2011年09月18日

ビサヤ諸島への旅3

ネグロス島、バコロドに出掛ける、前日の夜は、早めに食事に出た。
といっても、地元の食堂である。

一人、百円程度の、食事。
何とも、安い。

その帰り道、六人の子供たちに、出会った。

ハロー
ストリートチルドレンと、尋ねた。
うん、と、頷く。
食べ物は・・・
無い、との返事。

そこで、私は、ここで待っていなさい、と、言い、元の道を戻る。

美味いパン屋がある。
そこで、パンと、飲み物を、六人分買った。

水を買いに出たコータと、会ったので、すぐにカメラを持って来るように言う。

彼らは、私を待っていた。
一人一人に、差し出す。
サンキュー
皆、礼儀正しい。

ところで、何処で、寝るの・・・
すると、ストリートチルドレン用の、宿泊施設があるという。
小さなホームと、大きなホームがあると、言う。

一人の子を指して、彼は、大きなホームと、言った子がいる。

ところで、幾つと、私は、一人一人に聞いた。
驚いた。
皆、想像以上に、年齢が高い。
12,13,14歳である。

栄養のバランスが悪いのか、皆、小さいのである。

だが、寝る場所があると、聞いて、安堵した。

コータが、来て、写真を撮る。

次に、また、来るから、会おうと、私が、言うと、皆、うんうんと、頷く。
次ぎは、衣服を持ってくるから・・・

近くにいた、大人の男が、嬉しそうに、近づいて来た。
子供たちに、何か、話している。

よかったなーと、言っている、雰囲気である。

名残惜しいが、再会を約束して、別れた。

翌日の、飛行機は、八時発である。
六時前に起きて、タクシーで、国内線の空港に向かう。

大量の荷物である。
だが、テントの地域で、三つのバッグを開けた。

これで、追加料金は、取られないと、思う。

空港に到着し、すぐに、搭乗手続き。

だが、搭乗口で、飛行機の遅れで、二時間半待たされることに。
眠いせいもあり、私は、我慢が、限界に達した。

最初は、一時間遅れだと、言った。
だが、中々、扉が開かない。
待つこと、二時間半。
乗客の誰もが、疲れ果てていた。

オーバータイムを繰り返す・・・
そこで、私は、搭乗がはじまり、バスに乗る人を見ていて、最後まで、残った。

実は、前回の、バコロドから、セブ島までも、遅れた。
いつも、遅れる。

受付では、何やら、数を数えている。
一人足りない・・・

ゆったりと、私は、搭乗口に立ち、おもむろに、タイムオーバーだと、言った。
私の、オーバータイムであると・・・

そして、オーナーに電話をせよと、迫った。
私の、予定が、パニックになったと、声を荒げた。

こんな客は、はじめてらしく、皆、無口である。
済みません、の、一言もないのである。

漸く、一人の女が、受話器を取った。
すると、バスが私のために、やってきた。
その当りで、もういいと、バスに乗り込んだ。

コータには、あらかじめ、私は、最後に行くと、言っておいた。

飛行機に、最後に乗り込んだ。
何と、一番前の座席である。

それが、他の客と、向かい合わせの席で、初めての体験である。

疲れて、怒り、更に、疲れた。
バコロドまで、まどろんでいると、到着である。
約、40分で、着いた。

出来るだけ、穏便に済ませたいと思うが、これが私の、性格である。
いたし方ない。

フィリピン、第三の激戦地、ネグロス島である。



posted by 天山 at 09:41| ビサヤ諸島への旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月19日

ビサヤ諸島への旅4

バコロドの古くて安いホテルに、昼前にチェックインした。
750ペソ、1500円である。

私は、部屋が大きいのが、気に入っていた。
勿論、日本人は、泊まらないホテルである。

徹底した、節電のホテル・・・
エレベーターも、荷物がある時のみ、動かすという。

そして、何と、前回と同じ部屋である。

兎も角、本日は、一日、ゆっくりと、休む。
周辺の状況は、以前来ているので、よく解る。

市場が、近いのが、いい。

その日は、土曜日であり、翌日の日曜日に、すべての、予定をこなすという計画である。

支援と、追悼慰霊である。
慰霊は、戦没者の慰霊碑を、前回最後に、見つけたので、今回は、慰霊碑の前で、特に、しっかりと、祈り、黙祷したという、思いである。

バコロドには、テラの会支部がある。
荷物は、すでに、着いていた。
二つ分のダンボールである。

今回は,母親のロザンナさんが、友人の病気見舞いに出掛けて、娘の、エジアさん、だけである。

早速、メールが入る。
無事に到着したことを、伝える。

明日は、朝、10時から、活動を開始することにしていた。

孤児院を、三箇所回り、その後で、追悼慰霊の儀を執り行う。

車の手配だけが、問題だった。

それは、エジアさんに、してもらうことにした。
地元の人に頼む方が、ボラれないと、思う。

ちなみに、ホテルフロントに、料金を尋ねると、24時間貸切で、2000ペソ、4000円である。
更に、それでは、12時間では・・・
それも、同じ料金だと言うから、呆れた。

