2012年01月20日

もののあわれについて。549

惟光「なぞの文ぞ」とて取るに、面赤みて居たり。惟光「よからぬわざしけり」と憎めば、せうと逃げていくを、呼びよせて、惟光「誰がぞ」と問へば、童「殿の冠者の君の、しかじか宣うて賜へる」といえば、名残なくうち笑みて、惟光「いかにうつくしき君の御ざれ心なり。きんぢらは、同じ年なれど、いふかひなくはかなかめりかし」などほめて、母君にも見す。惟光「この君達の、すこし人数に思しぬべかめりかしかば、宮仕へよりは、奉りてまし。殿の御心おきてを見るに、見そめ給ひてむ人を、御心とは忘れ給ふまじきにこそ、いとたのもしけれ。明石の入道にためしにやならまし」などいへど、皆いそぎ立ちにたり。




惟光は、何の手紙だ、と言い、手に取るので、二人は、顔を赤らめている。
惟光は、けしからんことをしたな、と、叱ると、男の子が、逃げ出そうとするのを、傍に呼び、誰の手紙だ、と問う。童は、殿様の冠者の君が、こうこうとおっしゃりまして、と、言うと、打って変わって、顔をほころばせ、惟光は、何と愛らしい若君の、いたずらか。お前たちは、同じ年だが、お話しにならないほど、頼りない、などと、誉めて、母君にも見せる。惟光は、この若様が、もし少しでも、一人前扱いしてくださるなら、宮仕えよりは、若様に、差し上げよう。殿様の、性格を拝すると、お相手にされた人は、ご自分から、忘れることない。誠に、頼もしい。あの、明石の入道のようになるだろう、など言うが、皆は、急ぎ、宮仕えの仕度をするのである。




かの人は、文をだにえやり給はず、立ちまさるかたの事し心にかかりて、程ふるままに、わりなく恋しき面かげに、またあひ見でや、と思ふよりほかのことなし。宮の御もとへも、あいなく心憂くて参り給はず。おはせし方、年頃遊びなれし所のみ、思ひ出でらるる事まされば、里さへ憂くおぼえ給ひつつ、まだこもり居給へり。殿はこの西の対にぞ、聞えあづけ奉り給ひける。源氏「大宮の御世の残りすくなげなるを、おはせずなりなむ後も、かく幼き程より見ならして、後見おぼせ」と聞え給へば、ただ宣ふままの御心にて、なつかしうあはれに思ひあつかひ奉り給ふ。




その後、手紙さえもやることができない。これより、立派な雲居雁の事が忘れられず、時が経つにつれて、更に、恋しく思われる面影に、あちら、夕霧は、再び逢うことができずに、終わるのかと、そればかりを、思う。大宮の傍にも、何となく気が進まず、伺わないでいる。住んでいた部屋、雲居雁と、一緒に遊んだ場所ばかりが、いよいよ思い出される。大宮の邸までが、嫌な感じがして、あのまま、二条の院の東院に、じっとしている。
殿は、こちら、東院の西の対の上、花散里に、お話しして、夕霧を預けるのである。源氏は、大宮の寿命も、あとは僅かであるから、お亡くなりになった後も、幼い時から親しんでいらしたゆえ、お世話をして下さい、と、申し上げると、ただ、おっしゃる通りにされる、性格ゆえ、やさしく心から、気を使い、大事にされるのである。

なつかしうあはれに思ひ あつかひ奉り給ふ
なつかしうあはれ・・・
そのような、心象風景を育ててきた、日本人の心情である。




ほのかになど見奉るにも、かたちのまほならずもおはしけるかな、かかる人をも、人は思ひすて給はざりけり、など、わが、あながちにつらき人の御たかちを、心にかけて恋しと思ふもあぢきたなしや、心ばへのかうやうにやはらかならむ人をこそあひ思はめ、と、思ふ。また、向ひて見るかひなからむも、いとほしげなり、かくて年経給ひにけれど、殿の、さやうなる御かたち、御心と見給うて、浜ゆふばかりのへだてさしかくしつつ、何くれともてなしまぎらはし給ふめるも、むべなりけり、と思ふ心のうちぞはづかしかりける。大宮のかたちことにおはしませど、まだいと清らにおはし、ここにもかしこにも、人はかたちよきものとのみ、めなれ給へるを、もとよりすぐれざりける御かたちの、ややさだ過ぎたる心地して、やせやせに御髪少ななるなどが、かくそしらはしきなりけり。




ちらちらと、この方、花散里を、観察すると、お顔立ちは、十人並みでもない方だ。このような方をも、父上は、捨てなかったのだと、思い、自分が、無性につれない人、雲居雁の器量を、忘れられず、恋しく思っているのも、詰まらないことだ。性格が、このように優しい人であったら、愛し合いたいものだと、思う。といっても、向かい合って、面白くない人なら、困るだろう。こういう状態で、長い間、過ごしていらっしゃるが、殿が、そのような器量と、性格をご承知の上で、浜木綿ほどの隔てを置いて、顔は見ず、何かと、お相手されながら、見ないようにしているのも、無理はない、と、考える、夕霧の心の中は、大人も恥じるしかないもの。
大宮は、尼姿になっているが、まだ綺麗で、どこへ行っても、女の人は、器量の良い人ばかりと、いつも見ているのが癖になり、もともと、綺麗でなかった、器量が、少し盛りを過ぎた感じがして、痩せて、髪の毛も、少なくなっていることなどが、このように、批判し、考える気持ちを、起こさせるのであった。

