、同じである。
ただ、スピノザの明晰なところは、自然の法則に矛盾するようなことは、決して有り得ないし、それを、神の云々と言えば、神の観念が違ってしまうと、言うのである。

聖書の新しい解釈を、スピノザは、書き上げたのである。

ユダヤ人から見れば、日本人も、異教徒なのである。
何故なら、日本人は、自然のすべてに、神の意識を感じて、崇敬した。
太陽を、大地を、自然のありとあらゆる働きを。

当然、唯一の神を知らない人種として、その観念を伝え、信じるようにするだろう。

勿論、唯一の神という存在は、ユダヤ人の教えであり、それを受け継いだキリスト教、イスラム教の教えである。
教えであり、教えとは、妄想である。

教えとは、創られたものであり、真っ当なものではない。
神が創ったものではなく、人間が想像したものである。

もう一度、言うが、日本人には、神という観念は無い。
自然、あらゆるすべてのものは、結びついて、関連し合い、生まれて生きている。
その感覚を、カマ、カム、カミとの系列語の言葉によって、現在、カミという言葉を使うのである。

日本民族は、感性の優れた民族である。
知性より、理性より、感性によって、感覚知覚した民族と、私は、理解する。
それは、世界に誇るべき、日本の自然によってなったものに、他ならない。

西欧の哲学は、たった一つの民族である、ユダヤ人の神観念に対して、七転八倒して、成り立つものであるとは、哀れである。


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2012年04月05日

天皇陛下について105

三種の神器とは、何か。
それは、天皇の象徴を表す。

では、その意味は、何か。
今まで、その意味について触れた人がいない。
単に、天皇が受け継ぐもの・・・

三種の神器とは、八紘一宇のことである。
八紘一宇とは、一つの世界であり、世界一家ということである。

戦中、それが、へんてこに解釈されて、とんでもない、意味になった。
世界は、日本が主である。
日本は、特別な国である。
日本人は、特別な民族である。

それを、昭和天皇は、敗戦後に、修正した。
特別な民族と言うものは無い。
皆、民族は、大切なものです。

敗戦後にしか、言えなかったのである。
もし、戦前に言えば、暗殺されただろう。

天皇陛下を、最も、軽々しく扱ったのが、当時の軍部である。
天皇も、人間だ・・・

この、八紘一宇に関して、エール大学神学部長の、パール・S・ビースの言葉である。
人類は五千年の歴史と二度の世界大戦の惨禍を経験した結果、「一つの世界」を理想とする国連憲章をむすんだが、日本の建国者は、二千年の前の建国当初に、世界一家の思想をのべている。これは人類の文化史上、注目すべき発言であろう」
と、言う。日本古典の精神、より。

三種の神器の意味が、八紘一宇であると、理解すると、それが象徴するものが、世界一家の思想であるということが、解る。

古語拾遺より、
神武天皇、じんむのすめらみこと、東の国征、ことむけたまへる年・・・
ことむけ、とは、古事記に、
言向け和平す、ことむけやわす、というように、武力によらず、話し合いによって、平和を招来するということであり、天皇の御言葉が、それ、そのものなのである。

話し合う。
天皇ほど、話し合いを、大事にされた方はいない。
後に書くが、例えば、新羅の国の王から、仏像を贈られた時、欽明天皇は、部族の長たちに、これをどのように扱うか、と、問い掛けている。

蘇我氏と物部氏の争いに発展したのは、歴史の通り。
仏像をめぐり、部族間の覇権争いをするという。

また、その時期が、日本の歴史の中でも、実に重要なポイントになるのである。

さて、大和民族とは、どこの民族だったのか。
それは、神武天皇と共に、過ごしていた、民族である。
大和と、後に、漢語を当てたのは、おほいなるやわらぎ、という意味からである。

