2012年03月01日

ビルマの希望に会う4

孤児院の施設内に入る。
連絡をしていたので、職員たちが、迎えてくれた。

今回の代表の方は、男の先生である。
子供たちは、英語の授業中です。今、皆を呼びに行きますと、私たちに、椅子を出してくれた。

座っているわけにいかない。
私たちと、ガイド、運転手が、荷物を下ろす。

米、インスタントラーメン、お菓子、ジュースと、私たちの持参した、衣類である。

子供たちが、一人二人と、やって来た。
ハロー
ビルマ語が出来ないから、英語で話す。

そこは、子供たちが、食事をする施設で、皆、自分の席に座った。

私は、全員が席に着いたので、一人一人に、挨拶して回った。
マイフレンド・・・

子供たちの後ろから、肩に手を置き、一人一人である。
微笑む子、合掌する子、小さな子は、はにかむ。

これが、最も大切な行為だった。
今回は、そうしようと、考えてきたのである。

挨拶が終わり、子供たちを、男女別に分けて、衣服の支援を行う。

おおよその、衣類を出して、それぞれの子供に合うサイズの服と、ズボンなどを渡す。ガイドも手伝う。
運転手は、後片付けをする。

女の子たちである。
控え目で、皆で固まっている。

私は、それぞれに、合うものを、その子の元に行き、差し出す。
さあ、どんどん・・・あるよ・・・

日本語でも、通じる。
次第に、皆、笑顔になる。
決して、我先にと、争そわない。

子供たちは、良く見ると、重ね着をしていた。
朝夕寒いからだ。

前回渡したものを、着ている子もいた。
ただ、小さな子供たちには、何も渡せなかったので、今回は、一人に多く渡した。

自分の持ち物などない。
私が上げるものが、彼らの持ち物になる。

女の子には、マフラーもあった。
全員に渡せるものがないが、大きめの子たちに、上げる。
表情が出るのがいい。

渡すたびに、女の子たちは、合掌した。

おおよそ、渡し終えて、一度、席に着いてもらう。
そして、文具をと、取り出したが、ペンはあるが、ノートが無い。
また、勘違いで、入れたつもりになっていたのである。

一人の女の子に、全部渡して、皆に配るように言う。
その他に、櫛、手鏡・・・
皆、女の子用である。

男物が余っていたが、そこに、置いて行くことにした。
更に、前回、タオルが無いといわれたので、バスタオル、フェイスタオルを、まとめて、椅子の上に置いた。

ガイドに、皆で使ってくださいと、言ってもらう。

代表の方に、少し時間を下さいといい、子供たちに、話しかけた。
ガイドが通訳する。

早く、みんなに逢いたくて来ました。
米や、ラーメンも、持ってきました。
さあ、一緒にジュースを飲みましょう。

皆で、ジュースのボトルを開けて、私は、カンパイと、日本語で言うと、ガイドが、なんとかと、言う。
カンパイ・・・

私は、みんなのことは、忘れません。また、来ますよ。
そこで、私は、世界一、歌が上手いんです。日本の歌を歌います。と、言うと、ガイドが通訳する。

子供たちは、真剣に聞いている。
さくらさくら
日本の花です・・・

世界一、歌の上手い私が、さくらさくらを、独唱した。
シーンと聴く。

終わって、私が拍手をすると、子供たちも、拍手である。

コータの、苦笑いが、見える。

次に、私は、即興の英語の歌を作り、皆で、歌おうと言うと、コータが、みんなの歌を聴かせてもらおうよ・・・である。
それでは、みんなの歌を聴かせてください。

ガイドが通訳すると、ある少数民族の歌を歌うことになった。

全員が、その歌を歌った。
手拍子が必要だった。
私も、手を叩いた。

子供たちには、突然のイベントである。

緊張感と、笑い・・・
でも、最後になると、女の子たちは、リラックスして、とても良い表情である。

皆で、写真を撮りましょう・・・
私が言うと、ガイドが子供たちを集める。

男の子たちと、女の子たちと、そして、全員が。

以前もいた、一人の職員の女性の方が、紙を持ってきて、私に渡す。
汗を拭いてくださいということだった。

一人舞台をしているようなもの。
全身、汗が噴出していた。


posted by 天山 at 00:04| ビルマの希望に会う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月02日

ビルマの希望に会う5

全員で写真を撮り、お別れの時間が来た。
私は、代表の先生に、何が必要ですか・・・
と、問い掛けると、ガイドが、聞いてくれ、
おもちゃ、が欲しいとのこと。

おもちゃ・・・
私は、すぐに思い浮かばなかった。
後で、あの施設には、子供たちが、遊ぶための、何も無いと、気付いた。
つまり、ボールなど・・・

トゥクトゥクの周りに、子供たちが、集う。
コータが、最後に、子供たちに、それぞれの、民族を尋ねた時、驚いた。
静かにしていた子供たちから、それぞれの民族を名乗る言葉である。

しっかりしている。
そして、気付いたことがある。
その施設は、毎日、代表が七名で交代制である。そして、それは、皆、ビルマ人である。

ということは、子供たちには、複雑な思いがある。
つまり、自分たちと、対峙していた、国軍は、ビルマ人の軍隊であり、家族が、その軍に殺されたり、酷い目に遭ったのを、見ている。覚えているだろうということ。

それで、先生たちに、懐いた雰囲気がないのである。
ただ、先生たちの、命令に淡々と、従うだけである。
何か、少し、納得した。

さようなら
と言うと、子ども達も、サヨウナラと言う。

ネクストタイム・スィアゲン
英語は、習っているので、通じる。

女の子たちは、トゥクトゥクから離れない。
そして、ニコニコしているのである。
あーーー
子ども達が笑っている。
私は、それで少し安堵する。

トゥクトゥクが見えなくなるまで、子ども達が、見送る。
また、来る。だが、その、また来るが、いつになるのか・・・

トゥクトゥクは、ゆっくり走る。

それから、ガイドの青年と、話す。
色々と尋ねた。

一番は、児童買春のことである。
何と、彼は、通り道で、ここですと、場所を示した。
確実にあるということである。

更に、内容を深く聞いた。
だが、これ以上は、書かない。
情報になってしまう。

政府は、これに対して、どのように対処しているのか・・・
私が聞いた。
今は、まだ無理です・・・
もう少し、政府が落ち着いて、まとまれば、法的処置を考えるでしょう。