最後は、作者の言葉である。
物語は、実に、理解するのが、面倒なのは、一人称、二人称、三人称が、混合して、入るからである。

だが、それも、魅力だと、いえば、魅力である。
ゲームのように、それを楽しむ気持ち・・・

散文小説が、出来上がっていない時代に、よくぞ、ここまでの、物語を書いたものだと、思う。

だが、作者は、一つではない。
複数の人によって、書かれている。
あるいは、書き写す時に、加えられたものも、あると、考える。

いずれは、おおよそ、作者の違いなどを、検証することにする。

一応は、代表として、紫式部である。
最初に、手をつけたという紫式部は、勇気がある。

物語は、楽しいもの。
古典であるから、難しいのではなく、慣れ親しんでいないから、難しく感じるだけ。
毎日、読み続けていれば、楽しくなる。

まあ、死ぬまでの、暇つぶしに、もってこいである。





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2012年01月21日

もののあわれについて。550

年の暮れには、む月の御装束など、宮にはただ、この君一ところの御ことを、まじることなう急い給ふ。あまたくだりいと清らにしたて給へるを、見るももの憂くのみおぼゆれば、夕霧「ついたちなどには、必ずしも内へ参るまじう思ひ給ふるに、何にかく急がせ給ふらむ」と聞え給へば、大宮「などてかさもあらむ。老いくづほれたらむ人のやうにも宣ふかな」と宣へば、夕霧「老いねどくづほれたる心地ぞするや」と、ひとりごちて、うち涙ぐみて居給へり。かの事を思ふならむ、と、いと心苦しうて、宮もうちひそみ給ひぬ。




年の暮れには、正月のお召し物などを、大宮は、今はただ、この君、夕霧、一人の事だけを、準備される。幾組も、見事に仕立てされたが、それを見ていても、夕霧は、嫌な感じがするので、元旦などには、特に参内しなくてもいいと、思っていますのに、どうしてこんなに準備するのでしょう、と、申し上げると、大宮は、どうして、そんなことが、ありましょう。年を取って、すっかり気落ちしたようなことを、おっしゃいますね、と、おっしゃる。夕霧は、年は、取りませんが、すっかり、気が抜けたような気持ちがします、と、おっしゃり、涙ぐんで、座っている。あの事、雲居雁のことを、思っているのだろうと、大宮も、可哀想だと、泣き顔になる。





大宮「男は、口惜しききはの人だに、心を高うこそつかふなれ。あまりしめやかに、かくなものし給ひそ。何とかかうながめがちに思ひ入れ給ふべき。ゆゆしう」と宣ふ。




大宮は、男は、身分が低い者でも、気位だけは、高く持てと、いいます。あまり、沈んでいないことです。どうして、こんな物思いで、くよくよしていらっしゃるのか。縁起の悪い事です。と、おっしゃる。





夕霧「何かは。六位など人のあなづり侍るめれば、しばしの事とは思ふ給ふれど、内へ参るももの憂くてなむ。故大臣おはしまさましかば、たはぶれにても、人にはあなづられ侍らざらまし。物へだてぬ親におはすれど、いとけけしうさし放ちて思いたれば、おはしますあたりにたやすくも参りなれ侍らず。東の院にてのみなむ、御前近く侍る。対の御方こそあはれにものし給へ。親いま一ところおはしまさましかば、何事を思ひ侍らまし」とて、涙の落つるをまぎらはい給へる気色、いみじうあはれなるに、宮はいとどほろほろと泣き給ひて、




夕霧は、そんなことは、ありません。六位だなどと、皆が馬鹿にしているようですから、しばらくのことと、思いますが、参内するのも、気が進まないのです。亡くなった大臣が、生きていらしたら、冗談にも、人に馬鹿にされることは無かったでしょう。遠慮のいらない、実の親ですが、はっきりと私を、遠ざけているので、お傍に、いつも簡単に、参ることもできません。ただ、東の院に、お出でになるときだけ、お傍に参ります。対のお方は、親切な方ですが、お母様が、もし、おいでてあったら、何の心配がありましょう。と、涙が落ちるのを、誤魔化している。その様子が、誠に可哀想で、大宮は、一層、ほろほろと、涙をこぼし、

いみじうあはれなるに
夕霧の様子を見て、とても、あはれ、を感じて・・・




大宮「母におくるる人は、ほどほどにつけて、さのみこそあはれなれど、おのづから宿世宿世に、人となりたちぬれば、おろかに思ふ人もなきわざなるを、思ひ入れぬさまにてを、ものし給へ。故大臣の今しばしだにものし給へかし。限りなきかげには、同じことと頼み聞ゆれど、思ふにかなはぬことの多かるかな。内の大臣の心ばへも、なべての人にはあらず、と、世人もめでいふなれど、昔に変わることにみまさりゆくに、命長さも恨めしきに、おひさき遠き人さへ、かくいささかにても、世を思ひしめり給へれば、いとなむよろづうらめしき世なる」とて、泣きおはします。




母親に、先立たれた人は、それぞれの身分に応じて、可哀想なものですが、放っておいても、前世の約束通り、一人前になれば、誰も、馬鹿にしなくなります。くよくよしないで、下さい。亡くなった、太政大臣が、もう暫くの間でも、生きていたら・・・
この上ない、保護者として、同じように、お父様を信頼申し上げているけれど、思う通りには、いかないことが、多いものです。内大臣の、性格も、そこらの人とは、違うと、世間では、誉めるという話しですが、私への態度は、昔と違うことばかり増えてゆくので、長生きするのも、恨めしいと、思うのに、老い先の長いあなたまでが、こんなに、少しにせよ、悲観しているものだから、いよいよ、何から何まで、この世が、恨めしく思われます、と、泣いている。

