2011年10月25日

孤児たちを訪ねて

今回の旅は、今までで、最も長い、半月の旅だった。
ミャンマー難民の孤児たちへの、衣服支援と、カンボジア流民親子への、支援である。

しかし、バンコクに送ったはずの、二箱の支援物資が、手違いにより、返送されるという、アクシデントである。
それは、主に、カンボジア流民親子に、差し上げるものだった。

兎も角、旅の記録を書いておくために、話しを進める。

バンコクに到着し、二日間、慣れるために、余裕を取った。
そして、三日後、ミャンマー国境の町、メーソートへ向かう。
日本のマスコミでは、メソトと、表記するが、本来は、メーソートと、呼ぶ。

その町の近くには、メラキャンプという、ミャンマー難民の有名なキャンプがあるが、そちらは、多くの支援団体がある。

私は、誰にも知られない、孤児たちの、施設、学校を四つ廻った。
そして、難民の医療を無料で行う、メータオクリニックである。

今回の、同行者は、コータと、テラの会理事の辻友子さんである。

三人分の持参する物資と、すでにメーソートに送っておいた、四つの箱、総量300キロ近くある、分量を支援する。

タイ国内線には、一人の無料荷物の枠が、少ないため、追加料金を支払う。それは、すでに予約の段階で、済ませていた。

それでも、追加料金が、かかった。
兎に角、支援活動は、お金がかかる。
個人活動では、限界がある。
寄付を募るのは、訳があるのだ。

荷物の受付は、メーソート在住の日本人の方、広倉さんに、お世話になっている。
支部ということで、お手伝いを頂く。

メーソート到着時も、広倉さんが、迎えに来て下さり、荷物を積む、車も用意されていた。
丁度、昼の十二時過ぎに、着いた。

そのまま、いつもの、ホテルに向かう。
広倉さんは、バイクで、私たちの後を追った。

ソンテウという、乗り合いバスをチャーターしての、ものである。
自分の持ち物は、機内持ち込みの物のみという、いつもの、ことである。
後は、すべて、支援物資である。

ホテルに着いて、荷物を下ろし、いつもの、ラーメン屋に向かう。
タイ、ラーメンのことである。

ラーメンを食べつつ、明日の予定を相談する。
私は、出発を十時にして、孤児たちの施設を最初に、そして、慰霊をして、メータオクリニックである。

今回は、いつもの施設のみならず、新しい、施設一つ、学校一つを廻る。
前回、何も渡すことが出来なかった、学校の子供たちに、である。

車も、前回と、同じく、最後の日本兵で有名な中野さんの、お孫さんが、担当してくれる。
更に、中野さんのご長男の、奥様も、加勢してくれることになった。

その奥様は、タイ語、英語、カレン語の多様な、言葉を使える。
であるから、通訳としても、絶好である。

また、それぞの、場所もよく知り、大変に助かるのである。

食事の後は、明日のために、無理せず、のんびりと、買い物などをして、楽しむ。
市場に出掛けて、買出しする。
果物・・・これが一番。
日本には無い、果物を食べる。

楽しみの一つである。
更に、とても、安い。
そして、水の用意である。

何は無くても、水が大切。
三泊四日の滞在で、使う水を用意する。

更に、今回は、孤児たちに、お菓子を用意するために、廻った。
お菓子類は、禁止であるが、地元のお菓子で、安いものなら、問題はないと、考えた。

普段は、その安いお菓子でも、食べられない子供たち。
私の、願いだった。
そして、施設の責任者は、誰も、それを拒まなかった。

ジュースと、お菓子のセットを用意した。
60人分と、お菓子は、更に、一箱用意した。
森の中にある、施設の他に、もし、必要なら、子供たちに、上げるためだ。
それも、正解だった。

