2012年01月18日

もののあわれについて。547

舞姫かしづきおろして、妻戸の間に屏風など立てて、かりそめのしつらひなるに、やをら寄りてのぞき給へば、なやましげにて添ひ臥したり。ただかの人の御程と見えて、今すこしそびやかに、様体などのことさらび、をかしき所はまさりてさへ見ゆ。暗ければ、こまやかには見えねど、程のいとよく思ひ出でらるるさまに、心移るとはなけれど、ただにもあらで、きぬの裾を引きならい給ふに、何心もなく、あやし、と、思ふに、

夕霧
あめにます とよをかひめの 宮人も わが心ざす しめを忘るな

みづがきの」と、宣ふぞ、うちつけなりける。若うをかしき声なれど、誰ともえ思ひたどられず、なまむつかしきに、けさうじ添ふとて、騒ぎつる後見ども、近うよりて人騒がしうなれば、いち口惜しうて、立ち去り給ひぬ。




舞姫を、大事に車から降ろして、庇の端の間に屏風などを立てて、臨時の部屋を作ってある。そっと近づいて、御覧になると、疲れたようで、物に寄りかかり、横になっている。丁度、あの方くらいの年で、もう少し背が高く、姿などの見事で美しいのは、勝っている気がする。暗いので、良く見えないが、全体の感じが、すぐに雲居雁を思い出させるほど、似ているので、恋心が、五節に移るわけではないが、心が動き、衣の裾を引いて、衣擦れの音を出す。だが、五節は、何も気づかず、変だと、思っていると、

天においでの、豊岡姫に仕える宮人も、そなたも、私のものと思っている、この気持ちを忘れないで欲しい。

大昔から、思っていた、と、おっしゃると、驚き過ぎたようである。
若くて、美しい声だが、誰やら思い当たらず、薄気味の悪いと思うところに、化粧を直そうということで、騒いでいる介添えたちが、傍に来て、騒々しくなったので、夕霧は、残念ながら、立ち去った。

五節と。夕霧の気持ちが、同時に書かれているため、混乱する。




浅葱の心やましければ、うちへ参ることもせず、もの憂がり給ふを、五節にことづけて、直衣など、さま変れる色ゆるされて参り給ふ。きびはに清らなるものから、まだきにおよずけて、ざれありき給ふ。帝よりはじめて奉りて、思したるさまなべてならず、世にめづらしき御おぼえなり。




夕霧は、あさぎ色の服が嫌なので、内に参ることもせず、何もかも嫌がり、五節だからということで、直衣で、束帯とは違う色を着ることを許されて、参内される。
子供っぽくて、綺麗な方だが、年の割りに、大人ぶり、浮かれて歩き回っている。陛下をはじめ、参らせて、皆が、とても、大事にする様子で、大変な寵愛である。




五節の参る儀式は、いづれともなく、心々にになくし給へるを、舞姫のかたち、大殿と大納言殿とは、すぐれたり、と、めでののしる。げにいとをかしげなれど、ここしううつくしげなることは、なほ大殿のにはえ及ぶまじかりけり。もの清げに今めきて、そのものとも見ゆまじう、したてたる様体などの、あり難うをかしげなるを、かうほめらるるなめり。例の舞姫どもよりは、みな少しおとなびつつ、げに心ことなる年なり。




五節の参内する儀式は、いずれ劣らず、それぞれが、最善を尽くしているが、舞姫の器量は、大殿、源氏と、大納言殿とが、ぬきんでていると、誉める騒ぎである。
いかにも、二人とも、綺麗だが、おっとりして、可愛らしいのは、矢張り、大殿のものには、及ばないのである。綺麗で、現代的、誰か分からないほど、見事に着飾った姿は、またとないほど、立派で、このように、誉められるのだろう。例年の舞姫たちよりも、いずれも、少し年長で、誠に、特別の年という感じがする。




殿参り給ひて御覧ずるに、むかし御目とまり給ひしをとめの姿を思しいづ。辰の日の暮つ方遣はす。御文のうち思ひやるべし。

源氏
をとめ子も 神さびぬらし 天津袖 ふるき世の友 よはひ経ぬれば

年月のつもりをかぞへて、うち思しけるままのあはれを、え忍び給はぬばかりのをかしう思ゆるも、はかなしや。

五節
かけていへば 今日の事ぞ 思ほゆる 日陰の霜の 袖にとけしも
青摺りの紙よくとりあへて、まぎらはし書いたる濃墨、薄墨、草がちにうちまぜ乱れたるも、人の程につけてはをかし、と、御覧ず。




殿が参内されて、御覧になると、若い頃、心を惹かれた、五節の少女の姿を思い出す。
節会の当日の夕暮れ、お手紙を遣わす。その内容は、ご想像ください。

源氏
少女だった、お前も、神さびたことだろう。天の羽衣の袖を振り舞った頃の、古い友も年を取ったゆえに。

過ぎ去った年月を数えて、ふと、心に浮かんだ思いだが、我慢されず、お手紙を下さるが、五節には、心弾む思いとは、せん無い事。

五節
五節のことを、口にしますと、日陰のかずらを懸けて舞った昔、日陰の霜の解けるように、心を許したことが、今のように、思われます。

青ずりの紙をうまく合わせて、誰か分からぬように、あるところは濃く、あるところは薄く、草書を多くまぜて、乱れ書きしてあるのも、その身分から見れば、立派にものと、御覧になる。

五節は、花散里、須磨、明石の巻きに出る、筑紫の五節のことである。

うち思しけるままの あはれを
ふっと、思い出す時の、心の機微を、言う。
それも、あはれ、の、風景である。




posted by 天山 at 09:19| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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