2012年02月02日

カンボジアの悲劇9

シェムリアップで、初めて感じた絶望に似た感情から、偽善という、言葉が出た。それは、無力という言葉とも、つながり、私を悲しくさせた。

私は、偽善者である。
人に言われる筋合いはないが、偽善者であろう。
それは、絶望の叫びだった。

一体、私は、何が出来るのか・・・
ほんの少し、気分を晴らすために、衣類を配る程度・・・

自己満足で、良かったのであるが、今回は、その悠長さが、無くなった。

それとも、野心なのか。
国連がやるような、大きな、支援活動をしたいのか。
それは、無理である。
不可能である。

莫大な資金がいる。
そんなことは、出来ない。

そんなことを、考えつつ、空港に向かった。

ちなみに、トゥクトゥクのお兄さんは、忙しく、その仲間の若者が来た。
観光の仕事を得たのだろう。
その若者も、初めから、私たちに好意的で、空港で別れる時、何度も、ありがとう、ありがとう・・・と言う。

それは、私の支援に対する言葉であると、すぐに、解った。

彼は、何も、貰っていない。しかし、同じシェムリアップの人が、衣類を貰ったことに、感謝するのである。

その、感謝の言葉が、私の心に、次第に、息吹を与えた。
他人が支援を受けても、ありがとう・・・
自分でなくても、ありがとう・・・

ああ、出来ることしか、出来ないのだから、しないより増しであり、矢張り、行為して、絶望を感じ、偽善を感じるべきなのだ。

バンコクまでは、一時間である。
隣の国に、一時間で行けるという、陸続き。

もう一度言う。
日本の支援により、ミャンマーの町から、タイのカンチャナブリを通り、バンコクに至り、シェムリアップに向かい、そこから、二つに分かれて、ベトナムの、一つは、ハイフォンへ、一つは、ホーチミンへ向かう幹線道路が、出来る。
アセアンが、つながる。

三年後、アセアンでは、ビザか必要無くなる。
その、中に、日本が入る。

この一帯は、親日である。
更に、日本のパスポートが、世界的に一番信頼される。

日本人であることが、自然に僥倖になっているのだ。

中々入国を許可されない国でも、日本人は、スムーズに行く。
パプアニューギニアの空港で、長く足止めされていた、中国人・・・

今は、アフリカでも、日本と日本人に来て欲しいと、言う。
ブラジルの経済復興は、日本人の支援の賜物である。

日本の民間企業も、昔と一変した。
単なる、利益追求ではない。
その地の人たちに、何が出来るのかを考えて、行動する。

工場を建てる前に、インフラ整備する。
現地の人たちに喜ばれ、感謝されて、更に、職を与えるということで、日本の名声が高まる。

日本は、素晴らしい国に、成長しているのである。

バンコクに着き、最初のホテルに一泊して、預けていた荷物を持って、スクンウイットに向かった。
そこで、一泊して、その辺りのカンボジア流民、更に、ミャンマーの難民の人に支援するために、留まる。

私たちが、泊まる、ゲストハウスの従業員は、皆、ミャンマーからの出稼ぎであるから、彼らから、情報を得ようとするが、曰く、少数民族の人たちは、言葉も違い、解らないという。

何処に、住むのかも、解らないのである。
ではと、私たちは、路上に向かい、物乞いたちに、聞きまわる。

タイ人の、物乞いの、おばあさんに、尋ねた。
ミャンマーの物乞いは、何処に・・・
ああ、あっちに、沢山いるよ・・・
でもね、ミャンマー人とは、言わない、皆、カンボジア人という・・・

本当にそうであり、ミャンマー語でも、クメール語でも、通じないのだ。
つまり、少数民族の人たちである。

ところが、一日に、何度も居場所を変えるのであるから、かくれんぼ、である。

私と、コータは、別々に歩き、確認するが、支援物資を持っていない。
うまい具合に、見つけると、小額のタイバーツを渡すのみ。

そのうちに、夜になる。
すると、もう大変な混雑であり、その中に、埋没してしまう。

必要な人を捜して行く・・・
とんでもない、支援方法を考えたものである。

夜、食事をして、少し見回り、ホテルに戻り、八時半である。
もう、諦める。

私は、シャワーを浴びて、寝る用意をする。
そして、ベッドに横になると、出掛けていた、コータが戻り、タイアイ族の母子が、衣類が欲しいと言うと、伝えに来た。

浴衣を取り出して、急ぎ、その場に向かう。




posted by 天山 at 06:31| カンボジアの悲劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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