最初の、森の中にある施設の孤児たちに、逢うのは、三度目である。
皆、見るたびに、成長していた。
今回も、大きくなっているだろう。

さて、私たちの、食事は、ホテル並びにある、地元の人が通う、食道である。
ほとんど、ミャンマーの女の子が、働く。
朝から晩まで・・・

ホテルの、ベッドメークの仕事も、そうである。
3kといわれる、仕事を、ミャンマー難民の子たちが、引き受けている。

住み込みで、働くから、一日の大半は、仕事である。
労働時間などというものは、無い。

三人で、夜の食事をして、部屋に戻り、明日のために、早めに、休むことにする。
兎に角、終わるまで、続けるので、いつ、昼ご飯を食べられるか、解らないのである。

出掛けて、みなければ、状況は、つかめない。
ちなみに、私のこの旅の間、一滴も、酒を飲まなかった。
日本では、毎日、日本酒を飲む私が、酒を口にしたくないのだ。
いつも、それを、不思議に思う。



posted by 天山 at 07:18| 孤児たちを訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月26日

孤児たちを訪ねて2

翌朝八時に、ホテル並びの食堂に、朝ごはんを食べに出る。

出発は、十時であるから、のんびりである。
だが、ホテルに戻り、九時過ぎに、広倉さんから、電話が入る。

森の中の、孤児院は、十時から教会に行くので、十時前までに、行きたいと・・・
えっ、あの子供たちのバックは、教会だったのか・・・
フランスのボランティア団体が、勉強を教えるために来ていると、言っていたが、カトリック系だったのだ。

それでは、と、急ぎ、準備をする。
車もホテルに、向かっていると言う。

広倉さんと、その娘さん、そして、中野さんのお孫さんと、そのお母さんが、一緒だった。
そのお母さんは、最初の時にも、道案内をしてくれた。

中野さんの長男の奥さんである、お母さんは、カレン人であるが、タイ語、英語、カレン語の三種類を話すので、通訳には、もってこいである。心強い。

荷物は、積み上げるほどある。
私と、辻さん、コータは、車の中に乗ったが、広倉さんと、娘さん、お母さんは、車の荷台に支援物資と共に、乗る。

広倉さんの娘さんは、中学の時に出会っているが、今は、チェンマイの高校に通う。丁度、休暇なので、里帰りしていた。

道は、森の中に向かう。
運転の彼は、昨年も一緒だから、道を覚えている。

森の施設に着くと、子供たちが、私たちを待っていた。

私は、日本語で、お早う、元気ですかと、声を掛けた。
何人か、覚えた顔もある。

兎に角、衣類を出して、一人一人に手渡すことにする。
皆さん、総出で、手伝う。
私は、男の子に、辻さんが、女の子に渡すと共に、辻さんには、子供たちに、触れて欲しいと、頼んでおいた。
人に触れられることの少ない、子供たちは、人の温もりを求める。
辻さんは、それで少し時間がかかっていた。

それに、今回は、お菓子と飲み物を、持参しているから、急ぐ、急ぐ。

全員に渡して、私は、今日は、お土産を持ってきたよ・・・と、声を上げた。
お母さんが、通訳する。

五人一組になって、それぞれに、お菓子と、ジュースを渡すと、子供たちは、行儀よく、机について、食べ始めた。
それは、とても良い光景だった。

更に、小さな男の子が、自分たちのお菓子を、世話をしている、大人の男たちの元に、持って行き、それぞれに、渡した。
皆、そのように、思いやりを育てて、成長していると、感心した。

一人では、生きられないことを、子供たちは、身に沁みて感じているのだ。

子供たちが、全員、食事用の机についたところで、辻さんに、歌を御願いした。
さくらさくら、である。

辻さんの声が、森の中に響く。
とても、良い。

最後に、二人の中学生くらいの女の子が、私に、お菓子を貰いに来た。
まだ、足りなかったのだ。
それで、余分に、一箱のお菓子を用意していたのが、正解だった。

兎に角、時間までに、渡すことが出来た。
あっという間の、出来事。

写真を撮り、お別れの挨拶である。
代表の先生とも、お別れする。
また、来ます・・・

子供たちは、前回より、増えていた。だが、前回と違い、着ているものは、良くなっていた。大きなシャツ一枚に、体を包む、小さな子もいない。
衣類の支援は、私のみであるから、皆、私の手から渡したものである。

