2012年02月05日

神仏は妄想である。360

鎌田東二著 神道のスピリチュアル、には、面白いことが、書かれてある。

日本人が自然をどうとらえたかという問いに対して、そもそもそのような問いは成立しないという答え方ができる。というのは、古代日本にも、中世日本にも、現代のわたしたちが考えているような、現象世界や外界の対象としての「自然」という概念は存在しなかったから、というのがその理由だ。わたしたちの先祖は、「自然」という概念やフレームワークで「それ」をとらえることはなかったのだ。
鎌田

私を論破することは、できない。私には、そもそも、論というものがないからである。
とは、インドの竜樹の言葉である。
まあ、ここまで行かなくても、日本の自然というもの、その概念がなかったと言われれば、もう話しは、おしまいである。
自然という、言葉で、話し合う時、その概念がないから、その問いは、無駄であるということ。

日本人の、自然という言葉は、天地自然の、自然というものではなかった。
それは、心のあり方、心の姿として、捉えられている。

自然法爾・・・歎異抄
老荘思想の、無為自然など・・・

現在の、自然の概念は、19世紀以降からのものである。
それは、natureの、翻訳語として、確立されてきたものである。

近代的概念、自然科学的、外界的対象世界としての、自然である。

日本人は、前回書いたように、自然の働きを、ムスビとして、認識していた。

その、語源は、古事記にある。
天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神。次に神産素日神、この三柱の神は、独神と成り坐して、身を隠したまひき。

あめつちはじめてひらけしとき、たかあまはらになれるかみのなは、あめのみなかぬしのかみ、つぎにたかみムスビのかみ。づきにかみムスビのかみ。このさんはしらのかみは、ひとりがみとなりまして、みをかくしたまひき。
たかみムスビ、かみムスビ、この二神の、ムスビに、注目である。

共に、産素日、である。
産む、素の、日

自然の働きを見たものである。
つまり、天地自然を産み続ける行為である。

鎌田氏は、
次に二番目に出現する「高産素日神」は「大いなるむすびの神」の意味であり、続いて三番目に出現する「神産素日神」は端的に「むすびの神」を意味するから、神々の中でもより具体的で実質的な初源神は、結局のところ「むすびの神」であるということになる。とすれば、「古事記」冒頭部は「むすびの神」の神学を説いているといえる。
と、指摘する。

そして、神話は、高天原の天津神と、葦原中国の国津神の、ムスビによって、「国生み」と「国譲り」をしたという、お話しである。
その二つの、神の系統が、二柱の「むすび」の神々なのである。

つまり、天津神の祖霊神が、たかみむすびのかみ、で、国津神の祖霊神が、かみむすびのかみ、なのである。

鎌田氏は、天津神は、朝鮮半島から渡って来た、一族であり、弥生系の神々であるとする。
そして、国津神は、縄文時代からの、土着の神々とするが、私は、そうは、思わない。

弥生時代以降に、稲と、鏡を携えてきた一族が、天津神・・・
違う。
稲作は、縄文期の後半、500年から、始まっていた。

一つの解釈として、ここに書いておくのみ。

神話に従えば、稲は、天照大神から、豊葦原に送られたものである。

稲作は、南からやって来たという、説もある。
これが、考古学、歴史学という、学問の世界の話である。

ちなみに、日本書紀では、その表記が違う。

高皇産霊尊、神皇産霊尊
たかみムスビのみこと、かみムスビのみこと、である。

簡単に言うと、古代日本人は、ムスビという、意識において、自然を捉えていたということである。
そのもの、すばり、結び、である。

岩波古語辞典では、

むすひ「産霊」(ムスは、ムスコ(息)・ムスメ(娘)のムスと同じ。草や苔などのように、ふえ、繁殖する意。ヒはヒ(日)と同じ。太陽の霊力と同一視された原始的な観念における霊力の一)生物がふえてゆくように、万物を生みなす不可思議な霊力。
後世「結び」と関係づけられて解釈されたが、意味上も、清濁・アクセントの点からも、起源的には関係ない。

起源的には、関係ないと、書かれるが、現代に説明をする場合は、最も、解りやすい言葉である。

つまり、結ぶことによって、生まれる、行われる、行為が、自然の姿なのである。

であるから、自然の本質をすでに、観たと、考える。

息子や、娘の、ムスは、苔生す、というように、生まれることを言う。
その、ムスことの、力を、日、ヒが、介入して、行われる。

太陽の日が、まさに、万物を生む不思議な力を持つ霊力と考える。

自然の生成力を、そのまま、産素日神、産霊日神、と、表記したのである。

最初に、「むすび」の神学を提唱したのは、本居宣長である。
だが、それは、極めて、偏りの多いものである。
本居宣長にとって、古事記が最高のものであり、何一つ、疑うことのないものだった。それを、漢字の意味に、侵されてはならないとの、思いから、古学、いにしえまなび、の正しき道を、説いたのである。

確かに、漢字の意味で、解釈すると、誤るのは、何度も書いてきた。
日本語は、大和言葉によって、解釈しなければならないとは、私が言うことである。

それでは、参考に、むすび、を、大和言葉で、分析する。
むウすウびイ
ウと、イの母音である。

ウは、呼び出す、イは、受け入れる、である。

呼び出して、受け入れる。
もし、アであれば、開くであるから、
アイは、開いて、受け入れる、ということになる。

あいうえお、の、一音で、すべての言葉の、本質が理解できるようになっている。
言霊は、音霊、おとたま、により、そして、数霊、かずたま、による。




posted by 天山 at 06:16| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。