さのみこそあはれなれど
その時は、あはれ、であるが・・・
あはれ、が、心象風景だけではなく、置かれた状況、現状に対しても、使われる。

不可抗力に対する、思いを、あはれ、と、表現する。
あはれ、の、風景が更に広がるのである。

心の、極まる思いを、あはれ、と、表現する。

あはれ、を、定義することが、出来ないほど、広がり、それぞれの、文の中で、感極まる、感動する、悲嘆する、また、喜び、感情の極まるところに、あはれ、が、ある。

何かしら、言うに言われぬ思い・・・
あはれ、と、表現する。
無理に、それを、語らない。
そして、語る必要がないのである。

日本の芸術文化に、息づくもの、それは、あはれ、というものを、表現するものなのである。

花鳥風月から、人のあらゆる、行為行動、そして、物に対しても、あはれ、という、言葉が生きる。



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2012年01月22日

最後の沈黙を破る。59

日本が豊かだと、聞かなくなった。
1965年あたりから、豊かという、言葉が良く用いられ、その後、20年ほど、日本の豊かさが謳われた。

更に、豊かになったが、心が貧しい・・・
高度経済成長を遂げて、世界から、アジアの奇跡と、呼ばれる。

だが、そのうちに、清貧の思想などという、本も出た。

そして、今は、豊かなのか、どうなのか・・・よく解らなくなった。

実は、日本は、豊かなのである。

昔は、その豊かさを計るように、ホテルで、捨てられる料理の残りが、どのくらいとか、残版で、世界の人を何人救えるだとか・・・いろいろあった。

私は、太平洋の島々を回り、東南アジアを回り、13カ国を回って、気づいた。
矢張り、日本は、豊かなのであると。

衣類の支援物資を頂く。
随分な量である。
これらを、着ないというから、驚く。
それだけ、物が豊かなのである。

どんどん捨てる術・・・
捨てて、開運する・・・

捨てる、という言葉が、多くなるほど、豊かさは、続いている。

貧しい国は、アメリカ、日本からの、古着を売る。
それでも、売れる。

更に、金があれば、何でも買える・・・
金で買えないものは無い・・・

そんなことは、無い。
金があっても、物がないから、買えない場所もある。

勿論、どんなに貧しい国でも、衣類は、売っている。
しかし、それを買うか、買わないかは、一度、三度の食事代になると、考えると、迷う。

食べなければ死ぬから、衣服を買わず、食べ物を買う。

ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマーの山間部は、寒くなる一方である。
しかし、日本のように、冬物が無い。
死ぬ人もいる。

フィリピンのような、暑い国でも、インドネシアのスラムでも、冬物がいる。
しかし、それを用意出来る人は、限られる。

暑い国は、日焼けを防ぐ意味で、日本の冬物のような服を着るのである。

ストリートチルドレンは、更に、悲惨である。
何も無い。

日本には、養護施設があり、ストリートに子どもが、寝泊りすることはない。

さて、食べ物である。
日本では、世界の至るところの料理が食べられる。
そして、選べる。
それは、豊かさである。

この、豊かさを忘れた・・・
若者たちは、生まれた時から、そうだから、もう、それが当たり前であり、貧しさを知らないほど。

更に、貧しさから、生まれるものも、知らない。

欲しい物は、与えられる。
それが、当たり前。

そして、大人になる。
その結果誇大自己が、そのままに成長する。
肥大自己といっても、いい。

更に、子どものままの、全能感である。

そして、大人たちは、礼儀作法のように、このままでは駄目になる・・・
何が・・・
子どもが・・・
ウソである。
自分たちが、駄目になっているのだ。

その、大人たちも、豊かさの中で育った。
団塊の世代が、代表である。

子どもに伝えられるものを、持たない世代である。

親に頼めば、物も金も、得られた、世代である。
そして、今、同じように、子どもに、されている。
更に、この先、どうなるのか・・・

富を得て、安楽に過ごした国は、歴史を見て通り、皆々、滅びた。
だから、日本も滅びるとは、言わない。

貧しさを、学べばいいのだ。
何処で・・・
貧しい国に行くことである。

ただし、ツアー旅行では、駄目。
一人でも、数名でも、その国の、ありのままの姿を見る場所に行くことだ。

庶民と一緒に、過ごす。食べる。

恐ろしくて、出来ない人は、ただ、道に立って、見ていてもいい。

どう考えても、日本が、豊かであると、気づくはずだ。
食べ物を選べない人たちが、多数いることを知る。
衣服が一つだけしかない人がいるのを、知る。

そして、どうして、日本が豊かなのかと、考えるべきなのだ。
最も、最高の、生きている学問が出来る。

更に、持っている人たちが、無い人たちに、与える行為を知る。

更に、金ですべてが、解決するなどという、軽薄な考えは、持たないようになる。
そして、日本に帰り、本当に、日本に生まれて良かったと思う。

日本の豊かさは、すべて借金によるものではない。
日本の、千兆円にのぼる借金は、他の国に支援した金額である。

国民は、皆で、豊かになった。
そういう時代があった。

今は、貧困問題が、話題に上がる。
それを商売にする人たちもいる。
ヤクザや、学者、識者、活動家である。

貧困問題でも、金を儲ける事が出来るのである。

貧困は、自己責任だとは、誰も言わない。
すべて、政治と行政の問題であると、堂々と言う。

政治家の質が落ちているのは、国民の質が落ちているのと、同じである。
わが身のことしか、考えられないからだ。
それが、誇大自己、肥大自己、そして、全能感を持った、大人になれない、子供のままの人たちである。

つまり、豊かになって、成長することを、止めたのである。

少しの、配慮と、少しの、配分を考える人たちは、救われる。

世界は、それに向かっているからだ。
つまり、共生と、分かち合いの精神である。
だから、グローバル化という。

経済のグローバル化は、世界平和に貢献し、人的交流、共生と、分かち合いは、人間と民族のグローバル化となる。

民族や国の違いを、楽しみ、持てる者が、持てない者に、分かつ。
時代は、そのように、流れている。

流れについて行けない人たちは、当然、滅びる。
滅びるということは、孤立するということである。

孤立は、死を意味する。


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2012年01月23日

性について。191

売春の行われる背景の90パーセントは、ホテルである。残りの10パーセントには、あるいはカフェの裏部屋とか、その他ブーローニュやヴァンセンヌの森といったすべての場所が含まれる。
マンシニ

ヨーロッパでも、あるいは、アジア各国でも、事情は、よく似ている。
ただ、それが、今も行われているか、否かである。
売春行為も、高度なテクニックになってきたと、いえる。

何処でも、売春行為は、成立する。

その手の、ホテルは、売春行為専門であるから、普通客を拒む場合もあるが、今は、公然と、普通客にも、部屋を提供する。

森のみならず、街角の至る所も、利用される。
特に、深夜であれば、ビーチ沿い、更に、電灯の無い、小路・・・・

更に、売春行為といっても、ありとあらゆる、形がある。

横浜市には、古くから、売春道なるものがあった。
数年前に、その場所から、売春行為をなくす運動を、住民がはじめ、それに、警察、横浜市が協力して、排除し、新しい通りとして、利用されるようになった。

