2011年11月11日

もののあわれについて。538

大臣和琴ひき寄せ給ひて、律の調のなかなか今めきたるを、さる上手の乱れて掻い弾き給へる、いと面白し。御前の梢ほろほろと残らぬに、老御達など、ここかしこの御凡帳の後に頭をつどへたり。内大臣「風の力けだしすくなし」と、うち誦し給ひて、内大臣「琴の感ならねど、あやしくものあはれなる夕かな。なほ遊ばさむや」とて、秋風楽に掻き合わせて、唱歌し給へる声いと面白ければ、皆さまざま、大臣をもいとうつくしと思ひ聞え給ふに、いとど添へむとにやあらむ、冠者の君参り給へり。




内大臣は、和琴を引き寄せて、律の調子の、今めきたる、今流行りな感じを、このような名人が、格式ばらずに、掻いたり、弾いたりするのは、実に面白いと、言う。
御前の、木の葉が、ほろほろと落ちて、年取った女房達が、あちこちの、御凡帳の後に、固まり聞いている。
内大臣は、風の力は、弱くとも、と、詩を朗詠して、琴のせいではないが、何か、泣けるような今宵です。もっと、弾きませんかと、秋風楽に調子を合わせて、唱歌している声が、非常に素晴らしいので、姫も大臣も、それぞれに、可愛いと、大宮は、思うのである。そこに、一層、興を増すためか、冠者の君、夕霧が、お出でになった。




こなたにとて、御凡帳隔てて入れ奉り給へり。内大臣「をさをさ対面もえ賜はらぬかな。などかく、この御学問のあながちならむ。才のほどよりあまりぬるもあぢきなきわざと、大臣も思し知れることなるを、書く掟て聞え給ふ、やうあらむとは思う給へながら、かう籠りおはすることなむ。心苦しう侍る」と聞え給ひて、内大臣「時々はことわざし給へ。笛の音にも古ごとはつたるものなり」とて、御笛奉り給ふ。いと若うをかしげなる音に吹きたてて、いみじう面白ければ、御琴どもをばしばしとどめて、大臣、拍子おどろしからずうち鳴らし給ひて、「萩が花ずり」などと謡ひ給ふ。




こちらへ、と、姫君が、御凡帳を隔てて、お入れした。
内大臣は、あまり、お目にかかれないことです。どうして、この御勉強が、ひどいのでしょう。学問が、身分に過ぎることは、よくないことと、大臣も、ご存知なのに、こうして、命じられるのは、訳があると思いますが、こんなに、引き籠っては、お気の毒です、と、おっしゃり、時には、別の事も、行うことです。笛の音にも、昔の聖賢の道は、伝わっているものです。と、笛を差し上げた。
若々しく、趣のある音色に吹いて、大変面白い。琴を弾くのをやめて、大臣が拍子を軽く取り、萩が花ずり、などと、お謡いになる。




内大臣「大殿も、かやうの御遊びに心をとどめ給ひて、御政どもをば、のがれ給ふなりけり。げにあぢきなき世に、心のゆくわざをしてこそ、過ぐし侍りなまほしけれ」など宣ひて、御土器まいり給ふに、暗うなれば、大殿油まいり、御湯漬くだものなど、誰も誰も聞し召す。




内大臣は、太政大臣も、こういう音楽にご熱心で、忙しい政治は、逃げてしまいます。全く、つまらない人生は、満足できることをして、日を送りたいものです、などと、おっしゃり、盃を進めるうちに、暗くなったので、灯をつけて、お湯漬けや、果物などを、どなたも、召し上がる。




姫君はあなたに渡し奉り給ひつ。しひて気遠くもてなし給ひ、御琴の音ばかりをも聞かせ奉らじ、と、今はこよなく隔て聞え給ふを、「いとほしき事ありぬべき世なるこそ」と、近う仕うまつる大宮の御方のねび人どもささめきけり。




姫君は、あちらに、移らせた。つとめて、二人の間を、遠ざけになり、お琴の音さえも、聞かせないようにして、今では、すっかり、引き離していらっしゃるので、お気の毒なことが、起こりそうな、仲が気になると、お二人に仕えている、大宮付きの年寄り達が、こそこそと、言うのである。




大臣出で給ひぬるやうにて、忍びて人に物宣ふとて立ち給へりけるを、やをらかい細りて出で給ふ道に、かかるささめ言をするに、あやしうなり給ひて、御耳とどめ給へば、わが御上をぞいふ。ねび人「賢がり給へど、人の親よ。自らおれたることこそ出でくべかめれ。子を知るはといふは、虚言なめり」などぞつきしろふ。「あさましくもあるかな。さればよ。思ひよらぬかな」と、気色をつぶつぶと心え給へど、音もせで出で給ひぬ。御前駆追ふ声のいかめしきにぞ、ねび人「殿は今こそ出でさせ給ひけれ。いづれの隈におはしましつらむ。今さへかかる御あだけこそ」と言ひ合へり。ささめき言の人々は、「いとかうばしき香のうちそよめき出でつるは、冠者の君のおはしまつるとこそ思ひつれ。あなむくつけや。しりうごとや。ほの聞し召しつらむ。わづらはしき御心を」と、わび合へり。




大臣は、邸を出られたようにして、こっそりと、女房を相手にしようと、そちらに出たのだが、そっと、小さくなり、出る際に、ひそひそ話しをしているので、変に思い、耳をすませると、自分のことを言う、陰口である。
年寄り連中は、利口ぶっていらっしゃるが、親は、あんな親だ。結局、変なことが起きる。子を知るのは、親だというのは、嘘でした。などと、言い合う。
大臣は、呆れたことだ。そうだったのか。考えつかないこともないが、子供だと思い、油断していた。何と言う、嫌な世の中だ、と、様子を一部始終、見たのである。こっそりと、抜け出した。
前駆の声が、堂々と聞えてくるので、女房達は、殿様は、今お邸から、お出で遊ばした。どこに隠れていらしたのか。今でも、こんな浮気をされるとは、と、言い合っている。
こそこそ噂をした連中は、とても良い匂いがして来たのは、冠者の君が、いらしたのだと、思いました。ああ、気味が悪い。陰口をお耳にされたのではないだろうか。煩いお方なのに、と、お互い、困っている。

