2011年10月15日

もののあわれについて。535

大学に参り給ふ日は、寮門に、上達部の御車ども数知らずつどひたり。おほかた世に残りたる、あらじと見えたるに、またなくてもてかしづかれて、つくろはれ入り給へる冠者の君の御さま、げにかかる交らひには堪へず、あてにうつくしげなり。例のあやしき者どもの立ちまじりつつ来いたる座の末を、からしと思すぞ、いとことわりなるや。ここにても、またおろしののしる者どもありて、めざましけれど、すこしも臆せず読み果て給ひつ。




大学に上がる日は、正門に、上達部の車が何台も、数え切れないほど、集まっていた。来ないでいる人は、いないと思われたが、特別に大事にされて、装束を整えてもらい、入られる、冠者の君の姿は、まことに、このような生活は、気の毒なほど上品で、可愛らしいと感じる。例の、みすぼらしい者たちが集まり、その座の末に座るのを、辛いと思うのも、無理は無い。

大学では、年齢により、座が決まる。
夕霧は、最年少の12歳であるから、末席である。
それが、辛いと、作者が言う。

本来、学生は、13歳以上16歳以下である。




昔おぼえて大学の栄ゆる頃なれば、上中下の人、われもわれもとこの道に志し集まれば、いよいよ世の中に、才ありはかばかしき人多くなむありける。文人擬生などいふなる事どもよりうちはじめ、すがすがしうはて給へれば、ひとへに心に入れて、師も弟子もいとどはげみまし給ふ。殿にも文づくりしげく、博士才人ども所えたり。すべて何事につけても、道々の人の才の程、あらはるる世になむありける。




昔が、思い出されるほどに、大学の盛んな頃なので、身分の上下を問わず、我も我もと、この道を希望する。益々、世の中には、有能で仕事の出来る人が多いのだ。
文人擬生などとかいう試験をはじめ、すらすらと合格するので、ひたすら学問に打ち込んで、先生も、弟子も、一層の努力をする。お邸でも、作文の会が、度々あり、博士や、才人たちも、得意だった。すべて、何事につけても、それぞれの道に努める人の、才能が発揮される時代である。

文人は、式部省の試験に合格したもの。
擬文章生は、大学寮の試験に合格したもので、文人擬生、もんにしぎよう、と言う。






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2011年10月16日

もののあわれについて。536

かくて后居給ふべきを、「斎宮の女御をこそは、母宮も、御後見と譲り聞え給ひしかば」と、おとどもことづけ給ふ。源氏のうちしきり后に居給はむこと、世の人許し聞えず。「弘薇殿の、まづ人より先に参り給ひしにも如何」など、うちうちに、こなたかなたに心よせ聞ゆる人々、おぼつかながり聞ゆ。兵部卿の宮と聞えしは、今は式部卿にて、この御時にはましてやむごとなき御えぼえにておはする、御むすめ、ほいありて参り給へり。同じごと王女御にて侍ひ給ふを、「同じくは、御母方にて親しくおはすべきにこそ、母后のおはしまさぬ御かはりの後見にことよせて、似つかはしかるべく」と、とりどりに思し争ひたれど、なほ梅壺い給ひぬ。御さいはひの、かく引きかへすぐれ給へりけるを、世の人おどろき聞ゆ。




もはや、后に立つ儀があるはず。源氏は、斎宮の女御は、母宮も、陛下のお世話役にと、おっしゃっていたことだから、と、母宮のご遺言だと、主張される。
源氏から引き続き、皇后に立つことは、世間が賛成しない。
弘薇殿の女御が、誰よりも先に入内されたのは、何故だろう、などと、こちら側、あちら側に付く人々が、気を揉む。
兵部卿と申した方は、今は、式部卿で、今上の御代には、今まで以上にご信任が厚いのだが、その姫様が、望み叶い、入内された。
同様に、王女御として、お仕えしているが、同じ皇族なら、お母様の血筋で、今上に親しいはずの、こちらのほうに。お母様が、おいでにならない代わりの、お世話役ということで、よいと、それぞれに、競争される。だが、結局、梅壺が后になられた。
幸福が、お母様に打って変わって、優れていることを、皆が、驚くのである。

斎宮の女御とは、六条御息所の娘。
母宮とは、今上の母宮で、藤壺のこと。
式部卿とは、紫の上の父であり、藤壺の兄である。
梅壺が、入内したとは、その母、六条の御息所より、幸せだと、人が言うのである。




おとど、太政大臣にあがり給ひて、大将、内大臣になり給ひぬ。世の中の事どもまつりごち給ふべく、ゆづり聞え給ふ。人がらいとすくよかに、きらきらしくて、心もちいなども賢くものし給ふ。学問をたててし給ひければ、韻ふたぎには負け給ひしかど、おほやけ事にかしこくなむ。




殿様、源氏は、太政大臣になられた。大将は、内大臣になられた。
国政の実務を、処理されるように、内大臣に譲られる。内大臣は、性格が真面目で、きらきらしくて、心遣いなども、賢いのである。学問を熱心にやって、韻ふたぎには、負けたが、公の仕事、つまり、公務には、立派である。

大将だった、源氏が、太政大臣になり、その大将の位置を、内大臣に譲る。
その、内大臣の家族関係を、次に描いている。

きらきらしく
今で言えば、派手にしていた、と、なる。
きらきら、とは、輝くようなという意味でもある。現在も、そのように使われる。




腹々に御子ども十余人、おとなびつつものし給ふも、つぎつぎになり出でつつ、おとらずさかえたる御いへの内なり。女は女御と今一所となむおはしける。わかんどほり腹にて、あてなる筋はおとるまじけれど、その母君、按察使の大納言の北の方になりて、さしむかへる子どもの数多くなりて、それにまぜてのちの親にゆづらむ、いとあいなし、とて、とり放ち聞え給ひて、大宮にぞあづけ聞え給へりける。女御には、こよなく思ひおとし聞え給へれど、人がら容貌など、いとうつくしくぞおはしける。




