2011年09月11日

神仏は妄想である。353

イギリスの自然神学が、隆盛を迎えるのは、17世紀以降である。
中でも、19世紀までに至る、イギリス自然神学の基礎を作ったのが、ヘンリ・モアであり、自然神学の原型は、自然界の仕組み、特に生物において、神の善性を見るという、議論だった。

それを、デザイン論証と、呼ぶ。

そして、モアの朋友である、カドワースの、形成的自然が、生物に見られる、デザインの現象に、着目した。

この、デザインとは、神が、善意を持って、世界を創造し、物理的仕組みによって、善が実現されるように、支配しているというものである。

だが、中世から、近代にかけての、自然観の変化がある。

一般の民衆の間では、生活に根ざした、自然観があった。
まず、中世の人たちは、自然界を、一般に悪霊が働く場所として、警戒した。
更に、原因不明の病気は、悪霊が取り付いたものであるという。

害虫の発生や、凶作、地震は、神の怒りである・・・等々・・・

カトリック教会に求められたことは、そのための、悪魔祓いであった。
中世のカトリック教会の、存在意義は、それである。

悪魔が支配する、自然界に、超自然として、救済するという、教会の権威である。

そして、その教会の、秘蹟、つまり、七つのサクラメントが、特に注目される。
勿論、それは、イエスが、制定したものではない。
教会指導者たちが、勝手に、創作したものである。

中世文化は、実際に、異教徒的な、要素が多分に多かった。が、司祭たちは、それを、取り込んで、教会指導の下に、組み入れた。
民俗的祝祭を、教会暦や、カトリックの聖人にちなんで、新しいものにするという・・・

カトリック教会が、最も、世俗的だと、言われる所以である。
その、節操の無さである。

中世の人たちの、人生は、悲劇的であるという、気分に、おもねた教会の、戦略である。

悪魔と、神という、対立を作り出すと、理解しやすい。
自然は、悪霊と、聖霊が、抗争する戦場であったという、感覚は、実に、愚かなものである。

自然は、悪霊の働く、呪われた地である。
ここで、おかしいことに、気づく。
天地創造、自然を創造したのは、神ではないか・・・

しかし、西欧の考え方は、今も、それが、潜在意識にある。
だから、自然征服という、怪しい考え方が、根本にある。

しかし、その考え方が、自然観が、学問の上では、消えてゆくのである。
果たして、神学が、学問足りえるのかは、解らないが・・・

西欧の、キリスト教世界が、それこそ、世界に広がる時期である。

世界史の中心になりつつある、時代である。
その野蛮な、行動は、世界を、一変させる。

宗教こそ、虐殺、掠奪を好むものはないと、この西欧のキリスト教の、歴史を見ると、よく解る。

イスラム勢力が、西欧から、駆逐されると、コロンブスが、アメリカ発見に向かう。

その時期、キリスト教神学も、存在論・形而上学の枠を、破り、実証的な自然研究に、歩み始める。

コペルニクスの、天動説も、現れる。

彼の、天文学は、ガリレオ、ニュートンに、引き継がれて、地動説は、等質無限空間の観念により、人間中心階層宇宙観を、打ち壊すと共に、宇宙の果てまで行き渡る、力学的法則を、明らかにする。

自然は、目に見えない、不可思議、悪魔の働く場所ではなく、一つの精密な、メカニズムを持ったものとして、認識される。

この、自然観は、キリスト教に対して、徹底した、知的爆弾となった。

それまで、カトリック教会が、独占していた、悪魔祓い、その他は、必要なくなるのである。

すると、狡賢い、司祭たちは、悔い改めて、福音を信じよと、言い始めた。
自在に変化する、宗教の、見本である。

あちらが駄目なら、こちらがある。
あらゆる、宗教というものが、そうである。
要するに、罪悪感が、全く無い。

信じさせれば、こっちのもの、なのである。

人々の、良心を、手玉に取り始める、教会・・・
本当に、手がつけられないとは、このこと。

更に、合理的自然の発見により、医術は、魔術から、開放される。
病気は、聖職者の手を離れて、医者の職になる。

そんな中、ルターが、現れる。
カトリック教会の、嘘に、気づく。
あらゆる、妄想を廃して、聖書に立ち返ろう・・・

特権化した、教会の、制度疲労と、専門家が言う。
確かに、当時の、カトリック教会の、腐敗は、凄まじい。

位の高い聖職者は、宗教貴族になり、政治、世俗的事業に携わる。
別のエッセイで、性について、を、書いているが、売春事業にも、手を染めていたことが、解る。

ルターが、改革を起こすと、人々は、集って、傘下に入った。
免罪符によって、天国行きが決まるとは・・・
ルターも、呆れたことであろうが、後世の人は、もっと、呆れた。
しかし、カトリック教会という、巨大組織は、今もなお、脈々としてある。

何故か。
人は、何かを、信じざるを得ないからである。

そして、その、信じるという、気分から、開放された、つまり、本当の自由を知らないからである。





posted by 天山 at 17:57| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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