2011年09月10日

神仏は妄想である。352

自然神学とは、キリスト教の神学の一部門である。

その、前提には、神の自己顕現がある。
それを、啓示と呼ぶ。

更に、啓示に基づく神学を、啓示神学と呼ぶ。

キリスト教では、神は、自然の内にはない。
自然内の対象を認識するように、認識することができない、存在が、神である。

キリスト教では、世界の創造者である神は、最初は、イスラエルの歴史的経験により、そして、イエスの人格を通じて、人格的、道徳的な、愛の、本質を明らかにしたといわれる。

古代の、諸宗教においては、暴風、旱魃などの、大きな自然現象を通して、神が、顕現されると、信じられていた。
が、キリスト教、その前進である、ユダヤ教は、神は人格的に、自己顕現するものであり、そのリアリティは、言葉によって、媒介されるといわれる。

言葉は、誰によって成るのか・・・
預言者たちである。
それを、書いたのが、聖書である。

啓示神学は、この聖書を主たる源泉として、捉えるのである。

自然神学は、自然界の秩序を通して、神を知ろうとするもの。
啓示神学の、直接体験ではない、間接体験を通して、啓示神学を、補完するものである。

歴史を先導するものは、神。そして、自然界を作り、秩序を与えているのも、神であるという、認識である。

キリスト教では、この二つを、神の二つの書物と、呼ぶ。

自然が、神によって、創造されたとすれば、そこには、神の本質を示す何らかの、性質があると、考える。

トマス・アクィナスの見解は、
Aが原因であると仮定する。
また、Aがある性質Qを持っていると仮定する。
すると、BはAの結果であるから、BもまたQを持つことになる。
と、いうものである。

そして、あろうことか、それを、性質を、善、であるとする。
キリスト教神学では、いずれの道も、神の善性によって、神の存在を知る事が出来ると、言う。

善・・・つまり、その対立は、悪、ということになるのである。

対立を設けなければ、彼らの話は、理解できないのである。

善悪で、区分けることしか、出来なかった、西欧の思想である。

ここに、神道、古神道の、善悪を超えた、神々の存在は無い。

イギリスの、自然神学は、中世からである。
その中心だったのは、オックスフード大学である。

中世の、リチャード・フィシャカーは、自然には、神の痕跡と、似像が、刻まれている。それを、知ることが、学問の目標になると、説教する。

ただ、中世の、自然神学は、歴史的に、大きな政治的制約があった。
それは、イベリア半島における、イスラム勢力との、対峙である。

トマス・アクィナスの、「異教徒駁論」は、この政治的現実を踏まえ、キリスト教がイスラム教から、防衛するために、書かれている。

イスラム世界では、アリストテレスの、自然学が研究され、自然についての、哲学的、形而上学的な研究が進んでいた。

そのため、キリスト教側も、当時は、スコラ哲学も、アリストテレスを学び、存在論、形而上学で、理論武装することになる。

中世西欧の、大学では、その形而上学的傾向が、自然神学の基調になるのである。

さて、ミルを、読む。

自然という語は、どの時代でもそうした道徳的観念を担ってきた。多くの最も尊重されている哲学の学派において、自然に従うということは、道徳の根本原理であった。古代人の間で、特に古代の知性や思想の衰退期において、それはすべての倫理学説の真価を試す試金石であった。
ミル

自然は、権威であったと、言える。
自然法・・・

ユスティニアヌスの、法学提要には、
自然法とは自然がすべての動物に教えたもの
と、ある。

だが、キリスト教では、全面的ではないが、部分的に、障害があった。
それは、すべてのキリスト教では、人は、本性的に、邪悪であるという、教えであるから。

勿論、ずるいキリスト教は、それも、何となく通り過ぎる・・・

だが、キリスト教の、基本的な、人間に対する、思想が、邪悪な人間であるというところが、ポイントである。

また、そうでなければ、神の救済は、成り立たないのである。

生まれながらに、原罪を持つとする、キリスト教であるから、自然法を、すんなりと、受け入れるわけにはいかない。

しかし、この教説は反動をまねき、理神論の道徳家たちが自然の神聖さをほとんど全員一致で言い広め、自然の空想上の命令を権威のある行為の規則としてうちたてるようになった。この想定上の基準をなんらかの意味で参照することは、ルソーによって始められた思想と感情の水脈のなかで支配的な構成要素となり、その傾向は、自分自身をキリスト教徒であると称する一部の思潮を含めて、近代精神に最も広く浸透した。
ミル

キリスト教の教説はどの時代でも、そのときたまたま普及していた哲学に概ね合致しており、私たちの時代のキリスト教も、その色彩や魅力のかなりの部分を感傷的な理神論から借りてきている。
ミル

感傷的な理神論から・・・
要するに、節操がないのである。

簡単に言えば、時代の、言葉に合わせて行かなければ、キリスト教も、乗り遅れるのである。

宗教というものは、如何様にも、解釈できるということの、証明である。

本来、人間は、妄想の神という、存在が無くても、十分に生きられるのである。




posted by 天山 at 20:18| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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