2011年12月17日

希望のビルマへ3

チェンマイでの支援の翌日は、いつもなら、一日、休む日である。
だが、今回は、強行スケジュールであるから、翌日は、バスで、三時間のチェンライに向かう。

ところが、三時間のVIPバスが、満席である。
タイは、12月5日、国王誕生日で、お祝いムードであり、人々が移動するという、状態であるから、バスは、満席なのである。

そこで、席のあるバスを選ぶと、三等、つまり普通バスである。
チェンマイから、チェンライは、山を登る道であるから、普通バスは、大変きついものがある。

案の定、満席の中、私たちは、二階建てバスの、一階部分の随分と、とんでもない席を与えられた。

真ん中にテーブルがあり、その周りが、座席である。
私たちは、進行方向とは、逆の席を指定された。

更に、丁度足の置き場の無い、席であり、大変な苦痛である。
辛うじて、片足を置ける、足台に、片足を乗せて、バスが走る。
だが、それが苦痛になり、片足に、もう一方の足を乗せて、何とか、しのぐ。しかし、限界がきて、両足を下に垂らす。その繰り返しである。

更に、私の横に、知恵遅れの女の子が、座っている。
その子が、また、じっとしていないのである。
動かないと、舌をチュッチュと鳴らす。
一度や、二度ではない。絶えず、鳴らす。

更に、食べ物を口にして、辺りにこぼす。
子どもが好きな私も、辟易した。
それでも、笑顔で、接する。
最初は、口を開けて、いたが、私に笑い掛けるようになる。

それで、三時間という、拷問のような時間を過ごした。

チェンライに到着した時は、ぐったりである。
更に、バスを降りると、トゥクトゥクのおじさんが、勧誘に来る。
コータに通訳して貰う。
ホテルまで、いくら・・・

120バーツと言う。
そこで、私は、いつものように、切れた。
日本語で、何で、120バーツもかかるんだ。チェンマイだって、80バーツだった。
冗談じゃない・・・

コータが、私に煩いと言うので、更に、エスカレートした。
コータも、疲れているのである。

120バーツでもいいと、思っている。

私は、おじさんに、馬鹿者、と叫んだ。
何で、そんなに高いんだ・・・

おじさんは、ノーと言い始めた。
もう、いいと、言う意味なんだろう。
私は、それに対して、また、大声で、馬鹿者・・・と、叫んだ。
周囲の人たちも、何事かと、見ている。

私は、二つのバッグを持って、歩き出した。
コータに、乗り場は、こっちだと言われるまで、ずんずんと、歩いた。

トゥクトゥクの乗り場で、料金を尋ねると、80バーツである。
矢張り。
あの、おやじは、ボッたのだ。

チェンライには、二つのバス乗り場があることを、私は知らなかった。
ホテル、つまり、街中に一番遠いバス乗り場だった。

近い方だとばかり、考えていた。
あらーーー
遠いよーーー
でも、料金は、80バーツである。妥当だ。

トゥクトゥクは、途中で、二人の女子を乗せた。
市内を走るバスと、同じ扱いである。

彼女たちの、料金を入れると、有に120バーツは、越える。
賢い運転手だ。

そして、ホテル到着である。
ホテルの中でも、最も、安い、550バーツである。

丁度、ツーベッドルームが開いていた。
つまり、ワンベッドルームは、満室なのである。
そして、三泊の予定が、三泊目は、満室で、泊まることが出来なかった。
タイ人の、ツアー客が、押し寄せていたのである。

そして、翌日は、メーサイに行き、戻る予定だったが、翌日になり、朝食を食べて、少しベッドに体を横にすると、私も、コータも、11時まで、寝てしまった。
出発は、10時である。

駄目だ。
今日は、駄目だ。
疲れて、動きたくないのである。

本当は、明日、休むはずが、その日、休むことにした。
計画変更である。
一日、余分に開けていて、本当に良かった。
いかに、あのバスで、疲れたか・・・である。

一日、大半を、部屋で過ごした。
ところが、コータが、チェンライにも、物乞いがいて、ミャンマー難民の可能性があると、言う。
それでと、バッグ一つを持って、出掛けることにした。
だが、昼間は、見当たらないのである。

そこで、夜に、出で見ることにした。

夜になると、家族で、物乞いしている、人たちに、出会った。
矢張り、ミャンマーから出て来ていた。

子どもだけ、または、親子連れ・・・

それぞれに、衣類を渡す。
丁度、靴も持参していて、男の子が、子供用の、長靴を欲しそうに見るので、足に合わせてみると、丁度良い。
それを履かせて、上げた。
何とも、微妙な嬉しさをかみ締めていた。

その子の、お姉さん、6歳程度の子が、何度も、両手を合わせて、私に感謝する。
母親もいるとのことで、母親のために、ショールを上げた。

丁度、寒い時期である。
昼間は、30度近くあるが、夜から、朝に掛けて、急激に温度が下がる。
寒いのである。

裸足で、サンダルを履いた足は、冷たい。
靴下も渡すと、二人は、喜んだ。

更に、親子連れの元に行き、衣類を上げる。
母親にも、子どもにも、渡すことが出来た。

タイ人の物乞いの人たちにも、私は、はじめて、20バーツを渡した。
渡すときに、キングバースディ、パッピィーと、言った。
タイの国王誕生日は、重要な日である。
その日まで、後二日だった。

思わぬ、支援だった。

ちなみに、国王誕生日は、父の日でもある。
父親を喜ばせる日でもあるのだ。
そして、皇后様の、誕生日は、母の日でもある。

その後、私たちは、チェンライの、ナイトバザールに出掛けた。



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2011年12月18日

希望のビルマへ4

チェンライのナイトバザールでは、驚きだった。

奥に、食事をするコーナーがある。
そこで見たものは、日本のてんぷらである。
沢山の屋台がぐるりと、コーナーを囲んで並んでいる。

その中に、てんぷらの店が、数多い。
タイは、揚げ物の国であるから、てんぷらも、とても上手に作る。

さすがに、てんぷらの盛り合わせは、食べなかったが、小魚のてんぷらを食べた。
カラっと揚げていて、美味しい。

鍋物料理もあり、100バーツで、食べられる。
野菜が沢山あり、卵を解いて入れ、更に、麺類を入れる。
一つを二人で食べて、十分な量である。

三年前に出掛けた時より、チェンライの街は、大きくなっていた。
日本の企業、特に、車と、バイクの会社が目立つ。

ちなみに、タイの最初の王国は、チェンライからである。
そして、チェンマイとなり、スコータイ、そして、アユタヤである。
その、アユタヤ王朝の流れを、現在の国王が継ぐのである。