あなたは、ガイドで、ここを利用させたことはあるのか・・・
ない・・・

最も多いのは、白人であると言う。
特に、西欧の男たち。

そこに来る子は、親から買う、または、人さらいである。

タイ側の、メーサイには、あるのか・・・
今は、ないでしょう・・・
でも、若い子はいる・・・

これも、これ以上は書かない。
情報になる。

ガイドの仕事について聞いた。
一日のガイド料は、2000バーツである。
高い。
更に、彼は、タチレクより、大変な場所があり、そこにも支援して欲しいと言う。
そこで、私は、料金を聞いた。

行くのに、車で三時間かかり、往復で7000バーツ。
更に、ガイド料と、運転手の料金を考えると、行くことは出来ない。

日本円にして、二万円以上かかることになる。
ボッていると、思った。

ヤンゴンの際も、ボランティア活動に付け込んで、インド系のホテル経営者が、私に提案したが、明らかに、吹っかけていた。

日本人で、しかも、ボランティアをする人は、金があると、見ている。

国境の橋に到着した。
運転手に、300バーツを渡し、ガイドに気持ちとして、300バーツを渡した。
600バーツは、1500円ほどである。

私たちは、ガイドと運転手に、お礼を言い、すぐに出国ブースに向かった。
事は簡単である。
パスポートを受け取るだけ。
それで、スタンプを押されて、橋に出る。

橋では、子ども達が待っていた。

しかし、その前に、私は、橋の真ん中にて、慰霊をする。
子ども達に言うと、頷いた。
そして、私の両側で、子ども達が、見守る中、日の丸を掲げて祈る。

ここでの、慰霊の祈りは、五度目になる。

タイ側の橋の下の、川沿いにレストランが立ち並ぶ。
そこには、多く白人たちがいた。
彼らが、私に手を振る。
私も、彼らに、日の丸を振った。すると、とても喜ぶ。

それから、子ども達に、10バーツを渡した。
今回は、お金である。
ガイドが、橋の上の子ども達は、お金が欲しい。親に言われてする子もいる。それは、食べ物を買うためだと、教えられた。

更に、親子連れの物乞いにも、20バーツを渡す。
そこを歩く人たちは、彼らを完全無視する。

子ども達に、また来ると、言うと、頷く子、英語の出来る子は、英語で言うと理解する。

前回より、素直になった。
子供らしくなったのである。

でも、次に行く時、女の子たちがいるかどうかは、解らない。

今、現在、この国境は、麻薬取り締まりが厳しい。
ミャンマー側から、もたらされるのである。
その詳しい内容は書かない。
情報を与えてしまうからだ。

兎に角、私たちの、メインイベントが終わった。
たった、これだけである。
しかし、これだけのために、ある種の緊張を強いられる。

国境地帯は、犯罪の宝庫である。
何に巻き込まれるか、知れないのである。


posted by 天山 at 07:53| ビルマの希望に会う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月03日

ビルマの希望に会う6

再び、タイに入国する。
おおよそ、二時間の活動だった。

国境を抜けて、メーサイの街に入り、一休みすることにした。
蜂蜜屋さんの前にある、カフェで、コーヒーを注文する。

そこで、漸く、水を飲んだ。
活動している間は、水も飲まない、飲めないのである。

コーヒーを途中まで飲み、コータが、運転手に電話をする。
しかし、つながらないと言う。
何度も、試みるが、つながらない。

コーヒーを飲み終えた。
コータが、車を探しに行くと言うので、私は、待つことにした。

30分ほどして戻り、車が見つからないと言う。
更に、蜂蜜屋の主人にも頼み、電話してもらうが、つながらないのである。

どうするか・・・
どうしたのか・・・

まさか、トンズラした訳ではないだろう・・・
そんなこと・・・

しかし、タイである。何があっても、おかしくない。

コータが再度、警察に行くと言うので、私は、また、待つことにした。
戻ったコータが、警察に調べてもらっているので、私も一緒に行こうと言う。
何となく、不安な気分になり、警察に行くことにした。

警察で、担当の警察官と会う。
私は、そのレンタル会社の名を知らない。
警察は、車のナンバーから、持ち主を捜し、更に、街の警官に、探させていると言う。

ところが、車のナンバーと、持ち主が一致しないとのこと。

その間、一時間ほどを、不安の中で過ごす。
コータは、警察に、被害届けを出すと言うが、警察は、今の段階では、無理だという。
もう少し、時間がかかるらしい。

私は、もう、メーサイに戻ると、言った。
コータも、同意する。
このまま、待っていては、帰られなくなる。

私たちは、帰り道、パパイヤ茶の店にも、立ち寄る予定だった。

有に、一時間半を過ぎた。
もう限界という時、コータの電話が鳴った。

運転手からである。
随分遅いねーーーー
とんでもない、寝惚けた言葉である。
何度も、電話した・・・
あーーー寝ていた・・・

つまり、マナーモードにして、眠っていたのである。

愕然とした。
そして、笑うしかないと、言い合う。

警官に報告すると、ただ、笑った。
そして、私たちに、グッド・ラック、との言葉。

警察署の前で、待つ。
怒る気にもなれない。

これが、タイ人気質である。

いやーーー遅かったね・・・
もう駄目だこりゃ。

オッケー、オッケー、ゴー
と、言うしかない。

何事もなかったかのように、メーサイに向かう。

一時間半の、私たちの心労は、甚だしいものだった。
コータのバッグを積んでいたので、盗難届けを出して、保険から請求しなければと、話していたほどなのに・・・

これが、次ぎの教訓を生んだ。
会社の名前、連絡先・・・
更に、旅行代理店に頼む・・・

色々とあった。

ところが、その後も、アホな話しがある。
新しいゲストハウスに到着して、さようなら、である。
私は、料金を払っていないのである。

誰に、料金を払えばいいのだろう・・・

シャワーを浴びて、一息ついて、そろそろ、レンタル会社に支払いに行かないと、と、コータと出掛ける。
それに、夕食を食べる。

一時間ほど経っている。
もう、外は暗いのである。

ゲストハウスから、レンタル会社はすぐ傍である。
見知らぬ男がいた。
私が、あれっ、頼んだ人がいないと、日本語で言うと、男は、メーサイと聞いてきた。そうです。
すると、男が、あの運転手を呼んできた。
えっ、今まで待っていたの・・・