何とも、面白い場面である。
人の陰口を耳にする、大臣である。
自分のことと、その娘のことを、言い合っている。
娘とは、雲居雁のことである。




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2011年11月12日

もののあわれについて。539

殿は道すがら思すに、いと口惜しく、あしきことにはあらねど、めづらしげなきあはひに、世の人も思ひいふべきこと、大臣、しひて女御をおし沈め給ふもつらきに、わくらばに、人にまさることもやとこそ思ひつれ、ねたくもあるかな、と思す。殿の御中の、大方には、昔も今もいとよくおはしながら、かやうの方にては、いどみ聞え給ひし名残も思し出でて、心憂ければ、寝覚めがちにて明かし給ふ。大宮をも、さやうの気色は御覧ずらむものを、世になくかなしくし給ふ御孫にて、任せて見給ふならむ、と、人々の言ひし気色を、めざましうねたし、と思すに、御心動きて、すこし雄々しくあざやぎたる御心には、しづめ難し。




内大臣は、道々、考えになる。全然問題にならない、よくないこと、というのではないが、変わり映えしない、いとこ同士の結婚と、世間の人も思い、また言うだろう。大臣、源氏が、無理やりに、女御を抑えるのも、辛いが、もしかして、この姫が、あちらに、勝つこともあるかと、思ったのに、残念なことだと、思う。
源氏と、内大臣は、昔も今も、大方、とてもよくしているが、こうした、勢力争いでは、競争したことも、尾を引いて、嫌でたまらないのであり、眠れずに、夜を明かす。
大宮も、あの様子は、ご存知であろうに、またとなく、可愛がるお孫なので、好きにさせているのだろう、と、女房たちが、噂した話しを、恨めしい、憎らしいと、思うと、心穏やかではなく、少し男らしく、はっきりさせる、気性では、抑えかねるのである。




二日ばかりありて参り給へり。しきりに参り給ふ時は、大宮もいと御心ゆき、うれしきものに思いたり、御尼額ひき繕ひ、うるはしき御小ちぎなど奉りそへて、子ながらはづかしげにおはする御人ざまなれば、まほならずぞ見え奉り給ふ。大臣御気色あしくして、内大臣「ここに侍ふもはしたなく、人々いかに見侍らむと心おかれにたり。はかばかしき身に侍らねど、世に侍らむかぎり、御めかれず御覧ぜられ、おぼつかなき隔てなくとこそ思ひ給ふれ。よからぬものの上にて、怨めしと思ひ聞えさせつべき事の出で参うで来たるを、かうも思う給へじとかつは思ひ給ふれど、なほ静め難く覚え侍りてなむ」と、涙おしのごひ給ふに、宮けさうじ給へる御顔の色違ひて、御目も大きになりぬ。




二日ほどして、内大臣がお越しになった。引き続いて、お越しになる時は、大宮も、大変満足して、嬉しいことと、思うのである。
尼そぎの、額髪を手入れして、きちんとした、こうちぎ、などを重ねて、自分の子ながらも、ご立派である方ゆえ、横顔しか、見せないのである。
内大臣は、ご機嫌ななめで、こちらに、伺うのも、きまりが悪く、女房たちが、どう思うかと・・・気が引けてしまいます。甲斐性の無い私ですが、生きている限り、始終お目にかかり、親しく思い、どうしているのかと、解らないことのないようにと、思っていました。出来の悪い娘のことで、お恨み申し上げたくなることがありますので、出て来ましたのを、こんなに、恨むことはないと、一方では、思いつつ、それでも、我慢できかねるので・・・と、涙を拭く。
大宮は、化粧の顔の色が変わり、目も、大きく見開いた。

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2011年11月13日

もののあわれについて。540

大宮「いかやうなる事にてか、今さらの齢の末に、心おきては思さるらむ」と聞え給ふも、さすがにいとほしけれど、内大臣「たのもしき御蔭に、幼き者を奉りおきて、自らはなかなか幼くより見給へもつかず、先づ目に近きが、まじらひなどはかばかしからぬを見給へ嘆き営みつつ、さりとも人となさせ給ひてむ、と頼みわたり侍りつるに、思はずなることの侍りければ、いと口惜しうなむ。まことに天の下並ぶ人なき有職にはものせらるめれど、親しき程にかかるは、人の聞き思ふ所も、あはつけきやうになむ、何ばかりの程にもあらぬ中らひにだにし侍るを、かの人の御為にも、今めかしうもてなさるるこそをかしけれ。ゆかりつび、ねぢけがましきさまにて、大臣も聞き思すところ侍りなむ。さるにても、かかる事なむと知らせ給ひて、殊更にもてなし、すこしゆかしげある事をまぜてこそ侍らめ。幼き人々の心に任せて御覧じ放ちけるを、心憂く思う給ふる」など聞え給ふに、夢にも知り給はぬことなれば、あさましう思して、




大宮は、いったい、どんなことで、この年寄りに、水臭い考えをするのでしょう、と、おっしゃるのも、気の毒である。
内大臣は、頼もしい方と思い、幼い者を、御願いしました。私は、かえって、小さい頃から、何の世話をせずに、とりあえず、身近な娘が、宮仕えなどうまくゆかないことを心配し、あれこれ、苦労しながら、それでも、雲居雁を、立派な娘にしてくださるだろうと、頼りに、していました。でも、思いもかけないことがありまして、実に残念で、なりません。実際に、天下に、またとない有職ではいらっしゃるが、いとこ同士が結婚するのは、世間が聞けば、簡単すぎると、大した身分ではない連中も、考えております。あちらのことを、考えても、見苦しいことです。全くの他人で、裕福で、近づきでない所で、派手に、扱ってもらってこそ、よろしいのです。縁者同士では、感心できないことで、大臣も、お耳にして、不快に思いでしょう。それはそれとして、こういうことがあると、話してくださり、改まる待遇をし、少しは、人から見ても、いいなと思われるようなことを、しての事にしたいのです。小さい二人の思うままに、放っておくのは、心外に思います。などと、おっしゃるが、大宮は、全く知らないことなので、呆れてしまう。