南下して王国が出来たのである。

さて、現在、タイの難民は、150万人いると言われる。が、副首相が、口にしたのは、実質、500万人ほどタイ国内に存在するという。
それは、ビルマ、カンボジア、ラオス、ベトナム人である。

更に、副首相は、それらの人たちを、地方の企業が雇用して、活性化しようとのことである。
タイは、平均給与額を引き上げた。しかし、タイ人以外は、その法に当てはまらない。だから、安い賃金で、働いて貰うという、主旨である。

少し、虫の良い話だが、実際的に、可能である。

本来、難民は、色々な規制がある。
例えば、田畑を作っては、いけないなど。

更に、子供たちには、国籍の無い者が多く、その地域、その町でしか、行動が出来ないのである。
タイ人は、皆、国民票を持っていなければならない。

バスなどに乗っていると、警察の検問があり、国民票か、パスポートを提示しなければならない。
それが無い人は、拘束される場合、多々あり。

特に、国境近くに行き来するバスは、検問が多い。
薬物所持などを調べるためである。

だが、どうして、タイには、このような難民が多いのか。
普通であれば、難民を追い出すことも出来る。
そこに、国王の存在がある。
そして、仏教の教えである。

国王は、難民を容認しているのである。
つまり、大いなる慈悲の行為である。

タイは、現在の国王をとても、とても、尊敬している。
ただし、現在国王は、入院中であり、その姿を見せない。

誕生の祝いでも、国王の姿無く、皇太子が、代役を務めていた。
だが、一度、その姿を現したという。

その時、タイ人でなくとも、長期滞在している、外国人も、感動し、涙を流す人もいると言う。

つまり、国王は、タイという国、そのものになっているのである。
日本語で言えば、国体である。

今の、タイ人の願いは、王様、一日も長く生きてください、であるという。
それには、また、深い意味がある。
現在の国王によって、辛うじて、保たれている、国の安定感を、亡くなることによって、損なわれると危惧するのである。

タクシン派と、反タクシン派の、対立だけではない。
南部の、イスラム教徒の独立運動である。
それも、手荒なことはしないのは、国王の御心である。

兎に角、現在の国王は、存在する意義が大きいのである。

皇太子と、長女と次女、三女がいるが、長女は、王位を離れた。だが、社会福祉活動に専念している。
残るは、皇太子と、次女と、三女である。

タクシン派とつながるのは、皇后と皇太子であり、反タクシン派とつながるのは、次女と三女である、王女である。

次女、シリントン王女は軍隊の教官になっているが、国民からの支持が高い。
三女、チラーポーン王女は、有機化学、化学、生物医学などの振興を行う。

王位継承候補者は、当然、ワチラロンコーン皇太子である。
だが、次女の動向が注目される。彼女は、王位継承権があるのである。
更に、タイの学術、文化のシンボル的存在である。
矢張り、国民の支持が高いのが、一番である。

現在の王室の伝統は、200年あまりである。
それでも、国民が、心を一つにするという、存在が国王なのである。
それで、兎も角も、タイ国は、保ってきた。

その王室が、最も尊敬し、心を寄せるのは、日本の天皇である。
その扱いは、他国の国王とは、全く別物である。

日本の天皇は、世界的に、唯一の、エンペラーとしての、認識を持つ。
本当は、エンペラーではないが、一番近い、言葉として、用いられる。
天皇は、テンノウと、呼ばれるべきであると、私は、思う。

ちなみに、各国の王位は、その財産によるものが多いのである。
日本の天皇は、権力も、財力も無くしても、偉大なる権威を有するということでも、世界で唯一である。

日本人が知らないだけである。

日本を研究する、海外の人たちは、天皇に謁見することが、最も名誉なことである。
今年、皇紀2671年であり、その伝統も、世界で唯一。

簡単に言うと、大統領の上に位置するのが、王様、法王であり、その上に、天皇の存在がある。

タイの人が喜ぶのは、日本の天皇と、タイの王様は、ベストフレンドである、と言う言葉である。

タイ人は、王様は、世界で一人しかいないと言う。それが、タイの国王である。
そして、天皇は、日本にしかいないのである。


posted by 天山 at 07:24| 希望のビルマへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月19日

希望のビルマへ5

チェンライには、三泊の予定だった。
それは、一日休むことにしたからだ。
しかし、前日、休みを取った。

三日目の朝、私は、ホテル前の地元の食堂に、朝食を取りに出た。
そして、戻り、ホテルフロントに本日の宿泊代金を払おうとした。
が、フロントの女性が、本日は、プールだと言う。
えっ、それは、大変である。

今日は、メーサイに行き、ミャンマー側のタチレクに入り、慰霊と支援をするのである。
更に、明日の朝の、飛行機は、八時半であるから、メーサイに泊まることは、難しい。

すぐに部屋に戻り、コータに言う。
近くのゲストハウスを見つけることにした。

コーターが、食事をした後で、近くのゲストハウスを探すというので、コータに任せた。

ホテルの道を一本隔てたところに、新しいゲストハウスが出来ていて、そこを予約したと、コータが、戻り言った。
それでは、早くと、私たちは、10時までバス停に行くことにした。

荷物をすべて持ち、ゲストハウスに行き、必要の無いバッグを預けて、バス停に歩いて行った。
バス停は、街の中にある。
チェンマイから来た時に着いた、バス停ではない。

こういうことを、知らないと、大変な目に遭う。

そこで、メーサイ行きのバスが、二台、客を勧誘していた。
一台は、ミニバスであり、もう一台は、普通のバスである。

私は、小さいバスより、大きな方がいいと、普通バスに乗ることにした。
ところが、発車する時間が解らない。
乗って待ったが、中々、発車しないのだ。

要するに、客が一杯になるのを、待っている状態である。

ああ、こういうこともある、と、ため息をつく。
日本では、決してありえないこと。
タイらしい・・・

漸く、出発である。

それが、また、とんでもないバスで、前も後ろのドアも、開けたまま、走るのである。

要するに、途中下車するバスである。
そして、運転手と車掌が、夫婦のようであり、家内企業のようである。

止まり、走りを、繰り返す。
更に、バスの振動は、体に直に響くのであるから、堪らない。
しかし、もう、後戻りは出来ない。本日のことは、本日しなければ、もう時間がないのである。