いずれ、古代史に関して書くが、最初は、富士山の山麓に住んでいた民である。
これは、正史に無い話なので、後々に書く。

御殿が出来た。
そして、即位される。
辛酉の年、正月朔日、これを太陽暦に直して、二月十一日になる。
建国記念の日である。

門を開きて、四方の国を朝らしめて、天位の貴を観したまひき
みかどをひらきて、よものくにびとをまいのぼらしめて、あまつひつぎのとうときをしめしたまひき
古語拾遺

その、儀式が、今も伝承されている。
天皇即位の義である。

その際に、文武官を任命された。
それが、驚くべき、任命だった。
つまり、天皇は、敵味方という、観念を持たずに、任命された。
詳しく書かないが、それが、明治維新の、新政府にまで、受け継がれたのである。

天皇は、国民に敵も味方も無い。
天皇陛下には、すべて国民である。

神武天皇の、おくり名は、儒教の影響を受けて、神武不殺、という言葉から、成った。その意味は、神の武は、殺さず、である。

天皇は、殺さず。
ただ、言向け和平す、のである。

日本の君主とは、そういうお方が、即位されるのである。

即位されて、三年目に、天皇は、わが祖先の神々の御霊は、常に私の身を守り、事業を助けられた。すでに悪者どもも、皆なびき伏す。海の外も穏やかになった。そこで、天つ神の、御霊をおまつりし、お礼を申したい。

日本書紀には、
天つ神をまつりて大孝を申べたまふべきなり
と、ある。
あまつかみをまつりて、おやにしたがうことを、のべたまふべきなり

祭りの場を、鳥見という山に設けて、天つ神をおまつりされたのである。

祖霊崇敬という、一貫した思いが、現在まで、延々として続くのが、天皇と皇室のあり方である。

御孝行とは、祖霊崇敬に象徴されるということである。

国民は、陛下に習い、同じく、先祖崇敬を持って、孝行を尽すのである。
この、所作を、神道と名づけたのである。
所作であり、思想ではない。
場を造り、祖霊を招き、共に過ごして、終われば、その場を清めるのみ。

一定の場所に建物をおかないのである。
建物に、招き、そのまま祖霊を閉じ込めることはしない。
元の場に、お帰りいただくのである。
これを、今は、古代神道とも言う。
略して、古神道とも言う。

その当時は、神道という言葉も無かったのである。

ただ、大孝である。
おやにしたがふこと

先祖崇敬を、親に従うことと、書けば、意味が違う。
生きている親も親であり、亡き後の親も、親である。
それを総称して、祖霊なのである。

祖霊崇敬以外の、所作は無い。
ただ、祖霊の場所は、自然の中に充満している。

その教えは、自然から聞くことなのである。
ここでは、聴くと、書いておく。


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2012年04月06日

天皇陛下について106

神武天皇が、お隠れになった後、
スイゼイ天皇、安寧天皇、イトク天皇、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇と、親子と、続けて即位した。

八代の天皇の間は、480余年である。

そして、第十代の崇神天皇である。
前97年から、30年に渡る。

その時、重大なことが起こる。
これまで同じ皇居の中に、天照大御神の御神霊をお祀りしていたのを、外に移されたのである。

これは、正史に無い話であるが、崇神天皇は、富士王朝から、三種の神器を、奪っている。
阿曽大神宮からである。

それにより、日本書紀では、即位後まもなく、伝染病が流行り、おおくの人が流浪し、世の中が、大変混乱したとある。

そこで、一心に神々を祭る。
そして、夢のお告げにより、大御神の、御鏡、御剣を、同じ御所内に置くのは、神威を汚すことと、笠縫邑に遷して、お祀りすることにしたのである。

更に、天皇は、毎日、お祀りすることが出来ないため、皇女の豊鋤入姫命、とよすきいりひめのみこと、を、その任に当たらせた。
斎宮というものの、初めである。

手元には、勾玉のみになった。
そこで、天皇は、別に、御鏡と、御剣を、本物そっくりに作らせ、この三種を皇位のしるしとして、宮中に留め置いた。
これが、その後、代々の天皇即位の際に、お受けになる、三種の神器である。

