2012年03月12日

もののあわれについて551

ついたちにも、大殿は御ありきしなければ、のどやかにておはします。良房の大臣と聞えける。いにしへの例になずらへて、白馬ひき、節会の日は、内の儀式をうつして、昔の例よりも事そへて、いつかしき御ありさまなり。



元旦にも、大殿、源氏は参賀されず、のんびりしている。良房の大臣と申した方の、昔の例に習い、白馬を引いて来て、節会の日は、御所で行う儀式をし、昔の例より以上の色々な事をして、厳かな、儀式であった。





きさらぎの二十日あまり、朱雀院に行幸あり。
花盛はまだしき程なれど、やよひは故宮の御忌月なり。とくひらけたる桜の色もいと面白ければ、院にも御用意ことにつくろひ磨かせ給ひ、行幸に仕うまつり給ふ上達部、親王たちよりはじめ、心づかし給へり。




二月の二十日過ぎに、朱雀院に行幸がある。
花の盛りは、まだ来ないが、三月は、今上天皇のお母様、藤壺が亡くなった月である。早くから、桜の花の色が見事なので、院におかせられても、特別の準備で、修繕し、手入れをなさり、また、行幸のお供をする、上達部や、親王方をはじめとして、十分に用意された。





人々皆青色に、桜がさねを着給ふ。帝は赤色の御衣奉れり。召しありて太政大臣参り給ふ。おなじ赤色を着給へれば、いよいよひとつものと輝きて見えまがはせ給ふ。
人々の装束、用意、常にことなり。院もいと清らにねびまさらせ給ひて、御さま、用意、なまめきたる方に進ませ給へり。




人々は、皆、青色に、桜襲、さくらがさね、をお召しになる。陛下は、赤色の御衣をお召しあそばした。特別のお召しがあり、太政大臣、源氏も、参上される。同じ赤色をお召しになった二人は、一層そっくりで、輝くばかり、美しく、どちらが、どちらか、解らないほどだ。
人々の衣装も、振る舞いも、いつもとは違う。院も、大変綺麗で、年とともに、ご立派になり、御様子、振る舞い、ひとしお優雅におなりだ。

桜がさね
面が白で、裏が赤である。

なまめきたる
優美である、女性的な美しさをいう。

何とも、優美、みやびな、風景が、見えるのである。
源氏物語の、大きな特徴は、人の心の、機微を書き、戦の描写がないことである。

見事に、あはれ、に、貫かれている。
無常観が、無常美観へと、変転してゆく様が、描かれる。

無常であることが、美しいことであるとは、日本人独特の、心情である。
それが、鎌倉時代を経て、室町に至り、室町文化を開花させた。

そして、無常であり、美しいこと、そのものも、あはれ、なのである。




今日はわざとの文人も召さず、ただその才かしこしと聞えたる学生十人を召す。式部の司のこころみの題をなずらへて、御題賜ふ。大殿の太郎君のこころみ賜はり給ふべきゆめり。臆だかき者どもは、物もおぼえず。つながぬ船に乗りて池にはなれ出でて、いと術なげなり。日やうやうくだりて、楽の船ども漕ぎまひて、調子ども奏する程の山風のひびき、面白く吹きあはせたるに、冠者の君は、かう苦しき道ならでも交ひ遊びぬべきものを、と、世の中うらめしうおぼえ給ひけり。




今日は、専門の詩人を呼ばず、ただ、詩を作る才能が高いという、評判の大学の学生十人を、お呼びになる。式部省の試験の題になずらえて、勅題が出る。大殿のご長男が試験をしていただくからだろう。臆しがちな学生達は、うろたえてしまう。一人ずつ、船に乗って、池に放たれ、途方にくれているようだ。
日も、だんだと、暮れて行き、楽人を乗せた船が、漕ぎまわり、調子を奏すると、折から吹き降ろす山風の響きに、面白く合っている。それを耳にした、夕霧は、こんな辛い思いをしなくても、皆と一緒に、冗談を言ったり、合奏できるはずなのに、と、世の中を、恨めしく思うのである。

太郎君も、冠者の君も、夕霧のことを、言う。




春鶯てん舞ふ程に、昔の花の宴のほど思し出でて、院の帝「またさばかりの事見てむや」と、宣はするにつけて、その世の事あはれに思し続けらる。舞ひはつる程に、大臣、院に御かはらけ参り給ふ。

源氏
鶯の さへづる声は むかしにて むつれし花の かげぞかはれる

院の上、


九重を かすみへだつる すみかにも 春とつげくる うぐひすの声




しゅんあうてん、を舞う時分、昔の花の宴を思い出し、上皇陛下は、もう一度、あれほどの事が、見られるだろうか、と、仰せられる。源氏は、あの当時の、事を次々と思い続けて、胸が締め付けられる思いがする。舞い終わる頃に、大臣が、院に盃を差し上げる。

源氏
鶯の囀る声は、昔のままでございますが、花の陰で、慣れ親しみ一緒に遊んだ当時とは、すっかり時世が変わりました。
上皇さま、

朱雀院
雲を、霞が隔てるように、宮中から、遠くはなれている棲みかにも、鶯が鳴いて、春が来たと、教えてくれました。

その世のことあはれに思し続けらる
その当時のことが、あはれ、に、特に深く心に刻まれた思い出、である。





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2012年03月13日

もののあわれについて。552

帥の宮と聞えし、今は兵部卿にて、今の上に御かはらけ参り給ふ。

蛍宮
いにしへを 吹き伝へたる 笹竹に さへづる鳥の 音さへ変わらぬ

あざやかに奏しなし給へる、用意ことに、めでしたし。取らせ給ひて、

主上
うぐひすの 昔を恋ひて さへづるは 木伝ふ花の 色やあせたる

と宣はする御ありさま、こよなくゆえゆえしくおはします。これは御わたくしざまに、うちうちの事なれば、あまたにも流れずやなりにけむ。また書き落としてけるにやあらむ。




むかし、帥の宮と申し上げた方は、今は、兵部卿になられて、今上に盃を差し上げる。

蛍宮
昔のままに、聞える笛の音、それに、鶯の鳴き声まで変わりません。

おめでたく奏上して、お取り成しになる。この心遣いは、見事である。お手に遊ばして、

主上
鶯が、木から木へと渡りながら、昔を慕い鳴いている。木の花の色が、昔より、悪いからだろうか。

と、おっしゃる様子は、この上なく、奥ゆかしい。今日の、御盃は、非公式の、内輪の催しであるから、沢山の人に、その盃が渡らなかったのでしょうか。それとも、筆取る者が書きもらしたのか。