大宮「げにかう宣ふも道理なれど、かけてもこの人々の下の心なむ知り侍らざりける。げに口惜しきことは、ここにこそまして嘆くべく侍れ。もろともに罪を負せ給ふは、うらめしき事になむ。見奉りしより、心殊に思ひ侍りて、そこに思し至らぬことをも、すぐれたるさまにもてなさむとこそ、人知れず思ひ侍れ。ものなげなき程を、心の間の惑ひて、いそぎものせむとは思ひよらぬことになむ。さても、誰かはかかる事は聞えけむ。よからぬ世の人の言につきて、きはだけしく思し宣ふも、あぢきなく、空しきことにて、人の御名や穢れむ」と宣へば、内大臣「何の浮きたる事にか侍らむ。侍ふめる人々も、かつは皆もどき笑ふべかめるものを。いと口惜しく、安からず思う給へらるるや」とて、立ち給ひぬ。




大宮は、それうですか、お言葉は、もっともなことですが、全く、あの二人の気持ちは、知りませんでした。本当に残念なことは、あなた以上に、嘆きたいほどです。二人と同罪のように考えられるのは、恨みます。雲居雁を、引き受けてから、特に可愛く思い、あなたの気がつかないことも、立派にしてやりたいと、私一人で考えていました。お話しにならない子供を、可愛いあまり、目が眩み、急ぎ結婚させようとは、考えもしません。それにしても、誰が、こんな事を、お耳に入れたのでしょう。身分の低い者たちの噂話で、大袈裟に考えて、口にされるのは、感心しません。でたらめな話で、雲居雁の名を傷つけないでしょうか。と、おっしゃる。
内大臣は、どうして、いい加減なことをいいましょう。お傍にいる、女房たちも、内々では、笑っているらしい様子。本当に、残念で、不快です。と、申して、お立ちになった。




心知れる人は、いみじういとほしく思ふ。一夜のしりうごとの人々は、まして心地もたがひて、何にかかる睦物語をしけむと、思ひ嘆きあへり。




事情を知る女房は、実に可哀想だと、思う。そして、あの夜の、陰口の連中は、それ以上に、仰天して、どうしてあのような噂話をしたのかと、一同、後悔しているのである。




姫君は、何心もなくておはするに、さしのぞき給へれば、いとらうたげなる御さまを、あはれに見奉り給ふ。内大臣「若き人といひながら、心幼くものし給ひけるを知らで、いとかく人なみなみにと思ひける、われこそまさりてはかなかりけれ」とて、御めのとどもをさいなみ給ふに、聞えむ方なし。




姫君は、無邪気でいらっしゃる。
内大臣は、部屋を覗かれたが、まことに可愛らしい様子で、胸篤く御覧になる。
内大臣は、若いといっても、特に子供ぽくしている様子に、気づかず、何とか、一人前にと思った私のほうが、しっかりしていなかった、と、思い、乳母たちに、責任を求めるが、乳母たちは、返事のしようがないのである。

あはれに見奉り
とても、可愛く見たのである。

われこそ まさりて はかなかりけれ
我こそ、まして、儚いものだ




乳母「かやうの事は、限りなき帝の御いつき女も、さるべき隙にてこそあらめ。これは、明け暮れ立ち交じ給ひて年頃おはしましつるを、何かはいはけなき御程を、宮の御もてなしよりさし過ぐしても、隔て聞えさせむと、うちとけて過ぐし聞えつるを、一昨年ばかりよりは、けざやかなる御もてなしになりにて侍るめるに、若き人とてもうち紛ればみ、いかにぞや、世づきたる人もおはすべかめるを、ゆめに乱れたる所おはしまさざめれば、更に思ひよらざりけること」と、おのがどち嘆く。




乳母は、こういうことは、陛下の大事な姫君でも、いつの間にか、間違いをする例は、昔物語にもあるようです。二人の気持ちを知り、仲介する女房が、隙をうかがって、引き合わすことがあって起きるのでしょう。お二人は、朝に晩に、ご一緒で、長い年月を過ごされましたから、どうして、小さなお二人を、大宮の扱いより、でしゃばって、隔てましょう。安心して、日を送っていましたが、一昨年ごろから、はっきりと、お二人を分ける扱いに変わりました。子供だと思っていた方も、人目を誤魔化して、どうしたことか、変なまねをする方も、おいでですが、若君は、けっして、ふざけた事もありません。まるで、思いもかけないことです。と、それぞれに、嘆くのである。


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2011年11月14日

もののあわれについて。541

内大臣「よし、しばしかかること漏らさじ。隠れあるまじきことなれど、心をやりて、あらぬ事とだに言ひなされよ。今かしこに渡し奉りしてむ。宮の御心のいとつらきなり。そこたちは、さりとも、いとかかれとしも思はざりけむ」と宣へば、いとほしき中にも、うれしく宣ふと思ひて、めでたきにても、ただ人の筋は何のめづらしさにか思う給へかけむ」と聞ゆ。姫君はいと幼げなる御さまにて、よろづに申し給へども、かひあるべきにもあらねば、うち泣き給ひて、いかにしてか徒になり給ふまじきわざはすべからむ、と、忍びてさるべきどち宣ひて、大宮をのみうらみ聞え給ふ。




内大臣は、しかたがない、暫くの間、ふたりの事は、人に知らせずにおこう。隠し切れないだろうが、何気ない風に、嘘だと、せめて言ってくれ。早速、私の方へ、お引取りしよう。宮のなさりようが、恨めしい。お前たちは、それでも、こんなになって欲しいと、思わなかっただろう、と、おっしゃる。可哀想だが、嬉しいことをおっしゃると、思い、乳母など、とんでもないこと、大納言さまのお耳に入ることを考えますと、結構な方でも、ただの臣下では、どの点をかって、ご結婚を願いましょうぞ、と、申し上げる。姫君は、見た目にも、大変子供の様子で、内大臣が、色々と注意されるが、何もわからないらしく、ほろりとされて、どうしたら、傷物にならずに済むことだろう、と、こっそりと、乳母たちと、相談されて、ひたすら、大宮を恨むのである。