幾人もの、妻妾に、お子様が、十数人、順々に成人していたが、次から次と、立身して、負けず劣らず、栄えている一族である。
女は、女御と、もう一人いらっしゃる。王族の方を母として、血統の点では、負けないはずなのだが、そのお母様が、あぜち大納言の北の方になり、今度の子供の数多くなり、そのお子様たちと、一緒にして、大納言に任せてはならないと、引き離し、おばあ様の、大宮に預けたのである。
女御より、軽く扱うが、人柄や、容貌などは、大変可愛らしくしていらした。





冠者の君ひとつにて生ひ出で給ひしかど、おのおの十にあまり給ひて後は、御方異にて、むつまじき人なれど、男子にはうちとくまじきものなり、と父おとど聞え給ひて、け遠くなりにたるを、をさなごこちに思ふ事なきにしもあらねば、はかなき紅葉につけても、雛遊びの追従をも、ねんごろにまつはれありきて、心ざしを見え聞え給へば、いみじう思ひ交して、けざやかには今も恥ぢ聞え給はず。御後見どもも、何かは、若き御心どちなれば、年ごろ見ならひ給へる御あはひを、にはかにも、いかがはもて離れはしたなめ聞えむ、と見るに、女君こそ何心なく幼くおはすれど、男は、さこそものげなき程と見聞ゆれ、おほけなくいかなる御中らひにかありけむ。よそよそになりては、これをぞ静心なく思ふべき。まだ片生なる手のおひさきうつくしきにて、書きかはし給へる文どもの、心幼くて、おのづから落ち散る折あるを、御方の人々は、ほのぼの知れるもありけれど、何かは、かくこそと誰にも聞えむ、見隠しつつあるなるべし。




冠者の君、つまり、夕霧の君は、同じ邸で、成長したが、どちらも十歳以上になってからは、部屋は別々で、親しい親類であるが、男の子には、仲良くするものではない、と父の内大臣が教えて、離れ離れに暮らしている。だが、子供心に、慕わしく思うこともないではない。何事もない、花や、紅葉につけて、人形遊びのご機嫌とりも、心から共にし、心の有様を、見せるもので、すっかりと、愛し合い、姫は、今も恥ずかしこともない。
お世話役たちも、小さな者同士なのだから、長年に渡り親しくしている関係を、急に離して、決まりの悪い思いをさせずともよいと、思っている。女君の方は、無邪気で、子供でいるが、男の方は、あんな子供と見ていたのに、小さいが、二人の間柄がどのようになったのか、と。
住まいが、別々になってからは、逢えないのが、気がかりでは、ないようである。
まだ、未熟ながら、将来の思われる可愛らしい筆跡で、やり取りされた、手紙も、子供だから、つい落として、人手に渡ったりし、姫君付きの女房たちは、大体察している者もあるが、どうして、このようなことを、どなたに申し上げようか。
知っていても、隠しているでしょう。

姫は、雲居雁のこと。
最後は、作者の言葉。

おほけなく いかなる御中らひにか ありけむ
身分不相応に、年に似ず・・・

静心 しずこころなく
騒ぐ心。この際は、逢えないことに、心騒ぐ。


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2011年10月17日

霊学36

基本的な点では、みんな同じだということが、それぞれの自己愛をみたすポイントについては幻想ではなくなっています。そしてこの自己愛満足度が拡大して意識されるためにみんな同じだ、という平等幻想がもてる社会になっています。
小此木

日本の社会は、確かに、人々の平均化と、画一化が、進んでいる。
それが、顕著だったのが、バブル前から、その間である。

自己愛の、傷つきを、感じないで、生きられる時代。
そのように、小此木氏は、解釈し、分析する。

平等幻想・・・
端的に言えば、運動会では、一等はなし。皆、ゴールしたということで、終わるというもの。

ところが、矛盾しているのは、誰もが、同じ大学に入ることは、出来ない。
そこで、平等に、好きな大学に、入学させろ、とは、言わないのである。

親が、平等幻想に、侵されている。そして、子供たちが、その犠牲になるのである。

さて、
どこかで自己像を限定しなければ、自分に対するナルシシスティックな感情は無限に広がるわけです。
と、小此木氏は言う。

それは、何が、自分なのか、という、自己の描き方によって、自我感情の満足が得られるかどうか、違ってくる。
何が、自分なのか・・・

それを、
自己定義とか自己限定を自分にするということを意味します。
小此木

そして、
現代人の自己限定は、アイデンティティに結びつくような社会性をもった自己定義ではありません。
と、言う。

つまり、モラトリアム人間は、もっと、パーソナルなレベルで、それぞれの自己愛を満たす、人生設計を立てる。

モラトリアム人間は、天下、国家、思想・イデオロギーの自己選択という大きな視点からみればその選択にもとづく自己定義ないしは契約についてモラトリアム(猶予期間)を提供されているのですが、そこのところを棚上げしたところで身近なパーソナルな面では、自分を限定することで適応がいいわけです。
小此木

それは、アイデンティティは、確立していなが、それに代わるものとして、自己中心的な自己愛の限定を、行っているということ。

これは、社会の進化によるものなのか・・・策略なのか・・・

つまり、様々な、情報によって、自己愛の満たし方を、教えられている、時代。

私たちが何によって情報を得て自分の芳心や考え方をもつようになるかというと、マスコミの役割が大きいです。
小此木

それは、非常に、画一的になっている。
それによって、皆と、同じ、という、平等感覚が、安心感を与える。

こういう、社会の中にあって、果たして、危機意識、危機感というものが、持てるのか・・・
いや、持たなくてもいいと、情報は、教える。

それは、情報操作、情報調整・・・なのか。
皆が、共有しなければ、ならないと、決める、決められた、ことか・・・

たとえば国外から一つの思想が伝えられる。或いは国内に一つの思想的文学的意味をもった事件が起こる。何かの拍子でそれがジャーナリズムの上に拡大されると、忽ち百千の見解があらわれて流行現象に化す。流行現象とは濫用のことです。
亀井勝一郎

