2012年01月20日

もののあわれについて。549

惟光「なぞの文ぞ」とて取るに、面赤みて居たり。惟光「よからぬわざしけり」と憎めば、せうと逃げていくを、呼びよせて、惟光「誰がぞ」と問へば、童「殿の冠者の君の、しかじか宣うて賜へる」といえば、名残なくうち笑みて、惟光「いかにうつくしき君の御ざれ心なり。きんぢらは、同じ年なれど、いふかひなくはかなかめりかし」などほめて、母君にも見す。惟光「この君達の、すこし人数に思しぬべかめりかしかば、宮仕へよりは、奉りてまし。殿の御心おきてを見るに、見そめ給ひてむ人を、御心とは忘れ給ふまじきにこそ、いとたのもしけれ。明石の入道にためしにやならまし」などいへど、皆いそぎ立ちにたり。




惟光は、何の手紙だ、と言い、手に取るので、二人は、顔を赤らめている。
惟光は、けしからんことをしたな、と、叱ると、男の子が、逃げ出そうとするのを、傍に呼び、誰の手紙だ、と問う。童は、殿様の冠者の君が、こうこうとおっしゃりまして、と、言うと、打って変わって、顔をほころばせ、惟光は、何と愛らしい若君の、いたずらか。お前たちは、同じ年だが、お話しにならないほど、頼りない、などと、誉めて、母君にも見せる。惟光は、この若様が、もし少しでも、一人前扱いしてくださるなら、宮仕えよりは、若様に、差し上げよう。殿様の、性格を拝すると、お相手にされた人は、ご自分から、忘れることない。誠に、頼もしい。あの、明石の入道のようになるだろう、など言うが、皆は、急ぎ、宮仕えの仕度をするのである。




かの人は、文をだにえやり給はず、立ちまさるかたの事し心にかかりて、程ふるままに、わりなく恋しき面かげに、またあひ見でや、と思ふよりほかのことなし。宮の御もとへも、あいなく心憂くて参り給はず。おはせし方、年頃遊びなれし所のみ、思ひ出でらるる事まされば、里さへ憂くおぼえ給ひつつ、まだこもり居給へり。殿はこの西の対にぞ、聞えあづけ奉り給ひける。源氏「大宮の御世の残りすくなげなるを、おはせずなりなむ後も、かく幼き程より見ならして、後見おぼせ」と聞え給へば、ただ宣ふままの御心にて、なつかしうあはれに思ひあつかひ奉り給ふ。




その後、手紙さえもやることができない。これより、立派な雲居雁の事が忘れられず、時が経つにつれて、更に、恋しく思われる面影に、あちら、夕霧は、再び逢うことができずに、終わるのかと、そればかりを、思う。大宮の傍にも、何となく気が進まず、伺わないでいる。住んでいた部屋、雲居雁と、一緒に遊んだ場所ばかりが、いよいよ思い出される。大宮の邸までが、嫌な感じがして、あのまま、二条の院の東院に、じっとしている。
殿は、こちら、東院の西の対の上、花散里に、お話しして、夕霧を預けるのである。源氏は、大宮の寿命も、あとは僅かであるから、お亡くなりになった後も、幼い時から親しんでいらしたゆえ、お世話をして下さい、と、申し上げると、ただ、おっしゃる通りにされる、性格ゆえ、やさしく心から、気を使い、大事にされるのである。

なつかしうあはれに思ひ あつかひ奉り給ふ
なつかしうあはれ・・・
そのような、心象風景を育ててきた、日本人の心情である。




ほのかになど見奉るにも、かたちのまほならずもおはしけるかな、かかる人をも、人は思ひすて給はざりけり、など、わが、あながちにつらき人の御たかちを、心にかけて恋しと思ふもあぢきたなしや、心ばへのかうやうにやはらかならむ人をこそあひ思はめ、と、思ふ。また、向ひて見るかひなからむも、いとほしげなり、かくて年経給ひにけれど、殿の、さやうなる御かたち、御心と見給うて、浜ゆふばかりのへだてさしかくしつつ、何くれともてなしまぎらはし給ふめるも、むべなりけり、と思ふ心のうちぞはづかしかりける。大宮のかたちことにおはしませど、まだいと清らにおはし、ここにもかしこにも、人はかたちよきものとのみ、めなれ給へるを、もとよりすぐれざりける御かたちの、ややさだ過ぎたる心地して、やせやせに御髪少ななるなどが、かくそしらはしきなりけり。




ちらちらと、この方、花散里を、観察すると、お顔立ちは、十人並みでもない方だ。このような方をも、父上は、捨てなかったのだと、思い、自分が、無性につれない人、雲居雁の器量を、忘れられず、恋しく思っているのも、詰まらないことだ。性格が、このように優しい人であったら、愛し合いたいものだと、思う。といっても、向かい合って、面白くない人なら、困るだろう。こういう状態で、長い間、過ごしていらっしゃるが、殿が、そのような器量と、性格をご承知の上で、浜木綿ほどの隔てを置いて、顔は見ず、何かと、お相手されながら、見ないようにしているのも、無理はない、と、考える、夕霧の心の中は、大人も恥じるしかないもの。
大宮は、尼姿になっているが、まだ綺麗で、どこへ行っても、女の人は、器量の良い人ばかりと、いつも見ているのが癖になり、もともと、綺麗でなかった、器量が、少し盛りを過ぎた感じがして、痩せて、髪の毛も、少なくなっていることなどが、このように、批判し、考える気持ちを、起こさせるのであった。

最後は、作者の言葉である。
物語は、実に、理解するのが、面倒なのは、一人称、二人称、三人称が、混合して、入るからである。

だが、それも、魅力だと、いえば、魅力である。
ゲームのように、それを楽しむ気持ち・・・

散文小説が、出来上がっていない時代に、よくぞ、ここまでの、物語を書いたものだと、思う。

だが、作者は、一つではない。
複数の人によって、書かれている。
あるいは、書き写す時に、加えられたものも、あると、考える。

いずれは、おおよそ、作者の違いなどを、検証することにする。

一応は、代表として、紫式部である。
最初に、手をつけたという紫式部は、勇気がある。

物語は、楽しいもの。
古典であるから、難しいのではなく、慣れ親しんでいないから、難しく感じるだけ。
毎日、読み続けていれば、楽しくなる。

まあ、死ぬまでの、暇つぶしに、もってこいである。





posted by 天山 at 00:00| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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