だが、売春行為が、消えた訳ではない。

そこは、外国人の、売春婦の坩堝だった。
ロシア、韓国、中国、ブラジル、タイ・・・

更に、日本人が、混じるのである。

客の要求によって、ホテルの場合もあるが、自分の部屋で行う売春婦も、多かった。
更には、レディーボーイたちの、売春は、見事なもので、場所を決めない。
道の端で、単に、客のペニスをしゃぶり、射精に導き、数千円を得るものから、自分の部屋に客を入れて、一万円ほどの、報酬を得る。

それらは、みな、ショートタイムと、呼ばれる。
そして、レディーボーイたちは、ショートタイムしか、行わないという。

女の売春婦は、ショートタイムでも、ホテルを利用するか、自分の部屋で、行うか、である。

本番無しの行為では、五千円程度からで、本番は、一万円から、二万円の間である。

どれほど、排除されても、彼女たちが、収入を得るのは、売春であるから、場所を移して、行われる。

マンシニが書く、フランスの状況と、同じである。

風俗営業の届出を出さずに、影響していると、時に、摘発されて、逮捕されるが、保釈金を支払い、出てくると、また、新しい方法を考えるという。

日本でも、マッサージと称して、性的サービスを行う、女の子マッサージが、出現したが、まったく、タイの、エロマッサージの真似である。

本番無しの、性的サービスである。

タイ、バンコクの道端の立つ、売春婦の利用するのは、ホテルではなく、格安のゲストハウスである。
時間制で、借りる。
ハウス側も、回転率がいいと、儲けるので、暗黙の了解で、利用させている。

田舎に行くと、ホテル自体が、売春斡旋を行う。
それらは、紹介する者に、コミッションが入る。

ホテル従業員から、暗に、売春を持ちかけられることは、多々ある。
それは、バリ島でも、タイの田舎でも、カンボジア、ベトナムでも、同じである。

だれであろうと、パリの中央市場の周辺や、その他駅に近い街路を歩いてみれば、あきらかに売春婦と思われる女と客とが、素早く取引の話しをつけてそのまま手を組んでホテルに入ってゆき、十五分後にそこから出てくるのを、自分の眼で見る事ができる。
マンシニ

売春行為は、法律で、裁かれるが、売春婦として、存在するのは、裁かれないのである。

売春婦として生活することは禁じられていないからである。
マンシニ

タイ、チェンマイの、ある通りでは、レディーボーイが、性的サービスを売る場所として、有名である。
そこに、警察が、手入れをする。それは、警察官の、臨時収入、こずかいに、なるからである。

時には、事件のように、報じられる場合があるが、そんなことは、皆、知ってのことである。

チェンマイ以北、更に、タイの、東北部から出て来た、貧しい女たちが、体を売る。飲み屋の、ホステスをやっていても、生活が出来ないのである。
ゴーゴーバーとは、売春婦を捜す場所なのである。

私が、問題意識を持つのは、売春街、あるいは、置屋といわれる、売春婦を用意してある、店である。
その周辺は、実に危険な場所として、紹介される。
カンボジア、プノンペンでは、売春街は、スラムと、一緒にある。

昼間でも、危険な場所と言われる。
売春婦街には、薬物、その他・・・
薬物中毒者、アル中、精神病・・・

国境近くの町には、そういう場所が多々ある。

怪しい場所には、怪しい連中が、屯するのである。

だから、そういう環境の中でも、育つ子どもがいるというのが、問題である。
母が売春婦で、自分も、売春の世界に身を入れたという、若い女性もいる。選択肢がないのである。

貧しさと、学習の環境にない、子どもたちを、その環境から、救い出すには、政治力が必要である。

posted by 天山 at 00:13| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月24日

性について。192

ガブリエル・マンシニによる、売春の社会学から、その歴史を俯瞰してきた。

おおよそ、概略は、つかめたものと思う。
売春の行く末、また、売春の形相に関しては、古代から、現代まで、あまり変わりがないと、考えている。

そして、売春は、人間が存在する限り、続くものである。

マンシニは、
世論が売春に対する予防活動の必要性を、また売春組織に容赦なく抑圧活動に出る必要性を深くとどめるに至る時こそ、よりよい世界の到来に向かっての巨歩が進められる時なのである。
と、結論付けている。

性と、人間の存在を考える上で、売春は、切り離せない問題である。
更に、本当に、売春という行為が、不自然で、異常な行動なのかと、問われれば、否というほかないのである。

世界的に、売春という言葉が広がり、それが行われたのは、1914年の第一次大戦までに広がったといえる。
そして、世論も、法も、売春を、恒久的な悪、必要悪と見なしていた。
更に、売春仲介組織が社会を危機に陥れるほど、発展している事実を、心に留めていなかったのである。

そこに、売春と共にある、人身売買を抑圧すべく、協力して、活動するという計画が現れたのは、国際連盟が出来てからである。

人身売買は、当時は幼年期を過ぎたばかりの婦女子を何万となく娼家や街頭で売春させるべくわなを仕掛けていたのである。1939年、第二次大戦以前および戦後に全世界に生じた大規模な人口移動、それに当時の経済情勢が、売春および売春仲介行為を助長したのであった。
マンシニ

そして、戦後、国際連合により、関係各国に、有効な売春対策法の基礎的原則を提供し、各種研究を開始した。
今日、世界中のほとんどの国が、1949年、人身売買および他人による売春を業とする者の圧力のための、協定に加入している。

