2011年10月20日

霊学39

小此木氏の、自己愛人間を、見ているが、ここで、少し寄り道して、自我とも自己というものを、更に、詳しくしてみたい。

河合隼雄氏の、無意識の構造、から、拝借する。

人間の意識は自我を中心として、ある程度の統合性と安定性をもっているのだが、その安定性を崩してさえも、常にそれよりも高次の統合性へと志向する傾向が、人間の心の中に存在すると考えられるのである。
河合

この場合の、心の中とは、脳の中である。
何度も言うが、心理学で、言われる、心とは、脳の働きである。
いずれは、脳の働きに触れることになるが・・・

本人の意識がこのままの状態で安定してゆこうとしているとき、いわばヒステリーの症状まで、送り込んでくるような主体はいったいなになのかという疑問が生じてくる。これに対して、ユングは、人間の意識も無意識も含めた心の全体性に注目し、そのような心全体の統合の中心としての「自己」の存在を仮定するようになったのである。
河合

自己を、仮定したという。

一応、仮定である。

最も、ユングは、心の全体性という考えを、心の全体の中心としての、自己という明確な考えを持つのは、東洋の思想から、とても大きな影響を受けたのである。

仏教の、唯識などの、考え方は、心理学より、先に、進んでいたともいえるのである。

これは、一つの例である。

さて、西洋人は、意識を重視する。しかし、ユングは、無意識も、実に大切であり、大変なものであると、考える。

そして、ユングは、こう言う。
自己は心の全体性であり、また同時にその中心である。これは自我と一致するものではなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包含する。

その、無意識も、意識の下に、個人的無意識、そして、その下に、家族的無意識と、文化的無意識と共に、それらを、総称して、普遍的無意識として、認識した。

ユングは、分裂病、現在の統合失調症の患者から、ヒントを得たのである。

何故、彼らの妄想が、幼児期における経験と関連するコンプレックスなどによって、説明できないのだろうという、疑問からである。

これは、とても、重要なことだ。
知らないことは、現れないのではなく、無意識の世界に、保存されてあるという、発見である。

後に、霊というものも、この無意識と関わってくるのである。

それにしても、無、意識とは・・・
意識が、無い。

本来ならば、唯物系の人たちは、それを、否定してもよさそうなものだが、心理学といわれると、何となく、認めているという、不思議。

無い意識を、認める・・・という。

人も、無意識のうちに、してしまったと、平然として、言う。
それに、何の疑問も、持たないのである。

普遍的な無意識の説明のために、河合氏は、これを、書いている。

自己はユングの定義に従うかぎり、あくまでも無意識に存在していて、意識化することの不可能なものである。人間の自我はただ、自己のはたらきを意識化することができるだけである。このため、のちに示すように、われわれは自己をそのシンボルを通じてのみ知ることができると考えるのである。自己のシンボルの顕現は、人に深い感動を与え、それが宗教体験の基礎となると、ユングは述べている。そして、キリスト教や仏教におけるキリストや仏陀を、自己のシンボルとしてみることができると述べている。
河合

つまり、信仰は、その人の心の中にある、そのもの、なのである。
外に、出会うのではなく、内に出会うのであり、それは、自己の無意識にあるものなのだ、ということだ。

河合氏は、
心理療法家のところに、訪ねてくる人は、なんらかの悩みや問題を持っている人である。実際に、話しをお聞きすると、どうしてそんなことが起こったのだろうと思うほど、運の悪いときに運の悪いことが生じているのである。
と、言う。

そして、多くの場合、本人の責任は、あまり、問えないのである。
と、いうことである。

何気なく、書いているが、これは、重大なことである。

本人の責任は、あまり、問えない問題を、抱えている・・・

本人が、である。

昔の人は、二度あることは、三度あるなどと、言ったが、そのように、運の悪いことが、何度も、続くということがある。
本人の責任は、問えない。

河合氏は、アレンジメントと、言う。
誰が、アレンジメントしているのであろうか。

無意識・・・

個人の自我のほうから見るとまったくばかげていたり、避けたいことであったりすることも、自己のほうから見るときは、ひとつの巧妙なアレンジメントであると見えることは多い。われわれ心理療法家は、その両方の見方ができる人として、そこに存在している。
河合

そして、もっと面白いことに、ただ横に坐っているだけと思っていた、われわれ治療者自身も、そのアレンジメントの中にうまく組み込まれてしまって、右往左往させられていることに気づくことすら多いのである。自己というものは恐ろしいものである。
河合

自己というより、私は、河合氏の方が、恐ろしい。
随分と、素直な人である。
そして、その世界での、権威者でもある。

学者で、これほど、謙虚な人も、珍しい。



posted by 天山 at 00:03| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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