だが、御鏡と、御剣を別の場所に移すということは、大変なことであった。

本来は、富士王朝が、その指導権を持って対処していたのであり、その歴史をも、すべて大和朝廷の歴史に含むべく、改竄しなければならなかったのである。
これは、正史ではない。

更に、そのために、天孫降臨の際に、天照る神が、
わが子孫はこの鏡を観るときは、私を観るのと同じにしなさい。ともに床を同じくし、殿をともにして、そこで祀る鏡とするように。
という、お言葉がある。
後付である。

それを、同床共殿、どうしょうきょうでん、という定めとし、重大なこととしたのである。

そして、更に、第十一代、垂仁天皇の時に至り、現在の、伊勢神宮の創建となった。

そこで、奉仕、奉祀される斎宮、いわいぬし、には、第二皇女の、倭姫命、やまとひめのみこと、を任命された。

その、やまとひめのみこと、の、伊勢までの、行幸を書くと、長くなるので、省略する。
兎に角、大変な苦労をして、伊勢まで辿りつき、大御神のご命令で、そこにお祀りするのである。

伊勢には、御鏡と、御剣が、祀られた。

なお、御剣の方は、のちに、尾張の熱田に祀られるのである。

さて、伊勢神宮とは、もう一つ、外宮と呼ばれる、豊受大神が、祀られた。
それは、後々の、第二十一代の、雄略天皇の時代である。

現在は、内宮と、外宮と呼び、両方を、神宮と呼ぶのである。

両宮は、20年に一度、元の通りに、改築される。
つまり、いつまでも、創建当時と同じ建物が建てられるということである。

私は、伊勢神宮、創建二千年祭の年に、偶然に参拝した。
そして、翌年も、参拝する。

何故、20年に一度の、遷宮を行うかについては、陰陽道、方位学から、出ていると、おおくの人は、言うが、違う。

神道は、建物を置かないのが、本来である。
同じ場所に、神霊を、留めて置くことは、不敬である。
しかし、そのように、歴史に書き記す必要があった。

だが、推古天皇の時代まで、伊勢は、知られぬ存在だった。

それ以前の、天皇家は、九州の宇佐八幡宮を、主として、そこからの、指令を受けていたのである。

ここに、微妙に、大和朝廷の不思議がある。

どうしても、私は、正史ではない、富士王朝説を取るのである。

宇佐八幡神宮と、富士、阿曽大神宮とは、別の働きをしていた。
九州は、天都であり、富士は、神都であるという、説を受け入れる。

勿論、血統は、同じである。
それについては、後々で、詳しく説明することにする。

伊勢神宮には、天皇の行幸が、無かった時代が長いのである。

それが、不思議である。
何故、それが、急に、伊勢神宮を主にしたのか・・・

大御神は、女性の神であるというのが、ポイントである。
最初に参拝したのが、女帝である。

それは、女帝を肯定させるためか・・・

それについても、いずれ書くことにする。

今は、天皇の歴史を俯瞰している。
兎も角、伊勢神宮、そして、それ以前の宇佐八幡宮は、建物である。
建物を建てるというのは、為政者のシンボルとなるものである。
古代神道には無い、考え方であるから、ここに、新しい神道の考え方が起こってくるのである。

ちなみに、神宮と、宮では、違う。
このような、細かなところから、探る事が出来るのである。


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2012年04月07日

天皇陛下について107

日本武尊
やまとたけるのみこと、とは、有名である。
おおよそ、古代史を知らない者も、名前だけは、知っている。

その本当の名は、小碓命、おうすのみこと、である。
第十二代、景行天皇の第二皇子である。

その時代、九州に反乱が起きて、小碓命が、鎮圧に赴く。

有名な伝説が、熊襲の国の、首魁川上梟帥、しゅかいかわかみのたける、の退治である。

日本書紀によると、はじめは、天皇が赴かれるが、平定を見て、各地を巡幸して、大和に戻られる。
しかし、熊襲は、再び背くのである。

そこで、小碓命の出陣となった。
命は、童女に扮して、梟帥に近づき、酔ったところを、刺す。
絶命間際に、命の勇武に感嘆して、
やまとたけるの皇子と名乗りたまえ、称号をたてまつるのである。