結局、エジアさんに、頼み、六時間で、1200ペソ、2400円で、決めた。
大型のバンである。
荷物が多い。

私の食事は、ほとんど、市場にある、食堂である。
100円ほどで、十分に食べられる。

コータは、あまり、気が進まないようで、時に、別々に、食事をした。
要するに、市場の衛生面が、気がかりなのである。

水道の水は、勿論、飲めない。
水道水に似たものが、売られている。
飲み水は、ペットボトルのミネラルウォーターにしていた。

ただ、市場では、水道水と、水道の水を沸かせて、使用する。
その、目安がつかないから、不安になる。

私は、沸騰させれば、いいと、気楽に、市場で、食べた。

ネグロス島は、魚が、豊富である。
多くの、魚料理を食べた。といっても、煮たり、焼いたりであり、バリエーションが少ない。

刺身は、日本料理店に行かなければ、食べられない。
一度も、今回は、行かなかった。

コータが、楽しみにしていたのは、20円のコーヒーである。
市場の角にある、小さな店。
何せ、挽きたての本格コーヒーである。

私も、翌日の朝から、出掛けた。
朝、五時から、営業している。つまり、市場関係者の店なのである。

その、コーヒーは、何とも贅沢だった。
香りといい、味といい・・・
言うこと無し。

孤児院を廻った、報告の前に、少しばかり、ネグロス島の戦記から、その戦いを、紹介する。

池平八氏による、ネグロス島戦記
マンダラガン山に果てし戦友よ
から、引用する。

実は、ここ、バコロドの人々は、日本軍に、よい印象が無い。
地元の人を、スパイとして、処刑したり、フィリピン兵を、公衆の面前で、公開処刑したりした。
根強い、反感がある。

だが、時は、66年を経た。
それを知る、人は少ない。

コーヒー屋で、72歳の、老人に出会った時、私は、日本軍を知っているかと、尋ねた。彼は、知っていると、答えたが、それ以上は、話さなかった。
当時、彼は、六歳程度であるから、少しばかりは、日本軍の、残虐行為を、聞いているはずである。

日本軍の、食糧調達も、現地の人々を、苦しめたはず。

それでも、今は、日本、日本人に対しては、良いイメージがある。
それは、日本からの、支援である。
シライ市のバコロド空港も、日本の支援により、建てられた。

posted by 天山 at 12:07| ビサヤ諸島への旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月20日

ビサヤ諸島への旅5

明日からはまたギンバラオンの奥地に通じる街道の現地調査や、街道の延長工事、橋梁の架設工事が続くのである。
池平八

ギンバラオンは、マンダラガン山の、裾野である。
そこに、シライ川が流れ、隣町が、タリサイ、そして、バコロドと、続く。

日本軍の、活躍の場は、この三つの町であり、マンダラガン山である。
美しい、三つの山が、並んで見える。

現在は、シライ市近郊に、バコロド空港がある。

空港から、バコロドまでは、車で、20分ほどである。

であるから、私は、日本軍の活動していた場所にいるのである。

そのころ、本部経理部の主計の物品調達係に、一人の上等兵がいた。彼は、三日に一度バコロド市のマーケットその他に、物品調達に出る。本部の将兵の生命を預かる食糧確保の重大な責任ある任務だ。だが、ある夜遅く、バコロドからの帰路、深夜の街道脇で何者かに惨殺されていた。
池平八

その彼は、バコロドに出掛けているうちに、現地の娘と、恋に落ちた。
夜遅く、軍の公用札を持ち出し、自転車で、バコロドに向かい、ニーナーという娘と、つかの間の逢引を重ねていた。
しかし、ある日の朝、行方不明になり、捜索すると、タリサイとバコロドの間の、海岸沿いの椰子の林の中で、惨殺されていたのである。

当時は、現地人の中に、スパイが忍び込んでいた。
その、スパイに殺されたのだろう。

そのような、話しも、ある。

日本軍は、米兵と、フィリピン兵たちと、いつ、戦闘状態になるか解らないという、状況下にあった。

ふと上空を見れば、敵兵の顔がはっきりと見えるほどの低空だ。上半身を機外に乗り出して機銃掃射する。五分、十分、いや何十分。もう生きた心地はない。無我夢中で、ぐるぐると逃げ回る。息もたえだえ、全身くたくた。敵機に発見されて、どれくらいたったのだろうか。ようやく敵機は去った。一機のみ。もし複数で襲撃されていたならば、難を逃れることは不可能だっただろう。
池平八

そのような、状態が、毎日のように、続く。

敗戦末期・・・

日本内地と現地、更に、現地と北部マニラとの、空海の連絡路は、米軍に掌握されていたというから、悲劇である。

それでも、日本軍は、
シライの町の西方を、中央山岳に源を発して、水量豊かなシライ川の流れがある。この川に沿った上流十数キロの山岳台地において、残敵掃討作戦が展開された。
池平八

ということで、私は、前回、シライ川と、その台地の手前で、慰霊の儀を、執り行った。

その日、早朝から行われた戦闘は熾烈を極めた。地の利を得て、死守する残敵との交戦は、一進一退し、ようやく掃討作戦の終結を見たのは、翌日の正午を過ぎていた。
池平八

今だから、言えることだが、実に、無駄なことをしていたものである。
そして、そんな中で、命を落とした兵士たち・・・

実に、あはれ、ではないか。

戦いに、理屈は無い。
殺すか、殺されるか、である。

日本兵、米兵、フィリピン兵・・・
どれほどの、兵士が、命を落としたか。

想像する以外に、無い。

この頃になると、輸送船も、撃沈されて、物資が手に入らなくなる。
簡単に、輸送船の撃沈と、言うが、そこでも、多くの死者がいる。

兵士ばかりではない。
海に、山に、野に、兵士たち、他の、遺体が、遺骨が、散りばめられたのである。

遺骨収集は、大いに結構である。
しかし、無理である。

敗戦から、66年を経て、その遺骨は、自然と同化した。

何より、追悼慰霊である。
追悼とは、追って思い出し、悼むことであり、慰霊とは、霊位を、慰めることである。

忘れていないという、証拠である。

アメリカは、戦争を続ける国である。
だから、アメリカ軍、連合軍の慰霊地は、兎に角、手厚く、保護されている。
もし、それが無ければ、誰が、戦争などに、行くものか。
戦死者を、手厚く奉るからこそ、戦争を続けられる。