だが、それでも、売春が盛んなのである。

日本の場合は、暴力団という組織が、売春斡旋、更に、そこから資金を得て、存在していたといえる。
あらゆる、反社会的行為により、暴力団が、利益を得た。

そして、2011年には、暴力団に対する、極めて厳しい圧力が政府、自治体、市民によって、成った。
排暴力団対策である。

ところが、売春は、市民によって、更に深まるのである。
つまり、青少年が、自ら、売春行為をするという・・・

それが、援助交際という、名の元に、である。

少女、少年も、体を売ることで、金を得るという行為を、何の躊躇もなく、受け入れたのである。
これは、如何なることか。

人身売買、売春斡旋は、厳しく、裁かれるようになるが、逆に、個人的に売春を行う者が、あらわれたのである。

それは、日本に限らない。

タイ、バンコクには、世界中から女性たちが、売春による、金儲けのために、訪れている。それが、不法滞在になっても、引き続き、それを商売のようにして、行うのである。

書きたくないが、日本の一部都市にも、そういう存在がある。

厳密に売春を取り締まることは、出来ないのである。
それは、人間が存在する限りである。

更に、自由恋愛と、売春の差がなくなりつつあるとしたら・・・
擬似的恋愛も、自由恋愛も、実際のところは、変わることがないのである。

そこに、金が付きまとうか、否か、である。

更に、日本の場合は、驚くべきことに、男女共に、青年期にある者たちが、セックスを求めない方向に向かっている。
そして、無性の時代である。
無性とは、性差が無い。性差を意識しない社会である。

人間の性は、何処へ行くのか・・・

その前に、もう一度、売春行為というものの、本質に迫りたい。
それは、売春行為とは、その行為に関わる、主体は、通常、二人であるということ。

だが、歴史を振り返ると、裁かれるのは、女の方である。

行為の責任主体は果たしてだれか。主犯者は男性の方か女性の方か、どのくらいの比率か、この種の行為において客は主犯者か共犯者か、客も売春婦も共に主犯者なのか、こうした諸点が問題である。
マンシニ

私は、マンシニのように、学者という、分析をよくする者ではない。
私は、求める客と、求められる女、売春婦との、相互関係と、考える。

それを需要と供給と、考えると、良く解る。
需要があり、供給がある。

そこに、国家や、個人的な価値観が、介入する必要は無いのである。
人身売買ではない。
生活のために、体を売る。
今では、女だけではない。男も、体を売る時代である。

知能の問題だけではない。
知能の高い女も男も、売る時代に入ったのである。

国連の、売春行為抑圧には、人身売買と、児童買春という、組織が介入する、売春が主体であり、個人的な、売春行為は、その中には、無いのである。

日本では、売春行為は、罪とされ、罰せられる。
しかし、売春行為は、一切無いのかといえば、大いにある。

明らかに、売春を謳った広告、チラシが氾濫している。
そして、姿を変えて、廃れることはない。

通常、射精産業といわれる、エロ商売は、盛んである。
その、歓楽街は、それによって、成り立つ。

セックスまでの行為を、その世界では、本番行為という。
そして、本番行為の手前の、仕事は、増え続けている。

例えば、リラックス男性マッサージとは、射精まで手伝うという、行為である。
出会い系喫茶は、売春行為の、仲立ちをする。

昨年、横浜駅近辺の、耳掻き専門店が、摘発された。
更に、出会い系の喫茶店も、摘発された。
すべて、売春行為に至るのである。

さあ、性とは、何か。
これほど、面白いテーマは無い。


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2012年01月25日

カンボジアの悲劇

世界遺産である、アンコールワットにある町、シェムリアップに出掛けた。

今回の旅の、言葉・・・
私は偽善者である。
支援は、糠に釘である。
日本人は、余りにも、恵まれ過ぎた。
日本人の意識は、グローバル化に、対応出来ない。
東日本震災の規模の災害が、もう三度起こらなければ、日本人の意識は、変わらない。

実に、悲しいことであるが、日本人は絶望を知らなければならない。

貧困の極みを知らない、忘れた日本人は、罰が当る。

私の母は、敗戦間際に、樺太から、逃れて来た。
そして、極貧の生活をした。
だが、それを、真っ当に語ることをしない。

七十代以上の人の話を聞かない、日本人は愚かである。

更に、天皇陛下の存在に関して、無関心な日本人は、実に哀れである。

未来は、過去に、含まれている。
何故、歴史を学ぶことを、しないのか。

試験に受かるための、歴史ではない。
歴史の本来の姿を、学ぶべきである。

そうすると、日本の天皇の存在が、明らかになる。

宗教の開祖、教組、更に、霊的能力者が、天皇の存在を、霊視できなければ、その人は、何も見えていないということである。

日本は、特別な存在の国である。
しかし、昭和天皇は、民族として、特別な存在であるということは、無いと、断定した。
民族は、皆、大切な存在であるから、日本民族が、優れているとは、過ちであると・・・

当時の、軍部の教えを、否定した、昭和天皇である。

それは、明治天皇の、八紘に通じる。
八紘とは、世界である。
世界は、一つの家族である。

見事に、天皇は、世界を捉えていた。
世界の君主で、そのように、考えた者は、日本の天皇のみである。

私は、その天皇の存在する国に生まれて、幸せである。

大君の
おわす御国の
民として
静かに垂れる
心静かに

民族の優越を、論ずることなかれ・・・
皆々、同じ人間である。
それを、昭和天皇は、共産党に踊らされた民衆をも、あれも日本人であろうと、仰せられ、皇居に侵入した、過激派に対して、あはれ、を、抱いたのである。

この、天皇、大君を、戴く日本という国を、私は特別な国だと、確信したのである。

前ローマ法王が、他宗教との、対話を試みた。
だが、それは、失敗だった。
何故か。
それは、法王に帰依することを、求めたからである。
和解と、平和を唱えつつも、法王は、彼らの上に立つ者であることを、示したのである。

しかし、天皇は、そうではない。
あなたの民族を、貴い存在だと、表明し、私の日本民族と、共に、歩みましょうと、発言するのである。
つまり、あなたは、あなたで、いいのです・・・

カンボジアの、シアヌーク殿下は、王位を父親に譲り、自ら政党を創り、ポルポトと、組んだ。
そして、その、ポルポトは、人間とは思えない、虐殺を自国民に行った。
何故、シアヌークは、それを止められなかったのか。