なんか、すごくボケている。
1500バーツを支払う。
領収書を、運転手が書く。

この、おじさん、学校の先生なのに・・・
あまりにも、惚けていて、面白い。
コータも、呆れている。

コープクンカップ
タイ語の、ありがとうを言い、別れた。

私たちは、ナイトバザールに向かった。
そこで、屋台が立ち並ぶので、夕食を食べる。

二人で、これ笑うしかないねと、言い合う。
まあ、無事に戻れたから・・・
何となく、私たちも、タイ人の感覚になっている。

タイでは、重大なことでも、大丈夫という言葉を使う。
マイペン・ライである。

ああ、マイペン・ライ・・・


posted by 天山 at 06:57| ビルマの希望に会う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月04日

ビルマの希望に会う7

チェンライでは、二日間をゆっくりと過ごすことにしていた。
それは、格安航空券の金額にもよる。
二日過ごすと、バンコク行きが、半額になるのだ。

だが、それは、多くの情報を得るために、実に有効だった。

中でも、初めて知ったことは、チェンライ周辺の村々で、農業技術支援をしていた、谷口巳三郎さんを、知ったことである。

ところが、その谷口さんは、先月、一月にお亡くなりになっていた。
チェンマイの小西さんに電話で、問い合わせて、それを知った。

59歳で、単身タイに渡り、20年間の活動である。
89歳で、亡くなったのである。

その方の活動を少し、紹介する。
ここまで、人に尽すことが出来るのか・・・
全く、報いを求めない、支援活動である。

谷口氏は、1923年、大正12年、熊本県八代郡坂本村に生まれる。
熊本県立農業大学教官を退職後、59歳で、タイに渡る。

農業指導、青少年教育に取り組み、1990年に、タイ北部のサクロウ村に、20ヘクタールの「谷口21世紀農場」を設立する。

農業技術指導のみならず、現地高校生の受け入れ、エイズ患者・家族支援、地球環境破壊防止の植林などの活動を続けた。

農業指導も凄いことだが、タイに渡り、10年が過ぎて、エイズ患者との関わりが出来る。

その時は、政府も、医療機関も、組織立った対策を模索していた時期である。
だが、エイズ患者は、どんどんとその数を増すのである。

田口氏は、そのような農村の中で、農村開発の教育センターを造り、活動していた。

タイの農村は、兎に角貧しい。
男も女も、出稼ぎに出る。
そこで、バンコクから戻り、エイズを発症する。

一人のアメリカ人男性から、タイのエイズがはじまったのである。

田口氏は、政府や、国連が大きく騒ぎ始める前から、色々なアイディアで、援助の手を差し延べていた。

その例は、豚の銀行を造り、産鶏卵のプロジェクトを推進し、婦人には、ミシンプロジェクトで、収入を計り、幼児には、ミルクを配給するなど・・・

やがて、エイズ患者が、バタバタと死んでゆくのである。
男は、二、三年のうちに、女は、それより遅く、二、三年遅れて、死ぬ。

更に、エイズに感染した子ども達である。

タイで、最もエイズ患者が多いといわれた、地域である。
しかし、現在は、田口氏の活動の成果で、最も、エイズ患者が少ない地域となった。

田口氏の、言葉である。

そこに困っている人がいれば、
そこに苦しんでいる人がいれば、
そこに助けを求めている人がいれば、
我々は助けなければならない
これが私の援助の哲学であり、エイズ援助への動機である。

エイズ患者たちは、エイズの川に押し流されて死にゆく人々の群れである。それらの人々は押し流されながら、「死にたくない、死にたくない」と言いながら、岸のつかまる物を求めて、枯れ木のごとく痩せ細った手を差し出すが、それは空に舞うのみである。それがエイズの川である。
田口

貧困と、エイズは、切っても切り離せないものだった。

たとえば、男は、出稼ぎにバンコクに行く。そして、ある日、友人に誘われて、興味本位で、売春宿に、二度、三度と行き、エイズになる。

女は、稼ぎの多い、売春の世界に身を入れる。
金が出来たら、村に帰り、農業をすると、決めていた。
しかし、エイズという、得たいの知れない、病に冒され、更に、産んだ子も、エイズになった。

エイズ予防が、言われたのは、後々のことである。
すでに、タイでは、エイズが蔓延していた。

その田口氏の、エイズ患者との、関わりを書いた本がある。
エイズ最前線

私は、ゲストハウスで、一読した。
ここまで、人のために、尽す人がいる。それも、日本人がタイの人たちのために・・・
驚いた。

田口氏の、活動の地図を見ると、チェンライの南の村々である。
チェンマイから見ると、チェンライ寄り。

この偉業は、亡き後、更に評価される。
そして、私が知った時は、すでに亡くなられていた。

田口氏の、奥様は、日本にて、タイとの交流の会を、主宰されている。
その奥様が書いた文に、
「地球上は人口の急増で必ず食糧危機がくる。その時日本人は今のようなやり方をしていたら助けてもらえないだろう。だから今、自分でできることをタイに行ってしておけば、あんな日本人もいたんだからと助けてもらえるかもしれない」
と、出掛けたという。