大宮はそこまで、気が回らないのである。




宮はいといとほしとおぼす中にも、男君の御かなしさは優れ給ふにやあらむ、かかる心のありけるも、うつくしう思さるるに、情なくこよなき事のやうに思し宣へるを、などかさしもあるべき、もとよりいたう思ひつき給ふことなくて、かくまでかしづかむとも思したらざりしを、わがかくもてなしそめたればこそ、東宮の御事をも思しかけためれ、とりはづして、ただ人の宿世あらば、この君よりほかに勝るべき人やはある、容貌ありさまよりはじめて、等しき人のあるべきかは、これより及びなからむ際にも、とこそ思へ、と、わが心ざしのまさればにや、大臣を恨めしう思ひ聞え給ふ、御心の中を見せ奉りたらば、ましていかに恨み聞え給はむ。




大宮は、大変可愛いと思う、二人の中でも、男君、夕霧への愛情が、勝っていらして、このような気持ちを持っていたことというのも、可愛く思うが、内大臣が、思いやりもなく、酷い事のように思う、口ぶりであるゆえ、どうしてなのだろうか。もともと、それ程に、可愛がっていたわけでもなく、これほど大事にしようとも、思っていなかったはずなのに。自分が、こんなに世話をしてきたからこそ、東宮へのことも、考えるようになったのだ。思い通りに行かず、臣下に嫁ぐ運命なら、この君より、立派な人があろうか。容姿、姿をはじめ、並ぶことのできる人があろうか。この姫以上に、内親王とでも、結婚させようかとまで思うのに、と、我が愛情の強いゆえか、大臣を恨めしく思う。その御心を、見せたら、一層、酷く恨むだろうと、思うのである。

夕霧と、雲居雁のことで、人々が悩む様子である。




かく騒がるらむとも知らで、冠者の君参り給へり。一夜も人目しげうて、思ふことをもえ聞えずなりにしかば、常よりもあはれに覚え給ひければ、夕つ方おはしたるなるべし。宮、例は言ひ知らずうち笑みて、待ちよろこび聞え給ふを、まめだちて物語など聞え給ふついでに、大宮「御事により、内の大臣の怨じてものし給ひにしかば、いとなむいとほしき。ゆかしげなきことをしも思ひそめ給ひて、人に物思はせ給ひつべきが心苦しきこと。かうも聞えじ、と思へど、さる心も知り給はでや、と思へばなむ」と聞え給へば、心にかかれる事の筋なれば、ふと思ひよりむ。面赤みて、夕霧「何事か侍らむ。静かなる所に籠り侍りにし後、ともかくも人にまじる折なければ、うらみ給ふべきこと侍らじ、となむ思う給ふる」とて、いと恥づかしと思へる気色を、あはれに心苦しうて、大宮「よし、今よりだに用意し給へ」とばかりにて、他事に言ひなし給うつ。




騒がれているとは、知らず、夕霧が大宮の所に、上がった。先夜も、人目が多く、心の内を申し上げることが、できずに終わったので、いつもより、慕わしく思われたゆえ、夕方に、お出でになったのであろう。
大宮は、いつものように、嬉しくニコニコして、よく来ましたと言う。だが、今日は、真面目な顔で、お話しされるうちに、大宮は、あなたの事で、内大臣が恨みことを言いましたので、本当に、気の毒です。人が耳にして、感心しないことなどを望みになり、私に心配をかけるのが、辛いのです。こんなことを、お耳に入れまいと思いますが、そういう、事情も、知っておかれたほうがと、思いまして、と、おっしゃると、夕霧が心配していたことなので、すぐに気づいた。
顔が赤くなり、夕霧は、何事でございましょうか。静かな場所に籠もりましてからは、どのような交際もすることが、なくなりました。お恨みになるようなことは、ないだろうと思いますが、と、大宮の顔も、見られぬ様子で、可愛くもあり、可哀想でもあり、大宮は、よろしい。せめて、これからは、注意することです、とだけ言い、他の話しにしてしまったのである。

ゆかしげなこと
人が聞いても、面白くないことで、ここでは、いとこ同士の結婚を暗示する。

さる心も知り給はでや
内大臣が、二人の恋愛に、酷く立腹しているということをいう。

あはれに心苦しうて
可愛い、可哀想だ・・・
大宮の、心模様を、そのように、言う。

言葉にする、許容範囲を超える、心境をこそ、あはれ、となる。

人の心の、機微を、明確にして、表現することは出来ない。そこで、あはれ、という言葉を、縦横無尽に使い、それを、表現すると言う、日本文学の、最初である。

もののあはれ、について、を、書こうとすれば、こうして、延々として、書き続けことしかないのである。

仔細に、言葉の跡を辿ることを、放棄しては、堕落する。

日本人の、心象風景が、あはれ、という言葉を、支えて成り立つのである。


posted by 天山 at 07:24| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月15日

伝統について。49

思ふらむ その人なれや ぬばたまの 夜毎に君が 夢にし見ゆる

おもふらむ そのひとなれや ぬばたまの よごとにきみが いめにしみゆる

私を、思うという、あなたは、ぬばたまの、夜ごとに、夢に見ることが、どうしてありませんでしょう。夢にも、一向に見えません。

思ふらむ
強い否定をともなう、疑問である。

これは、本当に、思っているの・・・
嘘ではないか・・・
思い惑う心。

相手は、プレイボーイなのかもしれない。

かくのみし 恋ひば死ぬべみ たらちねの 母にも告げず 止まず通はせ

かくのみし こひばしぬべみ たらちねの ははにもつげず やまずかよはせ

このように、死ぬほどの思いで、恋しています。たらちねの母にも告げました。絶えず、通ってきてください。

通い婚は、平安期まで、続く。
待つ女・・・行く男・・・

これは、このように、恋を続けていたら、死んでしまう、とも、いえる。

恋に死ぬ。
演歌のようです。

大夫は 友の騒ぎに 慰もる 心もあらむ われそ苦しき

ますらをは とものさわぎに なぐさもる こころもあらむ われそくるしき

男は、仲間によって、慰められることもあるだろう。私は、一人で、苦しんでいるのに。

女は、耐えつつ、偲びつつ、男を慕う。
何気なく、口から出る、言葉である。

偽も 似つきてそ為る 何時よりか 見ぬ人恋ひに 人の死する

いつはりも につきてそする いつよりか みぬひとこひに ひとのしにする

嘘も、少しは、本当らしく言うものです。いつから、会わない人を恋して、死ぬのでしょう。

男が嘘を言う。
全然、逢いに来ないのである。それでも、好きだと言うのだろう。

逢ってもいずに、恋して、死ぬと、言う。
大胆、純粋、素朴な、恋心である。

恋は、死に値するものだった、万葉時代。

恋に純粋な時期がある。
それは、まだ、性に触れない年頃である。

だが、性に触れて、慣れると、恋は、堕落する。
いや、恋が、命になる。

性と、恋と、命・・・

どうも、万葉時代は、それらが、一緒の価値観だったようである。

素朴な、性の有様・・・

生理的満足より、心の満足を、求めた、万葉時代である。
時代は、進化し、性のあり様も、実に、複雑怪奇になった。

性、セックスとは、何か。
考えるに、値するテーマだ。

posted by 天山 at 07:21| 伝統について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月16日