その点、日本は、戦争放棄したゆえか、その慰霊地は、現地の人に任せたり、放っている。

その分の、金を、支援金として、使用したと、思えば、救われる。が、あまりにも、惨い場所もある。

フィリピンの、慰霊の聖地と言われる、パグサンハンのカラリヤは、アメリカによって、作られた。
日本兵の、慰霊碑もある。

だが、日本によって、というより、有志によって、奉られた、パグサンハンの比島寺の慰霊地は、現地の人に任せてあり、慰霊碑の間には、洗濯物が、干されていた。

戦争放棄は、いい。しかし、慰霊を、怠ることは、戦死した兵士に対する、冒涜である。

現に、今、戦争が始まれば、自衛隊員が、出向くだろうが、大半が、除隊するはずである。
死んでも、粗末に扱われるような、国のために、命を賭けるなどとは、思うまい。

私が、この人生の最後を、費やすのは、追悼慰霊のためである。
この世に、欲しい物もなく、生きるべき、意味なども、無い。

生きるに、意味を見出すなど、傲慢の至りである。
生まれたことが、奇蹟なのである。

偶然も、必然も、元を辿れば、同じこと。

生まれて、生きていることだけでも、十二分すぎるのである。


posted by 天山 at 08:14| ビサヤ諸島への旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月21日

ビサヤ諸島への旅6

ネグロスに上陸した敵軍は、その後ますます増強され、わが軍は一戦ごとに戦いに利あらず、ひそかに筑波山に集結しなおして、敵に大決戦を挑まんとしていた。順次、山麓に移動を完了したわが精鋭の各部隊は、布陣も終わり、工兵隊本部の到着を待っていた。平地戦の舞台を筑波山の山岳戦に移して、戦おうというわけだった。・・・
ある日の午後、多数の武器弾薬、その他多くの物資を軍用車に満載して、シライの町を後にした。
池平八

それは、逃げの、戦いになった。
筑波山とは、マンダラガン山を、日本名にして、呼んだのだ。

今夜からは、真にわが命をかけて、最後の決戦へのぞむのである。事実上の第一線に戦場に立つのである。
池平八

そして、日本軍は、山へ、山へと、逃れることになる。
敵軍の、物量は、遥かに、日本軍を凌駕していた。

負け戦の様子は、悲劇である。

多くの戦友の命が、一瞬のうちに、引き裂かれ、飛散する。右の陣地で、そして中央陣地で、はたまた左方陣地で、間断なく光の渦が、さか巻く。生き地獄の鬼火が、各所に次々と燃え上がり夜空を真紅に染める。そのつど戦友の生命が乱舞しながら闇の底に消えて行く。
池平八

延々として、その戦闘が、繰り返されるのである。
精神に異常をきたすものもいる。

目の前で、戦友が死ぬという、事実を、どう見つめていたのか・・・

精神に異常をきたして、当然である。

局地戦のたびに多くの将兵が第一線の、そのまた最前線において傷つき倒れ、花のように散っていった。死の直前に「お母さん」のたった一言さえ言えずに、戦場の露と消えた人もいる。長い戦いの中で、ある将校二人が、「この戦場において天皇陛下万歳の一声もこの耳に聞き取ることはなかった」「ただ一度だけ、お母さん、と叫ぶ声を聞いた」と歩きながら話していたのを私は通りすがりに聞いたが、全くそのとおりだと思う。これほど激しい戦いの場が、他にあっただろうか。また仮に「お母さん」と呼ぶ一瞬の時を神が与えたとしても、「天皇陛下万歳」と心から叫ぶ将兵が、近代日本の戦場に倒れた数百人の将兵の中に一人たりともいたであろうかと、私はいぶかる。
池平八

更に、普段は、大言壮語していた、将校、下士官、古兵などがいたが、戦場には、一度も立たないという、臆病者もいたのである。

上官風を吹かして、兵隊を馬鹿にしていた者が、一切、戦場では、動かなかったともいう。

だが、それでも、死んだ。

そして、日本軍は、死の道行きを、はじめる。
山の中を、逃げ惑うのである。

精神病者、夢遊病者が、続出したという。
そのまま、山中に、迷い、二度と姿を現さない者もいた。
彼らも、死んだのである。

長く続いた激戦の恐怖と、食糧不足による疲労衰弱が重複して、わずかな爆音、飛行音を耳にするだけで、恐怖の奈落の底に呻吟して奇声を出す者や、泣き叫ぶ者がいる。突然駆け出す者もおり、早くから、その兆候がでていたようである。
池平八

落伍者は、所持する食料を食べつくした時点で、餓死するしかないだろう。
池平八

もう、全滅であるが、生きている者は、生きなければならない。
水を沸かす。その中に、米粒が、数えるほどになる。

行く先々で、次々と餓死者の山を残しての逃避行である。もう食糧は、いくばくもない。数日後には、残るわれわれも座して死を待つよりほかないまでに、追い詰められてしまった。
池平八

壮絶極まる状態の中で、池氏は、考えた。

戦場では、戦死であれ飢え死にであれ、日の丸の旗とともに死ねば本望と信じて、誰一人疑う者はいない。日本のために死ぬのだと、日本の勇敢な将兵は覚悟を決めて、勇躍征途についたものだ。昨日まではあの真紅の日の丸を一目見れば、喜んで死んでいけると思っていたが、でも、今は違う。死んではならないと思い始めた。あの太郎山の激戦は、完敗であった。
池平八

死を目の前にして、死んではならないと、思う心の、あはれ、さ、である。

もう死んではならない。何のために、なぜ飢えてまで、異郷の果てに来てまで、おろかな死を選ばなければならないのであろうか。二度とあの旗の下で死んではならぬ。
池平八

おろかな、死、である。
戦争とは、愚かな死なのである。
そして、それを、戦場でこそ、考えて、得心するものなのである。

単なる、平和主義ではない。
戦場の場で、愚かな死を、否定する。

多くの戦友が、あの旗ゆえに、尊い命を失った。そして、副官も、傷つき病んで飢え、哀れで悲しい最期をとげた。けれど、私は死んではならぬ。
池平八

一人の人間の考え方が、なぜこうも百八十度転換した思いに変化していったのか。今の思いはどうしたのか。あまりにも多くの戦友が私の目の前で死んだ。しかも、その死が普通の死ではない。彼らの多くが、天命を全うしての死であれば、こうも思いはしないであろう。皆、死んだ。餓死したのだ。その死が悲惨の極みの限りを尽くした。
池平八