一時間半・・・
そのバスに揺られて、漸く、メーサイに到着である。
ほとほと、疲れた。でも、そんなことを言っていられないのである。
今度は、国境の橋まで、ソンテウに乗る。

重いバッグをそれぞれ、二つずつ持って・・・

何度も、自身に掛け声をかけたことか・・・

そして、国境まで着いた。
それから、である。
一度、タイ側の川に下りて、以前の子供たちがいるかと、捜す。
当日は、日曜日で、タイ人、観光客と、ごった返している。

子供たちは、見当たらないが、国境の橋から、子供たちが声を掛ける。
新しい、子供たちである。

私は、身振りで、今、そこに行くから、待ってなさいと、言った。
彼らは、マネーを口にした。
オッケー、オッケー、今、行く・・・

そして、タイ側の出国である。
人の列が酷い状態である。
ところが、外人専用の列は、以外にスムーズに進む。
タイ人と、ミャンマー人も行き来している。それが、凄い人の数である。

タイ側のイミグレーションは、新しい機械を投入したようで、さっさと、済むようになった。

そして、橋の上に出た。
子供たちを捜す。いない。ミャンマー側に歩くと、下から、子供たちの声である。

ミャンマー側にいた。
そして、何と彼らは、金網をよじ登って、上がってくるではないか。
子供たちは、ビザなしである。

マネー、マネー、マネーと、手を出す。
私は、ノーマネーと言い、バッグを開けて、衣類を見せた。
そして、必要かと、一枚を取り上げると、子供たち、六人ほどが、手を出す。
それが、また、激しいのである。

そこで、私は、二人のおとなしい女の子に、サイズの合う衣類を差し出した。
受け取る。
それから、騒がしい男の子たちに、差し出そうとするが、彼らは、バッグから、どんどんと、取り出すのである。

おかしい。
以前は、こうではなかった。

靴も、取り出して、自分に合わない大きさの物まで、取ろうとするので、ノーノーと、言うと、ブラザーがいると、言う。

そこで、すべの靴が無くなった。
もしや、と、私は、頭を遮る思いがした。

彼らは、これらを、売るかもしれないと・・・

だが、それは、それでよしとすると、考えた。それで、金になり、彼らが食べ物を得られるなら、それで、いいと。

支援物資は、まだ、他のバッグにある。
前回行った、スラムの人たちの分は、十分にあると。

漸く、ミャンマーのイミグレーションを通ることになった。
驚いた。
係員の対応が、変わった。
ようこそ、と、日本語で言う。

以前は、厳しい人たち、軍人たちが、いたのであるが、以前と全然、対応が違う。
民主化・・・の、成果・・・

更に、スピードも、早くなった。
一人、500バーツを支払い、パスポートを預けて、ミャンマーに出るのである。
その時も、泊まりますかと、尋ねてきた。日本語である。

そんなことも、以前は、なかったのである。

ミャンマー側に入ると、一斉に、トゥクトゥクのおじさんたちが、声を掛けてくる。
観光案内である。

私たちは、ノーを繰り返して、兎に角、その場から、逃れた。
また、日本語が上手い男が近づいて来て、話し掛けるが、そういう奴が一番危ないのである。

コータが、英語で、一言、あんたは、必要ではないと、言うと、さっと踵を返して、戻っていった。

取り合えず、国境の場所から離れた食堂に入り、コーラーを注文して、一息ついた。

町並みは、変わっていない。
ただ、国境付近は、人で溢れていた。

posted by 天山 at 02:38| 希望のビルマへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月20日

希望のビルマへ6

食堂で、コーラーを飲みつつ、日の丸を組み立てる。
これからは、日の丸を掲げて歩くのである。

コーラーは、日本では、飲まないが、タイでは、糖分補給のために、飲むことにした。

次ぎは、いつものスラムに行くことにする。
国境から直接歩いた方が、近いのだが、周囲を回って見て周り、逆方向から行くことにした。

三年前と、それほど変わっていないが、何か、微妙に違う。
それは、川沿いの建物が、何となく、新しく見えるのだ。

ホテルが建つと言っていた場所には、ホテルが無かった。
その前が、スラムである。

その前に来て、あらっ、と思った。
スラムの入り口が、変わった。
両側に新しい建物で、商店がある。

それでは、中も新しくなったのかと、覗くと、中は、以前のままである。
その時、幼児を抱いた、一人のおばあさんが、私たちを見つけて、声を掛けた。

あらーー懐かしい
とでも、言うようである。
コータが、覚えていた。

そして、幼児の着ているものを、私に見せて、あなたから貰ったものよ・・・と、言うように感じた。

丁度、子供たちが、両側の商店の間に、ビニールを敷いて、遊んでいるところだった。

私は、子供たちに、挨拶して、そのビニールの上に、衣類を出した。
子供たちは、突然のことだが、驚かない。
逆に、私の出したものに、興味津々である。

私たちのことを、聞いていたようである。

私は、長屋の奥にいる人たちにも、声を掛けた。
次々と、人が出て来る。
男性も来たが、何か照れたように、後ろの方にいる。

子供たちに、一人一人、サイズの合う衣類を渡す。
幼稚園児から、小学低学年程度の、年である。

女の子が多い。
素直に受け取るのがいい。
私は、日本語で、皆さん元気ですかと、おばあさんに、声を掛けた。
以前出会った、長屋の主のような、おじいさんの事を思い出した。
コータが、タイ語で話しかけている。

少し、タイ語が通じる。

幼児を抱いた母親が、来て、幼児物をすべて差し上げた。
ただ、成人男子物が無い。

女の子たちには、衣類の他に、マフラーなどを、上げた。
それを首に巻いて、喜ぶ。

写真を撮りますよ・・・
すると、皆、私の元に集まる。

一番小さな女の子が、私の横に来たので、膝の上に乗せると、恐れもせず、楽しげである。

この場所には、二年続けて来たので、私たちの事を、子供たちも聞いていたのだろう。
何の抵抗も、恐れも無かった。

何枚も、写真を撮った。

子供たち一人一人の、表情も、撮った。

あっという間の、出来事である。
もう、さようなら・・・
おばあさんは、来年も来るのかいと、コータに聞いた。
私は、また、来ますと、日本語で言う。
おばあさんが、頷く。