カンボジア放送で、シアヌークが国民と、対する場面を見た。
そこでは、シアヌークに、腰を低くする、国民を見たが、あれは演技である。
誰も、シアヌークを、崇敬しているとは、思えなかった。

30年前、つまり、今の、45歳以上のカンボジアの人たちは、あの、虐殺の悪夢を見ているのである。

静粛
殺す

知識人たちを、皆殺しにした。

あらゆる、分野の知識人たちである。
私の出掛けた、シェムリアップでも、千人以上が、簡単に虐殺された。
そして、その遺骨が、積み重なって、慰霊塔となっている。

共産主義・・・
人類史はじまって、以来の、悲劇である。

中国の毛沢東は、一千万人の、自国民を殺し、ポルポトは、三百万人を、殺した。

誰が、支配者を、為政者を、信じるか・・・
誰も、信じない。

ところが、日本人の、九割は天皇を支持するのである。
その、権威をありがたく思う。
天皇は、国民を虐殺することはない。
誰が、天下を治めても、天皇は、国民の側に立っている。
日本史を、俯瞰すれば、それは、明らかである。

陛下を敵にする者は、民を、敵にする者である。
だから、日本人は、今の今まで、天皇の権威に対して、崇敬の思いを抱いてきたのである。

私は、その国の、国民であることを、誇りに思う。

天皇とは、皇祖皇宗、つまり、祖先の象徴である。
私の先祖も、天皇に対して、崇敬を抱いて生きたのである。

陛下は、24時間、公人であらせられる。
ただ、ただ、深くその存在を、ありがたく思う。


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2012年01月26日

カンボジアの悲劇2

バンコク経由で、シェムリアップに向かう。
何故か。
その方が、安いから。

二人で、90キロ程度の支援物資である。しかし、シェムリアップには、40キロのみ、持参できる。
だが、搭乗手続きの際に、46キロと出た。
しかし、何も言われない。つまり、許可してくれた。

対応したのは、男の子といってよいほど、若い。
コータがその対応に、ゲイであろうと、言う。
タイ語を聞けば、ゲイとか、カトゥイ、レディボーイとかが、解るという。
私には、その微妙な語感は、解らない。

兎に角、オーバーしたが、持参できると、喜んだ。
一時間で、到着という、これまた、早い。
国際空港であったから、入国が必要である。
勿論、タイからも、一度、出国する。

あらかじめ、ビザをネットで取っていたので、スムーズである。

シェムリアップは、バンコクより、暑かった。
ホテルまでの、トゥクトゥクを捜す。
空港の前は、タクシーの勧誘が煩いが、ここでも、同じく。

私は、一言
トゥクトゥク・・・
大声で言うと、誰も、それ以上は、勧誘しない。

そして、トゥクトゥクの止まる場所まで進む。
そこにいた、トゥクトゥクは、すべて予約済みであり、誰かが、あちらに止めてある、トゥクトゥクを呼びに行ってくれた。

遅いので、遅いと、大声を出すと、皆、真似して、オソイ、オソイと、言う。

やってきた、トゥクトゥクのお兄さんに、7ドルと、言うと、オッケーと答えた。
そして、荷物を積み、乗り込む。
その時、あれっ、7ドルは、タクシーの料金だと思い、もう一度、料金を尋ねた。
すると、解ったらしく、タクシー料金と同じと、答える。

そこで、やり取りするのが面倒で、良しとした。
その、運転手が、今回の私たちの支援に、関わるのである。

世界遺産、アンコールワットの町。
観光客が多い。

だが、私は、観光は、一切しない。
勿体無い・・・折角、出掛けたのに・・・
そんなことは、無い。それ以上に価値のあることを、するために、来ている。

ゲストハウスの安い所に向かう。
四泊する予定である。

私は、今日、明日と、休憩時間にした。
そして、三日目に、支援活動をする。

二日も、休むのである。
疲れるから。
前回の旅で、いよいよいと、私の体力の衰えを感じたのであり、更に、足に負担がかかり、無理は禁物。

町の中心部から、少し離れた場所にある、ゲストハウスである。
到着して、運転手に、私たちの計画を話した。
協力出来るか、否か。
二時間で、10ドル、と、提案した。
すると、オッケーであり、ありがとうと、言うのである。支援に対する、ありがとう、である。