帥の宮は、源氏の、弟である。

源氏の、兄弟と、源氏の子である、帝の三人の、やり取りである。




楽所遠くておぼつかなければ、御まへに御琴ども召す。兵部卿の宮琵琶、内の大臣和琴、筝の御琴院の御まへに参りて、琴は例の太政大臣賜はり給ふ。せめ聞え給ふ。さるいみじき上手のすぐれたる御手づかひどもの、つくし給へる音はたとへむ方なし。唱歌の殿上人あまたさぶらふ。「安名尊」遊びて次に「桜人」、月おぼろにさし出でてをかしき程に、中島のわたりに、ここかしこ篝火どももとして、おほみ遊びはやみぬ。




楽所が、遠くて、はっきりと聞えないので、主上は、御前に弦楽器を持ってこさせる。兵部卿は、琵琶、内大臣は和琴、筝の御琴は、上皇陛下に差し上げて、琴は、いつもの通り、太政大臣が頂戴する。是非にと、仰せがあり、そのような素晴らしい上手な方が、優れた御手の弾き方で、秘術を尽くす、楽の音は、素晴らしいのである。唱歌の殿上人が、多く控えている。「安名尊」を謡い、次に「桜人」を。月が朧に差し出て、趣のある頃、中島の、あちこちに、篝火を焚いて、この御遊びが終わった。




夜ふけぬれど、かかるついでに、大后の宮おはします方をよぎてとぶらひ聞えさせ給はざらむも、なさけなければ、かへさに渡らせ給ふ。大臣もろともにさぶらひ給ふ。后、待ちよろこび給ひて、御対面あり、いといたうさだすぎ給ひにける御けはひにも、故宮を思ひ出で聞え給ひて、かく長くおはしますたぐひもおはしけるものを、と、口惜しう思ほす。大后「今はかくふりぬるよはひに、よろづの事忘られ侍りにけるを、いとかたじけなく渡りおはしまいたるになむ、さらに昔の御世の事思ひ出でられ侍る」と、うち泣き給ふ。主上「さるべき御かげどもにおくれ侍りて後、春のけぢめも思ひ給へわかれぬを、今日なむなぐさめ侍りぬ。またまたも」と、聞え給ふ。




夜が更けた。こういう機会に、大后の宮の、お住まいを避けて、お伺いしないのも、思いやりがないと、帰りにお立ち寄りになる。大臣も、一緒に、お供する。
大后は、お待ち遊ばして、喜び、御対面される。ひどく年を取った様子につけても、主上は、亡くなった、藤壺を思い出し、このように、長生きする方もいるのに、と、残念に思う。大后は、今は、こんなに、すっかり、年を取り、何もかも、忘れてしまいました。恐れ多くも、おいで下さいまして、今更のように、昔の御世が、思い出されることで、ございます。と、泣くのである。
主上は、頼りになる方々も、先立たれ、いつ春になったのかも、はっきりしませんでした。今日は、お目にかかって、心も安らぎました。時々、お伺いいたします、と、申し上げる。

昔の御世、とは、桐壺院の御世である。

さるべき御かげども、とは、桐壺院と、藤壺のこと。





大臣もさるべきさまに聞えて、源氏「ことさらにさぶらひてなむ」と、聞え給ふ。のどやかならで帰らせ給ふ響きにも、后は、なほ胸うち騒ぎて、いかに思し出づらむ。世をたもち給ふべき御宿世は、けたれぬものにこそ、と、いにしへを悔い思す。



大臣も、適当に挨拶をして、源氏は、改めて、お伺います、と、申し上げる。
ゆっくりされず、帰る威勢を御覧になり、大后は、今でも、胸が静まらず、昔のことを、思い出して、どんな気持ちでいるのかと、思う。結局は、政権を取るという、運命は、押し潰せなかったのだ、と、昔を後悔する。

いかに思し出づらむ
どんな気持ちでいるのか、とは、源氏に対する、心境である。
当初は、源氏を嫌い、政権から、源氏を遠ざけたのである。

源氏に対する、意地悪を、今、振り返り、後悔するという。

世をたちも給ふべき御宿世
結局、政権を取るべき、運命だったのだ。

彼女は、主上が、源氏の子であると、知っていたのである。

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2012年03月14日

もののあわれにいて。553

尚侍の君も、のどやかに思し出づるに、あはれなること多かり。今もさるべき折、風の伝にもほのめき聞え給ふこと絶えざるべし。后はおほやけに奏させ給ふことある時々ぞ、御たうばかり年官年爵、何くれのことに触れつつ、御心にかなはぬ時ぞ、命長くてかかる世の末を見ること、と取りかへさまほしう、よろづを思しむつかりける。老いもておはするままに、さがなさもまさりて、院もくらべ苦しくたへがたくぞ、思ひ聞え給ひける。




尚侍、かんの君も、ゆったりした気持ちになり、昔の事を思い出すと、あはれなること、多かり。
今でも、都合の良いときには、わずかのツテに、こっそりと、お手紙を贈りになることが、続いている。大后は陛下に申し上げることのある折々、御下賜の年官年爵、その他色々なことにつけて、自分の思い通りにならないときは、長生きをして、こんな酷い目に遭うなんて、と、もう一度、院の御代にしたいと、何につけても、機嫌が悪い。年を取るに連れて、根性の悪さも、酷くなり、院も、ご機嫌を取りにくく、辛抱できないで、困っている。