そして、山中の、温泉に浸かりつつ、その温泉で、死にゆく、戦友を感情を失くして、見つめている。
恐ろしい程の、臨場感である。
私は、この戦記を、時々、読み返す。

そして、私は、その戦場に、追悼慰霊に訪ねてきたのである。

祝詞を唱え、ご苦労さまでした、古里にお帰りください・・・
この場から、離れてください・・・

そして、次第に、私は、沈黙する。
黙祷以外に、方法がないのである。

ただ、じっと、頭を下げて、黙祷する、以外に、この事実に向き合うことは、出来ない。

もう、ここで、引用するのは、止める。
ネグロス島戦記
池平八 
光人社NF文庫

230万人の、戦没者に、心からの黙祷を捧げる。
ありがとうございました

何にてか
捧げ奉らん
この祈り
ただに風のみ
過ぎ去るままに

山中の温泉から、遺骨が、シライ川に流れたという。
そして、海へ

はるばると
いつしか人は
流れ去る
何故に生まれて
生きるのか問う

もののあはれ極まる

posted by 天山 at 07:02| ビサヤ諸島への旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月22日

ビサヤ諸島への旅7

バコロドの、支援は、孤児院が主である。

そして、それらの施設は、カトリック系の修道院が、行っている。

最初の、孤児院が、あの見たことのある、修道服である。
マザーテレサの、兄弟姉妹会である。

エジアさんが、その施設長に、掛け合う。
はじめは、戸惑っていた、施設長だった。

更に、写真は、一枚のみ。また、施設の名前を載せない、などの注意である。
その訳は、後で、解る。

しかし、子供たちに、手渡しをはじめて、エジアさんの、ボーイフレンドが、バチバチと、写真を撮りまくるのである。

他の、シスターたちも、それを、容認していた。

私たちの姿を見て、納得したのだろう。

つまり、この施設の名前を掲げて、寄付行為をする者、多数いるというのである。
写真を撮り、施設の名前を掲げて、人から、金を取る、人たちがいる。

それで、納得した。

最後は、施設長も、他のシスターたちも、和気藹々として、さよならの挨拶を交わす。

昔は、私も、熱心なカトリック教徒であったから、手馴れたものである。
主の平安を・・・

その場に、合わせて、私の宗教も、変わる。
それで、いい。
余計な摩擦は、必要ない。
私は、支援物資を渡すことが、第一である。

さて、エデアさんの、ボーイフレンドは、本当に、役に立った。
フランシス君という。

更に、次の施設から、運転手も、手伝い出した。

次ぎは、幼児から、小学生くらいまでの、子供たちの、施設である。
丁度、お昼寝の時間だった。

だが、シスターは、受け入れてくれた。

一つ一つの部屋を廻り、眠る幼児の横に、衣類を置く。
目覚めている子もいるので、軽く触れる。

エジアさんは、兎に角、子供たちを、抱いていた。
彼女も、ボランティアに対する情熱に溢れている。

子供たちは、兎に角、触れて欲しいのですと、言う。

それは、また、女性にして、よく出来ることだった。

運転手は、荷物を運ぶ。
私に、荷物を持たせないのである。

三人の子供がいると、言った。
共感したのだろう。

汗だくになり、部屋を廻る。
幼稚園児の年齢の子供は、私たちの、気配に目覚めて、手渡す衣服を、身に当てる。嬉しそうだ。

ハロー
私の友達・・・

一人一人に、声を掛ける。

施設長は、起きている子供たちに、挨拶を教えた。
私の手を取り、額につけるという。
最高の敬意の挨拶である。

すべての部屋を廻り、施設長の部屋で、写真を撮る。
他のシスターたちも、打ち解けて、それぞれが、それぞれに、話し合う。

イエズス ビー ウイズ ユー
私は、シスターに、そう言って、別れた。

兎に角も、受け入れられたことが、幸いである。

その施設には、育てられなくなった、若い親が、子供を連れてくるという。
そして、子供は、神の子であるから、施設で、育てる。

どんな思想であっても、いい。
子供は、未来である。

どんな子供にも、生きる権利がある。
そして、幸せになる権利である。

私たちは、急ぎ、次の施設に向かうが、シスターたちも、名残惜しいようで、何かと、話し掛ける。

また、来ます・・・
沢山持ってきます・・・

ジャパニーズ・テン
一度聞いたら、忘れない名前にした。

玄関の前でも、皆で、写真を撮る。

運転手が、残りの荷物を運ぶ。
五人の心が、一つになっている。

次ぎは、女の子だけの、施設である。
先に、二つの箱を送っておいて、正解だった。
十分に、渡すことが出来たのである。

posted by 天山 at 08:12| ビサヤ諸島への旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月23日