まだまだ、足りない。
予備の物が、まだ、必要である。
更に、文具も・・・

彼らは、国籍がないから、結局、メーソートの中でしか、生きられない。
すると、ここを出ると、メーソートの町の中で、仕事を探して生きるしかないのである。

とても、悲しい現実は、女の子の中には、誘われて、体を売る子も出る。
それは、確実な情報として、私は、確認した。

私の泊まるホテルでは、17歳、18歳のミャンマー難民の女の子を呼ぶ、つまり、売春斡旋をしていたのである。
料金は、700バーツ。

円高で、1バーツが、25円である。
以前は、30円。
つまり、四分の三の値段に下がったのである。

1000バーツが、2500円である。

私たちには、料金が安くなることは、助かるが・・・

しかし、それを詳しく書くことは、一つの情報になるため、極力、書かないようにしたい。

さて、森の孤児施設を後にした。
さようなら・・・
バイバイ・・・
またね・・・

次ぎは、もっと、ゆっくりして、子供たちと、触れ合いたいと、思うのである。
ここは、三度目の訪問である。

posted by 天山 at 06:38| 孤児たちを訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月27日

孤児たちを訪ねて3

次に向かったのは、国境の川の前にある、自由戦士の碑である。

三名の日本人の若者が、カレン同盟と、ミャンマー国軍と戦い命を落とした。
その、慰霊碑である。
その碑の前で、慰霊の儀を執り行い、そして、戦いのあった、川沿いに出た。

川から砂を採取している。
以前より、大分、整っていた。

辻さんは、初めてで、その国境が目の前にあることに、感激していた。

乾季の時期は、川を歩いて渡れるとのこと。
ここから、難民が、タイ側に逃れるのである。

ミャンマー側の町は、ミャワディーという。
観光客用に、整えられてある町である。

一度も、入ることが、出来なかった。
封鎖されているからである。ミャンマー政府が封鎖を解かないのである。

政権は、民主移行したというが、まだまだ、それは、不十分である。
民主化を進める、政治犯が、何千人も、牢獄に入れられているのが、現状である。

まず、その開放が先決である。

さて、私たちは、また町に戻ることにした。
そして、難民を無料で、治療している、メータオクリニックに向かう。

私は、三度目の訪問である。

驚くのは、来るたびに、その敷地、建物が、増えていることである。
最初から見ると、三倍以上に、広くなっていた。

広倉さん、曰く、タイ人の貧しい人たちも、来ている、とのこと。

私たちは、入院病棟に向かった。
何と、何もなかった、体育館のような場所に、ベッドが入っていた。
どこかからの、支援であろう。

更に、患者数も増えている。
ベッドの下にも、患者がいる。

早速支援を開始する。
私は、まず、タオル類を取り出して、患者さんたちに、渡した。
ここでは、タオル類は、貴重品である。

おおよそ、タオルを渡して、次は、衣服である。
辻さんは、女性物と、女性の生理用品を、配っていた。

着の身着のままの、患者さんたち。
どんな思いで、入院しているのか・・・

気の毒である。

タイ政府は、ミャンマーが民主移行したので、難民を返すことにしたが、それは無理である。
彼らが国に、戻っても、元の木阿弥である。
つまり、仕事など無い。
更に、政府による、差別が待っている。

還りたくないし、帰りたくないのである。

難民は、受け入れる国を探す。
多くは、アメリカを希望するという。しかし、本当は、日本を目指している。が、日本は、審査が実に、厳しいのである。

タイの、難民キャンプで、選ばれても、三ヶ月の研修期間と、様子を見る期間がある。そして、選ばれると、また、研修である。
更に、日本に来ると、また、様々な研修を受ける。