奥様は、日本に残り、若者に日本人の心を作ることをしたいと、活動を開始した。

だが、田口氏の、活動には、資金がいる。
退職金は、すぐに飛び、貯えを送り続けたが六年で底をついた。と、書く。

その時、新聞の勧誘で来た、助け神のお陰で、新聞に紹介され、タイ国の田口巳三郎氏を支援する会、を作る事ができたと言う。

これから、田口氏の、活動が語り継がれ、更に、そこからタイの農業を背負う、そして、人のために尽すという、人々が続々と生まれるだろう。

素晴らしい人生である。

同じ日本人として、誇りに思うと共に、私も、田口に真似て、出来ることを、出来る限り行為したいと思う。

田口氏の、タイに出掛ける際の、言葉・・・
あんな日本人もいたんだ。日本を助けてあげようと言われるように・・・

単純な動機。
しかし、その単純な動機を、徹底的に生きることは、難しい。

何を言うのか、ではない。
矢張り、何を行うかである。

行為は、言葉を超える。


posted by 天山 at 00:00| ビルマの希望に会う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月05日

ビルマの希望に会う8

田口氏の、エイズ最前線、という本の中に、大森絹子さんという方が、出てくる。

大森さんは、エイズ孤児施設を、チェンマイに建設した方である。
高地民族のための施設であり、その孤児たちを世話する。

大森さんは、大阪の堺市にある、クリスチャンの病院の看護師をやめ、キリストの愛の導くままに、日本キリスト教医療協力会の一員として、北部タイの病院に勤務する。

その病院は、ビルマ国境に近い、メ・ホンソンにある、欧米系のミッションが、カレン族のために作ったものである。

メホンソンには、私も一度、追悼慰霊に出かけている。
タイ、ビルマ戦線の兵士の道行きの場所である。

矢張り、その頃、高地民族もエイズの激発期にあり、それを見た大森さんは、その撲滅に力を注いだ。
そして、「エイズの最大の被害者は誰か」という問題意識があったという。

思索の末に「それは、エイズ孤児ではないか」という、結論に行き着いた。

大森さんは、四年間をタイで過ごし、更に学問を深めるために、アメリカに渡る。文化人類学の博士号を取得して、帰国する。

そして、金沢大学看護学部の先生をやっていたが、そのかたわら、北部タイの、チェンマイに、「希望の家」という、エイズ孤児の施設を建設するために、奔走した。

現在も、その施設は、ある。

チェンマイの小西さんに確認した。
小西さんは、その施設に伺おうとしたが、丁度、インフルエンザの時期で、施設では、外部からの人を、断っていたという。

だが、希望の家は、存在する。

大物さんは、2001年、肺がんで亡くなられている。
四十代の若さだった。

田口氏によると、希望の家は、ラフ族のプランセン夫妻が孤児たちの養父母として、運営に当っているという。
その運営費は、日本で作られた、NPO法人の支援によるもので、決して余裕のあるものではないと、記されている。

私は、次回、チェンマイに出掛ける際には、是非、希望の家に出向きたいと思っている。
小西さんを通して、子ども達の衣類が必要かを、問うて、行きたいと思う。

こうして、新しい情報を得る。

そして、新しい情報は、私の新しい活動の元になる。
必要とする所、人たちに、手渡しで渡したい・・・

日本は、経済大国になった。
それは、国民の努力もあり、更に、アジアの人々のお陰もある。
金にあかせて、アジアの国から、多くの資源を奪った。

更に、アジア人蔑視は、今も続いている。
アジアは、同胞である。

大東亜戦争、第二次世界大戦も、アジアの独立を目指した、戦いだったはず。

そして、紆余曲折はあれ、日本が敗戦しても、アジアの植民地は、解放され、独立を果たした。

特に、東南アジアは、お互い様の心で、付き合う国々である。
更に、これからは、東南アジア諸国連合、アセアンと、手を取り合い、日本は、進むべきである。

そのために、彼らの助けになるのであれば、進んで、援助、支援活動をすべきだと、私は思う。

そして、何処の国の子ども達も、アジアの未来である。
彼らとの、友情にかかっている。

民族と、宗教、思想、心情の違いを超えて、新しい世界に目指して行くべきである。

幸いなことに、アセアンの人たちは、日本に対して、友好的である。
日本の支援により、アセアンが、復興した。
更に、個人的活動によって、アセアンの人たちと、深く結ばれることである。

口で言うのは、易しいが、行動するのは、難しい。
だが、時代は、それを求めている。

メーサイ、タチレクに出掛けた翌日の夜も、私たちは、ナイトバザールに出掛けて、食事をした。
そこで、思いがけない出会いがあった。

食べ終わり、コータがたこ焼きを食べたいと言うので、たこ焼きコーナーに行った。
注文すると、女の子三人が、たこ焼きを買いに来た。

出来上がりを待つ間、私が彼女たちに、声を掛けた。
一人の小さな女の子に、
アーユー、ボーイ、オア、ガール
である。

男の子か、女の子か、解らなかった。
すると、彼女は、アイアム・ガールと答えた。
そこから、話しが始まった。

私は、彼女に
アイライク・ユーと言うと、とても、喜んだ。
そして、彼女は、私の横に来た。
そして、もう一度、私は、女の子です、と言う。

年を聞いた。
二十歳である。驚いた。私は、中学生くらいかと、思った。
他の二人は、19歳である。
すると、男の子も現れた。
皆、大学の友人であるという。

一番、大柄な女の子が、私に、実は大学で外国人とのインタビューのテーマが与えられました。
色々、質問しても、いいですか、と言う。

私は、オッケーと言ったが、英語に自信が無い。

さて、質問が始まった。
それを、男の子が撮影するという、段取り。

細かなことは、省略するが、コータが、応援してくれて、何とか、質問をこなした。
だが、私たちと彼らが、急速に、親しくなった。
一人一人の名前を聞き、メールアドレスの交換である。

一時間以上を話していた。
私は、彼らに、二つ分のたこ焼きをプレゼントした。
遠慮したが、これが、日本式の付き合いなんですと、教えた。

さようなら、と言って、名残惜しく別れると、後ろから、やったー、オーマイゴットなどと、歓声を上げている。

私たちの活動にとても、興味を持ち、次の時は、是非お手伝いしたいと、言うので、それは、是非、協力してくださいと答えた。

チェンライには、ミャンマー難民が多く入り込んでいるのだ。
コータが見たのは、廃屋に住むミャンマーの人たちだった。

まだまだ、必要なことが、ある。

ミャンマー北部の人たちは、中国にも、入っているという。
新政権が、早く、国内の融和政策を行わない限り、それが、続く。


posted by 天山 at 00:15| ビルマの希望に会う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月06日