そこで、日本武尊、やまとたけるの尊と、呼ばれるようになった。

尊が、大和に戻ると、今度は、東の辺境の騒動があった。
天皇は、第一皇子の、大碓命に、鎮圧を命じるが、大碓命は、愕然として、草の中に逃げる、とある。

是非も無しと、尊が、出発する。

吉備武彦、大伴武日連が、付き従う。
その道すじには、伊勢神宮があり、斎主は、叔母の、倭姫命である。

尊は、倭姫命に、
東に往き、その地を騒がせている者どもを、鎮めに参りますので、おいとまごいに、上がりました。
と、挨拶すると、斎主は、
慎むこと、そして怠ることのないように、
と、お言葉を掛ける。
そして、天叢雲剣、あめのむらくものつるぎ、を授けられた。

それから、駿河の国に入り、賊に欺かれ、鹿狩りのため野の深いところに入れられて、火攻めに遭われた。
その時、倭姫命から頂いた、剣で、周囲の草をなぎ払い、火難を免れた。
そして、賊を退治するのである。

草薙の剣という名の、おこりであり、土地も、焼津と呼ばれた。

次ぎに、尊は、相模に至り、対岸の上総の国に、渡ろうとした。
尊は、海岸に立ち、上総の山が近くに見えるので、なんだこれしきの海、飛んで渡れるくらいではないか、と高言した。

この言葉が、難を呼んだ。
船出し、走水の海、現在の東京湾頭を渡ろうとされた時、暴風雨が起こる。

船は、滝のように落ちる雨と、大波に翻弄されて、難破寸前である。
尊は、人知の限界を思った。
そして、倭姫命の、言葉を、思い出した。
慎み、怠りなく・・・

船には、尊の后が同乗していた。
弟橘姫、おとたちばなひめ、である。

后は、私が海に身を投げて、尊の身代わりになり、海神の御心をなだめましょうと、海に身を投げ入れたのである。

やがて、暴風雨は止み、岸に船が着いた。

尊は、上総へ上陸され、常陸を通り、陸奥へ向かう。
その時も、海路を通った。

船には、大鏡が掲げられ、威風堂々と浦から浦へと、進む。

やがて、蝦夷へ辿りつき、それらの地方を、ことごとく平定する。
そして、帰路は、陸路を通り、常陸から、武蔵に出て、相模の足柄山に出た。

その時、尊は、これで東国も見納めと、振り返り、御覧になると、相模の海が、陽光に光る。来るときは、后と一緒だったと、尊は、思わず、
吾妻はや・・・
と、嘆息された。

わが妻よ、である。
東国を、あずま、というのは、これから始まった。

古事記には、尊の歌が、記されている。
さねさし 相模の小野に もやる火の 火中にたちて 問ひしきみはも

焼津の猛火の中で、私の安否を労わられ、尋ねられた、そのやさしい、姫よ、わが妻よ。

その後、七日後に、后の櫛を海辺に見つけ、その櫛を取り、御稜を作った。

そして、尊は、甲斐の国に入り、酒折宮に留まった。
ある夜の、食事中に、
にひばり 筑紫を過ぎて 幾夜が寝つる
と、歌で、お傍の者に、問うと、火焼の老人が、
かがなべて 夜には九夜 日には十日
と、答えた。

尊の歌は、片歌と呼ばれるものである。
この場合は、それに続けて、一連の問答歌となっている。

尊は、老人を誉められて、東の国の国造、くにのみやつこ、とされた。

この歌問答は、後に、連歌のはじめとされる。

だから、連歌の道を、筑波の道、と読んだり、尊を、この道の祖と呼んだりする。

古事記によると、その後、尊は、信濃に入り、その坂の神を言向けて、尾張に戻られた。
そこには、さきに一緒になろうと約束していた、美夜受比売、みやずひめ、がいたのである。

