2011年11月17日

神仏は妄想である。355

自然という語の倫理的用法が含意している考え、つまり、事実とあるべきことの間に、絶対の同一性とは言わないまでも、密接な関係があるという考えが人々の心を捕らえるのは、一つには「自然の法」という表現が事実を指しているにも拘わらず、他方で、同じ法という語が、それよりも身近なところで強力に、あるべきことを表現するのに使われるという習慣による。
ミル

自然を語る前に、法について、を、語るのである。

自然法則を通じてしか物理的にどんな小さなこともできないとき、人々に自然に従えと命じることは馬鹿げている。むしろ、個々のケースでどの自然法則を利用すべきかを教えるべきである。
ミル

何も、難しいことを、言っているのではない。

例えば、食べ物を食べる。
それは、自然法則に則って、消化、吸収されるということだ。

人は必然的に自然法則、あるいは事物の特性に従う。しかし彼は必ずしも自然法則や事物の特性によって自分自身を導くわけではない。すべての行いが自然法則に一致するが、すべての行いが自然法則についての知識に基づいているのではない。また、自然法則を利用することを考えて目的の達成に向けられているわけでもない。私たちは全体としての自然法則から自由になることはできないが、それでも、特定の自然法則が作用する状況から逃れるなら、その法則から逃れることができる。
ミル

逃れるなら、その法則から逃れることができる・・・
変な、日本語である。

訳が悪いのか・・・

と、いうより、このような、書き方が、良いのであろう。
信じられないことだが・・・

さて、必然的に、自然法則に従わなければ、死ぬ。
自然法則から、逃れれば、死ぬ。
自然法則の中にしか、生きられないのが、人間である。

と、書けば、よく解る。

ミルは、思想家であるから、以前の思想家の、書き物を批判しつつ、書いている。だから、面倒な書き方になるのである。

要するに、
「自然に従う」という学説の権威が、どれほど「自然を観察する」という合理的な指針と混同されることによっているにしても、「自然に従う」という学説を支持し促進する人たちが、その指示以上のことを意図していることは疑いない。
ミル
ということになる。

しかし自然への服従や自然との一致という一般原則は単に実利的合理性の一般原則ではなく、倫理的な一般原則として支持されている。自然法について語っている人たちは、この一般原則を法廷によって執行され制裁によって守られるのに適した法であるかのように語っている。正しい行為は、単に知性的な行為ではなく、それ以上の何かを意味しているに違いない。けれども、知性的であること以上を命じる原則はどんな広い哲学的意味で解釈しても自然という語とは結びつかない。
ミル

こうして、延々と続くのである。

ミルは、自然神学の伝統的な思考を、全面的に否定しているのである。

だから、延々として、語り継ぐのである。

それには、自然神学の、伝統的思考というものを、知るべきである。

以前に少し書いたが、もう少し、その後を、見ることにする。

1534年、ルターの神学が、イギリスに及ぶ。
ヘンリ八世が、イングランドを、ローマ・カトリックから分離して、独自の、国教会を樹立する。

国教会は、王自身が、教会の長である、ナショナル・チャーチとなる。
この、宗教の国家体制は、宗教改革の精神と、原理的に、合わない部分があった。

宗教改革は、その基準として、聖書を重視する。
聖書のみによって・・・

聖書に照らせば、古代イスラエルも、原始キリスト教も、国家の機関ではない。
一神教の場合は、本質的に普遍的であり、国家の宗教には、なり得ない。

それにより、ヘンリ八世の、改革に、飽き足らない人々が、改革を更に、推進する。
ピューリタンである。

清教徒と、呼ばれる。
その、ピューリタンは、議会を通じて、勢力を拡大し、王との、対決の中で、国制を変革しようとした。
そして、1649年の、内戦である。

清教徒革命である。
ピューリタンが多数を占める議会派が、勝利し、王を、処刑して、共和制を樹立する。

だが、それも、長続きせず、1660年、英国は、再び、王制に復帰する。

その後の、ピューリタンが、辿った道は、アメリカ大陸へ、である。

その、残忍さは、知れたことである。
アメリカ大陸の、原住民である、インディアンを皆殺しにして、アメリカ共和国を、樹立した。

宗教の名において、戦うことは、残虐行為が、付きまとう。

カトリックと、プロテスタントの、戦いも、宗教戦争となり、残虐の限りを尽くした。
イスラムとの、対決ではない。
同じ、キリスト教の内紛である。
それでも、そうなる。
つまり、その宗教を支配している、霊的存在の、本質、性格が、解るというもの。
イギリスでは、革命の嵐が去った後、人々は、熱狂、つまり、狂信と、言った。

そして、宗教には、この、狂信が、憑いて回る。

まだまだ、ミルを、続ける。




posted by 天山 at 00:42| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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