その、濫用を、平等と、思い込むということである。

そして思想とか事件そのものの本質は、忽ち見失われるという状態は、度々経験することでしょう。ジャーナリズムは、その本質上、必ず超拡大再生産による異常伝達力を志すものです。つまりセンセーショナルがその固有の性格で、これにかかったら最後、いかに深遠な思想でも微妙な事件も、骸骨のように露骨化されてしまう。そして異常伝達力による濫用は、必然に一切を単純化する傾向をもつ。単純化せずしてはこの種の濫用は不可能なのです。
亀井

誰もが、解るということは、必要なことである。
しかし、ある程度の人のみ、解るものということも、必要である。

そこに、身の程という、分別を持つ。
日本人の、アイデンティティを言うなら、この、分別という言葉が、しっくりと、くる。

深遠な思想、微妙な事件・・・
それも、単純化して、濫用する。

ベストセラーに付きまとう、モノである。
流行ものに、付きまとう、モノである。

ジャーナリズムは節度を破壊します。破壊するのが運命なのです。
亀井

では、マスコミ・・・同じこと。
それは、実は、人のアイデンティティを破壊して、成り立つ。いや、その手前で、破壊する。

お互い、同じ考えや、情報を語り合い・・・
同じであることを、確認しあって、成り立つ関係・・・

それを、アイデンティティと、錯覚した、日本人がいる。
妖怪のような、人間の集団とも、いえる。
そこに、気概など、生まれるはずもない。

例えれば、ある宗教団体の中にいる、一人・・・
そこでは、信仰の対象を共に、奉じて、共感することで、成り立つ、関係がある。
個性などは、持っての他である。

集団に埋もれて、幸運を感じる人。

ぬるま湯に浸かる、人間関係である。
実に、薄気味の悪い関係と、アイデンティティがある。

だが、社会全体が、そのようであったら・・・


posted by 天山 at 00:55| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月18日

霊学37

同じ自己愛の満足でも、アイデンティティを全うすることによる自己愛の満足は、そのアイデンティティにふさわしい社会的役割を達成しなければ得ることができません。ですから、その場合の自己愛の満足は、現実性をもちアイデンティティをともにする人々との間での社会性を持っていました。ところが、現代人の裸の自己愛の満足は、自己愛のもつ幻想性をそのままあらわしています。またこの幻想性が、マスコミや消費生活で商品化されるのに都合がよい心理的な条件になっています。
小此木

自己愛は、社会的な自己のあり方が、曖昧になり、不確かなものになれば、なるほど、人は、パーソナルな自己愛の幻想的な、満足を、その代わりにする。

それが、現代人の、特徴だと、言うのである。

パーソナルな自己愛の、幻想的満足・・・

これは、危ういことである。
今も、この状態が、続いているのか・・・

つまり、現代の自己愛の特徴は、非常に主観的で、幻想的な満足に基づいているといえます。一人でコンピューターゲームを楽しむ、カタログ販売で自分の欲しいものを選ぶ、テレビを見るなどによってみたす自己愛は、一人っきりでみたせる自己愛です。
小此木

小此木氏の、提案は、また、分析は、人に愛されたり、社会的役割を果たすことによる、自己愛満足に比べて、もっと、主観的で、幻想的なものだと、言う。

別な言葉で、言えば、自己疎外である。
健康な自己愛ではない。

アイデンティティ、自我理想型の自己愛の、満たし方のシステムが、破綻した時代。

かつて、時代は、国家などによる、様々な集団が、人々の、自己愛を、搾取し、人間的な欲望を強制した時期があった。
だが、現代は、その代わりに、パーソナルな自己愛満足を、消費生活の中で、限りなく繁樹され、搾取され、その満足に、中毒して、依存しているとの、分析である。

別な言葉で、言えば、馬鹿になったということである。

ですから現代社会が提供する理想自己に飽き足らず、今なお真剣に自己実現を求めるような人物は不適応に陥ります。
小此木

更には、落ちこぼれ・・・
そして、社会的、無名化である。

それでは、小此木氏が、真っ当だという、自己愛は、
たとえばかつてのアイデンティティ社会には、歴史的社会的に一定の役割があって、その役割を果たすと歴史・社会が評価してくれて、歴史的・社会的な自己愛がみたされるという構造が、人間の健康な自己愛を維持するために確立していました。それに伴って、社会には一定の枠組みがあり、確固たる価値観があり、その中で人間の自己愛が安定してみたされていたわけです。
と、言うのである。

そして、当時の、日本社会を、
わが国社会の現実をみると、決して本当の平等社会でないし、差別構造もなくなっていない現実が存在している事実を指摘しているのです。イリュージョンの中にいるので、そのことが感じられなくなったり、みえなくなったりしているのです。国際社会をみれば、わが日本社会の現実はもっと厳しいものがあります。
と、言う。

今も、そうである。
しかし、イリュージョンの中に浸っているので、感じない、見えない、いや、感じようとしない、見ようとしないのである。

つまり、自己愛を保つためには、現実否認することが絶対的条件なのです。
小此木

だが、しかし、時代は、変化、変容するのである。

戦後の日本人はこれまでは、理想自己に一致するような現実をつくり出すために大変な努力をしてきました。それが生産性であり、技術力です。しかし、そういう仕組みが崩れたとき、幻想的な自己愛をみたすことができなくなって、これまで未解決だった恐ろしいものに直接ぶつかると、とても危険なことになります。
小此木

そして、そのように、なった。
東日本大震災と、原発事故である。

特に、原発事故は、大きな衝撃を、日本中に与えた。
すぐさま、反原発、脱原発の動きである。
それは、とても、性急なものになった。
次ぎの手を考えないうちに、原発をすべて、止めてしまうという、恐ろしい決定である。