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2012年04月08日

天皇陛下について108

日本武尊、やまとたけるのみこと、により、世の中は、平らかになった。

第十三代、成務天皇の御代には、山川の形状などから、国や、県、あがたの境を決めて、国造、くにのみやっこ、県主、あがたぬし、を新たに任命し、村には、稲置、いなぎ、を置いて、租税その他の世話をさせた。

中央、地方も、よく治まったのである。
大和朝廷の威光は、益々盛んになる。

ところが、第十四代、仲哀天皇の御代になると、再度、熊襲が背いたのである。

天皇は、日本武尊の、お子さんである。
その血を受けたのか、勇敢であった。

ご自身が、兵を率いて、長門の豊浦の宮に、赴かれたのである。
そこで、準備をして、後に、九州、筑前橿日の宮を本拠とされた。

軍議の際に、熊襲の反乱には、後押しがあるのではないかという疑問が出た。

第十代祟神天皇の時代に、遡る。
その65年、前33年である。

日本書紀には、
任那、ソナカシチを遣して始めて朝貢す
とある。
つまり、すでに対外関係があったのである。

任那とは、朝鮮半島の南部にあった、小国である。
その東北には、新羅という国があり、任那は、新羅のために、いつも侵略されていた。
そこで、日本に助けを求めたのである。

日本に使者を送り、我が国を助けていただきたいと、保護、援助を求めた。
それを聞いて、日本は、出来る限りのことを、調べて、いかにも、新羅は、無理、非道があると、知る。

そこで、祟神天皇は、塩乗津彦という将軍を派遣して、任那を援助した。
そこから、任那には、日本の府が置かれたといわれている。
日本府である。しかし、実際は、神功皇后の新羅征伐の後らしいのである。

ところが、垂仁朝の初期に、新羅から、王子の天日槍が来朝し、帰化したという。
彼の妻は、日本人で、妻の帰国を追って、日本へやってきたのである。

遠い昔から、朝鮮半島とは、関係が始まっていたと、考えられるのだ。

神功皇后の新羅征伐の直接の原因は、新羅の大臣である、干老が、我が国の、天皇を屈辱したこと、その妻の、策謀であったという。

干老は、日本の使者に対して、いずれ近いうちに、日本の天皇を、わが新羅の塩焼き人足とし、皇后は、飯炊き女として使ってやる・・・

そこで、ただちに、派兵し、干老を捕まえて、薪を積み上げて、その上で焼き殺したのである。

そして、干老の遺骨を埋葬した。
その場所を知りたがったのが、その妻である。
日本の役人に、言葉巧みに近づき、
埋葬場所を教えてくれれば、あなたを、この国の、高官にし、私もあなたのものになりますと、言う。