あはれなること多かり
胸を痛めることが、多い。
辛く、切ないことが、多い。




かくて大学の君、その日の文うつくしう作り給ひて、進士になり給ひぬ。年つもれるかしこき者どもをえらせ給ひしかど、及第の人わづかに三人なむありける。秋の司召に、かうぶりえて、侍従になり給ひぬ。かの人の御こと、忘るる世なけれど、大臣の切にまもり聞え給ふもつらければ、わりなくてなども対面し給はず。御消息ばかり、さりぬべきたよりに聞え給ひて、かたみに心苦しき御中なり。




こうして、大学に学ぶ君、夕霧は、あの試験の日の詩文を見事に作り、進士になった。長年、修業した才学のある者だけを、選んだのだが、及第したのは、三人だった。秋の、定期異動に、従五位になって、侍従になられた。あの方のことは、忘れる時はないが、内大臣が、熱心に監視しているのも辛いので、無理をして会うことは、せずに、ただ、お手紙を適当な時に、差し上げるだけで、互いに、気のかかる御仲である。

かの人
雲井雁のこと。




大殿、静かなる御住まひを、同じく広く見所ありて、ここかしこにておぼつかなき山里人などをも、つどへ住ませむの御心にて、六条京極のわたりに、中宮の御ふるき宮のほとりを四町を占めて、造らせ給ふ。式部卿の宮、明けむ年ぞ五十になり給ひけるを、御賀のこと、対の上おぼし設くるに、大臣もげに過ぐしがたき事どもなり、と、思して、さやうの御いそぎも、同じくは珍らしからむ御家居にてと、いそがせ給ふ。




大殿は、落ち着いた、住まいを、同じことなら、広く立派にして、別居していては、心配な、山里に住む人なども集めて、住まわせようというつもりで、六条京極のあたりに、中宮の昔の邸がある、近所を、四町手にいれ、造られる。
式部の宮は、あくる年、五十になられるので、御賀のことを、対の上が、準備しているが、殿様も放っておくわけにはいかないと、思い、その準備も、同じするなら、新しい邸で、と、早速完成させようと、される。

式部卿とは、紫の上の父親。
山里人とは、明石の女である。




年かへりては、ましてこの御いそぎの事、御としみのこと、楽人舞人の定めなどを、御心に入れていとなみ給ふ。経仏法事の日の御装束、禄どもなどをなむ、上はいそがせ給ひける。東の院にも、分けてし給ふ事どもあり。御なからひ、ましていと雅かに聞えかはしてなむ、過ぎし給ひける。




新年になると、昨年以上に、祝いの準備、精進落としの事、楽人や舞人の選定などを、熱心になさる。経や、仏像の装飾、法事のお召し物、沢山の禄などを、対の上は、用意される。東の院でも、分担して、されることが多い。紫との仲は、今まで以上に、まことに優雅なお手紙をやり取りし、日を送っている。

対の上とは、紫のこと。
東の院とは、花散里である。




世の中ひびきゆすれる御いそぎなるを、式部卿の宮にも聞し召して、年頃世の中にはあまねき御心なれど、このわたりをばあやにくになさけなく事に触れてはしたなめ、宮人をも御用意なく、憂はしきことのみ多かるに、つらしと思ひ置き給ふ事こそはありけめ、と、いとほしくもからくも思しけるを、かくあまたかかづらひ給へる人々多かる中に、取りわきたる御思ひすぐれて、世に心にくくめでたきことに、思ひかしづかれ給へる御宿世をぞ、わが家まではにほひこねど、面目に思すに、またかくこの世にあまるまで響かしいとなみ給ふは、おぼえぬよはひの末のさかえにもあるべきかな、と喜び宣ふを、北の方は、心ゆかずものしとのみ思したり。女御の御まじらひの程などにも、大臣の御用意なきやうなるを、いよいようらめしと思ひしみ給へるなるべし。




世の中が、大騒ぎする用意であることを、式部卿の宮の、耳にも入り、長年の、世間には、恵み深い方ではあるが、宮の事となると、困ったことに、酷いことで、何かにつけて、恥しめて、こちらに仕えている者たちにも、おかまいなく、嫌な事ばかり、次々とあり、昔、自分のしたことで、酷いと思っていることがあるのだろうと、残念にも、辛くも思っていたが、このように、大勢の関係がある、女が多い中で、特別の寵愛があり、とても奥ゆかしい方、結構な方として、大事にされている、紫の上の運を、自分の家までは、響いてこないが、嬉しいことだと思っていた。その上、このように、身に余る程の、大騒ぎで、準備をしてくれるとは、思いもよらない、晩年の名誉である。と、喜びの言葉もあるが、北の方は、ただただ、不満、不快に思っている。ご自分の娘を、女御として、入内させた時にも、大臣が、好意を示さなかったので、以前よりも、一層、恨めしいと、思い込んでいるようである。

思ひかしづかれ給へる御宿世
これは、紫の上が、主語である。
作者が、紫の上に、給へる、と、敬語を使うのである。

かくあまたかかづらひ給へる人々多かる中に
源氏が、関わった女関係である。
その中でも、紫の上は、特別な存在になったという。

式部卿は、故藤壺と、兄妹であり、紫の上の、父親である。


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2012年03月15日

もののあわれについて。554

八月にぞ、六条の院造りはてて渡り給ふ。未申の町は、中宮の御ふる宮なれば、やがておはしますべし。辰巳は、殿のおはすべき町なり。丑寅は、東の院に住み給ふ対の御方、戌亥の町は、明石の御方と思しおきてさせ給へり。もとありける池山をも、便なき所なるをば崩しかへて、水のおもむき、山のおきてをあらためて、さまざまに、御方々の御願ひの心ばへを造らせ給へり。




八月に、六条の院を造り、お引き移られる。
西南の町は、中宮の元の邸で、そのまま、そちらにお住まい遊ばす。東南は、殿のお住まいになるはずの町である。東北は、東の院にお住まいの、対の御方、西北の町は、明石の御方と、決められた。前からあった、池や山でも、相応しくないものは、崩して造りかえ、池のおもしろさ、山の姿を新しくして、一つ一つ、お住まいになる、婦人たちの、希望通りの、趣向で、造られたのである。




