2012年02月25日

天皇陛下について。104

建国の祖、神武天皇は、どのようなことをしたのか・・・
敗戦から、その話しは、無くなった。

学校で教わることもなくなった。
私も、知らなかった。

遠い記憶であるから、それは、物語になる。
そして、神話である。
と、しても、その話しは、面白い。

九州、日向、宮崎から、神武天皇は、統治下の、やまと民族を引き連れて、九州の東海岸を北上する。
豊前、大分、そして、宇佐、筑前、福岡に進む。

この、福岡にしばし、留まり、稲作を伝えている。
時は、縄文時代の、後期である。

稲作が伝えられたのは、弥生より、少し早い。
弥生が始まる、500年ほど前からである。

それを終えると、瀬戸内海を東に進み、安芸、広島、備前、岡山を経て、目的地に近づく。出発以来、10年を経ている。

更に、上陸し、龍田を目指す。が、道が狭く、険しい。
そこで、引き返し、東へ回り、生駒山を越えて、大和に入ろうとした。

その頃の、大和には、長髄彦、ながすひこ、という、土人が住んでいた。
彼は、天皇一行を迎え撃つ準備をする。

そして、激しい戦いが始まる。

地の利は、土着の、長髄彦にある。
天皇は、圧された。

そこで、天皇の兄である、五瀬命、いつせのみこと、が、流れ矢に当たり、重傷を負う。
天皇は、兄の元に掛け付け、言う。
この傷を受けたのは、私の考えが間違っていたからだ。
日に弓を引いても、狙いが定まるわけがない。
日の神の子孫である、我々が、日輪に敵対するような方法は、あるまじき事。
道を変える。そして、日を背に戦うのだ。

日を背にして、大和に入るには、大迂回が必要である。
そこで、再び、海辺に集結して、遠く紀州の海岸を回り、熊野から入ることにする。

その途中で、五瀬命は、お亡くなりになった。

波風の強い、紀州灘を行く。
難航した。
そのために、航海中、暴風雨に遭い、稲飯命、いなひのみこと、三毛入野命、みけいりぬのみこと、が、それを鎮めるために、海中に投ぜられて、亡くなる。

お二人共に、天皇の兄である。

やがて、熊野に上陸する。
そして、険阻な山を越えて、大和の吉野川の川尻に出た。

この時、道案内をしたのが、高天原から派遣された、大きな一羽の鳥、八た烏、やたがらす、である。

やがて、宇陀地方へ行く。
そこでは、兄ウガシ、弟ウガシという、兄弟がいた。

使者として、使わされたのが、八た烏である。
天津神の御子が、お出ましになった。お前たちも、是非この方にお使えするように、と伝える。

だが、兄は、使者を追い返し、謀を立てて反抗した。
だが、結局、自分が作った、罠に落ちて、滅びる。

さて、続いて、八十タケル、やそたける、を討ち、磐余邑、いわれむら、では、兄シキ、弟シキの兄弟がいて、こちらも、弟は服したが、兄が反抗した。
だが、これも、敗れる。

やがて、長髄彦との、戦いである。

彼らの本拠地は、登美、鳥見である。
激戦となった。

この時、天皇の弓の上にとまったのが、金色の鳶、とび、である。
鳶は、稲妻のような、鋭い光を発し、長髄彦の軍勢を照らした。
そのため、彼らは、退却する。

それから間もなく、長髄彦から、天皇へ使いが訪れた。

かつて、天津神の御子が、天の岩船に乗って、天から降りられ、今、私の前におられます。御名は、にぎはやひの命です。私の妹をお后にされ、すでに御子まで、お生まれです。その、にぎはやひの命に私は仕えていますが、あなたは、天津神の御子だといいますが、これは、どういうことでしょう。

神武天皇は、そのことは、知っていた。そこで、それを確かめるために、何か証拠となるものを、と使者に伝えた。

そこで、長髄彦は、にぎはやひの命の、秘蔵の、天の羽羽矢と、歩ユギ、からゆぎ、を、使いに持たせる。

神武天皇の方にも、同じものがある。

それを、知った、にぎはやひの命は、長髄彦を諭す。だが、中々、頭を縦に振らない。
やむなく、にきはやひの命は、長髄彦を討ち、軍勢を率いて、帰順するのである。

のちの、物部氏が、この、にぎはやひの命の子孫である。

こうして、大和地方は、平定された。

そして、畝傍山の麓、橿原の地を選び、そこを皇都と定められ、新たに、御殿を作らせた。

みことのりを下してのたまはく
天皇は、仰せられた。
われ、東に往きしよりここに六年になりぬ・・・
おほみたから心すなほなり、巣に住み穴に住む習俗、これ常となれり・・・
日本書紀

お言葉の最後は、
八紘をおおひて宇とせむことまたよからずや
である。

当時は、巣に住み、穴に住む生活である。
縄文期である。

これは、おほみたから、つまり国民を小屋に住まわせてやりたい・・・

八紘とは、あめのした、宇とは、家である。

この思想は、昭和天皇が、具体的に示した。
戦争中の天皇の御住まいは、防空壕だった。それを、お文庫という。

敗戦後、皇居の焼かれた宮殿再建に際して、
国民が一つ家に住みえていないのに、わたしだけが、立派な宮殿に住むことは、できない。再建は、待つように・・・

神武天皇から、一貫して流れる、天皇思想である。




posted by 天山 at 00:10| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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