2012年02月06日

神仏は妄想である。361

神道の自然観を見るために、ミルの論文を紹介し、更に、神道の自然観の一部を書いた。

ここで、更に、ミルを続けず、1670年に出版された、スピノザのエチカと並ぶ、神学・政治論、から、自然観を推察してみる。
スピノザは、聖書の批判、哲学と神学の分離、国家に対する、教会の従属性、思考と自由を主題にする。
今では、当たり前のことだが、当時は、到底、受け入れ難いものだった。

これにより、如何に、当時以前は、蒙昧だったかということである。

自然を捉えるのに、ユダヤ教、キリスト教が、如何に、お粗末だったということが、解るのである。
つまり、最初から、観念により、すべてを理解するという、観念まみれの、考え方をしていたのである。

余計なことを、言えば、西洋の思想に侵された日本人の多くも、西洋の観念により、多くを考えるようになり、日本の考え方を、卑下したのである。
実は、西洋よりも、自由で、融通無碍の考え方をしいた、日本人を、知らないのである。

訳語を使い、語り合うことが、第一級と、信じてしまった、哀れな人たちが、多く生まれた。

人間の把握力を越える知識を神的な知識と呼ぶように、その原因が一般に知られない出来事を人々は通常的な業、或いは神の業と呼ぶ。何故なら民衆は自然の中に何か常ならぬこと・彼らが平素自然に関して持っている意見と矛盾するようなことが起こる時に、神の能力と摂理とが最も明らかに現れると考える、殊にその出来事が彼らの利益又は利益をもたらす場合に於いて然りである。
だから彼らは自然がその秩序を守らないーーそう彼らは信じるーー時に神の存在が最も明瞭に証明され得ると思うのである。
スピノザ

そのように、考えていたのである。
そこで、スピノザは、言う、

この故に彼らは、諸物又は諸奇跡を自然的原因に依って説明し・或いは理解しようと努力するすべての人々を目して、神を或いは少なくとも神の摂理を否定する者と見做す。
換言すれば彼らは、自然がいつもの秩序に従って活動している限り神は何ら活動していないと考え、之に対して神が活動している限り自然の能力と自然的諸原因とは働きを停止していると考えるのである。
かくて彼らは種類において相互に区別される二つの能力即ち神の能力と自然物の能力とを表象する、もっとも後者は神から一定の様式に従って決定されたもの、或いは(人々が今日概ね考えているところによれば)神から創造されたものではあるが。
しかし彼らはこの両能力を如何に解すべきかについて、また神並びに自然を如何に解すべきかについて何も知らないのであり、ただ神の能力を尊厳な王侯の支配の如く表象し、自然の能力をば暴力又は衝動の如く表象するのみである。
スピノザ

私は、これを観念まみれ、と呼んでいる。
更に、ユダヤ教においては、それが、実に甚だしいのである。

そこに、創造主という、神の存在が、壁になり、自然を真っ当に見ることが、出来ないのである。

人間の、理性と、知性を、狂わせる、創造主、神という、観念である。
彼らの、問題解決は、すべて神に行く。

かくの如くにして民衆は常ならぬ自然の業を奇跡あるいは神の業と呼び、更に一つには敬神の念から一つには自然的知識を尊ぶ人々への反感から、諸物に関する自然的原因を知ろうとはせず、ただ自分たちに最もわからない事柄、従って自分たちの最も驚嘆し得る事柄をのみ耳にしたがる。
実際彼らは自然的諸原因を無視し・一切を神の支配と意志とに関連せしめるすべを知らないのである。
そして彼らは自然の能力を恰も神に征服されたかの如く表象することによって最も多く神の能力を驚嘆しているのである。
スピノザ
読みやすく、改行している。

ここで、スピノザの問題が、浮き彫りになる。
一切を神の支配と意志とに関連せしめるすべを知らないと、言うのである。
彼の、聖書批判、等々、彼もまた、新しい解釈者となるのである。

そして、哲学と、神学の分離も、実に遅いのである。
それは、当時の西洋史を振り返るまでもなく、ユダヤ、キリスト教の支配が、如何に強かったかということである。

ここで、明確にしておかなければならないことは、キリスト教が、ローマ帝国の国教になる、以前は、あくまでも、ユダヤ教の一派であるという、認識である。
旧約聖書を、奉じるのであるから、当然、ユダヤ教の中に含まれるという、意識である。

突然、ユダヤ教と、キリスト教と、分かれたわけではない。
それ故に、ローマ帝国の国教と、なっても、人の意識としては、ユダヤ教の一派なのである。

旧約聖書に、新約聖書を加えたのであり、今でいえば、著作権の大変な侵害である。

西洋文明は、ユダヤ教文明なのである。
キリスト教は、そこに、ギリシャ哲学を持って、ユダヤ教からの、脱出を試みたのである。

だから、スピノザも、
こうした事の起こりは原初のユダヤ人から来ているように思われる。
と、書くのである。

原初のユダヤ人たちは目に見える神々―――太陽、月、大地、水、空気等―――を尊崇していた当時の異教徒たちを説得するために、そしてこれらの神々が微力な、不安定な、或いは可変的なものであり、目に見えぬ神の支配下にあるのであることを異教徒たちに教示するために、自分たちの見た諸奇跡を語り、その上これを根拠に、全自然はユダヤ人たちが尊崇している神の支配によってユダヤ人たちのみの利益になるように導かれていることを示そうと努めたのである。
スピノザ

ユダヤ人の、観念が、西欧を覆ったのである。
そして、ユダヤの神が、西欧を覆った。

更に、キリスト教を通して、世界に伝播するという。
今は、自然観について、書いているので、いずれ、そのユダヤ人の、旧約聖書の嘘八百を書くことにする。

恐るべき観念であり、それが、キリスト教、ないし、新キリスト教、更に、新興キリスト教に於いても、変わらないのである。

つまり、キリスト教系は、ユダヤ教から、抜けきれないのである。




posted by 天山 at 06:57| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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