南の東は山高く、春の花の木、数をつくして植え、池の様面白くすぐれて、お前近き前裁、五葉、紅梅、桜、藤、山吹、岩つつじなどやうの、春のもてあそびをわざとは植えて、秋の前裁をばむらむらほのかにまぜたり。中宮の御町をば、もとの山に、紅葉の色こかるべき植え木どもを植えて、泉遠くすまし、やり水の音まさるべき巌たて加へ、滝おとして、秋の野を遥かに作りたる。その頃にあひて、盛り咲き乱れたり。嵯峨の大井のわたりの野山、むとくに気おされたる秋なり。




東南は山が高く築いてあり、春に花咲く木を無数に植えた。池の様も、面白く優れて、お庭のさきの植え込みには、五葉の松、紅梅、桜、山吹、岩つつじなど、春の木草を、特に選んで植えて、秋の植え込みを、ひとつずつ少しほど、混ぜて植える。
中宮の御町には、もとからある山に、紅葉の色が濃い木々を植えて、澄んだ泉の水を遠くに流し、遣り水の音が、一層響くように、岩を増やし、滝を造り、水を落とし、見渡す限り、秋の野にしてある。




北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の陰によれり。前近き前裁、呉竹、下風涼しかるべく、木高き森のやうなる木ども木深く面白く、山里めきて、卯の花の垣根ことさらにしわたして、昔おぼゆる花たちばな、なでしこ、薔薇、木丹などの、花くさぐさを植えて、春秋の木草、その中にうちまぜたり。




北の東側は、見るからに涼しそうな泉があり、夏の日を考えてある。庭先の植え込みは、呉竹の下を吹く風が、涼しく感じられるようにしてあり、高くそびえる植木が、森のように茂り、木深くして、面白く、山里のようで、卯の花の垣根を、更に周囲にめぐらして、昔が偲ばれる花橘、なでしこ、りんどう、など、色々な花を植えて、春の木、秋の草を、少し混ぜてある。




東面は、分けて馬場の殿つくり、埒結ひて、五月の御遊び所にて、水のほとりに菖蒲植え茂らせて、向かひに御やまして、世になき上馬どもを整え立てさせ給へり。西の町は、北面築き分けて、み蔵町なり。へだての垣に松の木しげく、雪をもてあそばむたよりによせたり。冬のはじめ、朝霜むすぶべき菊のまがき、われは顔なるははそ、をさをさ名も知らぬ深山木どもの、木深きなどを移し植えたり。




その東側は、一部を、馬場殿を造り、垣根を設けて、五月の端午の遊び場にし、池の岸に、菖蒲を植えて、向かい側に、馬屋を造り、またとない、最高の馬を、何頭も用意したのである。
北の西側の町は、北側を築地で仕切り、蔵が立ち並ぶ。その隔ての垣として、松の木が茂り、雪を見るために都合よくしてある。冬のはじめに、朝霜が結ぶようにと、菊の垣根があり、得意げに、紅葉にしている、ははそ、その原は、それから名の知らぬ奥山の、木々の、木深く茂っているものを、持ってきて、植えてある。




彼岸の頃ほひ渡り給ふ。一度にと定めさせ給ひしかど、さわがしきやうなりとて、中宮は少し延べさせ給ふ。例のおいらかに気色ばまぬ花散里ぞ、その夜添ひて移ろひ給ふ。
春の御しつらひは、この頃にはあらねど、いと心ことなり。御車十五、御前四位五位がちにて、六位殿上人などは、さるべき限りを選らせ給へり。こちたきほどにあらず。「世の謗りもや」と省き給へれば、何事もおどろおどろしう厳しき事はなし。




彼岸の頃に、引き移りになる。
一度にという、達しであるが、仰々しくはないかとあり、中宮は、少し延ばされる。いつもの通り、おとなしく、気取らない花散里が、その晩に、一緒に引き移るのである。
春向きの庭は、今の季節に合わないが、まことに見事である。女車が十五出て、前駆は、ほとんどが、四位、五位であり、六位の殿上人などは、特別に親しい者だけを、選ばれて、大袈裟というほどの、人数ではない。世間から、悪く言われることのないようにと、何につけても、大げさに威勢をはるというものではない。





いま一方の御気色も、をさをさ落し給はで、侍従の君添ひて、そなたはもてかしづき給へば、「げにかうあるべき事なりけり」と見えたり。
女房の曹司町ども、あてあてのこまげぞ、大方の事よりもめでたかりける。
五六日過ぎて、中宮まかでさせ給ふ。この御儀式はた、さは言へど、いと所狭し。御幸のすぐれ給へりけるをばさるものにて、御有様の心にくく重りかにおはしませば、世に重く思はれ給へる事すぐれてなむおはしましける。




もう一方の仕度も、大して劣らないようにして、侍従、夕霧の君が付き添い、そちらを、お世話されるので、このようにもあると、結構に思われた。女房たちの建物が、あちこちにあり、一々細かく割り当てているのが、他の何かのことより、素晴らしいことだった。
五、六日たち、中宮が、里下がりあそばす。この御儀式も、簡略にとの、殿の仰せであったが、誠に大変なことだった。御運のよろしいこと、申すまでもないこと。お人柄が奥ゆかしく、重々しくて、世間から重く扱われていることは、大変なことで遊ばす。

おはしませば
最高敬語である。

源氏が主語であり、作者の思いが、入り混じるという、とても、へんてこな文である。
それが、源氏物語なのである。

全文が、敬語で書かれているので、実に参考になる。
女房の視点だけは、変わらない。ゆえに、すべて、身分の高い人を扱うので、敬語になっている。


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2012年03月16日

もののあわれについて。555

この町々の中の隔てには、塀ども廊などを、とかく行きかよはして、け近く、をかしきあはひにしなし給へり。
九月になれば、紅葉むらむら色づきて、宮のお前も言はず面白し。風うち吹きたる夕暮れに、御箱の蓋に、いろいろの花、紅葉をこきまぜて、こなたに奉らせ給へり。