車は、急に止まれない・・・のである。
しかし、急に止めようとする。
そうすると、すべてが、停止する。
その停止は、死活問題である。

現実を知らない、政治家が、決める。
そして、国民も、答えを出せないまま・・・曖昧模糊・・・として、狂うのである。

小此木氏は、ここで、突然、死という、現実を、持ち出して、分析のまとめを、する。
つまり、死は、そのイリュージョンの中にいて、ぬくぬくとしている、存在に、目を覚まさせるものだと、言う。

そして、この、死に方が、臨床上の仕事になってきたと・・・

ところが今やアイデンティティを失った現代人は、死に対するこれらの対応力も一緒に失ってしまいました。
小此木

死は、人間の持つ、全能感覚を破壊する、決定的な、リアリティとなる。

受動的な死以外を、考えられない、人たち。
能動的で、主体的な、死を、考えられなくなったのである。

裸の自己愛のままの受身的な死に方なのです。
小此木

posted by 天山 at 07:12| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月19日

霊学38

自己愛パーソナリティとは、何か・・・
小此木氏の、解説から、紹介する。

まず第一に、
自分についての誇大感―――自己誇大感をもっている。
自分は、特別だ、自分は他人より、すぐれている。心の中に、人並みはずれて、素晴らしい理想的な自己像を持つ。

第二に、
理想的な自己像を、いつも現実化しようとする。限りない、成功も権力を獲得すること。
才能を発揮すること。より美しくなること、などの、理想の実現を、休み無く、追い求める。

第三に、
絶えず、周囲からの、称賛、賛美、好意、親切、特別扱いを得ようとする。

だが、それは、
自分の心の中の理想自己の実現にしか、関心がないために、自己愛パーソナリティの持ち主は、自分本位の一人合点、思い込みといった性格傾向をもっています。
小此木

第四に、
理想的な自分を持ち続けようという、気持ちが強いので、周囲からの、批判を受けたり、現実の自分が、うまくいかない場合、そのことに、無関心だったり、無視したり、否認したりする。

一般に自己愛パーソナリティの持ち主は、自分の失敗、誤り、周囲の悪評などについて、ひとたびそれを知ったり認めたりしてしまうと、自己愛がひどく傷つき、絶望的になったり、屈辱感や劣等感にさいなまれる。あるいはすべてが空しくなって、無気力状態に陥るということがあります。
小此木

第五に、
理想的な自分になるために、他の、あらゆる欲望、感情など、すべてを犠牲にしても、かまわないという、貪欲さがある。

ここで、小此木氏は、
犠牲にされる感情の中には、人と親密さを分け合うとか、誰かと愛し合うとか、日本流にいえば、義理人情の絆や付き合いを大切にすることも含めて考えてください。
と、言う。

ここで、現代に言われる、社会不適応という、症状の存在が、注目されていることである。
それが、高じると、社会不安障害という、病になることもある。

それは、理想化した自己像を、全く裏づけのない人が求める場合である。
それは、社会的に、大きな不適応を、きたしてしまう。

才能がないのに理想自己だけ大きい人物は、どこかで破綻して不適応を起こすために、世間から「おかしい」とすぐに見えてしまうわけです。
小此木

ここで、精神科医と、つながるのは、第四の形である。

激しい挫折感、屈辱感、怒りなどが、生じて、自分も、周囲も、対処できなくなる。また、抑うつ反応を示すことになる、場合である。

抑うつ反応が、特に多くなっている、時代である。
それが、単なる、心の風邪ではなく、上記の場合が、多々ある。
それは、また、社会が、そのようにしたとも、いえる。

誰もが、幸福になれるような、教育現場を見れば、解る。
差別することを、神経症のように、嫌う、父兄や教師たち・・・

それが、差別ではなく、区別であると、知らない。混同してしまう。
皆、一緒に、ゴールインということは、この人生に、決してありえないことである。

だが、それを、知らない。知らない振りをしているのか・・・

平等の思想の、誤った、解釈である。

最近多いのは、自己愛パーソナリティ型の登校拒否少年、少女や挫折・無気力型の青年、中高年になってからの破綻などです。
小此木

これは、今も、続いている。

とても、解りやすい説明をしている。
幻想的な理想自我があたかも本当であるかのような錯覚(イリュージョン)の中で学校に通っていたので、それなりに一生懸命やっていた。ところが、貧弱な現実の自分が突然眼に入る経験があって、イリュージョンから覚めてしまう。
小此木

そこには、勿論、親の育て方に、大きな問題があった。

錯覚の中で、挫折するというのは、平等社会という幻想の、特徴であるとも、いえる。

そうなるはずだった・・・と、言って、相談に来る人がいる。
そうならなかった・・・だから、絶望する。
しかし、健康な、絶望感は、違う。

私の考えが、甘かった・・・
やり直そう・・・

だが、やり直しが出来なくなり、無力感に、陥る。そして、抑うつ。
更に、抑うつ状態で、薬を処方されて、過ごしているうちに、時間が経つ。どんどんと、取り残されているという、絶望感が、更に、抑うつを酷くする。
そして、破綻、である。

自己幻想の中だけが、私であるという、病。

そして、それは、今、現在抱いていない人にも、訪れることがある。
中高年で、そうなった場合は、度し難いのである。

突然無気力になってしまったり、自宅にひきこもってしまったりする秘密は、自己愛をみたす回路の故障にあるのです。
小此木

だが、私は言う。
何故、霊学を書くために、このようなことを、紹介しているのか・・・

実は、この、状態に陥った人が、ある日、突如として、霊感や、霊能に、目覚めるという、場合がある。
勿論、それも、幻想なのである。

行き場所がなくなり、苦肉の策として、人の驚く、霊感や、霊能力という、おかしなものに、取り付かれる人たちである。

無気力や、絶望感に、陥り、抑うつで、虚無が支配する、心に、魔がさすのである。

だから、私は、心理学や、精神衛生、精神医学などを、俯瞰している。
そうでなければ、霊、つまり、思い、想念、思念などの、真っ当な、お話しは、できないのである。


posted by 天山 at 00:00| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月20日

霊学39

小此木氏の、自己愛人間を、見ているが、ここで、少し寄り道して、自我とも自己というものを、更に、詳しくしてみたい。

河合隼雄氏の、無意識の構造、から、拝借する。

人間の意識は自我を中心として、ある程度の統合性と安定性をもっているのだが、その安定性を崩してさえも、常にそれよりも高次の統合性へと志向する傾向が、人間の心の中に存在すると考えられるのである。
河合