ビルマの希望に会う9

誰に頼まれた訳でもないのに・・・
どうして、そんな事をするのですか・・・

昔の知人、そして、茶の湯、いけばな、舞踊などの、お弟子さんたちに言われる。

だから、自己責任である。
戦没者の追悼慰霊も、衣服支援も、その他の行為も、やりたくて、やっている。
そして、これが、私のやるべきことだと、思っている。

少しばかりの、善意はある。
しかし、やらざるを得ないという、気持ちもある。

突き放して見れば、自己満足なのだろう。
だから、人が言う、善意や、偽善という言葉は、あてはまらない。

ただ、限界がある。
それは、お金の問題である。
その資金を得るために、仕事を始めると、活動が出来なくなる。

仕事とは、それほど、大変なことである。

明日、バンコクへ戻る日である。

朝、ゲストハウスの斜め前にある、食堂に行った。
九時前で、今、カオニャオを炊いているから、もう少しと言われて、ハウスに戻る。
その途中で、民家にハバナを売りに、おばあさんが、やってきていた。

そこで、私も、バナナを買おうと、民家の前にしゃがんだ。
すると、民家にいた、おばあさん、娘たち、五人と話しをすることに。
と言っても、通じない。
だから、お互いに、勘である。

モンキーバナナを選ぶと、民家の主たるおばあさんが、一番良いものを、探してくれた。
料金である。
良く解らない。
両手を開き、そして、片手を開いた。
私は、150バーツと思った。
200バーツを出すと、民家のおばあさんが、違うと、私の財布から、20バーツ一枚を出して、5バーツのお釣を貰った。
皆で、笑った。

つまり、15バーツで、一房である。
兎に角、安い。

少しばかり、いて、食堂に戻った。
手羽先二本と、スープと、カオニャオ、もち米である。

食べ終わり、また民家の前を通ると、皆さんが、朝の食事である。
手招きされたので、民家の中に入ると、私の席を作ってくれた。

タイ人で、イスラム教徒だということが、解った。
そして、おばあさんの三人の姉妹と、おばあさんの娘さんの一家だった。

さあさあ、と、私に食事を勧める。
今、食べてきたが、少しばかり、頂く。
これが、タイ料理だと、言う。

普通のご飯と、カオニャオのどちらがいいかと、聞かれた。
私は、カオニャオにした。
すると、一皿の上にカオニャオをもってくれる。

全く言葉が通じないのに・・・
何となく、雰囲気で、解る。
さあさあ、これも、食べて・・・

一通りの、おかずを味見した。
タイ料理の辛さはない。
辛いものは、そのための、タレがある。

すると、隣のおばさんが出て来た。
騒がしいので、出て来たという雰囲気である。

ニープン、ニープン、日本人だよ、日本人だよ・・・

そこで、また、話しが盛り上がるが、全く内容は、解らない。
私は、そこで、両手で、ちょっと待てて下さいと、ゼスチャーして、食堂に戻り、手羽先と、丁度、パパイヤ売りが来ていたので、パパイヤを買おうと思った。

一つというが、食堂に卸に来ているので、一つでは、売らないらしい。
すると、食堂の女の子が、私に一つくれた。
ハウ・マッチ・・・
ノー、ノーと、言う。

私は、20バーツを出した。すると、いらない、いらないと、言う、と感じた。
あまり、無理は、悪いと、ありがとう、コープクンカップと、お礼を言い、民家に戻った。

その、パパイヤは、サラダにするもので、熟していないものである。
ソムタムという、辛いサラダにして食べる。

手羽先、五本と、パパイヤを差し出すと、おばあさんが、いらない、いらない、と、ゼスチャーである。
でも、私は、すごく、楽しくて・・・と、日本語で言い、両手を挙げて、楽しいと、表現した。

そして、ありがとう・・・を繰り返して、皆さんと、別れた。
次に、チェンライに来た時も、皆さんは、ここに住んでいるだろうと、思う。
また、会える。

こんな出会いを、沢山している私である。

とても、へんてこりんな格好をしている、私。
着物を着ていると、増しなのだが・・・
タイ人の寝る時の、格好なのだそうだ。

コータに、話して、後で、写真を撮りに行きたいと言ったが、結局、撮らなかった。

翌日は、一時の便であるから、急ぎ用意することはない。
マッサージも、しなかった。

チェンライのマッサージは、安い。
二日目に、私は、フットマッサージに出掛けた。
石の地蔵さんのような、女だった。
強くしていいと、言うと、本当に強くしてくれた。

二回目も、その女に、タイマッサージをしてもらった。
だが、彼女は、オイルマッサージをと、勧誘する。

コータが、夜、暗くなってから、マッサージに出掛けた。
そして、憤慨して、帰ってきた。
駄目だ。
どうした・・・
エッチマッサージにしようとされて、もう大変だった。

つまり、夜になると、マッサージの顔が変わる。
彼女たちは、安い料金でマッサージをするので、別料金のエッチマッサージを勧めるのである。

コータの場合は、本当に最悪で、タイマッサージなのに、やる気なし。
テレビを見て、エッチマッサージをしないものだから、ただ、摩るだけ。
コータは、タイ語が出来るので、もっと、力を入れてというと、痛いほど力を入れるという。痛いから、もう少し弱くというと、また、撫でるだけ。

その顔は、ホリエモンにかつらを乗せたような顔をしていたと、言う。
ああ・・・

それから、マッサージに行くのを、止めた。
タイマッサージは、一時間で、150バーツと安いのだが・・・

更に、コータは、夜の飲み屋に出掛けて、愕然したという。
ガマ蛙のような、女が横について、そろそろ、出ましょうよと、誘うと言う。

連れ出し料を貰いたいのである。
これも、ああ・・・・


posted by 天山 at 00:01| ビルマの希望に会う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月07日