ただ、以前の人の顔が、あまり見えないのが、残念だった。
突然のように、他に移ることがある。

何せ、全員が、他の場所に移ったこともあった、スラムである。

三年前は、特に、政情不安定だった。
少数民族軍が、国軍と対峙していたのである。

そして、昨年から、内戦状態になった。
それは、北部に中国がダム建設を行ったからだ。

少数民族の村々を、潰して、追い出し、更には、国軍が、村に入り、強奪、村の女を強姦したり、殺したのである。

少数民族は、連携を組んで、政府と、国軍に対処した。
それで、また、国内難民が生まれた。

ところが、民政移管を実行する政府が、ダム建設の中止を決めたのである。
画期的なことだった。

それから、少しずつ、国内が安定している。
だが、少数民族は、今までも、ウソをつかれ続けているので、今も、まだ、政府を信じていない。

二三十人の単位で、少数民族の人たちは、住む場所を転々としている場合が、多々あったのである。

さて、皆さんと、分かれて、私たちは、その奥の道を歩いた。
差し上げる人たちを捜した。

そして、大きな敷地に、人がいるのが見えたので、そこに、声を掛けた。
それが、偶然に孤児施設との、出会いになるとは、その瞬間まで、解らない。
一人の女の子に、バッグから、女の子のズボンを出して、差し出すと、女の子が、身を引いた。
すると、青年が出て来た。
私たちが、物売りだと思ったらしい。

青年が、英語で、私たちのことを尋ねる。
それから、である。
新しい、お話しの始まり。


posted by 天山 at 02:02| 希望のビルマへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月21日

希望のビルマヘ7

青年が、私たちの、活動について尋ねた。
コータが、英語で説明すると、女の子と、何か、やり取りしている。

そして、この町に、新しく、孤児の施設が出来ました。
よければ、その施設に案内しますよ・・・

その施設は、2009年に出来たと言う。
ただ、それだけの情報である。

青年が、私たちと、一緒に行くと、準備をしてくれた。
ちなみに、その日は、女の子の誕生日だった。

それで、人を迎えて、パーティを終えた後で、私たちが、伺ったのだ。
私は、もう一度、女の子に、誕生日ならと、ズボンを示したが、いらないと、首を振る。
つまり、その家は、中流家庭だったのだ。
勿論、家の作りは、大きな小屋という感じだったが、それが、普通なのである。

青年は、バイクタクシーを捜して、三台チャーターした。
荷物は、それぞれのバイクに一つずつと、積んだ。
日本では、考えられないが、バイクの足元の前に、荷物を積むのである。

私は、日の丸を翻して、後ろに乗る。
着物だから、しょうがないと、捲り上げて、両足を開いた。

町の外れにある施設は、結構時間がかかった。

初めて、タチレクの町を眺めた。
慎ましい暮らし振りが、見て取れる。

粗末な作りの家々である。
トタン造りの家が多い。
夏は、暑いだろうと思う。

町を抜けて、バイクが走る。
私の持つ、日の丸の旗が、人々の目を奪う。
コータは、目立つのが嫌だと、日の丸を持たないが、私は、日の丸を掲げるのが好きである。一目で、日本だと、解るからだ。

その、一角に入った。
結構広い敷地である。
白い建物が、三棟ある。
子供たちの姿が見えた。

門を抜けて、建物の前まで行く。
バイクが止まった。

青年が、声を掛けると、尼さんが出て来た。
院長である。
この施設は、尼さんたちのグループが建てたものである。

院長は、英語が出来る。それで、意思の疎通がスムーズになった。
私たちが、初めての支援者だという。

ところが、残りの物は、少ないのである。
院長が、子供たち全員を呼んだ。そして、整列させる。

子供たち・・・
その表情は、悲壮感もなく、かといって、元気溌剌でもなく、静かで、諦観の様子だった。
何を、諦観したのか。
自分たちの身の上であろう。

皆、少数民族の子供たちだというで、よぎったのは、国軍に親を殺された子も、いるだろうということだ。

兎に角、住む家と、食事があること。それだけでも、僥倖である。
その他の、子供たちは、どうしているのか・・・
物乞いといっても、ミャンマーでは、知れている。

更に、女の子は、誰かに連れ去られることもある。

女の子たちが、多かった。
そして、私のバッグにも、女の子物が多かった。
だから、女の子には、上下は、上げられないが、何とか、一人に一つの衣類は、渡せた。だが、男の子の物は、少ない。あの、国境のチルドレンたちに、上げたのである。
五人ほどの、男の子に、一つずつと、渡す事が出来たが、小さな男の子には、渡す物が無いのである。

あああーーー

私は、何も渡すものがなければ、心を渡すしかないと、一人一人の、子どもと、握手した。というより、両手で、子供たちの手を包んだ。
そして、ネームと、尋ねた。
すると、子供たちは、英語を学んでいるので、マイネーム・・・と、答える。

院長が、ここで勉強を教えているのだ。

子供たちの顔が、紅潮した。
嬉しさか、恥ずかしさか・・・

兎に角、私は、両手で、手を抱いた。

その間、バイクの運転手たちも、何やら私たちを手伝うのである。
中味の無いバッグを片付ける。私に、椅子を持ってくる。
私たちの、目的が、解ると、皆、協力してくれる。
益々、ビルマ支援をしなければと、思った。

全員と、握手して、私は、英語で、次に来る時は、沢山プレゼントを持ってきます、と、子供たちに、話し掛けた。
すると、院長が、更に、それを、ビルマ語で語る。
子供たちの、表情が、何となく、期待の眼差しである。
小さな子たちは、瞳を大きく開いて私を見る。

そして、私は、院長に尋ねた。
何が必要ですか・・・
院長は、
ここには、何も無いのです。
タオルから石鹸、文具、何もかも・・・夜にかける物もないのです・・・
それでは、必要な物を書いて欲しいと言うと、青年が、早速、院長から聞いて、紙に書き始めた。

