2011年12月27日

希望のビルマへ13

今回の、旅で、特に印象に残ったことがある。
それは、小学校である。

チエンマイのホテル、パタヤのゲストハウスは、丁度、小学校の近くで、朝の様子を見る事が出来た。

まず、校庭に集まる。
全校生徒、先生である。

最初は、どちらも、国歌斉唱から、はじまる。
そして、校歌を歌う。
更に、色々な歌を歌い、先生の話しがあり、代表の生徒が、また歌う。
そして、必ず、王様讃歌の歌を、歌うのである。

先生のお話では、子供たちの笑い声が聞える。
楽しそうである。

更に、民族音楽を掛けている。
踊っているのかもしれない。

毎朝である。
一時間ほどの、時間を費やして、校庭が賑やかである。

振り返って、日本の小学校を思う。

果たして、日教組の先生たちは、国歌斉唱や、校歌を歌うような、朝礼を行っているのか。否である。

何せ、国歌斉唱の際に、立ち上がらないということで、職務義務放棄とされる。

それが、彼らには、良心の自由と、くる。

子どもは、まだ、人間ではない。
どうしても、型と、形を教える必要がある。

最初から、自由などと、言えば、収拾がつかないだろう。
だが、自由なのである。

教育とは、強制的、指導が必要なのである。
躾というものも、強制である。

必要な強制なのである。
緩やかな、強制のうちに、子どもを、育てる。
それが、日本の学校には、無い。

国歌も、国旗掲揚も、無視するという・・・

愛国心の教育など、必要ない。
しかし、礼儀作法、所作を教えなければならない。
そして、それは、彼らが心の自由を得た後で、選択するものである。

国歌斉唱の際に、起立するのは、世界の常識である。

日本の子どもの団体が、他国に出て、式典に際に、騒がしいと、注意される。
それは、教えていないからである。

どんな時に、どんな対応をすべきかを、教えられないと、解らないのである。

スポーツ大会で、日本の選手が優勝すると、国旗が掲げられ、国歌が流れる。その際に、ある国を省いては、すべての国の人たちが、起立し、敬意を表する。礼儀である。

個人の良心の自由の、問題ではない。

それと、これとは、別物である。
更に、公立学校の教師が、良心の自由といい、子供たちに、その礼儀を教えないのであれば、辞めるべきである。

私立学校では、その学校の方針に添い、宗教の教育などがある。
それを、拒むならば、入学しないことである。

個人の思想信条は、別にしても、礼儀作法は、必要不可欠なのである。

それでも、日本は、実に幸せな国である。
今生天皇陛下が、園遊会にて、一人の出席者から、今、私は、国歌斉唱と、国旗掲揚を勧めて、全国を回っていますと、言うと、陛下は、強制のないように、と、仰せられた。

そこには、どんなに、良いことでも、強制によって、相手に強いては、いけないという、考え方がある。

それが、また、歴代天皇の、御心だった。
日本には、このような、君主が存在する。

ちなみに、タイでは、国王に対する、侮辱罪がある。
裁判を受けて、服役する。

だが、イスラムの国より、緩やかである。
イスラムの国では、徹底して、裁かれる。
死刑を宣告されることもある。

国がやらなければ、国民がやる国もある。

国際的常識でもある、国歌斉唱と、国旗掲揚の際の起立は、是非、小学生の時から、教えなければならない。

今回、私は、タイの小学校の様を、見て、つくづくと考えたことである。

更に、タイの王様の誕生日は、父親の日でもある。
その日は、国王にお祝いするだけではなく、父親にも感謝の行為を表す日である。
皇后の誕生日は、母の日である。

今、一度、そのあり様を、考えるべき時期である。

朝と、夕方に、国王賛歌が、流れる際は、観光客でも、起立するのが、礼儀である。

礼儀の基本は、相手が、大切にしていることを、あたかも、自分も大切に思うが如くに、行為することである。
それは、良心の自由を侵すことにはならない。




posted by 天山 at 00:09| 希望のビルマへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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