この場合の、心の中とは、脳の中である。
何度も言うが、心理学で、言われる、心とは、脳の働きである。
いずれは、脳の働きに触れることになるが・・・

本人の意識がこのままの状態で安定してゆこうとしているとき、いわばヒステリーの症状まで、送り込んでくるような主体はいったいなになのかという疑問が生じてくる。これに対して、ユングは、人間の意識も無意識も含めた心の全体性に注目し、そのような心全体の統合の中心としての「自己」の存在を仮定するようになったのである。
河合

自己を、仮定したという。

一応、仮定である。

最も、ユングは、心の全体性という考えを、心の全体の中心としての、自己という明確な考えを持つのは、東洋の思想から、とても大きな影響を受けたのである。

仏教の、唯識などの、考え方は、心理学より、先に、進んでいたともいえるのである。

これは、一つの例である。

さて、西洋人は、意識を重視する。しかし、ユングは、無意識も、実に大切であり、大変なものであると、考える。

そして、ユングは、こう言う。
自己は心の全体性であり、また同時にその中心である。これは自我と一致するものではなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包含する。

その、無意識も、意識の下に、個人的無意識、そして、その下に、家族的無意識と、文化的無意識と共に、それらを、総称して、普遍的無意識として、認識した。

ユングは、分裂病、現在の統合失調症の患者から、ヒントを得たのである。

何故、彼らの妄想が、幼児期における経験と関連するコンプレックスなどによって、説明できないのだろうという、疑問からである。

これは、とても、重要なことだ。
知らないことは、現れないのではなく、無意識の世界に、保存されてあるという、発見である。

後に、霊というものも、この無意識と関わってくるのである。

それにしても、無、意識とは・・・
意識が、無い。

本来ならば、唯物系の人たちは、それを、否定してもよさそうなものだが、心理学といわれると、何となく、認めているという、不思議。

無い意識を、認める・・・という。

人も、無意識のうちに、してしまったと、平然として、言う。
それに、何の疑問も、持たないのである。

普遍的な無意識の説明のために、河合氏は、これを、書いている。

自己はユングの定義に従うかぎり、あくまでも無意識に存在していて、意識化することの不可能なものである。人間の自我はただ、自己のはたらきを意識化することができるだけである。このため、のちに示すように、われわれは自己をそのシンボルを通じてのみ知ることができると考えるのである。自己のシンボルの顕現は、人に深い感動を与え、それが宗教体験の基礎となると、ユングは述べている。そして、キリスト教や仏教におけるキリストや仏陀を、自己のシンボルとしてみることができると述べている。
河合

つまり、信仰は、その人の心の中にある、そのもの、なのである。
外に、出会うのではなく、内に出会うのであり、それは、自己の無意識にあるものなのだ、ということだ。

河合氏は、
心理療法家のところに、訪ねてくる人は、なんらかの悩みや問題を持っている人である。実際に、話しをお聞きすると、どうしてそんなことが起こったのだろうと思うほど、運の悪いときに運の悪いことが生じているのである。
と、言う。

そして、多くの場合、本人の責任は、あまり、問えないのである。
と、いうことである。

何気なく、書いているが、これは、重大なことである。

本人の責任は、あまり、問えない問題を、抱えている・・・

本人が、である。

昔の人は、二度あることは、三度あるなどと、言ったが、そのように、運の悪いことが、何度も、続くということがある。
本人の責任は、問えない。

河合氏は、アレンジメントと、言う。
誰が、アレンジメントしているのであろうか。

無意識・・・

個人の自我のほうから見るとまったくばかげていたり、避けたいことであったりすることも、自己のほうから見るときは、ひとつの巧妙なアレンジメントであると見えることは多い。われわれ心理療法家は、その両方の見方ができる人として、そこに存在している。
河合

そして、もっと面白いことに、ただ横に坐っているだけと思っていた、われわれ治療者自身も、そのアレンジメントの中にうまく組み込まれてしまって、右往左往させられていることに気づくことすら多いのである。自己というものは恐ろしいものである。
河合

自己というより、私は、河合氏の方が、恐ろしい。
随分と、素直な人である。
そして、その世界での、権威者でもある。

学者で、これほど、謙虚な人も、珍しい。

posted by 天山 at 00:03| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月21日

霊学40

無意識の世界を探索してゆくうえにおいて、われわれがイメージということを大切に考える。
河合

そして、シンボルである。
しかし、学者により、違いが大きい。

一般に心理学においては、内面を表すものとしての、イメージと、その逆に、外界の模像としての、イメージを考えることが多く、イメージを知覚対象にない場合に生じる視覚像と定義する。

イメージに対しては、実験心理学的な考え方と、無意識の心理学の考え方は、両極端を示す。
実際に、個々のイメージは、両者の中間にあり、内界、外界の両方からの、影響を受けて存在する。