コータは、施設のパンフレットや、住所などを、聞く。

漸く、一通り終わり、さようなら、である。
院長が、日本語で、さようなら・・・子供たちにも、何やら言う。
すると、子供たちが、さようなら、と、口にする。

私は、歌った。
得意の、即興である。

さようなら・さようなら・さようなら・・・
オーッと、院長も、子供たちも、声を上げた。

世界一歌の上手な私の歌であるから、感動するのである。

必ず、また、来るよ・・・
必ず、来るからね・・・
日本語で言う。

バイクのおじさんたちは、私たちのバッグをすでに、足元に積んでいた。

日の丸を掲げて、さようなら・・・と言うと、子供たちも、さようなら・・・と答える。
私たちが、去るまで、子供たちと、院長が、見送る。

まさか、このような展開になるとは、思ってもいなかった。
誰が、この計画を作るのか。
もう、私の、預かり知らぬところで、話しが進んでいるようである。

日本には、あれほど多くの支援物資がある。
いくらでも、いくらでも、ある。
しかし、無い所には、何も無い。
これは、不自然である。

与えることによって、与えられるのではない。
更に、奪われる、だから更に、与えるのである。

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2011年12月22日

希望のビルマへ8

私たちは、孤児施設を後にして、国境の橋に向かった。
青年も、一緒に着いて来た。

バイクから降りて、青年の名前と、連絡先を聞き、お別れする。
彼は、こんな良いことが出来て、嬉しいと、言う。

基本的に、ビルマの人たちは、優しい。
親切で、穏やかである。
しかし、長い軍事政権により、心が荒み、対立感情を生んでしまったと、思われる。

ミャンマーを出国する。
私には、まだ、やることがある。
それは、橋の上での、慰霊である。

ここから、日本兵がタイへ逃れた道の一つである。
力尽きて、亡くなった兵士も多い。

更に、橋が封鎖されたために、タイに入ることが出来ずに、死んだ兵士もいる。

出国も、スムーズに行われた。
そして、橋に出ると、先ほどの子供たちがいる。
私の傍に来る。

私は、一人一人に、パパ、ママはいるの・・・と、聞いた。
その意味が解るらしく、一人一人、パパという子、ママという子・・・
ブラザーという子もいる。
両親が揃った子は、いなかかった。

すると、少し年上の少年たちも、やって来た。
マネーと、手を出す。

私は、それを無視して、丁度、タイの国旗と、ミャンマーの国旗が切れた、橋の真ん中に行き、日の丸を掲げて、祈った。

最後に、祓いたまえ、清めたまえ・・・
すると、小さな子供たちが、真似をして、はらいたまえ、きよめたまえ、と言う。
拍手を打つと、それも、真似する。

そして、ゆっくりと、タイ側に向かった。
少年たちは、マネー、マネーを繰り返す。

ふっと、後を見ると、コータが、彼らに、10バーツを渡している。
私は、見ない振りをして、タイ入国の用紙に書き込む。

少年たちのお金は、確実に、大人に取られるのである。
彼らは、大人の手下である。

物乞い商売を子供にさせる、大人がいるのである。

前回も書いたが、子どもをさらい、物乞いにさせるという・・・
実に、あくどい。
更に、物乞いの額が少ないと、食事を与えないと言う。

ミャンマーが真っ当な国になり、法律が出来ることである。
児童買春の問題も、法制化が、最優先である。

子どもの権利を守ることは、未来を守ることである。

さて、ボランティアについて、少し言う。
与えることによって、元気を貰っただの、与えることによって、与えられるという、馬鹿な考え方は、やめるべきである。

更に、貧しい中でも、笑顔を忘れない子供たちに、勇気を貰った・・・

皆々、ウソである。

与える者は、更に、奪われる。
とことん、奪われる。
奪われなければ、ボランティアではない。

ラテン語の、ボランタスが、語源である。
意味は、生きる意味意識である。

私は、心まで、奪われる。
そして、この最後の人生まで、奪われるのである。

与えて、与えて、与え尽くすのである。

であるから、私は、尽きない心の泉を持つしかない。
私の心が、枯れたら、終わりである。

そのために、私は、精神である言葉の世界で、徹底的に、考える。格好よく言えば、思索であり、思想の開花である。

奪われても、枯れない、思索と、思想を打ち立てるのである。

言葉は、武器である。
更に、日本の言葉は、言霊である。
だから、私の心は、精神、言葉の世界によって、枯れない。

一度や、二度では無い。私は、一年間で、10回、海外に出ている。
それが、六年目である。

追悼慰霊が主体であり、支援は、その、付けたしである。
しかし、付けたしが、とても喜ばれ、私にとっても、有意義である。
しかし、それは、私のためなのである。
自己満足。

それ以外の、何があるのか・・・

人が、人を救うことは、出来ないのであり、また、救っては、いけないのである。
ただ、出来ることを、するだけである。

生きるのは、私であり、相手である。
人の人生に、誰が、関与できるのか。
誰も、出来ない。
人の痛みを、同じように、感じられないのが、人間なのである。

汝は、汝の、定めを泣け。
これが、ボランティアの原点である。

主イエスは、友のために命を棄てる以上の愛はないと、言う。
一体誰が、友のために、命を棄てるのか。

私は、一度も、見た事が無い。

さて、タイに入国して、気になっていた、手作りの甘栗を買った。
一袋、100バーツ、250円程度である。
それが、今、私の部屋に、余り物がある。
バスの中で、それを食べて、その苦痛を耐えた。

三年前は、甘栗は無かった。
それは、売り子たちが、熱い石を小さなスコップで、かき混ぜながら、作る。

私の崇高な行為も、後は野となれ山となれ、なのである。

崇高という言葉に、過敏に反応する人がいるだろう。
冗談である。ユーモアである。
その、ユーモアを感じられなくなった、日本人は、本当に、あはれ、である。

今、私は、人生宗家を名乗ろうとしている。
家元でも、いいか・・・


posted by 天山 at 00:03| 希望のビルマへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月23日