この町々の、境には、幾重にも、塀や渡り廊下などを造り、あちらこちらと、行けるようにして、近しき仲になるように、作ってある。
九月になり、あちこちに、紅葉が色づいて、中宮のお庭先は、実に面白く、見事である。秋風が吹く夕暮れに、御箱の蓋に、色々な色の花、紅葉を取り混ぜて、こちらの方に、差し上げた。

硯入れの箱の蓋である。
こちらの方とは、紫の上である。




大きやかなる童の、濃きあこめ、紫苑の織物かさねて、赤くち葉の羅のかざみ、いといたう慣れて、廊、渡殿の反橋を渡りて参る。うるはしき儀式なれど、童のをかしきをなむ、え思し捨てざりける。さる所に侍ひなれたれば、もてなし有様、ほのかには似ず、好ましうをかし。




大柄な童女が、濃い紫のあこめを着て、紫苑の織物を重ねて、赤くち葉の薄物のかざみを着て、物慣れた様子で、廊、渡り殿の反り橋を渡ってくる。格式のある儀式なのだが、童女の可愛らしさを、見捨てることが出来ないで、お使いになる。そういう所に、いつもお仕えしているので、立ち居振る舞い、姿も、他の童女とは違い、感じが良く、風情がある。




御消息には、

中宮
心から 春待つ園は わが宿の もみぢを風に つてにだに見よ

若き人々、御使もてはやすさまどもをかし。御返りは、この御箱のふたに苔敷き、巌などの心ばへして、五葉の枝に、

紫の上
風に散る 紅葉はかろし 春の色を 岩根の松に かけてこそ見め

この岩根の松も、こまかに見れば、えならぬ作りごとどもなりけり。かくとりあへず思ひ寄り給へる、ゆえゆえしさなどを、をかしく御覧ず。お前なる人々もめであへり。




お手紙には
中宮
心から、春を待つお庭では、こちらのほうの紅葉を、せめて風の便りにでも、御覧ください。

女房たちが、お使いを、口々に誉める様子が、好ましい。
お返事は、この御箱の蓋に、苔を敷き、石で巌の感じを出して、そこに五葉の松を置き、その枝に、

紫の上
風に散る紅葉は、軽いものです。この岩根の松の、永久に変わらないように、変わらず、いつも見事な春の色を見たいものです。

この岩根の松も、良く見ると、上手にこしらえてある。こういうものを、即座に考える趣向によさを、中宮は、感心して、御覧になる。お前に控える女房たちも、皆、感嘆したのである。

えならぬ 
言うに言われぬ。素晴らしい。
これは、あはれ、の、言葉に、通じる。
えならぬ あはれにて
言うに言えない、思いである。




大臣「この紅葉の御消息、いとねたげなめり。春の盛りに、この御答は聞え給へ。このごろ紅葉を言ひくたさむは、立田姫の思はむ事もあるを、さししぞきて、花の陰に立ち隠れてこそ、強きことは出で来め」と聞え給ふも、いと若やかに尽きせぬ御有様の見所多かるに、いとど、思ふやうなる御住まひにて、聞えかよはし給ふ。




大臣、源氏は、この紅葉のお手紙は、何とも憎らしいものです。春の花の盛りに、このご返事を、差し上げることです。今秋の盛りに、紅葉を悪く言っては、立田姫がどう思うか。それもあり、ここは、譲り、花を盾にとってこそ、勝ち目のあるいい方も出来ましょう、と、おっしゃるのも、若々しく、素晴らしい姿で、ご立派であるが、この邸で、ますますお手紙のやり取りをされるのである。

立田姫
春の神様である。




大井の御方は、かう方々の御移ろひ定まりて、「数ならぬ人はいつとはなく紛らはさむ」と思して、神無月になむ渡り給ひける。御しつらひ、ことの有様劣らずして、渡し奉り給ふ。姫君の御ためを思せば、大方の作法も、けぢめこよなからず、いとものものとくもてなさせ給へり。




明石の御方は、こうして、方々の引越が終わってから、自分のような、人の数にも、入らない者は、と、密かに行おうとの思いで、十月に、引越された。部屋の飾り、引越の次第を、今までの方々に負けないようにと、引越される。姫君の将来を思い、その作法も、扱い方も、大して差をつけずに、たいそう、重々しく扱われる。

作者の思いが入る。解釈では、源氏が主語というが・・・
渡し奉り給ふ
源氏が、そのように行ったのである。

いつも、源氏なのか、作者なのかと、迷うのである。

乙女の段を、終わる。


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2012年03月28日

国を愛して何が悪い

日の本
あきつ島
豊葦原瑞穂国 とよあしはらのみずほのくに

国を愛して何が悪い。

私は、日本という国を愛している。
更に、日本人として、誇りを持つ者である。

この、エッセイは、たった一人の人のために、書く。

読者を一人に絞るのである。

最も、いつも、一人の人のために、書いている。
もののあわれについて、は、母のため。

更に、たった一人のために、書いている。
だから、その批判や、非難、中傷は、論外なのである。

私の大切な人のために、書いている。

売文では、無い。
私が、その人たちに、向けて書いているのである。

たった、一人の人に向けて。

だから、国を愛して何が悪い、と、題をつけて、たった一人の人のために、書く。

明治維新・・・
とても、とても、素晴らしい事を、考えた人たちがいる。
その、代表として、坂本竜馬を上げる。

ただし、司馬遼太郎の描く、坂本竜馬ではない。
それは、私の、竜馬である。

下級武士の、竜馬が、何を考えての行動か。
それは、ただ、皆が、幸せになることを、目指したのである。

それ以前は、皆が、幸せでなかったということである。

つまり、不自由、不平等であった。
江戸幕府の怠慢である。

江戸幕府は、三代目以降から、堕落した。

勿論、中には、改革を断行した者も、ある。
しかし、朝廷、つまり、天皇に対し奉りては、不遜である。

天皇を、封じたこと、罪多々あり。
だが、朝廷、天皇陛下は、それに、甘んじた。
何故か。
天下泰平を、良しとしたからである。

戦が無いことが、民の、幸せである。
天皇は、いつも、国民の立場に立つのである。

それを理解し得ない者ども、それが、日本を不幸にする。

天皇と、言えども、様々な天皇が存在した。
しかし、天皇も、進化する。

天皇という、身分を、鑑みて、天皇に相応しくあろうとする、天皇も存在したのである。

私は、それを評価する。
切に評価する。
何故か。
陛下は、公人であらせられる。
こんな不自由なことが、あろうか。

その日、一日、公人であらせられる。
貴族は、いいが、陛下は、四六時中、陛下で、在らせられるのであるのである。

それは、拷問に近い。

下々は、理解できない、立場を、生きた。

毎日、国民のために、祈る。
日本国中のことを、心に留めるのである。

このような、人物が、一人でも、存在するということが、日本の誇りである。

無私にして、国民に対処する、天皇陛下という、存在が、この国には、在るのだ。

世界広しと、言えども、それは、日本以外に無いのである。

posted by 天山 at 16:04| 国を愛して何が悪い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月29日