神仏は妄想である。354

第一の意味における自然は、存在するあらゆるものの集合的な名前である。第二の意味では、自然は人間の意思の介在なしに、それ自身で存在するあらゆるものの名前である。
ミル

しかし倫理学の用語として自然という語を使用することは、自然という語は何であるかを表すのではなく、何であるべきかを表す、つまり何であるべきかの規則や基準を表す第三の意味を示しているように思われる。しかしながら、少し考えてみれば、これが多様性の事例にならないことがわかるであろう。この場合、第三の意味はないのである。自然を行為の基準としてうちたてる人々は、ただ言葉上の関係を言おうとしているのではない。彼らは、どのような基準でも自然と呼ばれるべきであろうと考えているのではない。彼らは何が本当に行為の基準であるかについて何らかの情報を与えていると考えている。自然という語は私たちが何をすべきかについて何らかの外的な尺度を与えると、彼らは考えている。自然に従って行為すべきであると言う人たちは、すべきことをすべきであるという同音反復命題を考えているのではない。彼らは自然という語が、何をすべきかについて何らかの外的な基準を考えていると思っている。もし、彼らが本来の意味では事実「何であるか」を示す語を、価値「何であるべきか」の規則として設定しているとすれば、彼らがそうするのは、明晰であるか、混乱しているかは別として、ひとつの観念を持っているからである。それは、事実が価値の規則や基準を構成するという観念なのである。
ミル

そして、ミルは、その、観念を検討するというのである。

事実が価値の規則や基準を構成するという、観念である。

ミルは、自然神学の伝統的思考を、全面的に否定するものである。

それは、つまり、自然神学では、神と自然と人間が一つながりの連鎖の中にあり、自然は、神によって造られたものであるから、基本的には、善であり、その運行過程は、神の善意を表す摂理による。
そこから、人間の道徳は、自然に従うべきであるという、思想である。

であるから、語られることは、
神の善性から、
自然の善性、
そして、道徳的善の基準としての自然、である。

この連結が、弱められれば、最初の、神の善性が、弱められる、という、理屈である。

よくも、まあ、このような、面倒な、遠回りをするものであると、私は、思うが、これが、西欧の思想、考え方なのである。

日本でも、敗戦後は、そのように、思想を語る者が、多々現れた。
西欧の、真似であるが、それなりに、しっかりとした、ものが出来たと、思う。

自然神学は、キリスト教信仰において信じられている教義と一致する真理を自然の中に経験的・合理的に発見しようとする理論である。認識の目標、確認されるべき事実の前提になっている。信仰の立場では、神の存在も神の善性も真理である。そうでなければ、キリスト教信仰は成立しない。しかし、信仰の外に立って、感覚的経験と理性によって推論するとき、キリスト教の信念体系について何が言えるであろうか。その信念のどれが経験と理性によって真理であると確認できるであろうか。自然神学が取り組んでいるのは、その問題であった。
訳者解説、大久保正健

ミルは、
自然に従い、自然を模倣し、自然に従属することを、善いと考える、学説が正しいか、どうかを、探求するという。

言語というのは、哲学研究のいわば空気のようなものであるが、それが透明にならないと、何らかの対象の真の形と位置を見通すことができるようにならない。
ミル

これが、序の口であるから、先が、思いやられる。

説明する前に、説明するための、準備である、言葉について、語るという、念の入れようである。

賢い馬鹿たちが、実に、好む方法である。

それでは、こちらも、徹底的に、読むことにする。

何となく、曖昧に・・・していると、何となく、解るようなもの・・・ではないらしい。

西欧の思想で、日本の、もののあはれ、について、語らせたら、面白いだろうな・・・と、思う。

花の盛りは、あはれなり・・・
何のこと、ということになる。

災害で、被災した人たちは、あはれなり・・・
何のこと、ということになる。

さて、ミル、ミルである。

この研究の場合、もう一つの曖昧な表現を警戒しておく必要がある。
何・・・まだ、あるの・・・

その両義的な言葉は、十分にわかっているつもりでも、聡明な精神さえも誤解に導くことがあるから、議論を先に進める前に、特に注意しておく方がよい。
ミル

えっ・・・・まだあるの・・・・

自然という語と普通いちばん結びつく語は、法である。
そして、法について・・・書き始めるという・・・

そしてこの法という語は、二つの異なる意味を持つ。法は一方では事実の一部を意味し、他方ではあるべきことについての一部を意味する。私たちは引力の法則とか、運動の法則、化学結合における定比例の法則、有機体の生命法則といったことを語る。これらすべては事実についての部分である。私たちはまた、刑法、民法、名誉の法、正直の法、正義の法といった語り方もする。これらすべてはあるべきことについての部分、あるいは、あるべきことに関する誰かの見解や感情や命令である。・・・
ミル

これは、死ぬまでの、暇つぶしに、もってこいだ・・・

勘違いしないようにしてください。
私は、神道の自然崇敬について、書いています。
そこで、西欧の自然観から、彼らが、自然を、どのように見ているのかを、書いています。
今は、神道の妄想について、書いている、ということ。


posted by 天山 at 00:38| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月17日

神仏は妄想である。355

自然という語の倫理的用法が含意している考え、つまり、事実とあるべきことの間に、絶対の同一性とは言わないまでも、密接な関係があるという考えが人々の心を捕らえるのは、一つには「自然の法」という表現が事実を指しているにも拘わらず、他方で、同じ法という語が、それよりも身近なところで強力に、あるべきことを表現するのに使われるという習慣による。
ミル