希望のビルマへ9

ソンテウに乗り、バス停に向かう。
さあ、どんなバスがあるのか・・・

もう、諦めた。
どんなバスでもいい。
そして、矢張り、普通バスである。

夫婦でやる、乗り合いバス・・・
兎に角、安いのである。

最初は、数名の乗客だったが、満杯になるまで乗せる。
はみ出しても、乗せる。
ホント、根性がある。

漸く、出発になった。
私たちは、荷物が無くなったので、その心配はしなくていい。

振動が、直に、体に響く。
それは、帰国してからも、続いて、坐骨神経痛のように、痛んだ。

コータは、途中下車する。
あの、パパイアのお茶の工場に立ち寄り、大量に、それを買い付けたのである。
本当は、工場では、売らないのだが、バンコクの店舗からの連絡で、売ってくれたのである。
多くを作れない、貴重なお茶である。

抗がん作用だけではない。
私が気に入っているのが、老廃物の除去である。
毒素を除去する。

日本人は、知らずに、年間、四キロの化学物質を口から、取り入れている。
こんなものが、溜まれば、病気確実である。

栄養摂るより、如何に、出すか、である。

バスは、猛スピードを出すかと思いきや、途中下車・・・その繰り返し。
窓が、10センチほど空いてる。
それを閉めようとするが、壊れている。
風が冷たいのである。

北部タイの気温は、コロコロと変わる。

一時間半のバスを、二回乗るのは、大変なストレスである。
しかし、方法が無い。

町に着いた時は、もう、ぐだぐたに疲れていた。
朝予約した、ゲストハウスに向かう。

そこが、新しいハウスだったから、本当に良かった。
従業員は、皆、女。
レズの女の子多数・・・

皆、格好が良い。
そして、優しい。

ところが、私が着いた時、ドアが閉まっていた。
その他の、客も、タイ人五名が待っている。

キーがなければ、入られないと、教えてくれた。
私は、キーを貰っていない。

15分ほどして、従業員が、戻った。
ちょっと、入られないじゃあない・・・
日本語で言うが、伝わる。

ごめんなさい。でも、キー渡さなかったのかな・・・
この二人は、レズのカップルである。

ご飯を食べに出掛けたらしい。

漸く、部屋に入り、全裸になり、シャワーを浴びる。
そうして、暫く、シャワーを浴び続けた。

バスタオル一枚で、呆然と、ベッドに座っていると、コータが、戻った。
何でも、工場の人が、チェンライに用があるというので、その車で、送って貰ったという。

60袋買えたと、言う。
そんなに・・・
少量しか、作れないというのに・・・

相手をしてくれた、おばさんが、このお茶は、よいお茶だから、売るより、自分で、飲んだ方がいいと、言ったらしい。

私も、そうだよ、こんな貴重なお茶、嫌な人に売りたくない・・・
そこで、コータと、喧嘩である。
私は、2000円で売る。コータは、1500円。
送料込みで、2000円だ。
いや、1500円で、送料別。
同じことなるに、喧嘩をする。
疲れているのである。

今夜は、ナイトバザールで、鍋物を食べる予定である。
一度、食べたいと思っていた、鍋料理である。

チェンライで、最後の食事を取るべく、重い足を引き摺り、ナイトバザールに向かう。

その入り口。
そこから、物売りが、続く。
そして、一番奥に、屋台が並ぶ。
お祭りのようで、楽しい。

だが、一杯の人である。
座る場所が無い。
まず、座る場所を確保してからと・・・
見渡すと、一人の青年が座る席に、二つの椅子。
そこに行った。
韓国人の青年だった。

コータが英語で、相席いいですかと、聞くと、どうぞ、と言うので、席を確保して、注文に出た。

鍋料理は、100バーツ。
へー安いね・・・
野菜が大量で、ブタ肉と、卵一個がついている。

そして、焼き飯と、私は、イカの焼いたもの。
それで、満腹になったから、その量が凄い。

ステージがあり、アリババのミュージカルをやっている。
地元の役者なのか、誰かが、出るたびに、拍手が起こる。

前の席には、どういう訳か、欧米人が陣取る。

そして、食べ終わり、韓国人の青年と、話しをすることに。


posted by 天山 at 00:01| 希望のビルマへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月24日

希望のビルマへ10

相席した相手は、韓国籍の男性で、27歳と言った。
一年間、オーストラリアで仕事をし、残りの一年をかけて、世界を回ると言う。その途中である。
大学に在籍したまま、旅をしている。

私は、英語で話しかけたが、どうも、通じないようで、というより、私の英語が解らないので、コータの通訳を通して聞いた。

造船を学んでいるとのこと。
韓国の、サムスン電機の話をすると、サムスンでも、造船事業をやっているとのこと。
私が、19歳の時に、プザンに出掛けたと言うと、何と、プザンが彼の住まいである。

旅をしていると、視野が広がりますね・・・
そうです・・・

勿論、領土問題などは、話さない。
お互いに、名のりもせずに、話しをした。
そして、私の活動を話した。

その時、私は、英語が出来ない、タイ語が出来ないということに、満足した。
喋りすぎるのである。

彼と別れて、帰り道、コータにそれを言うと、年寄りは、若者に、何でも教えたがる、と言われて、あーーと、納得。

更に、英語が出来れば、余計な事を言うだろうし・・・

タイ語が出来ないので、タイ語でわいわいしていても、ストレスには、ならないのである。これが、言葉の意味を知れば、聞くという、姿勢になるから、とんでもなく、疲れるだろうと、思う。

コータが、そうだ。
余計に疲れるらしい。

ゲストハウスに戻り、早々とベッドに就く。

翌日は、朝の六時半に、トゥクトゥクを頼んでいる。
荷物が無いから、トゥクトゥクで十分である。

朝は、五時過ぎに目覚めた。
早速、帰り支度である。
コータも、目覚めた。

ここの、ゲストハウスは、コーヒー、トーストなど無料で提供しているので、コータが先に部屋を出て、コーヒーを飲んでいた。
トゥクトゥクのおじさんが、早めに来たようで、呼ばれた。

空港まで、20分程度である。
朝の冷たい風を受けて、更に、目覚める。

チェンライは、山間部に当るので、朝夕は、寒い。
だが、その寒さが、心地よいのである。
つまり、私には、涼しい。現地の人たちは、寒いのである。
何せ、昼間は、30度になることもある。