国を愛して何が悪い2

知人が、祝日には、家でも、国旗を掲げたいと、家庭用の国旗セットを買った。
そして、祝日に、家の前に掲げることにした。

長女が遊びに来た。
そして、祝日が過ぎて、国旗を降ろした時に、
ああ、良かった、変な家だと、思われるは・・・
と、言った。

それを聞いた、知人は、娘の言葉にとんでもなく、違和感を覚えたという。そして、今までの、受けた教育現場を思い出したという。

大阪市が、橋下市長になり、国歌斉唱の際の、教員の起立を義務付ける条例を制定した。
すると、共産党の委員長が、
個人の思想、信条の自由を侵す云々・・・
全く、これには、意味不明である。
しかし、多く日教組の教師たちは、そのように考えている。

一体、どこの国の国民なのか・・・

ゆゆしきこと、甚だしいのである。

そして、現在は、敗戦後の見事な、国嫌悪の教育が、行き届いて、国の象徴である、国旗、国歌に対して、無礼千万な態度を取っても、許されるという・・・

そのお陰で、日本の若者の行為が、すこぶる悪い。
特に、スポーツ親善などで、海外に出る生徒たち。

その出掛けた国の、国歌斉唱、国旗掲揚の際に、起立せず、注意される。
更に、自国のそれも、平然として、座っている。

そこに、またまた居合わせた、日本在住の外国人作家が、怒鳴った。
これは、君達の、国の国旗と国歌であろう・・・
何故、起立しない。

彼らが悪いのではない。
教えられていないのである。
そして、これが、いつまで続くのだろうか。

これが、個人の思想、信条の自由なのか・・・
全く、意味が違う。
礼儀作法である。

国内で、それでも、まだ許されるが、一度、海外に出れば、許されないこともある。

挨拶と同じように、教育されなければ、ならないことである。

共産党の委員長が、そのような蒙昧なことを言い、更に、教師たちが、蒙昧な行為をする。話にならないのである。

それも、公立学校である。
私立では、それぞれの、思想信条を持って、教育に当ると、親も子供も、納得して入学し、キリスト教の宗教教育や、礼拝を行う。
それを、個人の思想、信条の自由から、拒否するか・・・
それを、納得して、入学したのである。

公立は、私立ではない。
国の学校である。
当然、日本の国の礼儀作法を教えるべき場所である。

そして、それは、また、自分に続く先祖たちへの、思いであるということだ。
同じように、先祖たちが、大切にした、国旗や国歌を受け継ぐ者としての、意識のありようである。

様々な、宗教も、大きな儀式に於いて、国旗掲揚を掲げるべきなのである。
それは、その自由が、国によって、保障されているという、感謝の意味と、日本国の発展を祈るはずなのである。

更には、元首である、天皇の御旗を掲げるべきだが、今上天皇は、それを、強制しないという、僥倖である。

日本ほど、世界で、国旗掲揚と、国歌斉唱に気を使わない民族もいない。
多分に単一民族のゆえであろう。

だが、世界が狭くなった現在、子ども達には、しっかりと、それの礼儀作法を教えるべきである。
それが、個人の思想、信条の自由を侵すものではない。
挨拶が、個人の自由を侵すものだろうか。

中国や、北朝鮮のように、日本の国歌が流れる際に、ブーイングなどをする国と、同じように、無礼な国になってはいけないのである。

あちらは、第三国であるから、致し方無い。
しかし、日本は、先進国であり、世界的な国家として、注目を集めている。

大震災の際の、日本人の行為行動が、世界に賞賛された。
それは、日本人の礼儀正しさに、である。
皆々、人を優先し、パニックに陥らない行動をとった。
掠奪なども無く、淡々とし、冷静に行動した。

世界が、驚愕したのである。
素晴らしい、日本人のあり様であると。

先進国でも、あのような大震災の時には、略奪や、逸脱した行動を取る人たちが、大勢いる。しかし、日本人は、違ったのである。

さて、それは、時に、1900年の中国での、義和団事件の際である。
義和団による、社会の混乱が起きていた時、一人の日本の軍人が、北京駐在武官として、滞在した。
その名は、柴五郎である。

義和団事件は、満州にまで飛び火し、ロシア人が殺傷される事件も起きたことにより、ロシア軍が、怒涛の如く、満州に流れ込む。
そして、街を焼き払い、掠奪し、虐殺し、市民の生活を脅かした。

この時に、ロシア兵も兎も角、精国軍の敗残兵も共に、恐怖だった。
兵士が、市民から、略奪するのは、中国の伝統である。

兵隊とは、市民に乱暴狼藉をはたらくもの、という常識である。

ところが、北京に入城した、日本軍は、その常識を破り、軍規は厳しく、末端の兵士に至るまで、非行をするものはなかった。
この様子は、北京市民にとって、有史以来初めて、目にする光景だった。

それが、たちまち噂となり、市民は、布、紙に、大日本順民、と書いて、日本軍を歓迎したのである。

更に、柴五郎は、北京の領事館区の二ヶ月におよぶ篭城中、攻防戦の指揮官として、各国からの信用を得て、北京落城後は、軍事駐留軍司令官として、治安を担当し、厳しく取り締まりを行った。
暴行、略奪を行った、連合軍兵士は、現行犯で捕まえると、それぞれの、軍司令部に突き出した。

