2011年11月18日

神仏は妄想である。356

そこで続いて、自然という語の第二の意味で、想定されている自然に従うという一般原則に何らかの意味を付与することができるかを考察することにしよう。
ミル

法が、終わり、次に、以前に書いた、自然の第二の意味に、ついて、である。

第二の意味での自然は人間の干渉なしに起こることを指す。そのように理解された自然において、何の干渉も受けていない事物の自然発生的な過程は、私たちが事物を利用しようとして努力している際に従うべき規則であるのだろうか。
ミル

やたらに、語る。
松尾芭蕉は、松のことは松に、竹のことは、竹に習え・・・
そういう、言葉の世界は、無い。

しかし、この意味でとられたとき「自然に従うという」一般原則が単に表面的な意味しか持たず、明らかに不条理であり自己矛盾であることは直ぐにわかる。なぜなら、人間の行為は自然という語の一つの意味で自然に従わざるをえないが、他方、まさに行為の目的や対象はもう一つの意味における自然を作り変え改良することだからである。
ミル

当たり前に考えていることを、こうして、言葉にして、組み立てている。
そうしなければ、次の反論、批判を、引き起こさないのである。
どこからも、突かれないようにと、言葉を作り上げる。
これを、彼らは、論理的という。

もし事物の自然的な過程が完全に正しく満足できるものであったら、行為することはまったく余計なお世話であろうし、その行為は事物を改善できる可能性がない以上、ただ悪化させるだけであるに違いない。あるいは、およそ行為が正当化されうるなら、本能に直接従うときだけであろう。なぜなら、本能は自然の自生的な秩序の一部として説明されるであろうから。しかし、先のことを考え目的を持って何かを行うことは、その完全な秩序への違反であるだろう。もし人為的なものが自然的なものよりもよいのでないなら、すべての生活技術の目的は何であろうか。掘ること、耕すこと、建てること、衣服を着ることは、自然に従えという命令に直接違反している。
ミル

だが、
およそ文明、技術、発明を称賛することは自然をけなすことでもある。それは自然の不完全さを承認することであり、不完全な自然を矯正し、緩和するようにいつも努力していることは、人間の本分であり誉れである。
ミル

これは、宗教論文であり、今は、入り口である。
が、これで、彼らの、自然観というものが、解る。

不完全な自然、それを、矯正し、改良するという。
傲慢も、甚だしい。
こんな考え方は、日本には、無い。

同じように、行為しても、考え方が、全く違う。
矯正するとか、緩和するとかの、考え方は、全く無い。

自然に対して、行為することを、申し訳ない、ありがたい、そして、感謝するのである。

わが身勝手のことを、自然は、何も言わずに許してくれる・・・というように。

そして、ミルも、似たようなことを書く。

人間が自分の条件を改善しようとすればそれだけ、自然の自然発生的な秩序を非難し防げることになるという意識が原因となって、いつの時代でも新たな前例のない改良が試みられると、それは一般にまず宗教的な嫌疑にさらされた。改良の試みはいずれにせよ、宇宙の森羅万象を支配している、あるいは自然の過程がその意志の現れであると想定されている強力な存在「あるいは、多神教が一神教に座を譲った後では、万能の存在」の機嫌を損ねる可能性が大きいと考えられたのである。人類の都合のよいように自然現象を鋳型にはめようとする企ては、上位の存在の支配への干渉であると思われやすい。
ミル

しかし、その万能の存在、つまり、神が、復讐を行わないことを、経験が証明した、と言う。

人間の主要な発明を、いずれかの神の贈り物や好意として考えることにしたのである。
ミル
実に、都合のいいことである。

カトリックには無謬の教会という奥の手があったので、教会は人間の自発性の行使のどれが許されるか、また禁じられるかを宣言する権威を持った。
ミル

自然を考えるということで、明治期の人々が、この論文から、西欧の思想を、読み取ろうとした努力は、並大抵ではない。
全く違った、価値観である。

そして、ミルに至るまでの、自然観をも、学んだことは、驚嘆に値する。

それに比べて、日本の場合は、何も、考える手立てが無い。
要するに、言葉の世界が無かった。
要するに、精神が、薄弱と見たのである。

しかし、今、それが、違うということが、解る。
日本人は、精神という言葉の世界ではなく、心という、情操により、物事、自然を理解していた。
それは、言葉にしなくても、問題ないことだった。

自ずからなる、自然への思いである。

縄文期から、培われてきた、自然への、思い。
万葉集などに、歌われる、自然への、思いである。

一言で、言えば、自然は、神々の場所である。
祖霊の居ます場所である。

また、だから、その相違が、面白い。

言葉は、哲学では、空気のようなものと、考える民族と、言葉は、言霊として、それ自体が働くと、考える、日本人である。

さあ、説明しろ、と、言われれば、私は、相手の体を、指で、突く以外に、方法が無い。
自然は、お前だ・・・と・・・



posted by 天山 at 07:56| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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