ビサヤ諸島への旅8

女の子だけの、孤児院である。

5歳くらいから、13歳くらいまでの、女の子たちである。

門を開けてもらい、記帳して、子供たちが集う。
小さな子から、整列した。

私は、一人一人に、手渡す。
その間に、エデアさんが、荷物をほどく。
次々と、それを渡されて、また、子供に渡す。

全員に渡し終えて、更に、衣類を掲げて、欲しい子に、渡す。

ようやく、支援が済んだ。
私は、そこで、挨拶した。

ジャパニーズ・テンです。皆さんと、友達になるために、来ました。
また、来ます。今度は、もっと、プレゼントを持ってきますね・・・
子供たちが、歓声を上げた。

そして、子供たちに、シング、ソングと、言うと、子供たちが、すぐに、歌いだした。
ありがとう、の、歌である。

そして、私は、アベマリアと言うと、アベマリアの歌が、出た。

更に、続けて要求すると、踊り振りつきの、歌である。

今度は、私が、歌った。
即興の英語の歌詞。

マイ・ロード・イエズス・ラブと、名付けた。

そして、日本の、さくらさくら、である。

シスターたちも、とても、喜んだ。

最後は、シスターの一人が、聖堂がありますと、教えてくれたので、私は、聖堂に向かい、跪いた。

子供たちが、見ている。

十字を切り、祈った。
子供たちのために・・・

お別れである。
皆、手を振る。
シスターたちも、何度も、頭を下げた。

とても、良い出会いだった。
子供たちは、二度と、私を忘れない。
そして、また、来るのである。

写真は、フランシス君が、担当してくれた。
運転手も、楽しそうである。
エデアさんが、シスターたちに、挨拶する。

無事、孤児院での、支援を終えた。

そして、休憩することにした。

私たちは、エデアさんの家で、少しばかり、ご飯を頂いたので、まだ、空腹は感じないが、エデアさんと、フランシス君は、昼を過ぎて、お腹が、空いた頃である。

更に、運転手さんも、誘い、レストランに入った。

最初は、遠慮していた、運転手さんも、一緒に席に付いた。

私たちは、飲み物だけで、後は、エデアさんに、任せた。

その後は、慰霊碑に向かう予定である。
だから、私は、エデアさんと、フランシス君を、そこで、帰ってもらおうと思った。

レストランか出て、二人にそれを言うと、一緒に行くという。
それでは、と、また、五人で出発した。

前回来た時に、最後に連れて来られた、場所である。
立派な慰霊碑が建つ。

今回は、準備をしてきたので、慰霊の儀を、執り行う。
フランシス君が、写真を撮ってくれるのである。

祝詞を上げて、清め祓いし、更に、黙祷する。

すると、付近の人が、集まって来た。
その中に、慰霊碑の世話をしているという、おじいさんが、いると、エデアさんが、教えてくれた。

そこで、支援物資のバッグを開けて、おじいさんに合う、ズボンを取り出して、差し上げ、更に、200ペソのお礼をした。
おじいさんは、驚いたようだが、快く、受け取ってくれた。

そして、幼児を連れた、家族に、衣服を渡した。
また、二人の少年にも、ズボンと、シャツを上げる。

一人の男の子が、車の傍まで来て、ありがとう、と、お礼を言いに来た。
また、来るからね・・・

スィユーアゲン

すべてを、終えて、時間を見ると、五時間を経ていた。
こんなに、スムーズに行動できたのも、エデアさんの、お陰である。

何度も、お礼を言うと、彼女は、私の方こそ、ありがとう、と、言いますと言う。
参加出来て、本当に嬉しい。
更に、フランシス君も、学生時代に、ボランティア活動をしていたということで、特に、日本の人が、こんな所まで来て、孤児たちのために、と、改めて、お礼を言われた。

兎に角、すべてが、嬉しいのである。

日本軍が、この地でしたことは、あまり、良いことではなかった。
当時は、反日感情が強かったという。
だが、今は、逆である。

その後の、日本の対応によるものである。

幾人からも、次は、いつ来るのと、尋ねられた。
来年・・・
ということで・・・

再来年になるかもしれないと、私は、思った。
行くべき所が、沢山あるのだ。


posted by 天山 at 07:11| ビサヤ諸島への旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月24日