自然を語る前に、法について、を、語るのである。

自然法則を通じてしか物理的にどんな小さなこともできないとき、人々に自然に従えと命じることは馬鹿げている。むしろ、個々のケースでどの自然法則を利用すべきかを教えるべきである。
ミル

何も、難しいことを、言っているのではない。

例えば、食べ物を食べる。
それは、自然法則に則って、消化、吸収されるということだ。

人は必然的に自然法則、あるいは事物の特性に従う。しかし彼は必ずしも自然法則や事物の特性によって自分自身を導くわけではない。すべての行いが自然法則に一致するが、すべての行いが自然法則についての知識に基づいているのではない。また、自然法則を利用することを考えて目的の達成に向けられているわけでもない。私たちは全体としての自然法則から自由になることはできないが、それでも、特定の自然法則が作用する状況から逃れるなら、その法則から逃れることができる。
ミル

逃れるなら、その法則から逃れることができる・・・
変な、日本語である。

訳が悪いのか・・・

と、いうより、このような、書き方が、良いのであろう。
信じられないことだが・・・

さて、必然的に、自然法則に従わなければ、死ぬ。
自然法則から、逃れれば、死ぬ。
自然法則の中にしか、生きられないのが、人間である。

と、書けば、よく解る。

ミルは、思想家であるから、以前の思想家の、書き物を批判しつつ、書いている。だから、面倒な書き方になるのである。

要するに、
「自然に従う」という学説の権威が、どれほど「自然を観察する」という合理的な指針と混同されることによっているにしても、「自然に従う」という学説を支持し促進する人たちが、その指示以上のことを意図していることは疑いない。
ミル
ということになる。

しかし自然への服従や自然との一致という一般原則は単に実利的合理性の一般原則ではなく、倫理的な一般原則として支持されている。自然法について語っている人たちは、この一般原則を法廷によって執行され制裁によって守られるのに適した法であるかのように語っている。正しい行為は、単に知性的な行為ではなく、それ以上の何かを意味しているに違いない。けれども、知性的であること以上を命じる原則はどんな広い哲学的意味で解釈しても自然という語とは結びつかない。
ミル

こうして、延々と続くのである。

ミルは、自然神学の伝統的な思考を、全面的に否定しているのである。

だから、延々として、語り継ぐのである。

それには、自然神学の、伝統的思考というものを、知るべきである。

以前に少し書いたが、もう少し、その後を、見ることにする。

1534年、ルターの神学が、イギリスに及ぶ。
ヘンリ八世が、イングランドを、ローマ・カトリックから分離して、独自の、国教会を樹立する。

国教会は、王自身が、教会の長である、ナショナル・チャーチとなる。
この、宗教の国家体制は、宗教改革の精神と、原理的に、合わない部分があった。

宗教改革は、その基準として、聖書を重視する。
聖書のみによって・・・

聖書に照らせば、古代イスラエルも、原始キリスト教も、国家の機関ではない。
一神教の場合は、本質的に普遍的であり、国家の宗教には、なり得ない。

それにより、ヘンリ八世の、改革に、飽き足らない人々が、改革を更に、推進する。
ピューリタンである。

清教徒と、呼ばれる。
その、ピューリタンは、議会を通じて、勢力を拡大し、王との、対決の中で、国制を変革しようとした。
そして、1649年の、内戦である。

清教徒革命である。
ピューリタンが多数を占める議会派が、勝利し、王を、処刑して、共和制を樹立する。

だが、それも、長続きせず、1660年、英国は、再び、王制に復帰する。

その後の、ピューリタンが、辿った道は、アメリカ大陸へ、である。

その、残忍さは、知れたことである。
アメリカ大陸の、原住民である、インディアンを皆殺しにして、アメリカ共和国を、樹立した。

宗教の名において、戦うことは、残虐行為が、付きまとう。

カトリックと、プロテスタントの、戦いも、宗教戦争となり、残虐の限りを尽くした。
イスラムとの、対決ではない。
同じ、キリスト教の内紛である。
それでも、そうなる。
つまり、その宗教を支配している、霊的存在の、本質、性格が、解るというもの。
イギリスでは、革命の嵐が去った後、人々は、熱狂、つまり、狂信と、言った。

そして、宗教には、この、狂信が、憑いて回る。

まだまだ、ミルを、続ける。


posted by 天山 at 00:42| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月18日

神仏は妄想である。356

そこで続いて、自然という語の第二の意味で、想定されている自然に従うという一般原則に何らかの意味を付与することができるかを考察することにしよう。
ミル

法が、終わり、次に、以前に書いた、自然の第二の意味に、ついて、である。

第二の意味での自然は人間の干渉なしに起こることを指す。そのように理解された自然において、何の干渉も受けていない事物の自然発生的な過程は、私たちが事物を利用しようとして努力している際に従うべき規則であるのだろうか。
ミル

やたらに、語る。
松尾芭蕉は、松のことは松に、竹のことは、竹に習え・・・
そういう、言葉の世界は、無い。

しかし、この意味でとられたとき「自然に従うという」一般原則が単に表面的な意味しか持たず、明らかに不条理であり自己矛盾であることは直ぐにわかる。なぜなら、人間の行為は自然という語の一つの意味で自然に従わざるをえないが、他方、まさに行為の目的や対象はもう一つの意味における自然を作り変え改良することだからである。
ミル

当たり前に考えていることを、こうして、言葉にして、組み立てている。
そうしなければ、次の反論、批判を、引き起こさないのである。
どこからも、突かれないようにと、言葉を作り上げる。
これを、彼らは、論理的という。

もし事物の自然的な過程が完全に正しく満足できるものであったら、行為することはまったく余計なお世話であろうし、その行為は事物を改善できる可能性がない以上、ただ悪化させるだけであるに違いない。あるいは、およそ行為が正当化されうるなら、本能に直接従うときだけであろう。なぜなら、本能は自然の自生的な秩序の一部として説明されるであろうから。しかし、先のことを考え目的を持って何かを行うことは、その完全な秩序への違反であるだろう。もし人為的なものが自然的なものよりもよいのでないなら、すべての生活技術の目的は何であろうか。掘ること、耕すこと、建てること、衣服を着ることは、自然に従えという命令に直接違反している。
ミル