臨床家としては、イメージを内界の表現として、考える立場であると、河合氏は、言う。

内界の表現としては、言語がある。だが、人間は、言語によらないときでも、表現しているのである。
それを、身体による表現、身体言語という。

言うに言われぬ思いが、身体によって、語られる場合があるということだ。

イメージは、その中間に位置するものだとのこと。
つまり、イメージ言語である。

日本人は、実に、この身体言語と、イメージ言語を深く追求した、民族であると、いえる。

これを語ると、長くなるので、先に進む。

イメージは単純な記憶像から、夢やヴィジョンにいたるまでいろいろとあるが、それはすべて本人の主観的体験であり、その人の報告に頼らないとなにも解らないのがその特徴である。そこで、その人の表現にまたねばならないが、それは言語に表現される場合と、絵などによって非言語的になされる場合とがある。
河合

そして、イメージとして、取り扱うものを、分類すると、
視覚像そのもの、それは、自分の主観的体験。
視覚像の表現、それは、言語による表現と、非言語的表現である。
外在化されたイメージである。

イメージを通して、人間の無意識の世界に接近してゆくのである。

イメージは、具体性、集約性、直接性、多義性などを有し、心的内容をわれわれに生き生きと伝えてくれるものである。
河合

ユングがイメージと概念とを比較して、前者は生命力をもつが明確さに欠け、後者はその逆になると述べているのは興味深い。われわれは概念をできるかぎり明確に規定し、それを操作して合理的思考を組み立ててゆくが、その背後に存在するイメージにも注目し、われわれの思考が生命力を失ったものにならぬようにしなければならない。
河合

さて、次は、シンボルである。
一般心理学では、シンボルを、なんらかの他の対象を代表しているもの、と、広く定義されているが、ユングは、シンボルを記号や標識と区別している。

ユングは、
言葉やイメージはそれが明白で直接的な意味以上の何ものかを包含しているときに、象徴的なのである。それはよりひろい「無意識」の側面を有しており、その側面はけっして正確に定義づけたり完全に説明したりされないものである。誰もそれを定義したり説明し切ろうと望むことはできない。人間の心が象徴の探求を始めると、それは理性の把握を超えた観念に導かれる。
と、言う。

シンボルは、言葉で、説明しきることの出来ない、何か、を表現する、もっとも適切なものとして、非常に高い意味を持つものだと、河合氏が、言う。

更に、また、心の意味を、完全に言語的に把握したと、思うとき、それは、シンボルできなくなっているとも。

イメージと、シンボルは、体験の言語化しがたい部分を、描き出す。
それゆえ、無意識の探求には、不可欠の素材なのである。

そして、臨床家たちは、それらを通じて、その特性を出来る限り、言語化し、意識化することに努めるが、それでも、尚、常に把握し残された部分のあることを、忘れないと、同時に、言語化を焦り過ぎて、それらのもつ生命力を奪わないことと、河合氏が言う。

実際、言語化を、焦り過ぎる者、多数であり、更に、人間を超越したかのような、専門家も、多数いる。

解らない、とは、言えない、言わないのである。

心理学のおおよその、理論を知るだけで、人の心の、分析が出来るのである。更に、あたかも、そのようであるかの如くに、分析するのである。

実に、恐ろしい、行為である。
自分が計った、計りで、あなたも、計られる・・・とは、聖書の主イエスの言葉である。
心理学を身につける者に、そのような馬鹿者が多い、事実。

ユングも、何度も、自身の、イメージと、シンボルの世界に、嵌り、狂う手前まで行く。壮絶な戦いをしたはずである。

私は、二十歳過ぎに、毎晩、毎晩、大海を泳ぐ夢を見た。
そして、必ず、目覚めて、その意味を探ろうとした。
心理学などの知識など、僅かな頃である。

そして、ある日、それが、無意識の世界であると、確信して、夢を見なくなった。

実に、恐ろしい思いをした。
我が内にある、無意識の世界を、見るという行為は、実に恐ろしいのである。
つかみ所がない。

無意識の世界に、溺れて死ぬ・・・
そんな思いに駆られた。

そして、生まれ持った、性質である、パニック障害を認めて、ようやく、心理学と、霊学に関して、少しばかり、確信ができたのである。


posted by 天山 at 00:05| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月22日

性について。185

売春の根源としての環境は、次の三つの観点から考えられなくてはならない。まず経済的条件、次に品行、そして、知的水準である。
ガブリエル・マンシニ

この、最初に上げた、経済的条件、これが、最大のものであると、私は、思う。

マンシニも、思うように栄養がとれず、寒さになやみ、生活に安楽さがなく、男女関係がでたらめで、住む場所は不潔である、と言う。

東南アジアを廻った私は、それがよく解る。
その地域の、売春の根源的問題は、貧困である。

劣悪な生活環境・・・
あまりにも、酷い。

更には、児童までも、その対象にされる。

タイ、パタヤは、アジア最大の歓楽街である。
そこには、売春を目的とする、欧米人、アジア人、アラブ人・・・多数が、やってくる。

その、売春に関して、私が尋ねた問題は、タイ、東北部、イサーンから出稼ぎに出てきた女性が、最も多い。
第一の理由は、貧困である。

更に、離婚をして、子供を親元に預けて、仕事を探して出た。
マッサージは、手っ取り早い仕事であるが、そこが、売春の場所になる。
なる、というのは、最初は、マッサージであるが、それでは、自分の生活も立てられないほど、収入が少ない。

ある地元の、女性が、彼女たちは、可哀想だと言う。
少しのお金しか、入らない。
要するに、売り上げの、三割を貰う程度なのである。

次第に、そこから、売春という、手っ取り早く稼ぐ方法を、選ばざるを得ない。
子供と、親に、仕送りするためである。

売春をしない女性は、マッサージの中で、スペシャルサービスという、性器愛撫をして、チップを貰うのが、精々である。

パタヤには、そんな仕事を、求めて、ベトナム、ラオス、カンボジアからも、女性が入ってくる。
あるいは、ミャンマーからも、である。

地中海沿岸地方、ブルターニュ地方、郊外工業地域、過度の人口密度をもつパリの各区、貧困で山脈にさえぎられて孤立している小さな郡、こうした地域から若い女性が家族を離れて冒険に赴くのであって、彼女らはたいてい農家出身である。家族にふりかかったあらゆる種類の事故、たとえば夫を失って未亡人になったり、あるいは離婚に見舞われ。私生児を産み、アルコール中毒になり、怠惰な暮らしをし、犯罪の前科があり、また失業におちこむ、こうした出来事で、彼女らは貧困に打ちのめされているのである。
こうした娘たちこそ、まだ間に合ううちに救済の対象としてやらなくてはならない。
ガブリエル・マンシニ