日本軍は、最も規律が正しいことで、その占領地の北城は、すぐに治安を回復したのである。

それに引き替え、ロシア軍に占領された地区は、最悪だった。
その地の、住民たちは、続々と、日本領内に逃げ込み、保護を求めた。
当時の、北京市長は、たまりかねて、マクドナルド英公使に、苦情を訴え、ロシア軍管区を、日本軍管区に替えて欲しいと、懇願したほどである。

この時の柴の功績は、各国からも、評価され、イギリスのエドワード七世、イタリア、エマヌエル皇帝、ペルー大統領、スペイン皇帝、ロシア、ニコライ二世などにも、謁見したという。

柴は、北京にて、清国の警察教育を行い、警務練習所をつくり、中国の近代警察学校の、基礎を築いたのである。

第一次世界大戦後に、日本が、唯一、有色人種でありながら、国際連盟に加入したのは、こういうことからでもある。


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2012年03月30日

国を愛して何が悪い3

昨今、再燃している「日本が中国を侵略した」という歴史認識は、日本が謝罪外交を行えば行うほど、その該当する時代がどんどん昔にさかのぼっているようである。
と、書くのは、捏造された日本史の、黄文雄氏である。

1937年、昭和12年、日中軍事衝突拡大のきっかけとなった華北における、発砲事件の「盧溝橋事件」や、1931年、昭和6年、関東軍が東北三省を占領した、「満州事変」を侵略の始まりとするので足りないのか、100年の昔の1894年、明治27年の日清戦争まで、その範疇に入れようとしている。

更には、中国が宣伝する、愛国主義、大中華民族主義に乗り、1870年代の日本の台湾出兵、琉球処分まで「侵略」という範疇に含め、甚だしきは、豊臣秀吉の朝鮮出兵、倭寇をも、侵略の歴史に入れる、中国人学者もいる。
上記は、黄氏の発言である。

中国の歴史観が、プロパガンダであることが、明々白日である。

解釈の違いなんて、ものじゃない。
正しい歴史認識ではないのである。

1871年、明治4年12月、琉球宮古の島民69人が、那覇首里朝貢からの、帰途、台風に遭い、台湾東南海岸のバツヤウ湾に漂流した。

宮古島は、台湾から400キロほどの所にある。
当時は、ポリネシア系の先住民と、大陸から、移住してきた、漢人たちが住んでいた。
台湾と、宮古島の間では、土地を巡り、しばしば衝突を起こしていた。

宮古島の人たちは、漢人に似ているということで、自分たちの、土地を侵す漢人と見なされ、先住民族、パイワン族の村、牡丹社の住民に襲撃を受け、54人が、殺害された。水死者を除いて、生存者は、12人。
皆、漢人部落に逃れて、救助され、清国官憲により、那覇に送還された。

ここからが、問題である。

明治政府が、日本の臣民である、宮古島の民が殺害されたとし、その賠償を清国政府に求めた。
しかし、清国は、台湾の先住民は、清国の人民ではなく、彼らの居住地は、「政教禁止令相およばざる化外の地」だといい、その要求を突っぱねた。

つまり、台湾は、清国の管理がされていない、未開の地であると言うのだ。

これを不服とした、内務卿大久保利通、大蔵卿大隈重信は、明治7年、1874年2月、連名で、「台湾蛮地処分要略」を提出し、台湾の蛮地は、清国政府の政権のおよばない、無主の地、と見なすとした。

そして、琉球帰属問題を絡めて、琉球住民殺害の報復は、帝国主義の義務と考え、台湾に出兵すべきと、閣議で決定された。

だが、4月に入り、長州派が反対し、計画は一時中断させられた。
しかし、これに不満を持った、台湾蛮地事務都監に任命された、陸軍中尉、西郷従道は、3600兵を率いて、軍艦に乗り込み、長崎から出航したのである。

結果、事後承認された。

黄氏は、
この台湾出兵は、明治維新後の日本が近代国家として領土を確立するうえで重大な事件であった。日清両国の善後交渉で、清は日本の台湾からの撤兵を要求し、日本は清国の台湾領有は「蕃地」におよばないことを主張し、それを拒否した。
と、書く。

更に、
日清の台湾領有権をめぐる主張は、まさに近代国際法と中国伝統の天朝朝貢秩序との対決だった。
とも、書く。

清は、「台湾府志」という、古典的書物を引き合いにしたのに対し、大久保は、国際法である、「万国広法」を拠り所とした。
つまり、
荒野ノ地ヲ有スルトモ、其国ヨリ実地之レヲ領シ、且ツ其地ニ政堂ヲ設ケ、又現ニ其地ヨリ益ヲ得ルニ非ザレバ、所領ノ権及ビ主権アルモノト認ムルヲ得ズ」

台湾は、化外の地、として、清政府の領有と主権を認めなかったのである。

黄氏は、正史である、「明史」を引けば交渉は、もっと簡単に終わっていたと言う。
明史の外国伝には、台湾は日本に属すると、書かれているのである。

清朝の朝廷が編纂した、明史のほうが、正統性が高いとの、黄氏の、指摘である。

この問題は、英仏両国の公使によって、妥協案が示された。
1874年、明治7年、日清両国間互換条欽が調印された。

最終的に、清国は、日本の台湾出兵を、住民を守るための義戦として認め、賠償金として、50万両を日本に渡し、それまで日清両方に帰属していた、琉球も日本の領土として認めたのである。

更に、台湾が、清国領有であることが、日本政府の承認によって、確定され、国際的にも、認められたのである。

台湾は、英、仏、独、露の、列強各国の間で、台湾主権を巡り、議論されていたが、問題は、これにて、決着したのである。

更に、ロシアとの間で、長期に渡り、交渉が続けられていた、千島列島と、樺太の領土問題も、1875年、海軍中将榎本武揚特命全権公使が、ロシア政府とのペテルブルグでの交渉で、樺太・千島互換条約が交わされ、日本の北方領土が確定したのである。