その対応は、正しい。しかし、彼らの現状を見ると、日本の審査は、厳し過ぎるのである。

昨年は、90名を、受け入れたが、30名だけが、長野県の松本市が、受け入れただけである。他の、都道府県の、市町村は、受け入れを表明しない。

過疎の村、町が積極的に、受け入れることを、希望する。
彼らは、農業に、熱意があるから、過疎の町や村では、とてもよい、日本国民になる可能性が、ある。

クリニックでは、子供たちが、日曜日で、いなかった。
クリニック内の学校が、休みなのである。

それが、幸いした。
子供の物が、限られていたからである。

ただ、幼児たちがいた。
彼らに、ぬいぐるみや、文具を渡した。

クリニック内で、生活している人たちもいる。
その人たちにも、衣類の支援をする。

言葉は、通じない。
英語も駄目。
だが、心は、通じる。

おばさんは、どこの国も同じで、それ欲しい・・・
誰に必要・・・
それも、誰に必要・・・
人の分まで、受け取るのである。

私は、そういう、おばさんたちにも、欲しいというものを、差し上げる。
彼らは、決して独り占めしない。必ず、必要な人たちに、渡すと、知っている。

貧しい人たちは、助け合うのである。

実に、清清しい。
誰かに、渡すと、誰かに、届くのである。
そんな所で、独り占めしても、せん無いことなのである。

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2011年10月28日

孤児たちを訪ねて4

次に向かうのは、初めての、施設である。
どのような、状態なのかを、知らない。

矢張り、道々を辿り、ようやく着く。
そこは、孤児施設であり、丁度、子供たちが、教会に出ているので、子供は、少なかった。ここも、キリスト教系なのである。

私は、衣類を少し出して、留守約の人に、尋ねた。
この大きさで、いてですか
はい、丁度いいです

そこで、床に、衣類を広げて、置いた。
更に、幼児、赤ん坊を見て周り、必要なものを、その横に、置いてゆく。

歓迎の水が、出された。
その時、広倉さんが、お菓子があれば、それを、置いてくださいと、言うので、お菓子の箱を、持ち出して、皿の上に、小分けにして、置いた。

慈善事業は、キリスト教の、得意技である。
矢張り、教会が、関わっていたのである。

しかし、そんなことは、私には、どうでもいいこと。
兎に角、子供たちに、衣服を渡すことが出来れば、いいのである。

十個ほどの更に、お菓子を分けて、置いた。

そして、留守約の少女に、また、来ますからと、言って、次の場所に向かう。

ちなみに、その施設には、幼児もいた。
何人か、寝ていた。
その横に、サイズの合うものを、置いた。

しかし、このような、ミャンマー難民の孤児施設が、58程あると、案内のお母さんが言う。

こんな状態を、作る、ミャンマーという国を、再度、確認した。

その責任者たちも、教会で出ていて、逢うことが、出来なかったが、時間がないので、次ぎに向うことにした。

次の施設は、学校である。
そう、以前に、出会った、学校である。
何も、支援するものがなかったので、今度は、衣類を持ってきますと、校長に言った、学校である。
しかし、学校と言っても、矢張り、子供たちは、寝泊りしている。
孤児院である。