ビルマの希望に会う10

チェンライから、バンコクに移動した。
暑い。
矢張り、気温30度である。

そのまま、バスに乗り、パタヤに向かう。
いつもの、ゲストハウスを目指す。

本当は、定宿のバンコクの下町の、マンションアパートでも、良かったが、予約しなかったので、満室だと、また大変と、そのままパタヤに向かう。

丁度、繁忙期である。
だから、ホテルはいつもより、高い。
しかし、私たちは、現在の料金より、安く泊まれる。
特別扱いなのである。

私たちの、活動を知る、従業員のお陰である。
ボスには、内証で、いいですよ・・・

私は、早速、あのカンボジア流民の、母子に逢いに行った。
いたいた・・・
男の子が、すぐに、私を指差した。

目は、すっかり良くなっていた。
母親が戻り、目のお礼を言う。
良かったね・・・

そこで、また、男の子を連れて、コンビ二に向かった。
今度は、好きな物を、選ばせた。
おもちゃ付きの、キャンディーを選ぶ。

コータに、言われた。
子供は、食べ物より、まず、遊ぶものが欲しいと。
そこで、今回は、それを許した。

そして、食べ物である。
ソーセージや、パンを買う。
男の子は、チョコのコーンフレークが、欲しいというので、それも、買った。
レジに行く。

従業員が、その子に何か言う。
そして、私に対して、お礼をいいなさいと、言っている。

手を合わせて、コープクンカップ。
他の従業員も、その子に、話しかけた。
良かったなーーー
とで、言っているようである。

その親子だけは、同じ場所に、同じようにしている。
確実に、流民であり、組織に属してはいない。

その他の、流民の様子を観察していると、時間制で、交代している。
怪しいのである。

物乞い商売・・・

それでも、哀れである。
ただ、お金を上げても、彼らの懐には入らないと、知っている。

パタヤでも、屋台と、市場から買ってきた物を、食べる。
その方が、楽しいし、安い。

顔馴染みになった人たちも、多い。
特に、同じ場所に屋台を出す人は、私が行くと、微笑む。
今日は、買わないの・・・
そんな風に、聞える。

ボランティアらしさ・・・
それを、人は求める。
善人という、イメージである。

だが、実際、ボランティアで、善人は、少ない。
公的ボランティア、有名団体のボランティアは、ビジネスクラスに乗り、高級ホテルにも泊まる。
ボランティアをしているのだから、当然であると、思う。

その資金は、多くの人たちから、支援して貰った物。

身の安全をと言うが、本当か・・・

私の活動は、個人活動である。
私が自己責任において、行う。
らしさ・・・
そんなことを、考えたこともない。

そして、そんなことを、言う者は、ボランティアなどしない。
論ずる者は、論ずる場所にだけいる。

何十年か前の情報を振りかざして、私にアドバイスするという、馬鹿、アホもいる。
屋台の物も、切り売りの果物は、食べないように・・・
一体、いつの話しだ。

確かに、衛生観念が違う。
しかし、同じ人間である。最低限の衛生観念はある。
特に、タイでは、何も問題ない。実に、衛生的である。

屋台の、焼肉を買うと、一度必ず、焼きなおす。
焼いた後で、菌のついたものを、もう一度、焼き直す。
更に、炭火であるから、美味しい。

ミャンマーだけは、果物の屋台は、水と包丁の殺菌が必要である。

私のように、現地に何度も出掛けている者の、情報には、叶わない。
ただし、特別な情報は知らない。
政治的地位の高い人などの、情報は、知らない。

私が知るのは、庶民の生活である。
そして、中でも、スラムに住む人たちや、貧しい人たちのことである。

何せ、私は、その人たちと、友達である。
一緒に食事が出来る相手である。

ボランティアガイドを書いても、私の行くところには、行けないだろう。
皆が、見ていない、現状を見るのである。

ボランティアツアーなるものの、正体は、愕然とする。
あれは、商売である。

それが、子供たちと、過ごした半日の思い出・・・
困難な中で生きる子ども達の笑顔に、元気をもらいました・・・

どこの話だ。

それで、支払った金が、どのように使われているのか、知っているのか・・・

アホは、死んでも、アホなのである。
馬鹿も、同じ。

そして、観光をして、帰国する。
いい気なものである。

その感覚が信じられないのである。

そろそろ、終わりにする。

私は、これから孤児施設に、食糧支援も、行う。
黙って寄付をする人・・・
それが、本当の善人である。

私は、善人ではない。
海外に出て、大声で、怒鳴り散らす私が、善人であるはずがない。

最後は、振り返って、馬鹿者・・・・と、怒鳴る。
意味が解らないだろうから、まだ、殺されない。
いずれは、殺されるかもしれない。

posted by 天山 at 00:07| ビルマの希望に会う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月08日

性について。193

売春行為に含まれる、主体は、二人である。
男と女・・・

今は、男と男も、女と女も、あり。

マンシニは、
客について論じられることは、ほとんどない。
と、言う。

確かに。

しかし、売春禁止の国では、売買が罪になる。
ところが、矢張り、今でも、客については、あまり論じられないのである。

日本の場合は、売春でも、捕まるのは、圧倒的に、児童買春である。
生徒と、先生・・・
更に、いい大人と少女・・・

行為の責任主体は果たしてだれか、主犯者は男性の方か女性の方か、どれくらいの比率か、この種の行為において客は主犯か共犯者か、客も売春婦も共に主犯者なのか、こうした諸点が問題である。
マシンニ

原則論からだと、男女は平等となっている。

ところが、おおよそ、どの国でも、売春婦は捕まるが、客の方は無罪である。

法律的見地を別にして、道徳的にいって、両者のいずれか一方が他方より不届きで有罪であるとみなすべきであろうか。この問題に対する解答は、もう何百年の前から示されてきたところであり、責任はもっぱら女性のみにあり、処罰と制裁の対象は女性のみに限られるということである。
マシンニ

とは、欧米の、キリスト教世界に多い・・・
いや、アラブも、である。
つまり、旧約聖書を道徳として、掲げる民族は、皆そうである。

つまり、女は、男の付属物であり、家畜より、劣る者であるとする、思想である。

モーゼの十戒の中に、汝、姦淫するべからず、とあるのは、人の妻というより、女は男の所有物であり、それを盗むなと、同じなのである。

更に、その戒があるということは、もっぱら、行われていたということである。

マンシニは、それを省略している。

アラブ、イスラムでも、殺されるのは、女である。
男は、罪にされない。

法律的見地も何も、まず、その民族の道徳観念が、どこから、流れているかである。
その、道徳観念が、法律の前進になるのである。

それではいったいどの程度、客としての男性に責任ありとなしえようか。それは、公正という点からすれば、男性が女性のおかれている拘束と奴属状態にどの程度乗じようとしたかによって決まることである。
マンシニ

