2011年12月30日

神仏は妄想である。359

イギリスの、ミルの自然観を見ていたが、一度中断して、神道における、自然を見ている。

後に、また、ミルを続けるが、古代日本人は、自然を、どのように見ていたのか、というのは、興味深い。

そこで、神道にある、産土、うぶすな、の考え方を少し紹介する。

産土の神と、現在は、言われる。
産土は、結ぶ、結び、から、来ている言葉で、ムスビの思想といってもいい。

現在の宇宙物理学では、おおよそのことが、解っているが、まだまだ、謎が多い。そして、それは、これからも、進化してゆくことだろう。

古代の、日本人の自然観は、ただ、畏れ敬うものであった。
だから、自然と共感し、共生し、更に、その自然の中に、埋没することを、善しとした。

何せ、自然は、神、カムの世界である。
その中で、生まれて、生きるのである。

つまり、カムの世界に抱かれて、生きている。
だから、対立するものではない。

そこで、ムスビのカムの考え方が起こる。
自然は、すべてを結んで、統一していると。

産土の神は、土地の神様である。
その地域全体を、支配する、いや、心に掛けるといった方が合う。
その神様が、人の生まれる、死ぬ、を司ると、考えた。

つまり、生まれるも、死ぬも、神様の関わりで、起こるものである。
その、産素の神は、氏神、鎮守の神も、その下にある。

その、産土の神を、統一させているのが、大国主命、おおくにしぬのみこと、である。

それは、人間の考えたことであるから、後で、また批判する。

今は、自然観である。

自然は、ムスビの力を持って、人間を関わらせ、生かすのである。

現代人の多くは、「自然」の始まりといえば、140億年前といわれる宇宙の創生、すなわちビッグ・バンを思い浮かべるであろう。しかし、広大な宇宙の時間と空間は、どこから始まり、どこで終わるのか、悠久の問いと謎を発しつづけてきた。現代宇宙論は、それに対する科学的な仮説であるが、古代日本人はその問いと謎の中から「むすび」の神の生成力を見出し、その力を畏れ、敬い、崇めてきた。それが「むすび」の信仰である。それは、始まりと終わりを含みつつ、くりかえし循環する生成変化の存在形成力に対する讃仰である。
鎌田東二

ムスビとは、自然の万物を生み出す力、生成力を表すという。
上記、私も賛成である。

明らかに、自然と対立するという、西欧思想、キリスト教思想とは、別物である。

神から、人間は、自然を与えられた。自然を支配する、力を、与えられたと、考える。
日本では、その逆である。
自然を支配するなどとは、考えられないのである。

それは、また、自然の姿が、違うということもある。
四季折々に、自然は、多くの恵みを与える。
支配するどころか、自然に活かされて生きるのである。

そこに、賢しこみの思いが生まれ、更に、畏しこみの、信仰が生まれる。
畏れ敬う心。
それを、別名、大和心ともいう。
大和心とは、おほいなるやわらぎのこころ、である。

それは、調和する心。
対立の無い心である。

日本を、和と呼ぶのは、ここにある。

和とは、輪であり、環である。

巡り巡る・・・自然。

その中に、人の生死もある。
すべて、抱擁され、包容されてある。

更に、普段の生活の中でも、日本人は、自然を愛でるのである。
自然を愛すると、書いて、めでる、のである。

自然を慈しむ心を、また、大和心と、言う。

それが、思想にまで、高まり、広がりを見せたのが、大陸からの、思想との融合である。
神仏習合というが、それ以前に、儒教、道教が入り、平安期には、それが当たり前の感覚になり、生活に生かしている。

また、日本の宗教、信仰にも、大きな影響を与え、更に、日本文化の中にも、浸透していった。

その、神仏習合の中に、それらが入り混じり、その総称として、神仏習合がある。

何を取り入れても、大丈夫なのである。
自然がある限り。

今で言えば、ハイカラ、新しもの好き・・・
明治に西欧の思想・・・その他諸々が、入って来た時、即座に、それを取り入れようとしたことは、ご覧の通りである。

だから、それで、日本人が変わったかといえば、表は変わっても、裏は、変わらないのである。

変容しても、変化はしない。

極めて、排他的なものより、寛容なものが、新しく生きられる。
日本人の、自然観は、それである。
だから、自然破壊は、日本人の心の、破壊に、つまりムスビの破壊に、つながるのである。



posted by 天山 at 00:28| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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