ビサヤ諸島への旅9

翌日、私は、何もしなかった。
実際、ホテルから出るのも、億劫だった。

軽い熱中症・・・疲れである。

ようやく、二度ほど、食事のために、出た程度である。

ぼんやりと、ベッドに横になったり、椅子に腰掛けたり、タバコをふかして、過ごした。

次にやるべきことは、海岸に出で、祈ること。
そして、残りの支援物資を、必要な人に差し上げること。
ストリートチルドレンに、食べ物と、飲み物を渡すこと。

三日目は、完全、お休み状態である。

明日の一日だけ、行動できる。
五日目は、マニラに行き、一泊して、朝、帰国する。

食事は、大衆食堂である。
日本料理、中華料理の店も、多々あるが、行かない。
ただ、地元の人と、同じものを、食べる。

魚料理も多いが、煮る、焼くという、素朴さ。
スープの中に、切り身を入れているものもある。
小魚の塩煮。

私は、魚料理をよく食べた。
コータは、全然、駄目である。当るかも・・・という、恐れが、口に出来ない理由だ。

熱をしっかり通しているものは、大丈夫である。
更に、作りたて。
中には、一日中、ウインドーのおかず置きに、入れてあるものもあり、それは、少し危険だ。

夜は、面倒なので、ブタ肉と、ご飯のついた、弁当のようなものを、買ってきて、部屋で、食べる。

矢張り、活動した、翌日は、休むことである。
無理は、禁物。

そして、翌日、朝10時に、部屋を出て、海岸に向かった。
最期の支援物資も、持参する。

ジプニーに乗って、終点まで行き、そこから歩いて、海岸に出る。

ハバナ畑があり、その中に、小屋を作り、住んでいる人がいる。
丁度、通りかかると、妊婦さんがいたので、声を掛ける。

ハロー、フラムジャパン、プレゼント、アフター
妊婦さんは、少し恥ずかしがる。

海岸に出て、祈りと、黙祷をして、御幣を投げ入れる。

静かな海岸である。

と、その時、三人の男の子たちである。
ストリートチルドレン・・・
頷く。
そこで、私は、地元のもち米で作った、携帯食を渡した。
三人は、兄弟だった。

道には、小屋が二つ。
食堂のような雰囲気。食べ物の小物類を売る。
いや、男が、ビールを飲んでいたから、飲み屋でもある。
朝から、飲むのだ。

そして、バナナ畑の妊婦さんの元に。
すると、小学生と、裸の幼児である。

小学生は、長男、そして、次男で、次は、女の子だと言う。
それではと、残りの衣類を出して、差し上げた。

二人の子にも、これから生まれる子にも、上手い具合に、合うものがある。

少し向こうで、三人の男たちが、洗濯をしていた。
サンキューという声。

三人の一人が、夫なのだろう。
彼女に似合うものもあった。
更に、女性物が残っている。

すると、彼女は、私の姉が、あちらの店にいるので・・・と言う。
オッケー、オッケー
私は、もう一度、海岸の道を戻り、小屋作りの、店に行った。

誰が、お姉さんか解らないが、二人のおばさんと、一人の若い女性に、衣類をすべて出して、どうぞと、言った。

更に、幼児が一人。
それも、最後の服があった。

支援物資は、皆、無くなった。

サンキューと、何度も言われて、元の道に戻る。
先ほどの、長男である、小学生が、学校へ行く。
私たちを見て、手を振る。

そのまま、街に向かって歩いた。
その途中で、腹を空かせた、男の子に逢う。
彼は、小さな銀行の前で、人々に、手を出して、物乞いしていた。

私か声を掛けると、お腹を押えて、腹が空いたとの、表現である。
すぐに、もち米の携帯食を取り出して、上げる。

そこから、更に、歩く。
カテドラルの前に出た。

その前の公園には、無名兵士の慰霊碑がある。
私は、そこで、黙祷を捧げた。
そして、そのまま、カテドラルに向かい、そこにいる、物乞いの人たちに、携帯食を差し上げる。

この、公園には、ストリートチルドレンが、集まるのである。
だが、今回は、昼間のせいか、中々、見当たらない。

しかし、物資は無い、夜に来ても、食べ物、飲み物を上げることになる。

だが、海岸から、歩いてホテルまで、帰ったので、全身汗だく。もう、外に出るのは、無理である。

三時間ほど、外に出ていた。

やるべきことは、多々ある。
何度も、何度も、ここに来て、益々と、関係を深めたいと、思う。

一つ情報を得たのは、ストリートチルドレンの家があるとのこと。
そこで、寝泊りしているという。
では、次回は、その家に、支援に出かけたいと、思う。

エデアさんの、家にも、帰る日に、伺い、叔母さんにお会いした。
母の、ロザンナさんは、友人のお見舞いに出掛けて、まだ、戻らないという。

それでは、また、来ますと、挨拶して、バコロドの予定を終わる。

書かないことも、多々ある。
次ぎがある。

また、私は、タイ、メーソートに出掛けて、ミャンマー難民の孤児たちに、逢うべく、準備する。
再来年までの、予定を視野に入れて、考えるが、どうも、死ぬまでに、時間が足りないようだ。

兎に角、無常迅速を、駆け抜けるしか、ない。


posted by 天山 at 07:39| ビサヤ諸島への旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月25日

