2011年11月27日

天皇陛下について。94

畏るべき昭和天皇 松本健一著
それより、抜粋し、案内する。

占領時代、皇太子(今上天皇)の英語の家庭教師の一人に、アメリカ人クエーカー教徒のヴァイニング夫人がいたことは、よく知られている。だが、このアメリカ女性を家庭教師にと言い出したのは、マッカーサーでも、日本の宮内省でもなかった。昭和天皇の独断だった。
天皇はこれよりさき、宮中にキリスト教およびキリスト教人脈を招き入れている。
松本

そのチャンネル役になったのが、昭和21年まで、学習院長で、昭和21年から23年にかけて、東宮御教育参与であった、海軍大将の山梨勝之進であった。

山梨は、敗戦後すぐの、十月に、天皇に宗教についての、ご進講を行っている。

そして、半年後からは、仏教は、鈴木大拙、カトリックは、新渡戸稲造の門下、田中耕太郎、プロテスタントは、斉藤勇を口説いて、進講させている。

更に、天皇は、これより前の、一月に、加賀豊彦を招いて、約二時間にわたる、講義をうけている。

それに平行して、天皇・皇后は、四月、植村環を皇居に招いている。

植村は、明治期のキリスト教指導者の、三村と呼ばれる、その一人、植村正久の娘で、1915年、大正4年に、米国のウェルズリー大学を卒業し、世界YWCA副会長で、米国ミシガン州グランビッドで開かれる長老会派教会の全世界大会に出席する、その出発前日のことという。

天皇は、植村に、世界から日本への誤解を取り除くために働いて来て欲しいと、言い、皇后は、米国民にどうぞよろしく日本国民の気持ちを伝えてくださいと、頼んだという。

一体、何故、昭和天皇は、そのようなことを、されたのか・・・

植村は、帰国後、マッカーサーからの支援を受けて、良子皇后、孝宮、順宮、清宮、義宮などに、足掛け五年も、キリスト教と聖書の講義を、続けたという。

そのため、皇室が、キリスト教へ改宗かと、噂されたという。

だがこれは、予断的にいえば、天皇がアメリカ占領とキリスト教を「あっ、そう」とばかりに受け入れたパフォーマンスにほかならなかった。
松本

実際、皇太子の、家庭教師は、イギリス人の男性教師がついていた。
更に、英軍の方が、米軍より皇室のことを重んじると、アメリカ人記者との会見でも、自分は英国の君主制を希望すると、答えている。

松本氏は、
そうだとすれば、天皇がもう一人、アメリカ人の「女性家庭教師」を要請したのは、米軍のほうが皇室に対する見方が批判的で、前年末にはGHQが出した国家神道の禁止の厳しい措置などをにらみつつ、アメリカを懐柔する意図をもっていたからではないか、と考えられる。
と、述べている。

当時の国際社会で、生き残るために、昭和天皇は、じりじりと、何かを、推し進めて行くのである。

決して、拒否も、否定もせず、淡々として、受け入れる格好である。

天皇・皇后のヴァイニング夫人に対する感情は親しみのあるものであったが、そのことと占領下という意識は別次元のものである。
松本

天皇はマッカーサーのもとでの民主主義を、「天皇制下の民主主義」に押し返したように、皇室がキリスト教およびその人脈を受け入れたこともいずれ押し返してゆくのである。
松本

と、いうことは、とてもじゃないが、実に、畏るべき、天皇である。

さて、皇室の中にも、キリスト教に感化された者がいる。
義宮、常陸宮である。

昭和40年、ヨーロッパ訪問の際に、バチカンで、ローマ法王を訪ねて、会見した。
それは、常陸宮の長年の希望であり、非常に感激したとある。

常陸宮は、その侍従が、熱心なキリスト教徒だったゆえに、その感化により、毎晩ベッドで、神への祈りを捧げるようになったという。

さて、松本氏は、
昭和天皇は占領下のもとで皇室が生き残るためには、皇室のなかにキリスト教人脈が大勢入りこみ、聖書の講義が継続的に行われることも黙認した。それはしかし、占領下の日本にかぎってのことだった。
と、言う。

結論を急ぐと、植村環の聖書講義をはじとする、皇居での活動も、占領が終わった、昭和27年に中止となった。4月28日、アメリカの対日講話条約が発効したからである。

これは、天皇の断固たる意思にもとづいての決定、つまりキリスト教への押し返しであった。
松本

その証拠がある。

のちに、天皇は、美智子皇太子妃に対して、注目する、発言をしている。
美智子妃は、カトリック系の、聖心女子大学出身であり、両親は熱心な、クリスチャンである。
彼女は、洗礼を受けていないが、聖書に造詣が深く、若き常陸宮が、宮中で、聖書についての、質問をしたのである。
その後、常陸宮が、お姉さまとキリスト教のお話しができて楽しい、色々教えられたと、語ったのである。

昭和天皇は、美智子妃を御所に呼び出して、天皇家は神道を守る立場にある。それが、キリスト教にかぶれるとは、何事かと、厳しく叱責したのである。

この、叱責により、美智子妃は、一時的に、失語症に陥った。

昭和天皇は出来うるかぎり「私」の意見をのべようとはしなかった。しかし、それが皇室の存在を危うくするようなことがらなら、断固として自らを主張したのである。
松本

私が、昭和天皇は、歴代天皇の象徴的存在であるというのが、それ、である。

「私」の意見を、極力発しないのである。
しかし、ここぞという時、守るべきものが、かけがえのない時に、言葉を発する。

三笠宮家の、寛仁親王が、突然、皇籍離脱の希望を表明した際に、天皇は、一言、「わきまえよ」といったのである。
一体、何を、わきまえる、のか・・・
皇室の中に生まれたという、その宿命を、覚えること。
24時間、国民の前では、皇室の一員であること。
それが、与えられた使命なのであり、その皇室は、延々として、歴代天皇家が、作り上げてきた、日本の伝統なのである。

身勝手な、考えで、その伝統に傷をつけることは、許されないのである。

私が、感動したのが、敗戦直後、皇居に、共産党の人々が、雪崩れ込み、食糧をよこせと、騒いだ際に、側近が報告すると、あれも、日本国民である、と、仰せられたことである。

それらを、総称して、大御心、という。

この天皇陛下にして、日本は、最悪の敗戦後を、乗り越えたのである。

昭和天皇の、再評価を、いくらしても、足りないのである。




posted by 天山 at 06:55| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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