2012年01月30日

カンボジアの悲劇6

シェムリアップは、単なる町である。
ただ、アンコールワットという、世界遺産のお陰で、有名になり、更に観光客が多い。

救いは、バリ島のように、ゴミに覆われていないということである。

観光業を経営している人だけが、富裕層に入る。
そして、公務員である。それは、どこの、貧しい国も、同じ。

町の一角が、歓楽街の形相になっている。
当然、売春、麻薬がある。
一時間ほどのタイ国境の町、ポイペトでは、危険が一杯である。

人々は、実に貧しい。

さて、トゥクトゥクがゲストハウスに着いて、運転手と、少し会話した。
皆、英語である。

一番、驚いたとこは、孤児院の話しである。
支援してはいけない。彼らは、商売で孤児院を経営していると言う。

特に、お金などは、孤児たちのために、使われないのであり、衣類の支援も、横流しされる可能性大である。

これは、海外からの、支援による孤児院ではなく、カンボジア人によるものである。

だから、と、運転手は、言う。
あなたの、やり方が、一番いいのです、と。

直接、手渡しすること。

それでは、次に来た時、また、案内してください・・・出来る限り、多くの衣類を持ってきます・・・
私が言うと、オッケーオッケー・・・と、繰り返した。
そして、ありがとう・・・である。

実は、到着した夜、私は、食堂で物乞いに来た、少年に、その食堂で作ってもらった、麺類を上げて、更に、ゲストハウスまで連れて行き、衣服と、靴を上げた。

私は、食堂で食べさせたいと思ったが、少年は、入らないのである。
当然か・・・
そこで、作って貰い、それを上げて、服も上げると、連れて帰った。

そして、ゲストハウスの玄関の前の椅子に、座らせようとしたが、首を振る。
すると、ゲストハウスから、おばさんたちが何か少年に言うと、少年は、漸く座ったのである。

服と、ズボンを上げて、靴を履かせてみるが、合うものが無い。
すると、ハウスのお上さんが、出て来て、私のこれを履いてごらんと、差し出すのである。

その時、皆々、子供たちのことを、気に掛けていると、感じた。
しかし、普段は、それが当たり前で、ただ、見ているだけだった。しかし、きっかけがあれば、出来ることをして上げたいのだ。

トゥクトゥクの運転手も、私たちの、活動に感謝する。
自分が直接、受け取る訳ではないが、感謝する。

勿論、運転手にも、小さな子供がいて、靴が欲しいと言うので、一足差し上げた。

全体の中に、私がいると、感じる。
これが、要するに、国家意識、地域意識、村意識なのである。

カンボジアは、王国であるが、タイの王様と違い、それほどの、尊敬は無い。
何せ、シアヌークは、ポルポトと一度組んだのである。

現代のカンボジアの悲劇の、幕開けをした人物が、王室にいるのである。
現在の、国王は、シアヌークの息子であるが、シアヌークの写真が掲げられる。矢張り、国の象徴なのである。

だが、シアヌークによる、国家意識は、低い。
政府が、権威付けを行うが、儀式の際だけの、権威である。

日々の生活に裏付けられたものではない。

カンボジア国民としての、アイデンティティは、実に難しい。

一度、自国民が、滅茶苦茶にした、国である。
更に、その人間性の、悪を、嫌と言うほど、見せ付けられたのである。

子が親を裏切り、友人が裏切り、親類が裏切り・・・
誰も、信じられなくなった・・・

まだ、30年前のことである。
生々しく、思い出す人が大勢いる。
だから、その話しは、タブーなのである。

どのようにして、無辜の人々が、虐殺されたか・・・
真っ当な神経ではなくなったはず。

ただ、殺すのではない。
何の罪も無い人たちが、拷問され、虐殺されてゆくのである。

慰霊など・・・
とても、無理だろう。

それに、向き合うには、30年以上かかるだろう。

そこで、私は、飛躍する。
その物乞いの少年と、私とは、何の関係もない。
だが、私が、何故日本に生まれて、このような事態に合わなかったのか、ということと、何故、私が、この少年ではなかったのか・・・
という、問題には、答えが出ない。
偶然・・・

私が、この少年だったかもしれない。
これが、私の哲学になった。
何故、私でなかったのか・・・
誰も、答えられない。
饒舌な宗教家や、霊能者は、妄想を、言うだろうが、そんな問題ではない。

存在の問題である。
妄想では、解決しない。

少年が私で、私が少年・・・

それは、至る所で、感じることになる。




posted by 天山 at 00:05| カンボジアの悲劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月31日

