里見岸雄
更に、続けて
およそ国を営む民族にして、国家の同一性、国家の永遠性を望まぬものはあるまい。日本はこの点、建国以来、この国家最大の願望を達成しきった稀有の国であって、「万世一系の天皇は之を統治す」ということは、今後も、日本の絶対的規範として不滅であるにちがいない。
里見
と、綴る。
島国、日本だから、それが、出来たのか・・・
違う。
同じ島国でも、多くの王朝が、現れては、消えたのである。
しかし、日本だけは、残った。
何故か。
民族として、国民が、望んだからである。
だから、民族の智慧だというのである。
その、作用は、権力にはない。
権威の作用である。
天皇は、一時的に、武力を持つことがあったが、それよりも、長く、一切の、武力、武器を持つことがなかった。
それでも、権力のある者は、天皇の権威を、守ったのである。
織田信長も、徳川家康も、天皇家の、廃止を打ち出さなかった。
出来なかった。
天皇を、敵にすることは、民を、敵にすることだった、からだ。
まさに、天皇統治の権威が、存在したのである。
更に、私有財産である。
現在も、国王は、最も富める、家系である。
だが、天皇は、無一文になっても、その権威は、失われない。
世界の王で、無一文になれば、自然に、王位は、廃れる。
財、多くなければ、王位を守れないのである。
財力が、王位を、国民に認識させる。
日本国憲法下においても、日本を統治している者は国会でも政府でもない。国会や政府は単に必然としての歴史社会を内容として、それぞれ分限された権力を行使して、国家社会の安寧秩序を保持し運営を処理しているだけのもので、日本を窮極において統一し安定せしめている者は、「国政に関する権能を有しない」無権力なる天皇の、侵し得ない統治あるがためである。
里見
国政に関する権能を有しない・・・
無権力の天皇・・・
それが、侵し得ない、統治・・・
統治権とは、全く別物である。
大和言葉による、すめらみこと、である。
統御言、または、統命、なのである。
天皇という、語源は、シナの天帝である。
すめらみこと、を、それに当てた。
聖徳太子が、隋の煬帝に当てた、書の中に、
日出処の天子・・・
と、書いた。
天の子、という意味である。
それは、それ以前の歴史を知る者だから、書けたのである。
太陽崇敬を行ってきた、民族の、こと。
太陽の子孫であるとの、観念である。
山に帰る、祖霊が、更に、高みに昇る。
そして、太陽と、一体になる。
彼が、国書として、残したはずの、歴史書は、大化の改新の際に、蘇我蝦夷によって、焼かれた。
蘇我入鹿が、惨殺された際に、父である、蝦夷が、屋敷に火を放ち自害した。
蘇我王朝を夢見た、蘇我氏であるが、武力では、統治することが、出来なかったのである。
ほぼ、蘇我王朝は、完成に近かったと、思える。
しかし、それは、夢に終わった。
それにより、日本は、救われたのである。
もし、武力政権が、誕生していれば、今、現在も、政権が変わり、安定しない、国情を為していたはずである。
統治権は、武力で成るが、統治は、権威で成る。
そして、現在の、政治家の多くは、それを、知らない。
更に、サヨク系といわれる、政治家は、全く関心が無い。
権力により、何事かが、出来ると、考える。
実に、愚かである。
国民は、それを、許さない。
その証拠は、敗戦後の、昭和天皇の行幸に現れている。
天皇を見ることさえなかった、多くの国民が、天皇を熱狂的に、迎えた。
その天皇の名のゆえに、多くの日本兵が死んだはずだが、天皇、そのお方には、何も、罪は無いと、見抜いた、国民の多くは、実に賢い。
どれほど、共産主義者が、叫んでも、天皇廃止などは、考えなかった国民は、賢い。
もし、共産主義者が、天皇を廃止し、殺害し、国政を行っていたら、カンボジアの、あの悪夢が、今も、続いていただろう。
そして、最も恐ろしい、独裁政権を樹立していた。
宗教と、共産主義は、ただ、ただ、虐殺のみを、好むのである。
人類の半分は、それによって、殺された。