2012年01月17日

もののあわれについて。546

大殿には今年五節奉り給ふ。何ばかりの御いそぎならねど、童女の装束など、近うなりぬとて、急ぎせさせ給ふ。東の院には、参りの夜の人々の装束せさせ給ふ。殿には、大方のことども中宮よりも、童、下仕への料など、えならで奉れ給へり。過ぎにし年、五節などとまれしが、さうざうしかりしつもりもとり添へ、うへ人の心地も、常よりもはなやかに思ふべかめる年なれば、所々いどみて、いといみじくよろづを尽くし給ふ聞えあり。按察使の大納言、左衛門の督、うへの五節には、良清、今は近江の守にて左中弁なるなむ、奉りける。皆とどめさせ給ひて、宮仕へすべく、おほせごとことなる年なれば、女をおのおの奉り給ふ。




お殿様、源氏の所からは、今年、五節の舞姫をさし上げる。これといった、用意でもないが、童女の衣装など、日も近くなり、急いでさせる。東の院におかれては、参内の夜の、お付のもの達の衣装を作られる。
殿におかれては、中宮からも、童女や下仕えの着物など、他では、見られないほどに、仕立ててさし上げる。昨年一年、五節なども、中止となり、物足りなかったこともあり、殿上人の気持ちも、例年より、華やかなものにと、思っているらしい年なので、家々で競争して、実に見事に、あらん限りの事をすると、評判である。
按察使の大納言、左衛門の督と、殿上人からの、五節には、良清、今は近江の守で、左中弁を兼ねているのが奉った。
皆、留めおきて、宮仕えするようにとの、特別の勅命があった年なので、自分の娘を、それぞれ、さし上げるのである。




殿の舞姫は、惟光の朝臣の、攝津守にて左京の大夫かけたる、むすめ、かたちなどいとをかしげなる聞えあるを、召す。からいことに思ひたれど、同輩「大納言の、ほか腹の女を奉らるなるに、朝臣のいつき女出だしてたらむ、何の恥ぢかあるべき」と、さいなめば、わびて、おなじく宮仕へやがてせさすべく思ひおきてたり。舞ならはしなどは、里にていとようしたてて、かしづきなど、したしう身にそふべきは、いみじうえり整へて、その日の夕つけて参らせたり。



殿からの、舞姫は、惟光の朝臣が攝津守で、左京の大夫を兼任している、その娘で、器量なども大変良いと、評判なのを、お召し出しになる。
困ったことと、思ったが、同輩たちが、大納言が、妾腹の娘をさし上げると言うことなのに、朝臣が、愛娘を出しても、何の恥ずかしいことがあるか、と、皆が叱りつけるので、弱って、同じ出すなら、宮仕えさせるつもりでと、決心した。舞の稽古などは、実家で、十分にしこんで、介添えの女房など、身近に付き従うはずの者は、丹念に、選び揃えて、その日の夕方に、参上させた。




殿にも、御方の童、下仕へのすぐれたるを、御覧じくらべ、えり出でらるる心地どもは、ほどほどにつけて、いとおもだたしげなり。御前に召して御覧ぜむうちならしに、御前を渡らせて、と定め給ふ。棄つべうもあらず、とりどりなる童女の様体かたちを、思しわづらひて、源氏「今ひとところの料を、これより奉らばや」など笑ひ給ふ。ただもてなし用意によりてぞえらびに入りける。




殿、源氏におかせられても、それぞれの婦人たちの、童女や、下仕えの優れているものを、見比べて、その結果、選りだされた者の気持ちは、それぞれに、誠に誇らしげである。主上の、御前に召されて御覧遊ばす、その稽古の様子を、源氏の前に通らせて見る。
落第には、出来ないほど、それぞれ立派な童女の姿、顔立ちに、迷ってしまい、源氏は、もう一人分、舞姫の付き添いを、こちらから、差し上げたいと、笑うのである。
僅かな、態度と、心構えによって、合格者を決めた。

御方の童女とは、紫の上、花散里、明石の御方である。

ほどほど、とは、身分や生まれのこと、である。
それぞれの、身分に応じて。




大学の君胸のみふたがりて、ものなども見入れられず、くんじいたくて、ふみも読までながめふし給へるを、心もやなぐさむ、と立ち出でて紛れありき給ふ。さまかたちはめでたくをかしげにて、静やかになまめい給へれば、若き女房などは、いとをかしと見奉る。上の御方には、御簾の前にだに、もの近うももてなし給はず、わが御心ならひ、いかに思すにかありけむ、疎うとしければ、御達なども気遠きを、今日は物のまぎれに入り立ち給へるなめり。




大学の君、夕霧は、ただただ、胸が一杯で、食事も見る気がしない。すっかり塞ぎこんで、本も読まないで、ぼんやりと、横になっていたが、気持ちが、紛れないかと、部屋を出て、人目に触れぬように、あちこちと、歩き回っている。体つきや、顔立ちは、立派で、美しく、物静かで、魅力があるので、若い女房などは、美しいと拝する。
紫の上のいらっしゃる方には、御簾の前近くに出ることも、させないのである。
自分の心の癖で、どのように思うかと。若君は、日頃離れているので、奥付きの女房たちも、親しくないが、今日は、この騒ぎで、入り込み、物陰に立っている。

わが御心ならひ、とは、誰の御心か・・・
源氏のものか、夕霧のものか。

御簾の前にだに、もの近うももてなし給はず、とは、どうしてか・・・

ここは、夕霧のことを書いているので、夕霧の気持ちが、御簾の前に出ることもしないと、訳すべきかと、迷う。

御簾の前に出ると、どのように思うかと、考えているのが、夕霧である。と、すれば、何故か。

紫の上は、夕霧の義理の母親である。

深読みしたくなる、書き方である。
源氏も、故院の父の姫、藤壺と、関係したのである。

そのようなことが、ある、との前提で読むと、また、楽しい。



posted by 天山 at 16:16| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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