最後の沈黙を破る。56

私の、戦争犠牲者追悼慰霊の、活動が、六年になる。

死ぬまで、続ける。

何度か、書いた。
その、きっかけは、サイパンに日本兵の幽霊が出る、というものだった。
その話しを聞いて、25年ほど、過ぎた。

そして、よくやく、日本兵の慰霊の行為を、決心して、今に到る。

今年は、敗戦から、66年。
開戦から、70年である。

霊など、存在しないと言う人は、読む必要はない。

あれから、幽霊になって、出るという、その思いに、私は、感動する。

祖国のために、戦い、死んで、その地に、幽霊になって、出るというのである。

それから、幽霊が出る場所を、私なりに、調べた。
数多くあった。

日本兵が、国境の辺りを、行ったり来たりしている、というもの。

更に、フィリピンの、ある島では、日本兵の幽霊によって、島民が、体調不調になる、特に、子供たちが、原因不明で、倒れるというもの。

日本の人に、慰霊に来て貰いたいと、切実に、訴える現地の人。

そして、私は、様々な、戦場に、赴き、慰霊の行為を行った。

しかし、幽霊を、見ることも、感じることもなかった。

ちなみに、私は、五歳の時に、幽霊というものを、確認している。
それ以前も、あったのかもしれないが、知らない。

パラオ共和国に出掛けた時に、私は、その存在を、確認した。

ただし、普通の幽霊ではない。

姿を見せず、私のホテルの部屋の前から、200名ほどの、日本兵が、集ったのを、感じたのである。

それは、恨みも、辛みも、悲しみも、なかった。
ただ、存在を知らせるものだった。

そのホテルの並びの道に、最期に、さくら散る、と、玉砕の電信を送った、洞窟がある。

その、日本兵たちは、私が、パラオの、ペリリュー島に、着いた日ではなく、翌日の、慰霊をした日に、現れたのである。

つまり、私たちは、あなたの行為を、受け入れましたと、感じた。

ペリリュー島を去る日の朝、私は、最期の、電信を打った、洞窟に出向き、黙祷を、捧げた。

玉砕
それは、全員が死ぬことである。

死にたくなかった人も、大勢いるだろう。
だが、死んだ。

無念

死後の世界とは、想念の世界である。

想念とは、思いである。
念である。

それは、無くならない。
肉体を失っても、無くならないのである。

それを、便宜上、霊と、呼ぶ。

脳が、死滅すれば、すべてが、無くなる。

だが、脳が、発した、思いは、漂うのである。

それを、霊と、便宜上、呼ぶ。

脳が死滅すれば、認識する能力を失う。当然である。肉体があるうちの、値打ちである。

死後の世界は無いという、証明は、出来ない。
更に、在るという、証明も、出来ない。
それが、実は、テーマなのである。

死後の世界を、否定していた人が、死ぬ。すると、漂う。思いが、である。
それを、浮遊するという。

例えば、車の事故死の場合は、その場で、同じように、人を誘う。
だから、事故多発地帯がある。
自分の死の自覚がないために、事故死を誘うのである。

日本は、仏教の教えが、全般に行き渡り、供養という言葉が、通念としてある。
供養する・・・

死者のために、供養する。
全く、出鱈目なのである。
供養は、生きている人に、するものである。

死者には、回向という、行為があるのみ。仏教では。
ただし、開祖の仏陀は、死者の回向さえも、拒んだ。

何故か。

この世の法は、自業自得であると、悟ったからである。

とすると、戦死者も、自業自得になる。
さて、そこで、私は、迷う。

その時代に、生まれ、生きたということが、自業自得なのか・・・

戦争の時代に、生まれ合わせたことが、自業自得なのか・・・

私には、解らない。

仏陀も、わからないことに、答えなかった。
仏陀を、超越した人間として、捉える、誤った人々がいる。

仏陀は、人間である。
超越した存在ではない。

死んだのである。

人間が、超越した存在を、考えだしたのは、利益のためである。

こうして、書き続けると、延々として、終わらないことになる。

兎に角、私は言う。
死んで、化けて出ないように、して欲しい。
霊も、霊界も無いと言っても、いい。
だから、化けて出るな。

霊も霊界も無い。
よろしい
だから、化けて出るなよ・・・

霊能者の、誤りは、その、化けて出る者たち、霊たちを、相手にすることである。

ああーーー
疲れた
もう、止める



posted by 天山 at 07:47| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月26日

もののあわれについて。533

若き君達は、え堪へずほほえまれぬ。さるは、もの笑ひなどすさまじく、過ぐしつつ、しづまれる限りをと選りいだして、瓶子なども取らせ給へるに、筋異なりけるまじらひにて、右大将、民部卿などの、あぶなあぶなかはらけとり給へるを、あさましくとがめ出でつつ、おろす。博士「おほし垣下あるじはなはだ非常に侍りたうぶ。かくばかりのしるしとあるなにがしを知らずしてや、おほやけには仕うまつりたうぶ。はなはだをこなり」などいふに、人々皆ほころびて笑ひぬれば、また、博士「鳴り高し。鳴りやまむ。はなはだ非常なり。座をひきて立ちたうびなむ」など、おどしいふもいとをかし。




若い、公達は、我慢できず、つい、笑い出す。実は、笑わないような、年もゆき、落ちついた者を選んで、お酌などをさせたが、いつもとは違う席なので、右大将や民部卿などが、精一杯盃を取るのを、呆れるばかりに、厳しく叱りつけるのである。
博士は、全体、相伴方の方々は、実に、もってのほか、である。これほど、著名な拙者を、知らなくて、朝廷に仕えているのか。まことになっておらん、と、言うので、人々が、皆、堪えきれずに、笑った。博士は、やかましい。静まりなされ。実にもってのほか。退席していただきましょう、などと、威張るのも、面白い。

垣下
かいもと、である。正客の他に、相伴役として、出席する人である。
えんが、とも言う。




見ならひ給はぬ人々は、珍しく興ありと思ひ、この道より出で立ち給へる上達部などは、したり顔にうちほほえみなどしつつ、かかる方ざまを思し好みて、心ざし給ふがめでたきこと、と、いとど限りなく思ひ聞え給へり。いささか物いふをも制す。なめげなりとてもとがむ。かしがましうののしりをる顔どもも、夜に入りては、なかなか、今すこしけちえんなる火影に、猿楽がましくわびしげに人わろげなるなど、さまざまに、げにいとならべてならず、さま異なるわざなりけり。




見慣れていない人々は、珍しい面白いことと、思い、儒者の上達部などは、つい得意げに、微笑みを浮かべて、殿様が学問の道を、愛好され、夕霧を大学へ進めたのは、結構なことだと、この上なく、敬服する。博士どもは、ちょっと物を言っても、叱りつける。失礼であるとまで言い、咎めるのである。
やかましく叱りつけていた、連中の顔も、夜になると、昼よりかえって、一段と明るい火の光で、滑稽じみて、貧相であり、不体裁で、それぞれに、普通ではなく、一風変わっているのである。




おとどは、源氏「いとあざかれ、かたくななる身にて、けうさうしまどかはかされなむ」と宣ひて、御簾のうちにかくれてぞ御覧じける。数定まれる座につきあまりて、帰りまかづる大学の衆どもあるをきこしめして、釣殿の方に召しとどめて、ことに物など賜はせりけり。




源氏は、私みたいに、ひょうきんで、頑固な者は、やかましく言われて、まごつくだろう、と、おっしゃり、御簾の中に隠れて、御覧になる。
設けの席が足りず、座りきれず、退出する大学の学生連中がいると、耳にされて、釣殿の方に、お呼びになり、特別に、賜ったものがあった。




事果ててまかづる博士、才人ども召して、またまた文作らせ給ふ。上達部殿上人も、さるべき限りをば、皆とどめ侍はせ給ふ。博士の人々は四韻、ただの人は、おとどをはじめ奉りて、絶句つくり給ふ。興ある題の文字えりて、文章博士奉る。短き頃の夜なれば、明けはててぞ講ずる。左中弁講師つかうまつる。かたちいと清げなる人の、声づかひものものしく神さびて読みあげたる程、いと面白し。おぼえ心ことなる博士なりけり。かかる高き家にむまれ給ひて、世界の栄花にのみたはぶれ給ふべき御身をもちて、窓の蛍をむつび、枝の雪をならし給ふ、心心に作り集めたる、句ごとに面白く、唐土にも持て渡り伝へまほしげなる世の文どもなりとなむ、その頃世にめでゆすりける。おとどの御はさらなり。親めきあはれなる事さへすぐれたるを、涙おとして誦し騒ぎしかど、女のえ知らぬことまねぶは、憎きことをと、うたてあればもらしつ。