だが、
およそ文明、技術、発明を称賛することは自然をけなすことでもある。それは自然の不完全さを承認することであり、不完全な自然を矯正し、緩和するようにいつも努力していることは、人間の本分であり誉れである。
ミル

これは、宗教論文であり、今は、入り口である。
が、これで、彼らの、自然観というものが、解る。

不完全な自然、それを、矯正し、改良するという。
傲慢も、甚だしい。
こんな考え方は、日本には、無い。

同じように、行為しても、考え方が、全く違う。
矯正するとか、緩和するとかの、考え方は、全く無い。

自然に対して、行為することを、申し訳ない、ありがたい、そして、感謝するのである。

わが身勝手のことを、自然は、何も言わずに許してくれる・・・というように。

そして、ミルも、似たようなことを書く。

人間が自分の条件を改善しようとすればそれだけ、自然の自然発生的な秩序を非難し防げることになるという意識が原因となって、いつの時代でも新たな前例のない改良が試みられると、それは一般にまず宗教的な嫌疑にさらされた。改良の試みはいずれにせよ、宇宙の森羅万象を支配している、あるいは自然の過程がその意志の現れであると想定されている強力な存在「あるいは、多神教が一神教に座を譲った後では、万能の存在」の機嫌を損ねる可能性が大きいと考えられたのである。人類の都合のよいように自然現象を鋳型にはめようとする企ては、上位の存在の支配への干渉であると思われやすい。
ミル

しかし、その万能の存在、つまり、神が、復讐を行わないことを、経験が証明した、と言う。

人間の主要な発明を、いずれかの神の贈り物や好意として考えることにしたのである。
ミル
実に、都合のいいことである。

カトリックには無謬の教会という奥の手があったので、教会は人間の自発性の行使のどれが許されるか、また禁じられるかを宣言する権威を持った。
ミル

自然を考えるということで、明治期の人々が、この論文から、西欧の思想を、読み取ろうとした努力は、並大抵ではない。
全く違った、価値観である。

そして、ミルに至るまでの、自然観をも、学んだことは、驚嘆に値する。

それに比べて、日本の場合は、何も、考える手立てが無い。
要するに、言葉の世界が無かった。
要するに、精神が、薄弱と見たのである。

しかし、今、それが、違うということが、解る。
日本人は、精神という言葉の世界ではなく、心という、情操により、物事、自然を理解していた。
それは、言葉にしなくても、問題ないことだった。

自ずからなる、自然への思いである。

縄文期から、培われてきた、自然への、思い。
万葉集などに、歌われる、自然への、思いである。

一言で、言えば、自然は、神々の場所である。
祖霊の居ます場所である。

また、だから、その相違が、面白い。

言葉は、哲学では、空気のようなものと、考える民族と、言葉は、言霊として、それ自体が働くと、考える、日本人である。

さあ、説明しろ、と、言われれば、私は、相手の体を、指で、突く以外に、方法が無い。
自然は、お前だ・・・と・・・

posted by 天山 at 07:56| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月19日

霊学41

さて、小此木氏の、自己愛人間より、
ここで、私は自己愛のパーソナリティのもっとも重要な特徴の一つとして、主観的な思い込みの中で暮らし、本当の現実とつながらないところで自信をもち安定しているという事実をあげたいと思います。
もう少し厳密ないい方をすれば、彼らは主観的なイリュージョンの中で暮らしているのです。イリュージョンというのは、錯覚と訳されますが、ここでは現実の経験をすべて自分の自己愛をみたすように都合よく解釈し、そう思い込んでしまう心理状態という意味で用います。
小此木

錯覚しつつ、暮らす。
そして、それは、よほどの衝撃が与えられない限り、誇大自己そのものであるような、幻想の中で、暮らすというから、驚く。

しかし、時に、自己幻滅の状態に陥っても、ある程度の適応力を持つ、自己愛パーソナリティは、幻滅体験をきっかけに、一時的破綻状態に陥っても、再び、誇大自己を、取り戻す事が出来る、条件を見つけ出す。そして、自己愛幻想を、回復させるという。
これも、驚きである。

であるとすると、錯覚して、生きていても、人に迷惑をかけなければ、まあ、何とか、生きられるということである。

錯覚の、人生を生きる。
そして、本人が幸せである・・・

自己愛パーソナリティの人は、自分自身が何かを思い込んで、そのことで自己愛をみたしている間は、再び元気になります。たとえそれが、まわりからみて主観的なものであり、時にはイリュージョンであっても、本人にとっては誇大自己をみたすものであれば、それは十分なのです。
小此木

対人関係でも、相手が、どうあれ、自分の誇大自己を満たすのに、相応しい人であれば、いいのであり、その他は、いらない。
とういことは、対人関係でない。
人を、モノのように、扱うのである。
自己愛を、満たすのみ、相応しい人・・・

随分と、行き過ぎた時代になったものである。
つまり、本当の、人間の付き合いなどが、出来なくても、生きて行けるのである。

人間が、自己愛の、道具になる。

さて、もう一つの特徴である。

自分の誇大自己をみたし、さらに肥大させていこうとする飽くことのない貪欲さです。
小此木

名声、権勢、栄光、自己顕示・・・

つねに極端な自己中心性があって、他人から称賛を浴びたり、自分の能力を発揮して自分の理想化した誇大自己を実現することに、すべてをかけている人間であるわけです。そして、同時に他人に対する関心とか共感性が欠けている。天職とか使命感に燃えて、これを実現できるのは自分しかいないと思い込み、そういう自分が特別待遇を受けるのは当然だと考えるわけです。
小此木

人間は、多少なりとも、そういう要素がある。
しかし、それが、極端になり、もはや、そういう自分を、絶対的に考えてしまうと、病理的になるのである。

端的な存在が、教祖になる人たちである。

人にも、そういう、誇大自己の要素があり、その、バランスにより、時には、それを受け入れるという、心の所作を持つのが、普通である。
だが、人の誇大自己は、受け入れないのである。

