2012年02月23日

天皇陛下について。102

二千六百余年といわれる長い国史の伝説及び記録の中に、天皇と国民大衆とが直接利害のために闘争した事例が絶無であるのは、皇室が自ら政権を行われる期間が短かったためばかりではなく、皇室自ら豪奢をいましめ、常に質素なご生活をもって歴代一貫されたためでもある。なにより、京都の皇居は、四囲に堀なく防備なく、婦女老幼でさえたやすく乗り越え得る程度の築地土塀を廻らしてあるだけである。
里見岸雄

しばしば政治的兵乱に脅かされながらも、かくのごとき平和な宮殿に一千年歴代がご安住むになられたことは、それこそ聖徳限りなきものがあり、国民を恐れる必要がなかったからである。
里見

このような、君主は、世界に唯一である。
国民を恐れる必要が無い。
国民を敵にする必要がいなのである。

何故なら、陛下は、国民の側にいるからである。

私の知る限りでは、
仁徳天皇は、家々から、炊事の煙が上がらないことを見て、民の窮乏を知り、課役を免除し、自らは、幣衣にも、甘んじた。

その後も、
元正天皇は、地震などに際して、わが身の不徳が天災をもたらすと、「朕が徳非薄にして民を導くこと明らかならず」と、わが身を反省し、恥じた。

聖武天皇も、「万方罪有らば予一人に在り」と、全ては、私の責任であると、自らを責めたのである。

里見氏も、
日本歴史上、庶民が支配者階級に対して暴力的抗争を敢えてした室町時代の土一揆、徳川時代の百姓一揆はその数幾数回の多きに達し、第百二代後花園天皇足利六代義教の永亨元年、播磨の土民の蜂起して一揆などは「国中に侍をあらしむべからず」と号し、守護赤松満祐の軍を敗走せしめている。
と、書く。

更に
これと類を同じうした土一揆が文明十七年から十八年にかけ山城一帯に勃発した。いわゆる山城一揆といわれるものであるが、時は第百三代後土御門天皇の御宇足利将軍は九代義尚の時であるから、さまに世は戦国応仁の大乱時代である。
この時、京都の一揆が室町幕府の鎮圧を避けるため内裏に立て籠もるかもしれないという風説があったので、廷臣は会議を開いたが、万一に備え、御所の周囲に壕を掘って防衛すべきだという意見を吐いた者があった。すると、「親長記」で有名な甘露寺親長は「以って外の事也、外聞おいて然るべからず」と反対し、右の提案は一議にも及ばず沙汰止みとなってしまったが、乱に遭遇して土民を怖れざるものこそ日本皇室であったといわなければならぬ。
と、書くのである。

民が、皇室を盾に取り、乱を起こしても、そのままに・・・
しかし、天皇の皇居を、誰一人、利用する者が無かった。

天皇、天子様は、別な存在なのである。

統治する、天皇ではなく、統治権を有する者に対する、反乱である。

歴代天皇を、眺めると、皆、国民の側に立っているのである。
統治権を有するものを、諭すのは、天皇のお言葉であった。
そして、それは、国民の声なのであり、為政者は、それを拝して、耳を傾けた。

この、天皇の権威を保持してきたのは、正に、民族の、知恵といえる。
内裏は、超然とし存在する。
そして、統治権者も、国民も、それに関しては、別格であり、統治する天皇の権威を、認めるという、ものである。

明治維新が、進んだのは、天皇の存在あればこそ、である。
更に、敗戦後、天皇が、留まったゆえに、内戦に至らずに済んだのである。

また、国内に、共産主義が、気勢を上げた時も、昭和天皇は、あの者たちも、日本国民ではないか・・・と、側近を誡めた。

宗教、思想、主義に対しても、天皇は、すべてが、国民であると、許容したのである。

宗教の迫害を行ったのは、その時の、為政者であり、統治権を有するものである。

良し悪しを問わず、それらであった。

いずれの国においても帝王の居住はことごとく城塞である。帝王が城に住むことは外敵に対抗する場合のほかは、即ち国民の襲撃に備えるためである。
里見

外敵、国民の、襲撃・・・
天皇には、敵は、存在しなかった。
世界の君主の中で、その心境を有したのは、日本の天皇のみである。

それを、今、何故かと、考える。
何故、天皇が、それほど、国民を信頼したのであろうか。

ここで、天皇の、存在の核なるものを、見なければならない。
天皇は、国の祭祀を行う者なのである。
国民を代表して、それを延々として、行う。
その向かう相手は、皇祖皇宗であり、それは、日本の祖霊である。

そこに、何の迷いも無いということだ。

そして、驚くべき事は、毎日、国民の幸せのために、祈る存在であるということ。
その祈る国民の、存在を敵と見なすことができるか。出来ない。
敵など、いないのである。

前ローマ法王、ヨハネ・パウロ二世は、遅まきながら、対立する宗教との、対話を実践した。
しかし、ローマ法王庁は、世俗化して、そこから、抜け出せないのである。
最も、狡猾にして、平然として、不正を行うほどに、成り果てたのである。

結局、ローマ法王の、権威は、カトリックにしか、及ばない。
対話し、和解を呼びかけたが、それが、見破られて、何も変化なし。
足元を見られたのである。
要するに、ローマを本山とするようにとの、対話だった。

それは、過去に行った、民族、他宗教への、謝罪がなかったからでもある。
その、虐殺の歴史を封印して、対話など、成り立つことが、おかしい。

昭和天皇が、敗戦後、退位しなかったのは、その責任と、贖罪の意味からである。
生き地獄を生きたのである。

国民の悲しみと、他国民に対する、謝罪を一生背負って生きたのである。

はからずも、国民と、他国民を不幸な状況に置いた責任である。

その、恨みも、憎しみも、怒りも、呪いも、すべて、御一身に受けようとの、御心である。

わが身の、不徳の致すところ・・・
これが、天皇の御姿である。




posted by 天山 at 00:19| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。