純潔な少女が、買われて、立派な娼婦になる。とすると、それは、少女を買った者が、罪に問われる。
その逆は、若い男が欲求を満たすために、娼婦の所に行く。この場合は、厳格な道徳に反するとまでいえないが、少なくとも、宗教に反する、行為の共犯者となるが、この相手の女性は、この行為に何らか関係しているというのだろうか、と、マンシニが言う。

売春禁止・・・・
どの位、具体的に、規定されるのか・・・
それぞれの国によって、違う。

そこで、権威ある人たちが、
売春を抑える一番敏速な手段は、客に責任を負わせ、客を処罰することです。
と、なる。

日本では、少女売春は、客が罰せられることだったが、それから、少女の側も、罰せられるようになった。

だが、客が罰せられるとは、売春行為自体が、犯罪と規定されることである。

大抵の国の場合はそこまでいっていないことも周知の通りである。
マンシニ

じっさいは、問題はそんなことではないのであって、本質的にはだれが最も罰せられるべきか、男か女かなどを知ることはどうでもよい。というのは、男と女の結びつきが売春仲介業者やヒモ、ホテル業者、酒場の経営者、売春婦を歓迎するカフェやバーの主人によって可能とされてきたケースが80%も占めているからである。
マシンニ

そして、客は、売春の共犯者であり、その役割は、当然、時代と、場所の具体的条件に従って変わるものだとの説である。

そして、漸く、
男女のいずれの資格・立場にかかわらず売春行為を禁じている教会以外は、近代社会では常に警察は客の立場の保護に任じ、客の安全を図ってきたのである。客はその社会的地位のいかんにかかわらず法を遵守するいっさいの市民に与えられる保護を受けたわけである。
マンシニ
と、なる。

教会以外は・・・
教会が、禁止していたのである。

それが不思議なことに、後に、教会の聖人となる者たちも、それを、利用したという、事実である。
一々、名前を挙げない。

戦時の際に、兵士のために、売春婦を用意したのは、すべての国に言える。
二十代の男たちを、静めるためには、それが、必要だったのである。

更に、売春により、外貨を稼ぐという、国家的な目的も、あった。
戦後の荒廃した街で、売春婦たちが、活躍し、その街を一躍有名にすると言う、皮肉。

脱線するが、女の又は、凄い力を持つのである。
決して、無くなりはしない、売春行為である。

売春行為を、もう少し突っ込んでみる。


posted by 天山 at 00:18| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月09日

性について。194

フランスでは義務兵役制によって、売春婦を求める客が充分補充され、これに戦時中の何百万という人間の動員で、客の列が絶えなかったのはもちろんである。
従来、至るところ、常に兵士、旅行者、海員といった、その境遇からして妻と離ればなれになった人々がいたわけであって、女性に相手になってもらいたいという願望を彼らが抱いたとしてもそれは人間性の道理である。
マンシニ

しかし、フランス政府は、売春禁止を行ったにも関わらず、アルジェリアに娼家を残すことで、問題が解決すると、信じた。

結果、野戦軍用慰安所が、都市地域登録特殊営業店となり、酒場の経営者や、ヒモ、本国から、若い売春女を、大量に、それも、多くの場合、欺かれて送られてきたという。

マンシニは、
破廉恥な富を築き続けている。
と言う。

それには、軍、当局は、何もせず、傍観している。
仲介業者は、多数の女を、淪落に陥れ、完全に、奴属させているのである。

事実資料は、確実なものとは、いえないが、司法警察は、パリで、毎日客になるものは、四万人を超えると読む。

肯定的な結論は、公然的に売春婦集団の組織と統制の手段という問題に帰着する。
マンシニ

そうして、売春行為を、規制するために、ヒモ、売春業者、仲介を、これに関して、確実に排除する必要がある。

そして、売春婦にもすべての市民と同じく強制的な納税義務を負わせ、社会保障の適用を受けることにすれば、いかなる特殊な意味でも無能力者ではありえないことになる。
マンシニ

これが、最終的な、売春婦に対する、マンシニの考え方である。

それほど、売春行為は、消滅しないということである。
そして、業者を追放して、売春婦の権利と、義務をかせる。

日本にも、性的サービスボランティアが、登場した。
売春行為ではなく、障害者に対する、性的サービスを行うものである。

人間は、誰もが、性というものから、逃れられないものなのである。
だから、理想的な、売春行為の形を、考える必要がある。

マンシニは、売春婦を求める男は、それ以外に、欲求を満たしえない人、ただ、快楽を求める人であると、言う。

そして、障害者や、生理的に、売春婦以外に、性的関係を持つことに、同意してくれるような、女がいないという、理由で、売春婦の元に行く。

また、素人の女を手に入れるほど、金も余裕も無いという人である。

そして、更に、普通の夫婦では、用いられない性交技術を求めている人である。
売春の世界に、刺激と、憧れを抱く人。

性的異常者、性的無能者、偏執狂、サディスト、マゾヒスト、性的倒錯者、等など・・・

市民の中のひとにぎりの集団の、多かれ少なかれ、やむにやまれぬはっきりした欲求や異常性格に応じて売春の営みを法律的に組織することは、公共の利益や世論の心理に反することである。その他の者については、自由な合意による性行為は、個人の良心の問題であろう。
マンシニ

つまり、売春は、なくならない。
故に、理想的な、売春のあり方を、考えたというものである。

最後に、
社会的見地からして、男女両性の間の関係が、多数の人間の集団が淪落するのを防止する目的で考察されなければならないとしても、それは別の角度からみるべき問題である。
マンシニ
となる。

