2011年12月28日

神仏は妄想である。357

ミルの自然に関する考察を読んでいる。
そこで、一端、中断して、神道における、自然、あるいは、自然観というものを、少し考えてみる。

だが、ここで、神道に関して、特別な書き物はないし、更に、根本的教えなるものも、ないのである。

「神道って何ですか?」と正面切って問われた時、「神道とは日本固有の民族宗教で、アニミズムやシャーマニズムや八百万の神々の民俗信仰を基盤として習合的な歴史的展開をとげた信仰と生活文化の総体であり、その具体的表現が神話と祭祀とその伝承の場としての神社である」とひとまずは包括的な紋切り型の答えを出すことができる。しかしこれだけでは、神社を中心にした神道の概要はつかめても、天皇と神道との関係や、幕末以降に発達した教派神道を含む神道系新宗教の多彩な形態についての理解は得られない。
神道のスピリチュアリティ 鎌田東二

ここでは、神道を一つの宗教としていることと、信仰を基盤という。
神道は、宗教ではなく、伝統であり、その行為に信仰というものがある。
更に、他宗教のような、信仰という言葉の意味と、別物である。

鎌田氏は、
その宗教の独自性を明瞭に浮かび上がらせる努力が必要なのである。
と、言うが、私は、その必要を感じない。

伝統だからである。

神道は、宗教ではない。
宗教という、概念は、欧州の宗教学から、取り入れたものであり、それは、キリスト教中心の思想である。
その概念からは、神道は、宗教ではない。

学問的な裏づけが必要である。
鎌田

その必要は無い。

神道の自然観とは、自然その物、そして、働き、すべてが、カミなのである。
畏敬すべきもの、それが、自然である。

神の栄光を示すもの、それが、自然であるという、キリスト教とは、訳が違う。

更に、その上に、神の創造物という、考え方も無い。

更に、幕末に出来た教派神道系の、新興宗教は、神道とは、全く関係が無い。
ただ、神道の持っていたもの、その所作とか、神話を拝借して、勝手に、教組を名のり、神に名前をつけて、興したものである。
神道とは、全く別物である。

神道は、自然発生的に、人々が、畏敬の思いで、神奉りをしたものである。
祠を建てて、集落の人々が、そこに集い、豊作、大漁、安全祈願などをしていた、所作である。

それが、神社という建物を作り始めてから、堕落した。
その一つが、神主という、職業祭祀者である。

集落や、村の人々が、手作りで、畏敬の思いを、無所作で、表していた、その行為を神道と、呼ぶ。

宗教学が言うところの、信仰というものとも、違う。

山を、河を、海を、拝む。
信仰ではなく、畏敬の思いである。

更に、それぞれの家系の先祖奉りである。
御霊祭りは、先祖霊に対する、畏敬の思いの所作である。

そこに、自然に関する、考察などはない。
そんなことを、する必要も無い。
自然は、目の前にあり、いや、その自然の中で暮らして、そして、死ぬのである。
面倒な思想的思索も、必要ではない。
誰にも開かれている、自然を一定の人たちに、支配されるものとは、思わないのである。

鎌田氏は、
畏敬の宗教と、表現したいと、書く。

私は、宗教ではなく、畏敬の伝統であると、言う。

神道の所作と、行為は、日本人なら、自然に身につけている。
子どもの頃から、それが、自然なのである。
更に、自然に対する思いも、そのように、自然に、身につけている。

勿論、現代は、それが、廃れているのかもしれない。
だが、元旦の神社参拝は、厳然として、ある。

何故、神道、更に、古神道は、言挙げ、つまり、言葉にしないことが、真っ当なのか。
言葉にすると、嘘になるからである。

更に、言葉にして、一体、何の目的になるのか。
神道、古神道は、議論を嫌う。
そして、強制もしなければ、来る者は、拒まない。

勿論、鎌田氏のように、どんどんと、神道に関する書き物をしても、神道は、沈黙している。
神道は、所作が、命なのである。

その、所作は、何年間に渡り、形づくられて行った。
その疑問を晴らすことは、出来ない。
先祖たちが、少しずつ、手を加えて、所作を完成させたのである。
そして、今も、それが続いているのである。

創造主がいて、自然があり、それが、人間に与えられた・・・
そんな、考え方は、神道にも、古神道にも、無い。
自然が、神、そのものであるからだ。

そして、その働きにある、霊妙なモノ、それも、神なのである。
その、神なるものは、生きる、生活する上で、自然に成り立ってきたものである。

自然に、神の善性を認める云々・・・
そんな思想が、神道では、何の価値も無いものなのである。

要するに、思想などという、言葉の遊びは、全く必要のない、世界なのである。
神道神学なるものが、生まれない訳である。

だが、それを、言葉にして、表現する努力も、否定しない。
要は、神道、古神道共に、所作にしか方法が無いのである。

キリスト教から見ると、それは、意味の無い儀式であると、理解される。
意味を見出さなければ、動くことの出来ない民族と、日本民族の、大きな違いである。

そして、いま、日本人にも、所作の無意味に耐えられなくなった人が多数。

茶道の所作は、茶を点てることにある。
その、所作の意味を尋ねても、茶を点てることと、言われるだろう。
それ以外に、無いのである。

客を持て成すという、思いに貫かれて、これでもか、これでもか、と、所作を続ける。

自然に対する、畏敬の思いを、所作に託して、これでもか、これでもか、と、所作を作り続けてきたのが、神道の、真髄である。

だから、神社において、所作をしなければ、駄目だという、神社神道が生まれて、神道は、堕落し、更に、神主による、所作を持ってよしとする、神道は、妄想に成り果てたのである。




posted by 天山 at 07:11| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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