そこで、埋葬場所を教えてしまった。
目的を達した、妻は、その役人を殺してしまう。

この、二つの事件が、新羅征伐になってゆく。

しかし、本来の原因は、日本と仲の良かった任那が、新羅に圧迫、苦しめていたことである。

その災いの根を絶ち、大陸の輸入ルートである、百済との交通、連絡を確保する目的もあった。

結果、新羅を征伐し、任那の関係は、いよいよ密接になり、百済にも、朝貢の礼を取らせるに至っている。

この百済の北には、高句麗があり、これが絶えず、南下の動きを示していた。
そこで、百済は、日本との連合を図ったのである。

日本と半島の、小国任那や、百済との関係は、隣国からの、脅威を受けたために、日本が義侠心を持って、救援軍を送ったことから、始まっているのだ。

百済からの貢物は、そういう縁による。

仲哀天皇は、九州に入られて、まもなく、お隠れになった。
ゆえに、一切の仕事は、皇后か指揮されることとなったのである。

その時、皇后のお腹には、第十五代、応神天皇が宿られていた。
それゆえ、皇后自ら、朝鮮半島への遠征はなく、九州に於いて、指揮されたと、思われるのである。

この、神功皇后を、古代の卑弥呼と重ねて、史実を作り上げようとした、跡がある。
だが、時代から見ると、全く、別物である。

ただ、神功皇后は、古代史では、有名な皇后として、知られる。

高句麗は、現在の、北朝鮮一帯に当る。
高句麗は、隋の時代、隋から何度も、攻撃を受けているが、それを跳ね返していた。

任那、新羅、百済は、現在の、韓国の一帯に当る。

史実以前から、半島を通して、日本は、大陸の文化の影響を受けていたと、思われる。
正式に、仏教が伝わる以前に、九州の一部には、仏像があったとも言われる。

福岡県、佐賀県などは、船で半島と行き来できる場所である。

それが、最も顕著になるのは、推古天皇の御代である。
続々と、渡来人が押し寄せていたのである。
それを、差別無く、受け入れていた。


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2012年04月09日

最後の沈黙を破る。61

アジアの、ストリートチルドレンに逢いに行く。

その前までは、探しに行くだった。
ストリートチルドレン・・・
それは、大変に、悲しく、そして、危険な存在である。

子供であるから・・・との、思い込みは、禁物である。

ストリートチルドレンにも、年齢から、その境遇には、様々なものがある。

そして、国柄である。

一言では、言えない。

バリ島のストリートチルドレン・・・
集団で行動して、寝る場所も、集団である。
親がいない。
そこで、チルドレンたちが、自然に、自治をしている。

一人に尋ねると、他の子供たちの事が、解る。
それでも、グループ違うと、解らない。

多くは、物売りをする。
手首にする、紐を売る。
仕入れは、500ルピアほどで、日本円にすると、5円ほどである。

それを、一ドル・・・以上で売る。
私も、一つ買うと、もう一つ買えと、しつこく迫る。

彼らは、自然に英語を覚える。
死活問題だからだ。
英語なら、どの人種でも、大半が通用する。

子供を抱いた、女の子のチルドレンがいた。
彼女は、17際であるが、その年齢に見えない。
付き添っているのが、10歳の男の子である。
他人であるが、気が合うのか、いつも一緒だった。

だが、赤ん坊が、本物が否か、確認したことは無い。
いつも、布に包んでいる。
怪しく考えると、物乞いのための、道具・・・

二人は、売る物が無い。
ただ、物乞いするだけである。

私は、三度会った。
四度目の時は、別の場所に移ったと聞いた。
バリ島も、観光客の居場所が広くなり、ストリートチルドレンたちも、その活動範囲が広がった。

物を売るとは、その背後に、大人が存在する。
だが、深入りは、出来ない。

そして、活動するのは、観光客が食事に出る、夜から、深夜である。
とても、危険である。
しかし、その危険な時間帯が、一番、金になる。

集団でいるのが、最も、良い状態なのである。

一度、子供たちの、寝泊りしている場所に連れていって欲しいと、頼んだが、遠くて、車でも、時間がかかると言う。
それでは、君達は、どこに、寝るの・・・と、聞くと、朝まで眠らず、その後、歩いて帰るという。

私は、衣服や食べ物を渡すが、それで、足りない子には、少しのお金を与える。
その、見極めが、とても、難しい。

フィリピンは、それぞれの島により、また、違う。
マニラなどでは、親がいても、ストーリートにいる。
貧しくて、自分で、物乞いをしなければならない。

それは、セブ島のセブシティの、チルドレンとは、違う。
セブシティのチルドレンたちは、親がいない方が多い。
勿論、親がいる子もいるが、親に捨てられた子の方が、多い。