時間通り、飛行機が出発した。
8:30発である。

客は、九割ほど。
矢張り、混んでいる。
バンコクまでは、一時間と20分程度である。

他社の飛行機も飛んでいるから、結構の利用率である。
チェンライより、北部には、空港が無いせいもある。

私たちは、格安の、エアアジアである。
その中でも、安い、朝の便を選んだ。

バンコクは、真夏日である。
到着して、すぐに、パタヤ行きのバスに乗る。
このバスも、混んでいた。
ぎりぎり、間に合ったようである。

パタヤまで、二時間。こうして、移動するのが、疲れるのである。

パタヤでは、コータの取材と、私の取材である。
また、カンボジア流民の様子を見る。

今、コータが書いているのは、カトゥイと言われる、レディボーイたちの、話である。ルポである。

私は、それを興味深く聞いて、自分の情報にもする。
夜は、出歩かないので、コータから、聞くしかない。

いつもの、ゲストハウスである。
もう、スタップとは、顔馴染みである。
そして、いつもの部屋。
空いていると、いつも、その部屋に泊めて貰える。

スタッフは、英語、タイ語で、話し掛けてくる。
英語なら、少し解るが、タイ語は、全く解らない。それでも、何となく、意味が伝わる。

三泊して、帰国である。

パタヤでは、すべて屋台か、市場から買って来て食べる。
だから、ほとんどお金は、使わないようなものだ。

その日の夜も、屋台から買ったものを食べて、終わり。
疲れ切って、何処にも出たくないのである。

私は、もち米の、カオニャオが大好きで、今回は、毎日食べていた。それに、おかずを買う。焼き魚、揚げ魚、鶏肉の焼いたもの、そして、野菜の水煮である。それを、好みのタレで食べる。
大半のタレは、辛い。青ナンバン、赤ナンバンが、基本なのだ。

顔から、汗を噴出して食べる。
そして、それが、好きになるから、不思議である。

部屋の鍵は、掛けない。
コータも、私も、それぞれ、自由に行動する。

通りから、奥に入った所にあるゲストハウスで、知らない人は、全く知らないのである。
そんな所に、ゲストハウスがあると、大半の人は知らない。それが、いい。
だから、名前も書かないでおく。

丁度、繁忙期に入り、料金が、どこも高めになる。
前回は、550バーツだったが、650バーツになっていた。
だが、私たちは、600バーツでいいとのこと。

もし、来月も来るなら、予約してね・・・
と、フロントのお姉さんに言われた。
一月は、まだ混むらしい。

明日、市場に行くのが、楽しみで、寝ることにする。
コータは、着いて、早々に寝て、夜には、出掛けていった。

posted by 天山 at 04:55| 希望のビルマへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月25日

希望のビルマへ11

私が、パタヤに着いた日は、12月5日である。
それは、仏陀生誕祭と共に、タイ国では、国を上げての重要な日、国王生誕祭である。

禁酒、更に、派手なお祭り騒ぎは、禁止であり、歓楽街のパタヤでも、同じく。
ショーハブなども、中止である。
ただし、外国人には、酒を出す。そして、いつもより、音量は小さめである。

その夜、花火が上がった。
国王生誕祭の、式典がはじまったのである。

全国で、国王の誕生を祝う、式典が行われた。
どこに行っても、テレビは、国王生誕祭の様子を映す。

国王は、入院中であらせられ、すべての式典では、皇太子が勤めていた。
ただ、国王の姿が映ったときがあったという。
私は、見ることが出来なかった。

翌日も、テレビは、式典が行われていた。
僧侶たちが、延々と読経するのである。

私も、部屋でテレビを見ていた。

さて、今年最後の、旅は、パタヤにて、コータは取材で、私もまた、道にいるカンボジアの流民の様子を探る。

翌日、出掛けた際に、母子の物乞いに出会った。
カンボジア人である。
身振り手振りで、話しをする。

六人の家族は、カンボジアにいるという。
今、その子を連れて、物乞いに来ている。

四歳になる、男の子は、左目の下が、赤く腫れていた。

国王誕生日のお祝いということで、私は、20バーツをカップに入れた。
男の子は、その紙幣にキスをし、更に、私に投げキスをする。
その様が、とても、可愛らしい。

それで、部屋に戻ったが、男の子の、左目の腫れが気になり、矢張り、翌日に、もう一度会いに行った。

そして、私は、母親に薬を買うと言った。
ドラッグストアー・・・オッケー
母親が頷く。

子どもの方が、薬屋を覚えていたが、その店は、夜の開店である。
男の子は、口に手をやる。
食べ物が欲しいのだ。

それで、私は、先に、コンビニに連れて行くことにした。
向こう側にあるコンビニに向かう。
その時、私は、その子を抱き上げて、道を渡った。

コンビニに入ると、その子は、すぐにおもちゃを指す。
駄目・・・食べ物だよ・・・

子どもの嬉しさが伝わってくる。
普段は入れない場所である。

選ばせたが、中味より、見た目の派手なものを、選ぶ。
しかたなく、その派手な袋のキャンディを買う。
そして、私は、勝手に、パンと、ジュースを選んだ。
すると、その子は、ヨーグルトを指すので、それも買う。

楽しくて、しかたないその姿・・・
母親の元に一度、連れて行く。
母親は、立ち上がって、私たちの様子を見ていた。
矢張り、心配したのだろう。
子どもさらいがいるのである。

さて、もう一度、ドラッグストアを捜して、行く。
今度は、母親も安心してか、立ち上がらない。

暫く、歩いた。
漸く、見つけたが、その店には、子供用の薬がないと言う。
また、歩く。
大きな通りは、子どもを抱き上げて通る。

体を洗っていないせいか、臭い匂いがする。

病院を見つけて、薬屋を聞くと、教えてくれた。
漸く、子供用の薬が置いてある。
男の子の目を見せて、薬を頼む。

飲み薬と、点け薬を買う。
98バーツである。
その方法を教えて貰い、その子を連れて母親の元に戻り、飲み薬と、塗り薬の説明をする。
その場で、飲み薬を飲ませた。
これで、一安心である。