ここに、明確にしておくことがある。
それは、日本が、盗んだものではないということ。

当時の、手順に従い、領土を得たということである。

もし、それを変えるためには、新たな国際法により、再度、領土問題について、明確にしなければならないのである。

国際司法裁判所にて、竹島も、尖閣諸島も、正すとよい。
それに対して、韓国も、中国も、無視するばかりである。
つまり、彼らには、正統性が無いからである。

そして、それを、日本側が、明確にしないからである。
何故、日本側が明確にしないのか・・・
日本国内に、反日勢力が存在し、更に、彼らが、その主導権を握るという、とてもとても、へんてこな、状態になっているのである。

中国、韓国の、反日、抗日の前に、日本国内の、反日勢力を明確に国民の前に、晒すことである。

posted by 天山 at 00:06| 国を愛して何が悪い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月31日

国を愛して何が悪い4

韓国の人たちが、韓国が独立国になったのは、日本のお陰であるとは、考えないし、信じないし、そんなことを言えば、猛然と、根拠なき反撃を繰り返すだろう。

何せ、過去を蒸し返しては、金を奪うという、実に、野蛮な民族に成り下がったからである。それは、韓国だけではない。
北朝鮮は、その裏の顔である。

支援、支援、支援で、成り立つ国。
両国共に、である。

韓国が近代国家になったことも、日本あってのこと。
真っ当に歴史というものを、見渡せない韓国人には、所詮、無理なことなのである。

すでに、解決済みの、従軍慰安婦問題も、蒸し返して、保証せよと言う。

当時、慰安婦として、働いた人が、自ら赴いたということも、知らない。
彼女たちは、それで、大枚な金を得て、凱旋して、家族に感謝された。

また、日本軍が、少女を連れ去り、慰安婦にしたという、ウソを流す。
当時は、韓国人が、斡旋業をして、日本軍に仕事を得たのである。

日清開戦へつながる朝鮮問題でも、まるで日本がいきなり朝鮮を侵略したかのように思われているが、歴史はそれほど単純ではない。
黄文雄 捏造された日本史

朝鮮が日本の軍艦、雲揚号に砲撃されて、砲台が一時占領された、1875年の江華事件をきっかけに、独立党と事大党との内紛、1882年の壬午の変、そして、1884年の甲申の変、1894年の、東学党の乱など、朝鮮内部で開戦を巡る、政変が起きていた。

それらを巡り、日本と清国が朝鮮半島で、勢力争いを展開した結果、日清の開戦へと、発展する。

全羅道に興った、新興宗教の、東学党の反乱が起きたとき、1885年の日清天津条約に基づき、日本と清国の両軍が、朝鮮に出兵した。

乱が鎮圧された。
そして、日清両国は、朝鮮からの、撤兵と朝鮮の内政改革について、対立するのである。

ここが、問題である。

日本は、朝鮮の独立を主張した。
清国は、属国とし、保護の名目で、軍を増強した。

この時、日本側が、手を引いたら、朝鮮は、中国の属国になっていた。
更に、その後、ロシアによって、侵略されたのである。

今頃は、ロシア領の一部になっていたのである。

大韓民国も、北朝鮮も無い。存在しない国になった。

それが、どうだろう。
1894年、日本政府が、発表した、宣戦布告の勅令には、
朝鮮は・・・列強の伍伴に就かしめたる独立の一国たり
とある。

それに対する、清国の宣戦詔勅には、
朝鮮は我大清の藩屏たること二百余年、歳に職貢を修めるは中外に知る所あり
とあり、
迅速に進奏し、厚く雄師を集め、陸続進発し、以って韓民を塗炭より救はしむ
と述べて、日本を盗賊と見立てている。

中国は、中華思想により、朝鮮も、日本も、朝貢国としての、認識なのである。
勿論、今でも、そのように考えているところなどは、時代錯誤も、甚だしい。

1876年、日本と朝鮮の間で、日朝修好条約が調印された。
朝鮮が、清国の属国ではなく、独立国家であるとは、日本が最初に、承認したのである。

これだけでも、韓国、北朝鮮は、日本に感謝しなければならないはず。

さて、清国は、日本、ロシアの勢力が、朝鮮に及ぶ事を怖れて、北洋大臣直属総督を派遣して、朝鮮の対外開国を指導したのである。

米朝条約締結の交渉にも、朝鮮は中国の属邦であることを、折りこませた。

更に、朝鮮国王のアメリカ大統領宛の照会にも、声明させたのである。
それも、中国側が指導した。

腑抜けといってもいい、朝鮮である。
断固として、独立国であることを、言わない。
言うのは、日本だけだった。

その後の、朝鮮は、中国の言いなりである。
86年に、朝鮮がロシアに保護を求めた、朝露秘密協定の事実が発覚し、朝鮮国王の廃位を求めたほどに、干渉したのである。

これほどに、清国に干渉を受けていた朝鮮は、日本が、日清、日露戦争で、勝利しなければ、必ず、どちらかの国の一部とされていたのである。

更には、植民地として、現在までも、続いていたはずである。

勿論、朝鮮にも、開化派である、独立党があった。
1884年のクーデターを決行したが、三時間で、清国軍に、鎮圧される。

そして、清国の朝鮮支配が強化されるのである。

その恩を忘れて、言いたい放題の韓国・・・
更には、目に余る、反日の行動・・・

呆れてしまう。

そして、日韓併合である。
その事を、考えるに当り、韓国は、今一度、ロシアに対する、当時の脅威を思い出して欲しいものだ。

ロシアの南下政策は、凄まじいものがある。
中国の一部でなければ、ロシアの一部というのは、空想ではない。
現実、そのように、動いていたのである。

今、韓国が存在するのは、誰のお陰か。

日韓併合の際に、韓国人が抵抗なく、受け入れたのは、何故か。
歴史を真っ当に、お勉強してもらいたいと、切に求めるのである。

ただ、血の気の多い韓国人との、イメージを払拭した方が、いい。
血の気が多い。
つまり、冷静になれない民族。


posted by 天山 at 00:10| 国を愛して何が悪い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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