犯罪のぎりぎりを生きている。
物取り、盗み・・・
彼らは、最後になれば、そうする。

だが、一度でも、彼らの信頼を勝ち取れば、決して、私には、そういうことをしない。
衣服を渡し、食事をして、話してみると、普通の子供である。

三度も会うと、向こうから、声を掛けてくれる。

その度に、私は、彼らを食堂に誘う。
または、彼らを受け入れない店からは、物を買って、与える。

彼らは、自分たちが、受け入れられない場所に対して、敏感である。
それは、どこの国も、一緒。

セブ島の、観光地、マクタン島のチルドレンは、皆、物売りであり、親がいても、貧しい。単なる、物乞いの子は、少ない。

父親が日本人だと言う子もいて、驚く。

ただ、セブシティのダウンタウンのチルドレンは、それぞれ、様々に複雑である。
親のいる子も、いない子も、一緒である。

カテドラルの前で、ロウソクなどを売る子も、売り物が無い子もいる。
そして、年齢が低い。
姉が五歳で、弟が二歳という子もいる。
それは、親がいても、貧しいと、私は見ている。

そこでも、グループを作っている。
売り物があるから、背後に、大人な存在すると、想像する。
だが、食事などの、世話を受けていないのだ。

私は、ハンバーガーを買ったり、パンを買って与えるが・・・
非常に危険なのは、女の子である。
実に、色っぽいのである。

その、ギリギリの年齢という子までいる。
ある程度の年になると、売春の世界に連れ込まれるように、思える。

マニラなどでは、最も、危険な場所と言われる場所でも、彼らは、行動する。
つまり、当たり前の場所なのである。
それ以外の、場所を知らない。

夜遅く、一人で歩く、チルドレンを見て、こちらが不安になるが、彼らは、平然としているのである。

ネグロス、レイテなどの島は、親がいない、子が多い。
そして、彼らは、無視される存在である。

彼らの一番の悲劇は、無視されるということである。

時に、道路に眠るチルドレンの横に、食べ物が置いてあったりする。
それを見ると、密かに、心を掛けている人がいると、安心する。

日本には、法律上、そのような、子供の存在は無い。
だが、アジアには、まだまだ、存在する。

ちなみに、セブシティのチルドレンは、かろうじて、寝るための、家が用意されている。更に、学校にも、通える。
ただし、食事は無い。
本当は、それが、最も肝心なことなのだが・・・

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月10日

霊学54

これから、小此木氏の、文章を多く引用して、心理学、精神分析などに従事する人たちが、如何に、このように作られた観念により、患者や相談者をくくってしまうかということを、示したい。

勿論、私は、小此木氏の、業績には、敬意を表している。
だが、鵜呑みにすると、先が無いということ。

心理学に対して、批判が少なすぎる。故に、心理学者は、その勝手な、しかも一部の分析により、その観念により、人を判定してしまうという、誤りを言う。

操作原則は、やがては、ロボット問題が象徴するように、人と人とのかかわりを社会から排除していきます。
小此木
これは、あまりに、大雑把である。

しかもそれを操作する人々は、すべて一人相撲的に、あるいは自己中心的にパーソナルなその操作を行います。このような操作原則感覚が身に付くにつれて、われわれの自然と人間それぞれに対するかかわりのすべてが自分たちの思い通りに操作しうるようになるべきだという全能感が身についてしまいました。
たとえば、この操作原則感覚は、逆に人と人とのかかわりまでも、自動応答機械とのかかわりと同じようなものにしようとする気持ちさえ生み出すことになってしまいました。
こうした生活感覚の大規模な変容が、人類全体としての全能感を高め、何でも思うとおりになるという自己愛幻想を肥大させているのです。
小此木

