2011年12月29日

神仏は妄想である。358

神道という言葉を、鎌田東二氏は、
神からの道と、と、神への道、二つがあると、書く。
面白い、意味付けである。

最初に、神道という言葉を、用いたのは、有間皇子で有名な、その父、孝徳天皇である。
大化の改新の直後のこと。

日本の古来からの、信仰を、仏教と、分ける意味で、神の道と、記した。
神からの道でも、神への道、でもない、神の道である。

つまり、神とは、人間のことであり、その人間の道のことを言うのである。

人間は、すでに、カミなのである。
以前、この系列語として、カマ、カム、カミという、大和言葉のことを、書いた。

観念的な言葉ではないのである。
カマは、米を炊く釜であり、その行為が、カムであり、そして、カミと、変化した。

現実的な、極めて現実的な言葉である。

人は、神である。

その人の道を、神の道と、書いて、神道である。

その神道の自然観を、見ている。

ただ、鎌田氏の、言う、以下の文章は、もっともである。
「神からの道」とは、この宇宙が、この存在世界がこのように在ることの流れであり、道であり、自然の大道・生成である。天地自然として、森羅万象として、顕現し、現象していくことの中に現れる「神の道」。いわゆる「神ながらの大道」とは、このような宇宙的流れを意味している。その意味では、「神道」は「宇宙教」である。神道には明確な教義というものがないが、天地自然を書籍とし、宇宙の存在の声を畏怖畏敬の念を以って聴き取ろうとする根本的に態度を持っている。万物の声に耳を澄まし、それとの共生・調和を図っていこうとする志向性を持っている。

だから、宗教学としての、神道を理解しては、ならない。
欧州の宗教学の中に、押し込めての、ものではない。

神道を語るためには、全く別な、形態が必要である。
民俗学、人類学、人間学・・・

信仰というものも、宗教学が、言うところのものではない。
信仰は、所作なのであり、観念ではないからだ。

行為によらずに、神道というものは、無い。

天地自然を、書籍とし、すべての存在に対して、畏怖畏敬の念を持つ。
万物の声に耳を澄まし、それとの、共生・調和を求める。
鎌田氏の、記述通りである。

つまり、自然が、対立するものでも、観念でもないのである。
共生、共感、調和・・・

自然における善性・・・云々などという、言葉遊びは、出てこないのである。

創造主から、人間に与えられた、自然を、どのように扱ってもいい、人間は、自然を征服していいのである、などという、考え方は、一切無い。

人間も、神なら、自然も、宇宙も、神なのである。

伊勢神宮に参拝して、多くの外国人が、感嘆の声を上げる。
ここに、宗教の大元があると、アインシュタインも言った・・・

大きな間違いである。

日本の国土全部が、それなのである。

山の中に、入り、霊妙微妙な波動を感じて、神なるもの、偉大なるものを、感じた・・・云々・・・

嘘である。

国土すべてが、それなのである。

山も、海も、川も、何もかも、日本では、神であり、畏怖し畏敬するものであり、特別な、パワースポットなど存在しない。

今、この場が、パワースポットであり、自然の中で、共生し、調和して生きること、それが、神道なのである。

伊勢神宮が、まだ、救われるのは、天照る神の、お住まいが、高床式の、掘ったて小屋だからである。
それが、もし、巨大建築物ならば、天照る神も、嘘になる。

出雲大社を、私が、認められないのは、その建物である。

神道は、建物を必要としない。
自然、天地すべてが、神殿なのであるから、何も、いらない。

祭りの時に、依り代を立てて、皆が、集い、祖霊を招いて、飲み食いし、踊り、一時を過ごし、終われば、お帰り頂く。
それが、祭りである。

年から年中に、建物の中に、収まっている神なるもの・・・
単なる、不浄霊であろう。

祖霊の微妙霊妙な、霊的波動は、この世に、相応しくない。
一時的だから、降臨鎮座するのである。

宮代なきこのところに、降臨鎮座ましましたまえ
と、祈り、その時だけ、お越し頂く。それが、祖霊に対する、礼儀である。

神社神道・・・
その、誤りは、後戻りできないのである。

神社神道の、神なるもの、ニセモノ、嘘である。

それこそ、妄想である。

神主が、いくら、祓いたまえ、清めたまえ・・・と、唱えても、一時的なものにしかならないのは、そういう意味である。

本来の、祖霊の霊格高い霊位は、一時的に、降臨し、そして、祓い清めるのである。

神主の、御幣に懸かり、そこで、神主の所作により、祖霊の神力が、働く。

更に、そんなことを、しなくても、自然の中にいれば、清められ、祓われるのである。
それが、神道の自然観である。

聖なる場所とは、日本の国土すべてである。
そこが、あそこが・・・
嘘である。

今、そこに生きている、場所、そこが、聖なる場所であることを、神道霊感は、教える。

農民は、耕し、植えて、収穫する場、漁師は、漁をする、その海が、聖なる場所であることを、神道霊感は、教える。

それ以外の、観念的な、教えなど無い。




posted by 天山 at 00:21| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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