後に、小此木氏が、病的な自己愛が、肥大化する人として、上げているが、振り子が、振り解けてしまう人たちである。

その前に、もう一つの、特徴は、羨望心が異常に強いということである。

羨望というが、精神分析では、羨望と、嫉妬を区別する。
ねたみ、という。

自己愛パーソナリティの人がねたみ深いというのは、羨望心が強いという意味です。
小此木

それは、他人が、自己愛の満足を得ることを、許せない。
つまり、他人の自己愛に、共感する事が出来ないのである。
更に、他人の、自己愛の、傷つき、悲しみや、痛みに、関心なく、解らないのである。


自分勝手な人として、くくられるが、それは、実に恐ろしい、心の病になる。

そういう、人が、組織の上に立つと、絶望的である。

羨望心も、また、多かれ少なかれ、人の心にあるものである。
しかし、それも、バランスを保っている。
その、バランスが持てない人がいる。

現代の家庭崩壊の、元が、そこにあることもある。
それぞれに、自己愛を満たすためだけにある、家庭である。

健康な自己愛は、ミューチュアリティ、相互性があると、小此木氏が言う。

そして、
このような現実の満足体験は性欲の満足と同様にそれなりの完結性があります。
小此木

相互性を、エロス的コミュニケーションの体験から、出発するものだとの、提言である。

要するに、与えることと、与えることによって、それぞれが、受け取る関係である。

与え合うという、関係が、自己愛の健全な姿であるということだ。

何も、精神分析から、言わなくても、遠い昔から、言われてきたことである。
ところが、こうして、精神分析、心理学・・・などから、言われなければ、納得できないという、ボンクラが多くなったのである。
普通の言葉ではなく、それらしい、学問的・・・なにか、小難しい・・・
兎に角、ややこしい説明を好むようになったのである。

そして、それだから、真っ当だと、考える、歪さである。

これは、日本人が、堕落した、西洋化の一つである。


posted by 天山 at 01:04| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月20日

霊学42

健康な自己愛は、自分と相手の欲求が、一致する、相互性、エロス的コミュニケーションの体験から、出発している。

このような現実の満足感は性欲の満足と同様にそれなりの完結性があります。
小此木

性欲という、基本的、本能による、満足感が、心の満足感を計るものだということに、注目する。

しかも性欲と異なるのは、その満足体験が自己価値として残るわけです。性欲はそこで消費されれば終わりという部分がありますが、このような心理的な満足は内在化して自己価値になっていくわけです。
小此木

自我理想、アイデンティティという形に、自己愛が、社会化されれば、安定した、自己愛の充足をもたらすと、言う。

それでは、病的な、自己愛とは、何か。

それを、小此木氏は、
野武士の群れのようなもの、と、言う。

つまり、一国一城の主になることの、出来ない、人。

お城に代わる、自衛手段や、合法的な組織に代わる、権力の誇示のために、巨大な軍事力を、常に、維持しなければ成らない、人、と言う。

この巨大な軍事力に相当するのが、自己愛パーソナリティの主役である誇大自己なのです。
小此木

誇大自己が、現実に合わないほど、大きくなる。その満足のために、大変な労を要する。

では、誇大自己が、どのようにして、出来るか・・・

その概念は、アメリカ、シカゴの精神分析医ハインツ・コフートによるもの、とのこと。
コフートによれば、誇大自己は、三つの要素からなる。

第一は、親に可愛がられたりするという、現実の自己愛の満足によって、作られる。
第二は、実際に、満足を得られないだけに、こうありたい、という、代償的に思い描かれる理想的な自己。
第三に、全能力を持っていて、自分を賛美し、褒め称えてくれる、理想的な父親像、母親像である。

この、三つの要素が、融合して、一つになったものが、誇大自己であるという。

実際にそのような誇大自己が構造化されて、心の中に肥大して残っている人間を自己愛パーソナリティといいます。
小此木

だが、
誇大自己を現実のものとして体験するためには、思い込み、一人合点がつきもので、周囲の悪意や敵意はつねに意識から排除されていなければなりません。
小此木

こうした心理を、ポリアンナ心理、そしてポリアンナイズムと呼び、この、ポリアンナイズムが肥大していくと、自分と周囲を理想化し、敵意や悪意を否認し続ける。
それを、専門家は、軽躁的防御と呼ぶ、心理作用により、常に、自分を元気づけ、調子付けていないと、いられない人物になると、言う。

ここまで行くと、ある事が、思い出される。
宗教である。

彼らの中には、信者に対して、ポリアンナイズムを、起こさせようと、説教を繰り返すのである。

すべての人に対しての、悪意や敵意を止めて、すべて、善であると、捉えなさい、である。
どんなに、悪意があっても、こちらが、それを悪意として、捉えないでいると、相手が、善意を起こすというものである。

自分が、変われば、相手も、変わる、と言う。
そして、誇大自己を作り上げて、せっせと、陽気に、元気にと、励ます。しかし、その反動は、突然訪れる。

それが、パニックになるか、恍惚とした、信仰の妖しい迷いに至るのかは、人それぞれ。
善人とか、聖人並みの、怪しい感覚を持つに至る。

現実に、即していないが、信仰とか、その集団の中では、恍惚として、しまうのである。
これを、ぬるま湯に浸かった、信仰集団と、私は、呼んでいる。

あるいは、オタクと呼ばれる人たちにも、それが、多いだろうし、それだから、オタクになったのである。

オタクの延長戦に、信仰の、ぬるま湯の集団が、待ち受けている。

自己放棄という、自己愛も、そこでは、現れる。
すべてを捨てて、神仏へ・・・

実に、恐ろしい。

だが、そうなると、火事場の馬鹿力が、出る人もいるのである。
教祖や、有名な信仰者、あるいは、宗教的慈善家などになる。

その時点での、自己愛ポリアンナイズムである。
そこで、止まる。

霊能者の、幼稚性などにも、言える。
山勘でも、霊能力になってくるのである。

恐ろしいのは、それらの人たちに、振り回される人である。
自己愛が、もはや、手の下しようもないほど、肥大化する。

この、手法で、宗教を作り上げることも、出来ると、考えておくとよい。

更に、誇大自己は、どのようにして、出来上がるのか、である。
二つの捉え方があると、言う。

一つは、上記のコフートの考え方で、もう一つは、境界パーソナリティ構造の研究で有名な、オットー・カンバーグの、考え方である。
小此木氏の、解説で、書き進める。


posted by 天山 at 07:17| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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