カンボジアの悲劇7

二日目の朝も、ゲストハウス並びの、屋台のお粥屋さんに向かった時、母親と、二人の男の子を見つけた。
ダンボールを集めて、生活をしている様子。

私は、声を掛けて、カムカムと、言い、親子をゲストハウスまで、連れた。
すべて日本語で、話すが、雰囲気で、通じるようである。

子供たちに衣服を渡す。
そして、母親にも、一枚、長い毛糸の服を渡した。
日焼けを防ぐために、母親は、顔まで覆っていたからだ。

その時、警官や、トゥクトゥクの運転手たちが、オーッと歓声を上げて見ていた。
良かったな・・・
とでも、言っているようである。

二人の子に、靴を上げようとしたが、見つからない。
荷物は、受付前と、部屋に分散して置いていたので、どこにあるか、すぐに、思い出せなかった。

こうして、いつも、アンテナを張って見ている。

母親は、掌を合わせて、正式の挨拶で、私に何度も、感謝していた。
その時、写真を御願いしたのは、そこに寝泊りしていた、日本人の青年である。

彼は、初めての体験だったらしく・・・
こういうこと、されているのですか・・・
と、感心していた。
だが、それ以上、深く関わってこなかった。

誰かが、手伝いたいと言えば、歓迎するつもりだったが、誰一人いなかった。

更に、驚いたことに、高齢の日本人の方々は、興味を示したが、若者たちは、全く、無関心だったことである。

別の世界のこと。
ちらっと、見るが、全く、見ぬ振りをしていた。

四日間の滞在で、二時間の支援・・・
違う。
毎日、必要な人を捜していた。

街に出ると、見るものが違う。
服装や、子供の顔を見て、その状況を想像する。

制服を着ている、裕福な子供たちもいるが、その裕福とは、その町での、裕福であり、日本の富裕層の裕福ではない。

更に、小道を入ると、スラムのような長屋がある。
だが、スラムではなく、それが、普通なのである。

さて、三日目に、隣のゲストハウスに移動した。
1ドル高い、13ドルの部屋は、ホテル並みであり、実に、静かだった。
ドミトリーが無いからである。

ラオスや、カンボジアでは、ホテルと、ゲストハウスの境界線が、曖昧である。
ゲストハウスでも、ホテルと変わらない所も多い。

ただ、川沿いの部屋で、小川が流れているが、汚水をそこに流すので、匂いがする。下水道の設備がなっていないのである。

カンボジアには、北九州市の支援で、水道の施設、管理の技術提供を受けている。それは、まず、プノンペンから始まっている。

それでも、まだ、水道の水は、飲めない。
水道の水が、飲めないということは、歯を磨いた後で、口を漱ぐことも出来ない。だから、ペットボトルの水で、漱ぐ。

更に、野菜に注意なのである。
現地の水で洗うから、食べられない。

タイでは、もうそんなことはない。
口に入るものは、日本の水道水と同じ水を使う。
その水は、自動販売機で、買うことが出来る。
一リットル、一バーツである。2,5円。

焼き飯に添えてある、野菜は、食べなかった。
ただ、食堂でも、水道の水ではなく、殺菌した水をしようしているところの、野菜は、食べる。
それは、厨房の中が、見える食堂である。

屋台は、作る場面が、見えるので、逆に安心である。
ただ、食器を洗う場面を見ると、アウトである。

水が足りないから、洗う水と、漱ぐ水の、二つのバケツで、何度も使うのである。
流している水で、すすぐことはない。
これが、衛生的に受け入れられなく、食べられなくなる。

だから、私は、高級レストランを信じられないのである。
厨房が見えないからである。

屋台は、丸見えであるから、安心する・・・
それに、安い・・・

さて、様々な、事を見聞して、シェムリアップという町を、理解する。

夜、私は、出歩かないから、夜の繁華街は、知らない。
だが、今回、最期の夜に、コータと、繁華街、歓楽街に出て、食事をし、一通り、見て回った。

そこでも、屋台で、食事をした。
レストランと名のつくところの、三分の一以下の料金で、同じようなものを食べられるのである。

チェックと、言うと、会計がされて、紙が出される。
それを見て、こんなに安いの・・・である。

更に、屋台は、楽しい。
呼び込みの人たちが、様々な国の言葉を使うのである。
商売のために、必死で、聞いて覚えるのが、解る。

おいしいよ・・・
安いよ・・・
早く来て・・・
日本人、こんにちは・・・

あちらでは、韓国語、英語・・・
逞しい根性を見せられる。


posted by 天山 at 06:51| カンボジアの悲劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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