町の外れから、貧しい人たちの部落を案内するという、約束をして別れた。

ゲストハウスに入る。
あらっ、何と、チェンライで、出会った、韓国人の青年がいる。
あーーー
と、互いに、驚き。

彼は、あれから、ラオスに入り、川を下って、カンボジアへ来たと言う。
ただ、そのゲストハウスは、大半が、というより、全員、老いも若きも、日本人客である。

ドミトリーという大部屋があり、そこに寝泊りする、若者たちである。

個室を使う、客は、少ない。

ツインルームを頼む。
従業員は、皆、無愛想である。
その訳が、後で解る。

階段の下で、寝ている従業員もいた。

兎に角、部屋に入り、一息である。
荷物の整理をする。
手荷物を入れて、四つ。
それらを、開けて、まとめる。

男女、子供用と、均等に入れて来た。
そして、靴と、文具である。
まあ、後で忘れることも、多々あるが・・・

兎に角、後は、休むのみ。
で、私は、早速、マッサージの店を捜す。
ガイドブックを見る。
マッサージ店のある場所には、多くの店があるのが、普通だ。

コータは、バンコクで、二時間ほど、受けたので、その日は、行かないと言う。
私は、盲人のマッサージ店を見つけた。

早速、そこに行くことにした。
盲人は、技が勝負であるから、旨い。
一時間、5ドルである。400円。安いのも、いい。
そして、案の定、上手かった。

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2012年01月27日

カンボジアの悲劇3

盲人マッサージの話である。
着いた当日、私は、若い男のマッサージ師がついた。

巧い。
ツボを抑えている。
そして、丁度良い、圧力である。

そして、二日目は、女の盲人の方であり、年配である。
少し、心配した。
しかし、年の功である。
これも、巧い。

この盲人のマッサージ店は、ここだけのようである。
障害者の多くは、乞食をしている。
特に、戦争による、負傷と、地雷による、足の切断である。

ずるようにして、移動する。
その姿は、痛ましい。

更に、子供を連れた、片足の無い父親である。
子供が先に進み、物乞いする。
その後から、お礼を言いつつ、子供に着いて行く。

子供の姿は、着の身着のままである。

タイのように、乞食商売ではない、物乞いである。

プノンペンの最初の旅日記に、私は、ポルポトの悲劇を書き綴った。
本当は、まだまだ、話しがある。
共産主義黒書という、本から、抜粋して、紹介した。

300万人の死者である。
自国民が、自国民を虐殺するという、悲劇である。

30年前のこと。
だから、当時、少年兵だった人たちは、今は、45,50歳あたりである。
だが、その話しは、タブーである。

殺した方も、殺された方も、被害者なのである。
ポルポトという、一人の人間による、共産主義の妄想の被害者なのである。

知識人を皆殺しにした。
このシェムリアップにも、その慰霊塔がある。
プノンペンと同じく、遺骨を積み上げている。
キリング・フィールド、という。

今回は、慰霊をしなかった。
コータに、止められた。
あの状態に耐えられないと、言う。
プノンペンでの、不調である。

それで、私も、霊的な情報は、すべてシャットアウトした。

だから、支援を終えた後でも、マッサージに出掛けた。
400円で、一時間であるから、日本で受けない替わりにと・・・

そこで、今度は、マッサージ店が立ち並ぶ、街中のマッサージ店に行き、ボーイを指名した。
オーナーが、ボーイを呼ぶ。
目を閉じて待つと、目の前に、顔があった。

フットマッサージである。
私は、言った。ストロングオッケー・・・
オッケーと、彼が繰り返した。

英語が出来たので、少し話しをする。
18歳である。
高校生の年である。

彼のマッサージは、男の子らしく、強く、心地よかった。
足裏をどのように揉むのか、興味があった。
いい線いく・・・
足裏は、どんなに強くても、事故にならないのである。

しばし、まどろんだほど、良かった。
そして、最後になった。
脹脛を、強く、押し続けて、筋を伸ばす。

終わって、目を開けると、オーナーも、誰もいない。
と、そこで、彼が、私の顔を近づけてきた。

スペシャル・・・
と、言う。
えっ・・・
スペシャルオッケー・・・
と、私の股間を指した。
ああ、売り込みである。

いくら・・・
30ドル・・・
高い、と日本語で言うと、日本語で、安いと、返してきた。
つまり、日本人を相手にしていたのである。

ボーイを指名したので、ボーイが好きな奴だと、思ったのだ。

彼は、しつこく迫る。
高い・・・
その繰り返しで、ついに、彼は、20ドルと、言ってきた。
私は、いつもの手を使う。
トゥモローね・・・
ノー・・・トゥデー・・・トゥデー

明日という客は、来ないと、とても感がいい。

それでも、明日来ると、言っていると、オーナーの奥さんが戻って来た。
すると、彼は、ぴたりと、話しを止めた。
矢張り、禁止事項なのである。

そこで、私は、付近のマッサージ店に行き、女の子を捕まえて、尋ねた。
スペシャルオッケー・・・
頷く。
幾ら・・・
30ドル。

30ドルで、射精に導くと、知った。
だが、それは、あくまで客との取引であり、店では、関知しないのである。
これは、タイでもそうだが、暗黙の了解なのである。
マッサージ嬢の、手取りは、少ない。それで、スペシャルに、導くのである。
果ては、売春まである。

彼らには、1ドル、2ドルが、大金なのである。
1ドルが、4000リアルであり、日本円では、80円程度。

朝、地元の人たちが食べる、お粥は、2000リアルである。
つまり、40円。
私も、それを毎日食べた。
その屋台は、昼間前に終わる。

私は、いつも、地元の金銭感覚に馴染むために、屋台で、食べるのである。
衛生的・・・
そんなことは、関係無い。
とても、美味しい。

東南アジアの屋台の、洗い場を見るな・・・
と、私たちは、言い合う。

コータは、それで、何度も、あそこには行かないと、言った。
洗い場を見たのである。


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2012年01月28日

カンボジアの悲劇4

支援の日である。
必要な人を訪ねて・・・

それが、どんなに大変なことか・・・
しかし、それは、私が選んだこと。
他の人には、勧められない。

突然、訪ねて、日本からの、プレゼントです。

全く予期していなかったことが、そこで、始まる。

そのような、無謀なことが、出来るのは、私の性格。
決して真似をしては、いけない。

その前に、私は、ゲストハウスの隣のゲストハウスを見に行き、今夜から、部屋を変えることにした。
日本人ばかりで、面白くないのである。

日本人と、韓国人と、中国人は、まとまって、行動する。
そして、喧しい。
更に、見苦しいのである。

朝、十時に、トゥクトゥクが来る。
その前に来ていた。さすがである。

行くのに、30分、帰るのに、30分。支援に一時間と、考えて、二時間とした。
トゥクトゥクの運転手に、行き先を任せる。
部落を回るということで、発車する。

街中を抜けて、東に進む。
街中を過ぎると、道路が、極端に悪くなる。

更に、乾季であるから、埃が凄い。
そして、乾燥している。

次第に、農地が広がって来た。
そこで、トゥクトゥクの運転手が、バイクを止めて、言う。
私の部落も、貧しいので、最初に行って、いいですか・・・
ああ、いいですよ・・・
その喜んだ顔。

そうか、トゥクトゥクの運転手は、頑張って、トゥクトゥクを手に入れて、暮らしを立てているのだ。

右の道に入り、ゆらゆらして、走る。
小屋が、見えた。
ここが、彼の部落・・・

小屋が並んでいる。
トゥクトゥクが入るが、目に入るのは、数人の子供たちだけ。

私は、日の丸を掲げて、言う。
フラムジャパン・・・プレゼント・・・

子供たちが、唖然とする。
しかし、私が、バッグを開けて、子供たちに、衣服を渡し始めると、表情が変わる。

なに、なに、なに・・・

ぞろぞろと、小屋から、出て来る。

運転手が、通訳する。
すると、どんどんと、人が出で来る。

どうして・・・
何で・・・
皆の、顔が、そのように見える。

私は、衣類を地面に置いた。そして、言う。
好きな物を、取ってください。
運転手が通訳する。

小さな歓声・・・・
そして、子供たちに、ペンを取り出して、スクールボーイ、ガールというと、子供たちが、歓声を上げた。
私は、一人のおばさんに、ペンを渡して、子供たちに、配るようにと、身振りで示した。
子供たちが、おばさんに、群がる。