売春の歴史は、長い。

その初めは、神殿にて、行われるほどの、神聖なものだったという。
それが、神に捧げられる行為として、理解されていた時代もある。

そこに、女が男に、従属するという、考え方から、やがて、女を性の道具とする、考え方が生まれる。

酷いものになると、女に、快感を覚えさせないように、クリトリスを切るという行為までするようになる。
主にそれは、イスラムの中にある。

更には、男の割礼が、それを生んだのである。

差別・・・による、売春行為が、延々と続けられたといえる。

また、アフリカの一部では、子供を必要としなくなると、女のヴァギナを縫い合わせて、アナルセックスに移行させる部族もある。

そして、新しい時代は、同性愛までも超えて、無性の時代が、はじまる。
無性とは、性が無い。

男でも、女でも、更に、ゲイでも、レディーボーイでもない。無性である。

性というものを、必要としない人間の、出現である。
これは、進化なのか。

クローン人間の登場も、有り得る。
試験管ベビーは、とうの昔に始まっている。

だから、性のあり様が、個人に帰すのである。

合意の上で、性行為をする。
それは、良心の問題であると、マンシニは、言う。
宗教的、道徳観念ではなくなったのである。

快楽を求めるのは、人間が生きるためである。
その快楽を負うのが、性である。

とりあえず、売春の歴史を終わる。
いずれ、また、触れることがあるはず。

posted by 天山 at 00:00| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月10日

性について。195

売春の歴史を書いた。
書き足りないが、いずれ、また、何かの拍子に書くことになるかも・・・

次ぎは、性同一障害と、レディボーイに関する、問題提起である。
だが、その前に、少し寄り道して、熟年の性を考える。

ここでは、熟年とは、40歳以上を言うことにする。

2000年に、日本性科学協会が、男女1000人に行った調査がある。

パートナーからの、気乗りしない性交渉に応じたことがあるか、という質問に、よくある、時々ある、と回答したのは、40代女性の三割以上で、50から60代の女性は、四割以上である。

男性側は、よくある、時々ある、と答えたのは、40から60代で、一割程度。

男は、求め合ってしている、求めれば応じる、と思い込んでいるが、女は、しぶしぶ、なのである。

更に、男の方は、長年の妻であるから、相手のことより、自分の射精に重きをおく。
自分のペースで進み、そして、射精して、終わりである。

熟年の性生活が、実に、味気ないものになっている、現実がある。

若い頃とは、違い、触れ合う、コミニュケーションが無いのである。

定年・・・
しかし、セックスに定年は無い。

1994年に、性科学会が、セックスレスの定義を発表した。
それによると、
カップルの合意した性交、あるいはセクシャルコンタクトが一ヶ月以上なく、その後も同じ状態が長期にわたることが予想される場合。
である。

この、セクシャルコンタクトとは、抱き締める、キスをする。ペッティングやオーラルセックス、裸で一緒に寝ることも含むもの。

セックスとは、挿入と、考えているのが、男である。
女は、それがなくても、十分に満足する場合がある。

生殖のための、セックスは、本能の行為で足りる。
しかし、生殖以外の、セックスでは、本能を切り離して、性というものを、作り上げる努力が必要なのだ。

勿論、宗教の中には、生殖以外のセックスを禁止しているところもある。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教である。
しかし、禁止されているが、信者は、皆、セックスを楽しむのである。

日本人から、見ると、それは、逸脱しているように見えるほどである。

性というものを、追求していくと、熟年の性とは、実に、人間性に富むものであるということが、解る。

若い頃とは、全く、その姿勢が違うのである。
セックス・・・
熟年の場合は、それは、死に至るまでの、深い付き合い、関わり、そして、あるいは、死というものをも、包括する。
つまり、性的満足は、死の恐れをも、軽くするのである。

女の場合は、閉経という事実がある。
その前後で、女の意識も変わる。

お役目が済んだという人。
これからが、楽しむ期間だと、思う人。

閉経後に、セックスをお勤めと、考えていた人には、それ以後のセックスが、苦痛になるという。

性、から、セックス、そして、エロスに至る道を、人間は、辿ってきたし、また、熟年の性は、エロスへと、向かうことで、性と、セックスが、昇華するはずである。

ただし、私が昔、相談を受けた中には、夫が機能不全で、夫公認の恋人がいると、言った、50代後半の方がいた。
彼女の悩みは、それが道徳的に悪いことか、また、それが良いとして、まだ恋人を持ってもいいかという、問題だった。

要するに、セックスが無ければ、生きられないタイプである。

夫が、勃起不全で、恋人がいるという、若い女性にも、多く会った。

凄いと思ったが、結婚初夜から、セックスが無く、会社の上司と付き合って、男女の性の交わりを知り、愕然としたという、相談もあった。
勿論、離婚の相談である。

私は、彼女に、それを夫に言い、どうしてセックスが無いのか、確認して欲しいと言った。
後日、彼女が来て言う。
夫は、初めから、不能なんです。
でも、離婚を言うと、死ぬと、言い出しました。

それら、幾度かの、相談の後、よくやく離婚が出来たと言う。
夫の不能に関しては、秘密厳守ということで。

その場合は、完全に機能的に問題だった。
だが、精神的問題の場合もある。
その場合は、本人、夫にも、来て貰うが、中々、夫は、来ない。

50代で、未亡人となった、女性は、毎晩夫のセックスがあったという。
ガンで亡くなったが、最後まで、夫は、妻とのセックスを続けていた。

そして、夫が亡くなり、彼女の不安は、セックスの相手がいないことである。
私は、恋人を持つことを勧めた。
そして、念願叶い、恋人が出来た。

しかし、問題である。
相手方が、あたなは、濡れないと言うのである。

私に、自分のソコを鑑定して欲しいと言われたが、医者ではないから、出来ない。兎に角、ゼリーなどを使い、挿入をスムーズにする方法を教えた。
その方は、週に一度、カウンセリングのように、私の所に、やって来ては、恋人との、セックスのあれこれの、アドバイスを求めた。

熟年の性は、セックスから、エロスへの変容の時期である。
より豊かな、人生を送るためにも、熟年の性を楽しむべき。

少し、熟年の性を詳しく、眺めてみる。


posted by 天山 at 07:13| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。