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2011年10月29日

孤児たちを訪ねて5

新しい、孤児施設に向かう。
新しいとは、初めてという意味である。

街中の、また、複雑な道を行く。
そこには、幼児から、中学生までいると、お母さんが言う。

更に、驚くべき事は、そのような施設が58もあるというのだ。
それだけ、難民の孤児が多いということ・・・

一件の家の前に着いた。
扉が開け放たれている。
中には、幼児たちがいた。

矢張り、指導者たちは、教会に出掛けていた。
留守の人たちが、迎えてくれた。

大人の世話役がいた。
初めての挨拶である。

小さな子供たちの衣類が、欲しいとのこと。
私たちは、まず、そこにいる幼児たちに合うものを、選んで、差し上げた。

だが、教会に出かけている子供たちは、少し大きいと言うので、テーブルの上に、衣類を置いた。

それを確認して貰う。
すると、私たちに、水をご馳走してくれる。

広倉さんが、ここにもお菓子をと、促すので、お菓子の缶から、皿に小分けにして、盛り付けた。
辻さんが、手早くやる。

留守役の女性に、また、来ますと、挨拶し、また、車を走らせる。

私は、ゴミ山に住む人たちに、支援したいと言うと、お母さんが、それでは、親がそこに住んでいる子供たちの学校に行きましょうと、言うので、従った。
着いてみると、あれっ、前回支援物資が無くなり、差し上げられなかった、学校である。

子供たちが、机に向かって、英語の勉強をしていた。
お母さんが、気を利かせて、連絡をしたのか、私たちが到着するのを、待っていたようで、あちらの先生が、私たちの訪問の様子を写真に撮っている。

特に、英語教育に力を入れているのか、子供たちも、英語を話すので、助かった。

男児と、女児に別れて、衣類を手渡すが、全員に差し上げるものが、すでに限られていた。
日本には、あれほど、溢れるように衣類があるのに・・・

衣類を上げた子、文具を上げた子・・・
しかし、誰も、不満そうではない。
それだけでも、嬉しいのだ。

そして、お菓子である。
一缶を用意して、良かった。

机の上の皿に、お菓子をのせて行く。
全員に配ることが出来た。

先生は、二人で男女である。
まだ、若い二人。そして、校長である。

私は、子供たちに挨拶した。
今日から、私と、皆さんは、ベストフレンドです。
それに今日は、歌のプレゼントをします。
日本の、シンガー、辻友子さんの歌を聴いてください。

さくらさくらを、辻さんが、丁寧に歌う。
その響きが、家全体を覆う。

生の歌声など、聴いたことがないのだろう。
子供たちは、じっと、聞き耳を立てている。
静か・・・・
歌声が響く。

歌い終えると、どころからともなく、さくらさくら、と、聞える。
子供たちは、最初のメロディーを覚えたようである。

私が、お別れの言葉を言うと、女性の先生が、英語で、私たちのために、飲み物と、少しのフルーツを用意しましたというで、しばし、休憩することにした。

その間に、色々と、写真を撮る。
ここには、また、来なければならないと、思った。

必要なものは、文具である。
よく学ぶ子供たちだから、ノートとペンである。
そして、出来れば、靴である。

ちなみに、こちらの先生たちも、難民である。
そして、寝泊りして、無給である。
子供たちも、ここに寝泊りしている。

支援がなければ、成り立たない状況である。
お金・・・
それも、必要である。

子供たちとは、英語で話す事が出来た。

難民、孤児、貧困の中でも、学ぶこと・・・それが、必ず実る時が来る事を、祈る。
子供たちは、ある年齢になると、そこを出なければならない。
それからが、大変である。

私の中に、ある考えが次第に芽生えはじめた。
それは、実現してから、書く。

歌に感動してか、辻さんの傍に、子供たちが集う。
英語で、しっかりと、辻さんに、話しをするので、見事な教育をしていると、感じた。

次に来た時は、もっと、時間を作り、子供たちと触れ合い、いろいろな事を、聞いてみたいと、思う。

posted by 天山 at 08:57| 孤児たちを訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月30日

孤児たちを訪ねて6

孤児たちの施設と、孤児たちの学校、病院を回り、すべてを終えた時間は、五時間を過ぎていた。

ホテルから出て、昼の三時近く、漸く、レストランに着いた。
毎回、中華レストランで、会食をする。

中野さんのお孫さんに運転して貰い、そのお母さんに、通訳と道案内を、そして、広倉さんと、その娘さんの手伝いで、このように無事に終えた。
この方々の、協力によって、誰も出来ない支援をすることが、出来た。