ほんの一部の、世界、先進国などを、人類、世界全体・・・
更に、ほんの一部の都市生活をする人たちを、全体として分析する。

これを鵜呑みにして、判定するとしたら・・・
実に、恐ろしい。
勿論、一部の人には、そのような兆候があるだろう。

これが、あの大航海時代の、イギリスと同じ考え方である。
そして、大差別の思想を作ったのである。

自動応答機械・・・
それを利用して、本当に、人間がそれほど、変容するものだろうか。
考えすぎである。

それは、時代性、時代の進化であり、それに多くの影響を受けるが、病気の人たちとの、かかわりが多い人の、一片の考え方である。

人と人の関わりが、変容して、人と人との関わりが何か、変なこと、変なものになってきたという・・・それが、変である。

ほんの一部の人たちが、影響されて、そのようになっていることを、人類が・・・

人類全体が全能感を高めてなどいないし、この日本にも、全く、そのような感覚を持たない人たちが大勢いる。

例えば、自然を相手にする人たちなどは、何を言うのかと、言うだろう。
思い通りに行かないことばかりだと、言うだろう。

更に、サービス業など、そんな考えでは、客の心を掴むことなど出来ない。
と、一部の世界で、観念を作ることが、恐ろしいのである。

家庭内暴力、登校拒否という子どもたちの問題も、自己愛の肥大がもたらした弊害です。
小此木

どうして、このように、断定できるものか。
それは、ほんの一部の子どもたちの、ことだろう。

それに関して、小此木氏は、延々として、解りやすく説明するが、省略する。

時代の一断片を取り上げて、ここまで、観念を作り上げる、学問という世界にいる人に敬意を払いつつ・・・
少しばかり、呆れる。

父親に対しても、家庭での父親のだらしないところばかりを見ていて、彼らは父親を過小評価している場合が多いのです。そして、人が朝早く起きて会社に行ったり学校に行ったりするという定め、現実のいやなものを我慢したり、断念して生きていくという現実原則を認めようとしないのです。
小此木

これで、判断された、低血圧の子どもは、悲劇である。
現実原則が、低血圧で、朝が起きられない・・・

私は、幼稚園の頃から、遅刻して来たといい、自己嫌悪している相談者に、低血圧でしょう、しょうがいなよ、と言った途端、えっ、それでいいんですかと、問われて、それでいいと言うと、その人は、晴れやかな顔になり、私が自分の体質を理解する方が、最も大切で、その自分に合う環境で、学んだり、仕事をしたり、するといいと、言った。

朝が駄目なら、夜間の学校もある。

その説明が、延々と続くのは、小此木氏の、性格であろう。

古い執行原則でいえばもともと学校へ行くのは、おもしろいからおもしろくないからというのではなく、人間である以上は行かなければならないところなわけです。
小此木

時代は、変わったである。
進化したのである。
だから、アホだった人が、立派に成功する時代に成ったのである。

古い、と書いているように、小此木氏の、分析も古いものになったのである。
30年前は、この、お説に従って、多くの人が、理解したと思い込んだのである。

心理学というのは、言葉の手品であり、思い込ませるのである。

人間性の心理という、ジョン・コーエンの書いた本の最初に、
心理学は今日、非常に興味をそそられる段階を通過しているところであるが、そこでは、仰々しい学説やドグマや硬直した公式などが、心理学の主題の真の範囲とその本性についてのより深い認識にゆっくりと道をゆずりつつある。
心理学がその歴史的な発展の途次において乗り越えねばならなかったさまざまの困難は、植民地としての立場を放棄してこれまでの帝国主義の君主の支持なしに自身の足で立とうとしている国の困難にたとえられよう。

長い間、心理学は哲学の植民地であった。
そして解放の戦いの後困苦に耐えてかちえた自由を手にしたとき、心理学は後を振り返ってみたりする必要はなく、完全に哲学なしにすますことができるものと信ぜられた。しかしながら、これはあまりにも楽天的にすぎる夢であることがわかった。
哲学によって支配されるべきではないということと、哲学上の先入観が心理学の理論と実際に入り込むのを拒むこととは、全く別のことがらである。

心理学は、おそらく他の諸科学よりもなおのこと、いつも哲学とことばを交わす間柄にとどまらなければならないであろう。というのは哲学と心理学とは、知識の起源に関して(認識論)、論理学と数学の直観的基礎に関して、心の本性について、倫理学と美学の諸問題について、そして組織的な探求の方法に関して、共通の関心を分かちもっているからである。

改行は、私。
次ぎに、続ける。


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