学者というのは、分析に長けているが、救済の方法を、知ることがない。

上記、あらゆる、地域に言えるのである。

少数民族の人たちは、そのあまりの、貧困に、売春だけが、頼りという、人たちもいる。

タイから、ミャンマー国境を抜けて、ある少数民族の村に入れば、夜は、そこの、女性が相手をしてくれるという、勧誘が、多い。

料金は、2000バーツ、6000円である。
しかし、斡旋した者が、半分程度、頂くのである。

収入の無い、村では、それが、唯一の収入の道ということになる。
その問題は、文明化である。
国が、文明化を、目指しているから、昔ながらの生活では、生きられなくなったのである。

自給自足の生活の中に、文明化が、起こると、電気、水道・・・・
それらは、お金が必要である。

しかし、国は、彼らに、収入の道を作らない。
だから、どんどんと、立ち遅れる。

カンボジアなどは、最悪である。
子供、少女、幼女を買うたに、村に、男たちが、入る。
とても、とても、あこぎな人身売買をする。

その、少女、幼女を、目当ての、買春を目指して、来る、日本人の男もいる。
その、売春地帯は、町の中でも、最も危険な場所として、紹介されるが、違う。そこにこそ、児童買春の宿があるのだ。

日本も、敗戦から、米兵に体を売る、女たちが、多く存在した。
それ以外に、生きる道は、ないのであった。
親兄弟を、養うために、わが身を犠牲にした、女たち、である。

しかし、悲劇的な、側面だけでは、理解出来ない。
現在は、お金ほしさに、進んで、体をお金に還るという、援助交際なる言葉で、飾りつけた、堂々とした売春行為が、存在する。
それが、日本である。

売春の、質的問題が、発生しているのである。

ガブリエル・マンシニさんのような、学者では、分析出来ない、売春の時代に、相成ったのである。

だが、貧困は、今でも、売春と、不可分の関係がある。

売春の、根源的問題と共に、温床は、貧困なのである。
そして、それは、構造的な政治問題でもある。

人類が、消滅するまで、売春は、続く。
つまり、貧困が、続くということである。

生きるために、女は、体を開く・・・・
すると、現代は、男も、お金のために、股間を、空けるということになっているという、新しい時代なのである。

同性愛のコーナーで、売春を扱わなかった。
同性愛者も、売春の対象なのである。


posted by 天山 at 07:08| 性について4 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月23日

性について。186

再度、同じテーマを書く。
書き足りないからである。

売春の根源としての環境は、次の三つの観点から考えられなくてはならない。まず経済的条件、次に品行、そして、知的水準である。
マンシニ

経済的・・・
これが最大の問題であろうと、思う。

経済的にみると、思うように栄養もとれず、寒さになやみ、生活に安楽さはなく、男女関係がでたらめで、住む場所は不潔である。こうした状態が、娘たちを街頭に追いやるのである。十中九人までは、売春婦のおいたった環境は、赤貧に洗われたそれである。暮らしの楽な娘が、自分から進んではっきりとした売春婦になったなどというさまざまな事実が引き合いに出されるが、そのような目立った例は、例外的なものである。
マンシニ

私は、東南アジアを中心に、出掛けているから、それがよく解る。
タイでは、貧しい東北地方、イサーンから、続々と、娘たちが、バンコクをはじめ、プーケット、そして、パタヤという、世界的歓楽街に出る。
その多くは、売春関係に就く。

そして、また、それ以外の方法が、考えられない状況なのである。
勿論、売春以外の方法もある。
ホテルのベッドメークから、マッサージである。

だが、結果的に、即、金になる、売春を選ぶのである。
それは、実家に仕送りするためである。

更に、若い女も、故郷に子供を預けて、働きに来る。

それでは、最も不思議な、現象が、日本にあるということを、提案する。

援助交際と、マスコミが命名した、少女たちの売春行為である。
これは、どのように、説明がつくのか。

お金欲しさに、体を簡単に売る。
援助交際という、極めて悪質な言葉で、誤魔化しているだけで、それは、売春である。
児童買春は、禁じられているにも関わらず、また、買春行為をする男たちもいる。

これを、どのように解釈すべきか・・・

その中で、特に、問題なのは、売春によって、癒されるという、少女たちがいることである。

家庭、学校では、真面目で、しっかり者と思われている、少女が、実は、売春、いや、お金を得ないで、男と、セックスをするという。

人の温かさを求めて・・・
それを知る、親、先生は、驚愕する。

誰も、少女の寂しさに、気づいていなかったということである。
今、最も問題なのは、それである。

更には、プチセックス・・・
家出した少女を、泊める。その代わりに、セックスを求める。
少女たちも、プチセックスならいい・・・と言う。

実に、不可解な現象である。

現代日本社会の、根源的問題が、そこにはある。
核家族と言われて、久しい。
そして、人間関係の希薄さである。

親子関係も、変容した。
親と子の、個人としての、確立といえば、格好は、いいが、欧米の悪癖を身につけてしまったのである。

欧米の個人主義が、日本では、歪に取り込まれたと、言っていい。

マンシニの指摘や、東南アジア各国が、抱えている問題と、日本の問題は、別物である。

地中海沿岸地方、ブルターニュ地方、郊外工業地帯、過度の人口密度をもつバリの各区、貧困で山脈にさえぎられて孤立している小さな郡、こうした地域から若い女性が家族をはなれて冒険に赴くのであって、彼女らはたいてい農家出身である。しかも、家庭にふりかかったあらゆる種類の事故、たとえば夫を失って未亡人になったり、あるいは離婚に見舞われ、私生児を産み、アルコール中毒になり、怠惰な暮らしをし、犯罪の前科があり、また失業におちこむ、こうした出来事で、彼女たちは貧困に打ちのめされているのである。
こうした娘たちこそ、まだ間に合ううちに救済の対象としてやらなくてはならない。
マンシニ