さて、現在の、ミャンマー政権は、軍事政権から民主化へと、歩みだしたとの、姿勢であるが、まだまだ、民主化は遠い。

政治犯の釈放を謳うが、一度釈放して、再度、逮捕するということも、十分に考えられる。単なる、パフォーマンスの場合、多々あり。
信じられないのは、ミャンマーの学校教育である。

何と、子供たちに、自習をさせている。
つまり、何も、教えていない。
お金のある子供は、先生の所に行き、学ぶと言う。
つまり、塾のような形である。

愚民化政策であろう。

更に、少数民族に対する、対応は、変わらない。
差別と、行政の支援が無い。

少数民族は、今、結束して、国と対峙する。
所により、国軍と、内戦状態にある。

国民を平等に扱わない限り、それは、続く。

更に、難民問題である。
タイ政府は、難民、移民のミャンマーへの送還を計画している。
だが、無理であろうと、思う。

暮らしを立てて行けない国に、戻る人がいるか・・・

200万人以上の、ミャンマー人が、タイ国内に存在する。
このところ、人攫いが横行していると、広倉さんが、教えてくれた。

ミャンマー人の子供をさらい、物乞いにして、金を得る、組織があるという。

これは、インドなどでも、問題になっている。
インドでは、更に、子供に怪我をさせて、人の哀れを誘うという。
非人道的な行為が、行われているのである。

足を折ったり、腕を切り落としたり・・・

私たちは、この後で、カンボジア流民の支援をする、計画だったが、今までの、様子と違うことに、違和感を覚えた。
それは、また、後で書く。

さて、メーソートには、何度も足を運ぶつもりであるが、来年の予定は、立てていない。
出来れば、一年後と思うが、回る国が多い。

今年の最後は、矢張り、ミャンマー国境の町、メーサイに出掛けて、ミャンマー側のタチレクに入る予定である。
タイ国境から、ミャンマーに入れるのは、そこが、唯一である。

六人の食事は、日本語、英語、タイ語、そして、カレン語と、華やかな言葉である。
ここで、私たちは、食べ過ぎて、夜の食事が出来なかったほど。

最後に、残った物を、広倉さんが、テイクアウトしてくれたので、ありがたい。
食べ物を残すのは、身に沁みて、辛い私である。

この、食べ物のために、体を売る人たちもいる。

食べるために・・・

日本では、考えられない状況下にある人たち・・・

食べ物のために、泣き、笑う人生がある。
決して、粗末にしては、いけないもの、それが、食べ物である。

私たちは、明日の一日を、休んで過ごすことにしていた。
それを、広倉さんに言うと、車で一時間の所に、温泉がありますよと、誘ってくれたが、私は、温泉に入ったら、倒れてしまいますと、断った。

実際、本当に疲れるのだ。
手渡すという行為は、一人一人に、心を配るのである。
だから、疲れる。勿論、楽しい疲れであるが、体は、矢張り、辛い。

私は、医者から、臀部の痛みは、使い過ぎと、言われている。
それが、腰までに至ると、ヘルニアになるとも、言われた。

注意、注意である。
まだ、活動を続けるために、無理は、禁物。

皆さんに、深くお礼を言い、ホテルに戻る。
初めての、辻さんも、感激と、疲労で、力が出ないようだ。
兎に角、休むに限る。

広倉さんと、運転のお孫さんは、また、帰りの空港まで、送って下さるということで、別れた。

ホテルの部屋に入り、シャワーを浴びて、一安心。

果物が、食べたい。
タイでは、果物が美味しい。
スイカ、パイナップル、バナナ、マンゴー・・・
そして、年中、とうもろこしが、食べられる。

でも、遅い昼食で、満腹で、もう何も入らない。

兎に角、安全、無事に、するべきことを終えた安堵感である。
辻さんも、部屋から、出て来なかった。


posted by 天山 at 01:04| 孤児たちを訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月31日