ところで、ノートは・・・
見当たらないのである。
あらっ・・・・

だが、捜す暇は無い。
兎に角、渡せるだけ渡すが、運転手が、まだ、他にも、ありますから、今辺でと、アドバイスする。

そうか・・・
ここだけでないのである。

私は、再度、日本からのプレゼントです。そして、また、来ますよ、と声を掛けた。
運転手が、皆、ありがとうと、言っていますと、言う。

写真を撮る。
子供たちが、いい。
突然の、プレゼントに、嬉しさがこみ上げている。

ジャパニーズ・テン
私は、そう言い、日の丸を掲げた。
その、日の丸は、支援の間、皆それぞれが、持っていた。

大きな、ボストンバッグが欲しいと、男がコータに言ったらしい。
コータは、そのまま、バッグを、渡した。
それで、いい。
皆、支援物資である。

それを見ていた、運転手も、もし、貰えるなら、バッグが欲しいと、コータに言った。
運転しながらである。
私は、いいですよと、言った。

次に、向かったのは、一軒の農家である。
ポツンと、小屋が建っていた。


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2012年01月29日

カンボジアの悲劇5

最初の部落を出て、更に町から遠退く。
畑が広がる。
しかし、緑は無い。枯れている。

観光客には、良い季節といわれる。
11月から、2月まで、乾季なのである。
しかし、現地の人たちは、大変な時期である。
特に、農家の人たちは、何も育てる物がないのである。

シェムリアップ川から、水を引き、畑に取り込む、灌漑設備を作る。
すると、乾季の時期でも、野菜が栽培できる。

農家の人たちの、収入は、そこで採れた野菜を町に行き、売って、お金を得るのである。

現在、シェムリアップでは、日本人のボランティアの人たちが、障害者の自立のために、農業指導をしている。
今回は、そこまで行くことは出来ない。
何せ、限られた支援物資である。

トゥクトゥクが、速度を落とした。
運転手が、右側に見える、家を指した。
農家の家であるが、家というより、矢張り、小屋である。

オッケーと、私が言うと、その家の細道を入った。

子供が二人いた。
何事かと、注目する。
運転手が何か言うと、中から人が出て来た。

おかあさん、少年二人・・・
更に、もう一人の女の人・・・

早速、バッグを開いて、衣服を出す。
子供二人は、男の子で、上半身、裸である。

早速、二人に、シャツと、上着を上げた。
すると、母親が、二人に即座に着せた。

どんどんと、出して、渡す。
少年二人にも、ズボンを上げた。
二人は、腰巻のようなものを、巻いているだけ。

女物も・・・
静かな感動が、伝わる。

男の子が着た状態で、写真を撮る。
英語は通じないから、運転手が私の言葉を、訳して皆に伝える。

家の中に、男の人がいる。
私は、その方を、引き連れて、ズボンを上げた。
とても、申し訳なさそうである。

だが、もう、上着が無い。
次に来る時に、持ってきますね・・・
運転者が何か言うと、私に、ありがとう、と、言っていると、教える。

あっという間に、支援物資が無くなる。
運転手の言うとおり、次ぎも行きますから、この辺りで・・・
オッケー、そうしましょう・・・

と、その時、バッグの底に、ノートの束があった。
あれっ、ノートがあったんだよ、と、独り言。

私は、運転手に、先ほどの村の子供たちに、上げてくださいと、渡した。

そして、皆さんに、さようならと、言い、また、トゥクトゥクに乗り込む。
私たちを、見送る皆さん。

道路に出ると、自転車、歩いている子供たちである。
学校帰りであろうか・・・

と、運転手が、あの子供たちに、ノートを上げて下さいと言うのである。
先ほど、差し上げたものを、再度受け取り、子供たちに声を掛ける。

一人の女の子が、振り向いて、近づいてきた。
そして、ノートを渡すと、大声で、皆に知らせるのである。

子供たちが、走り出して来る。
自転車に乗った子も、急いで来る。

ノートが、どんどんと、皆の手に渡る。
すると、近くの家から、赤ん坊を連れた母と、近所の人たちが出て来た。

そこで、また、衣類を出して、渡すことにした。
赤ん坊の物は無かった。
裸で、ヨチヨチ歩いてくるのである。

何も上げる物が無い。

ただ、女たちには、充分に上げることが出来た。
先の子供たちも、見ている。

また、来るよ・・・
私は、ジャパニーズ・テン・・・

子供たちが、テン、テンと、呼ぶ。
実に、楽しそうだ。
ノート類も、すべて無くなった。

半数の子が、裸足である。
靴が必要だ。
サンダルでもいい。

それで、支援物資が、すべて無くなり、支援活動は、終わり。
あっという間の出来事。

一時間もかからないのである。
ゴーバック・ホテル・・・
トゥクトゥクの運転手も、実に満足そうである。

だが、私の心は、次第に、絶望に変わってゆく。
この活動は、何だ。
偽善だ。
偽善者である。

周囲の風景にあるものは、絶望である。
ここで、人が生きているのだ。
この乾いた地で、雨季まで農業は、出来ない。
一体、彼らは、何を食べているのか・・・

そして、私の行為は、何だ・・・
この、糠に釘のような、活動。
考えると、腹立たしくなってくるのである。
無力であることが、偽善なのである。

支援物資は、日本に山ほどあるのに・・・

ゲストハウスに着いてから、少し運転手と、話しをした。
意外なことを、聞くことになる。


posted by 天山 at 00:10| カンボジアの悲劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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