東南アジアも、そうである。

更に、南アジアも、そうである。
そして、アラブも。

女は、売春に、男は、テロリスト・・・
貧困が根本にある。

そこに、道徳を見出して、詮無いことである。
道徳の前に、衣食住なのである。

日本には、そのような、悲運なことが無くなったはずであるが、上記の通りになった。
売春地帯はないが、全国が少女売春地帯になりつつある。

一体、どんな啓蒙運動が必要か。
単に、マスコミが取り上げて、嘆くのが、関の山。
または、それを取り上げて、説教をして歩く、奇特な人が、有名になる程度である。

国も、地方自治体も、それに対して、なす術もない現状である。

出会い系サイト・・・
実に、耳障りの良い言葉であり、悪質さを隠すものである。

更に、それを利用する、成人男子が、児童を買うという行状である。
また、驚くべきは、教師の犯行も多いから、呆れる。

売春とは、売る人がいて、買う人がいる。それで、成り立つものである。

性を、個人的営みとして、豊かに、そして情緒的世界を、高めるものであるとの、考え方は、今は、無いようである。単なる、欲望の処理なのである。
性の、貧弱さとしか、言いようがない。


posted by 天山 at 00:00| 性について4 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月24日

性について。187

知的な面にいて、マンシニも、
将来売春婦になるような娘たちの成長する環境にいる人々の知的水準は、必ずしも初等教育修了証書をとる水準に達していないし、この水準を超えることはめったにない。
と、書く。

確かに、東南アジアでも、義務教育があっても、貧しさにより、学校に通えないという、女の子たちが、多いのが現実。

更に、驚くべきは、私がラオスの、ルアンパバーンの郊外の村に支援に出掛けて、学校を案内されたが、建物があるだけで、子供たちは、先生も、教科書も、ノートも、鉛筆も無いという状態だった。

義務教育とは、名ばかりである。

ミャンマーでは、民主的政権が出来たというが、その裏では、学校教育を放棄し、子供たちは、学校来て、自習させるというから、驚く。
それでは、学びたい子は、親が金を持っていて、先生の自宅に通わせるという。
まさに、愚民政策である。

さて、知的低いのは、本人の意思ではないということが、問題である。

それは、国と、環境が生み出すもの。
子供たちにとっては、不可抗力である。

女の子は、特に、学問を必要としないとの、考え方も根強い。

あの、アフガンのタリバン政権は、女子の教育を認めていなかった。

それは、また、差別の問題にもなる。

売春は、何処の国、どの時代でも、存在する。しかし、不可抗力によって、売春婦になる、女性たちが、多数いるということである。

次に続けると、個人的な要因に関連した、売春婦の環境の問題であると、マンシニは、指摘する。

その一つは、若さである。

青春期を過ぎたか過ぎないかのうちに人間がある環境に完全にはまりこむとこは成人がそうなる場合と同じではない。
マンシニ

一般に観察されるところであるが、売春婦が法律上の成年などとは無関係に行われているということである。
マンシニ

つまり、どんな年齢からでも、売春は、はじめられる。

若ければ、若いほど、もてはやされるのも、売春である。

マニラで、声を掛けられるのは、18歳の処女を買わないか・・・である。
日本円で、五万円。
一体、誰が、買うのかと、尋ねると、日本人なら、買うというから、呆れた。

更に、詳しく、ポン引きのおじさんに、ご飯をご馳走して、話しを聞くと、貧しい親の元に行き、交渉するのだという。
そして、その取り分は・・・
それには、答えなかった。

マニラには、ホームレスの人たちが多い。
その中には、女の子も沢山いる。
その、女の子たちが、狙われるのである。

そのために、坊主頭にしている、女の子もいる。

さて、客の心理から、見ると、若い女・・・だから、いい、と言うだけではない。
若さをアピールするのは、業者である。更に、女のヒモたちである。

日本人の男は、若さを買うが、欧米人、アラブ人、インド人などは、違う。
その女性の、すべてを買う。
つまり、売春婦を旅の供に、連れて歩くのである。

何故か。
ある程度の、年齢の売春婦は、旅人の良い案内になり、更に、現地の情報を知り、更に、交渉し、値切ることも出来る。

実に、上手な使い方をするものである。

若い娘は、役に立たないと、知っている。
更に、セックスも、若い女は、下手糞なのである。

さて、業者や、ヒモたちが、注目するのは、独身の女、あるいは、離婚した女たちである。

最も、話しがしやすいのである。

更に、その親を口説くのである。

マンシニは、第二の要因として、性的誘惑を上げている。
それは、ヒモが彼女たちを支配する早さに応じてではあるが、多かれ少なかれ何度か予備的な冒険を試みた後で、はじめてこうした状態への変化が生ずる。
マンシニ

しかし、女が売春に入り込む動機が、多少とも、病的な性的欲望と考えることは、とんでもない、誤りである。

生理的必要から売春を行うものは千人に一人もいない。
サコット

学者の書くものは、面倒な言葉が多いので、私の言葉にして、書く。

端的に、オーガズムを感じる女が、売春を続けることは、できない。
感じる者が、多くの男を相手にすることは、命を削ることになる。

やや不感症、冷感症ぎみにならなければ、売春行為など、やれないのである。

性的刺激に敏感な、女は、売春の世界から、はじかれて、しまうのである。

児童買春の現場で、行われることは、電気ショックを与えて、感覚を麻痺させるというから、仰天すると供に、憤慨する。


posted by 天山 at 01:11| 性について4 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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