孤児たちを訪ねて7

日本とタイの時差は、二時間。
タイの方が、早い。

朝起きるのは、五時、つまり、日本時間の、七時である。
バンコクならば、もう、この頃から、皆さんが動き始めているが、メーソートは、田舎であるから、遅い。

ただ、ホテル並びの食堂は、朝の六時から開店している。
でも、すぐに、食べる気がしない。

空のなったバッグの整理をする。
一つのバッグに、五個のバッグを縮めて、入れる。
行きは、大変だが、帰りは、楽々である。

食事は、八時と決めている。
コータと二人の時は、それぞれ。
今回は、辻さんが一緒なので、予定めいたことを決めるという・・・

その日、一日は、休息の日。
ただ、ぼりやりとして、休む。

八時になり、食事に向かう。
三人は、疲れていた。
それでも、話題は、明るい。

明日は、ホテルを朝の11時に出発して、バンコクへ。
それだけ、確認して、後は、思うままに、会話する。

辻さんにとっては、念願のメーソートだった。
一度、孤児たちの逢いたいと、言っていた。
そして、その現状を見た。
感激と、悲しみと、切なさと、そして、希望を持った。

森の中の、子供たちの服装は、私たちが、差し上げたもので、変わった。

三度の支援で、ようやく、あの程度である。
持続した、支援が必要である。

昼食は、それぞれ自由にした。
兎に角、私は、部屋で休む。

辻さんには、折角だから、町を歩いたらいいと、アドバイスならぬ、お勧めである。

私たちの、泊まるホテルにも、住み込みのベッドメークの女性三名が、ミャンマー人であった。
まだ、若い娘である。
仕事が見つかったことが、良かった。

辻さんの提案で、その三人にも、何か差し上げることにした。
辻さんが、一つの袋を部屋に置き忘れたので、それが、役立った。
皆、女性用である。

そこから、タオルと、ハンカチなどを見つけて、ベッドメークの際に、部屋に呼んだ。
一人の女の子だけが、英語が出来たので、話す事が出来た。

三人が、揃って、私は、差し上げるものを、ベッドに広げた。
好きなものを、プレゼントします・・・
すると、すべて、彼女たちは、受け取った。

手を合わせて、感謝する。
私も、同じように、手を合わせて、タイ式の挨拶をした。

また、ここに来ます・・・
また、逢いましょう・・・

実は、このホテルの料金が、半額程度の値段になり、私たちは、驚いていた。
ホテルの路線を変えたのか・・・

ラブホテル替わりにも、使用出来る・・・料金・・・
それは、夜確認している。

何せ、一泊、280バーツである。
以前は、その倍だった。

そこで、コータが、調べた。
何と、ホテルの前に、売春斡旋の店があったのだ。
全く、気づかない。

だが、夜になると、暗がりの中に女が立つという。
そして、話しかけると、売春であった。

その他に、ホテルに依頼しても、ミャンマー人の、若い女の子を斡旋するという。

昼、私は、朝と同じ、食堂へ、コータと、辻さんは、おしゃれなイタリアンへ・・・

その後、私は、市場を歩いた。
何も買うものがないが、ただ、見て歩くだけで、楽しい。

生きたまま、売られるカエル、蛇、鶏・・・
鳩の子供の、丸揚げ・・・
ブタは、すべての部分を食べるようで、全部、並べて売られる。

兎に角、食文化の違いを、見て回る。

夜の食事で、それぞれの一日を話す。
この町は、臭いということになった。
黴臭いのである。

確かに、カビの匂いがする。
更に、ホテルのベッドも、黴臭いのである。

あの行為だけなら、一ニ時間で、終わるし・・・ね
でも、安いから、いい。
とは、私。

700円程度の部屋であるから、とても、安い。
この旅日記は、タイで考えたことと、題して、まだ、続ける。

posted by 天山 at 06:34| 孤児たちを訪ねて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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