母親は、タイ語で、何度も礼を言う。

私は、ただの目の腫れ物から、目が潰れた子どもを知っているので、兎に角、安心した。
貧しい人たちは、簡単に治る病も、治せないのである。

ただ、私の体力も限界で、街を歩き回ることは、出来なかった。
バスの旅が、相当に、体に堪えている。

後は、マッサージしかない。
コータと、男子のいる、マッサージ屋に出掛けた。
ボーイマッサージと言うと、ボーイがつく。

また、単なるボーイマッサージの店も、新しく開店していた。
来る度に、店が変わったり、マッサージ嬢が変わるのである。

翌日は、ボーイマッサージに一人で、出掛けた。
ボーイマッサージは、エロもあるので、注意。
その店は、タイマッサージの本格的な店である。

posted by 天山 at 00:27| 希望のビルマへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月26日

希望のビルマへ12

パタヤでは、厳密に言えば、二泊し、三泊目は、深夜0時に、空港に向かったのである。

最初の日の夜、コータが、二年振りに出会った、カトゥイ、レディボーイがいた。
その彼、いや彼女は、カンボジア生まれ、ベトナム育ち、そして、タイに来た。
子どもの頃は、物乞いをしたという。

二年前は、体は、まだ男だった。
しかし、大金を貯めて、手術をした。

彼女は、二年前は、睡眠薬中毒だった。
コータが出会った時は、酷い状態だったのだ。
私たちと、かかわりになったのは、カンボジア流身の親子との、会話の通訳を御願いしてからだ。

美しくなり、更に、精神状態が、安定していた。

女になったことで、それが、もたらされたのである。
日本円にして、55万円ほどの、手術費を貯めたと言う。

女になる手術は、早ければ、早い方がいい。
遅くなれば、その分、男性ホルモンの影響により、手術後に、精神不安定になるという。

その、手術は、随分と進化したようで、本当の女になった。
その体を、私も見せて欲しいと思ったが、止めにした。
失礼だと、考えた。

コータは、頼めば、見せてくれると言うが、矢張り、躊躇する。

最後の日、深夜に見送りに来てくれた。
私を、日本語で、お父さんと、呼ぶ。
何となく、お父さん・・・である。

まあ、彼女の年から見ると、お父さんになるのだが・・・
彼女の身内は、おじさん一人である。
カンボジアの、シュムリアップに住む。

ビザ更新のために、車で三時間の、シュムリアップによく出掛けるという。
次ぎは、私たちも、そこへ支援に行くと言うと、一緒に行き、通訳してくれると言う。

どうなるかは、解らないが、もし、そうだとすると、大変助かる。

彼女から得る、情報は、実に貴重なものである。
コータは、二度会って、色々な情報を仕入れていた。

もう一人は、あの有名なショー劇場の、ダンサーである。
その彼女も、すでに、女の体になっていた。

コータを、彼女の故郷の、エイズの子供たちの家に案内してくれた。
誰が見ても、女と疑わないほど、女性である。

今回、私は、会わなかった。

性同一性障害の研究団体が、タイ、バンコクに集い、様々な事例を対象に、研究を始めたということは、前回の旅日記で、書いた。

コータは、それだけではなく、彼が、彼女に成る過程を、具体的に取材している。
物語である。

そこから、得た情報の一つに、意識する、年齢が解った。
七歳が、分岐点である。
七歳、つまり、日本では、小学二年生である。

その時期に、明確に意識するようになると言う。
七歳の時に、自分の性に、不全感を覚えて、不自然になるらしい。
更に、女の子のように、飾りたくなる。

トンボイ、レズのカップルが、働いていた、チェンライのゲストハウスのことを、書いたが、トンボイの取材は、していない。
ただ、トンボイが目立つようになったことも、事実である。

タイ人の緩い気質と、仏教という、寛大な思想のせいか、タイでは、実に多くの、カトゥイに出会う。
更に、ゲイの存在である。

海外からも、多くのゲイが集まる。
そして、タイで生活を始めるという。

それらのことは、別枠で、いずれ書きたいと思う。

さて、そろそろ、帰国である。
部屋で、深夜0時まで休み、予約していた、タクシーの乗り場まで行く。
もう、荷物はないので、実に楽である。

パタヤは、深夜からバー、ゴーゴーバーが、活気付く。
その音を聞きつつ、私たちは、タクシーに乗った。

タクシーは、高速道路を飛ばし、一時間半で、到着した。
それから、私たちは、搭乗手続きが始まるまで、待つ。
朝の四時に、搭乗手続きをした。

出発は、6時である。
5時20分から、機内に入る。
その際に、私は、喫煙室に出ていた。
何と、係員が迎えに来るではないか。
どうして・・・
なんで解るの・・・
実に、不思議な気分である。

日本には、五時間ほどで着く。
バンコク行きは、六時間半かかるのである。
気流のせいである。

その飛行機に、何と、ミャンマー人の、一団が乗っていた。
アメリカに移住する、移民である。

途中から、三歳くらいの男の子が泣き始めて、収まらない。見かねて、私が、その子のお腹に手当てした。
漸く、落ち着いたが、着陸態勢に入って、気流の乱れが激しくなると、また、泣き始めた。今度は、立ち上がれず、ただ、泣き声を聞いているだけ。

20名ほどの、団体だった。
言葉が通ずれば、聞きたいこともあったが、残念である。
難民キャンプからの、人たちであろうと、思う。

機内から出ると、彼らが、一所で、固まっていた。
泣いた男の子の母親と、目で挨拶して、別れた。

人生とは、不思議なものである。
誰も、予想しないことが、起こる。
それが、幸運でも、不幸でも・・・

だから、ただ、生まれて、生きているだけで、奇跡だと、私は、考えるのである。

どんなに、先の事が、解っても、矢張り、一寸先は闇である。

ビルマに希望を見る。
きっと、民主化が行き渡り、人々が、その人なりに、生きられる日が来る。
それを、信じて、また、私は、ビルマ、ミャンマーに出掛ける。

ちなみに、ビルマとは、昔の国名であり、軍事政権が、ミャンマーと、命名した。

日本と、ビルマは、とても、良い相性である。
最初の大統領である、アウンサン将軍は、日本軍によって、教育されたのである。

そして、独立を勝ち取った。

アジアの植民地が、開放されたのは、日本がアメリカと、不合理ながらも、戦ったお陰である。
その、本当の事実が、今、公開され始めている。
簡単に言うと、その戦争は、アメリカが企画したものである。
日本を戦争に引き出したのは、アメリカである。

私の、天皇陛下について、を、参照してください。

posted by 天山 at 01:03| 希望のビルマへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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