式が終わり、退出する、博士や、作詞に堪能な者を、すべて残らせる。
専門家の人たちは、四韻、学者以外の人たちは、殿様をはじめ、絶句を作られる。
面白い題を選んで、文章、もんぞう、博士が、差し上げる。
夜が短い時期なので、披露されたのは、明け方である。
左中弁が、講師を勤める。顔立ちが綺麗で、声の調子が堂々として、荘厳な感じに読み上げるのは、実に、趣があった。評判のよい博士である。
このような、身分の高い家に生まれ、ありとあらゆる栄華に耽ける身でありながら、窓の蛍を友とし、枝の雪に親しむ、御勉強の熱心さを、あらん限りの故事を使い、喩えに引いて、思い思いに作った句は、どれも、面白い。大陸に持って行き、伝えたいと思われる程の、名文である。と、当時、世間では、褒め称えた事である。
殿様の、御作は、言うまでも無い。親らしい愛情までも、素晴らしい事だった。感涙を流して、吟じて騒いだのである。
しかし、女の身を、解りもしない漢詩を口にするのは、生意気だと、止めにしました。

最後は、作者の注釈である。

親めきあはれなる事
親の愛情の、あはれ、なること。
つまり、深い愛情の様を言う。

当時の、作詞は、漢詩である。
漢籍の知識が、最も、重要視された。

また、正式の文も、漢文で、書かれたものである。
であるから、源氏物語は、女の読むものという、意識があった。

下手をすれば、そのまま、闇に葬られた可能性もある。
藤原定家などの、書写により、現代まで、残ったのである。



posted by 天山 at 06:57| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月27日

もののあわれについて。534

うち続き、入学といふ事せさせ給ひて、やがて、この院のうちに御曹司つくりて、まめやかに、才深き師に預け聞え給ひてぞ、学問せさせ奉り給ひける。大宮の御許にも、をさをさまうで給はず。夜昼うつくしみて、なほ児のやうにのみもてなし聞え給へれば、かしこにては、え物習ひ給はじ、とて、静かなる所にこめ奉り給へるなりけり。一月に三度ばかりを、参り給へ、とぞ、許し聞え給ひける。




引き続いて、入学の儀式を行い、そのまま、東の院の中に、部屋を作り、才能ある師に預けて、真面目に学問をさせる。
大宮の所へも、めったに、出かけない。大宮は、つきっきりで可愛がり、元服しても、子供のように、扱うので、あちらでは、とても、勉強されないだろうと、静かな所に、閉じ込めたのである。
一月に、三度くらいなら、伺ってもよいと、許した。




つとこもり居給ひて、いぶせきままに、殿を、「つらくもおはしますかな。かく苦しからでも、高き位にのぼり、世に用いらるる人はなくやはある」と思ひ聞え給へど、大方の人がらまめやかに、あだめきたる所なくおはすれば、いとよく念じて、「いかでさるべき書どもとく読みはてて、まじらひもし、世にも出でたらむ」と思ひて、ただ四五月のうちに、史記などいふふみは、読みて給ひてけり。




じっと、籠もって、気が晴れず、殿様、源氏を、酷い方だ、こんなに苦しまなくても、高い位につき、世間に大事にされる人は、あるのに、と、思うが、性格が真面目で、浮ついたところがないので、よく我慢し、何とかして、必要な漢籍を、早く読み終えて、官の道につき、出世しようと、思うのである。ほんの、四、五か月の間に、史記などを、全部読んでしまった。

史記とは、司馬遷による、全百三十巻の書。




今は寮試験受けさせむとて、まづわがお前にてこころみさせ給ふ。例の大将、左大弁、式部の大輔、左中弁などばかりして、御師の大内記を召して、史記の難き巻に、寮試験受けむに、博士のかへさふべきふしぶしを引き出でて、一わたり読ませ奉り給ふに、至らぬくまなく方々にかよはし読み給へるさま、つまじるし残らず、あさましきまでありがたければ、さるべきにこそおはしけれ、と、誰も誰も涙おとし給ふ。大将は、まして、「故大臣おはせましかば」と、聞え出でて泣き給ふ。




もう、試験を受けさせようと考えて、まず、自分の前で、試験をされる。
例の通り、大将、左大弁、式部の大輔、左中弁などばかりで、先生の、大内記を呼んで、史記の難しい巻きで、寮試験を受けるとき、博士が質問しそうな箇所を取り上げて、一通り、読ませると、不明なところもなく、諸説に渡り読解する様子は、あきれるほど、よい出来である。
生まれが違うのだと、誰も誰も、涙を流す。伯父の大将は、まして、亡くなった大臣がいらしたら、と、おっしゃり、泣くのである。

夕霧の、学業の様である。

つまじるし残らず
爪で、印をつけておく。それも、残っていないという。




殿もえ心強うもてなし給はず、源氏「人の上にて、かたくななり、と見聞き侍りしを、子のおとなぶるに、親の立ちかはり痴れ行くことは、いくばくならぬよはひながら、かかる世にこそ侍りけれ」など宣ひて、おしのごひ給ふを見る御師のここち、うれしく面目あり、と思へり。大将盃さし給へば、いたうえひしれてをる顔つき、いとやせやせなり。世のひがものにて、才の程よりは用いられず、すげなくて身貧しくなむありけるを、御覧じうる所ありて、かくとりわき召しよせたるなりけり。身にあまるまで御かへりみを賜うて、この君の御徳に、たちまちに身をかたへたると思へば、まして行く先は、ならぶ人なきおぼえにぞあらむかし。




殿様、源氏も、我慢できず、他人のことでは、苦しくも、今まで、見聞きしてきたが、子が大きくなる一方で、親が代わって、馬鹿になってゆくことは、私など、まだたいした年というわけではないが、世間は、こうしたもの、などと、おっしゃり、涙を拭うのである。それを見る、大内記の気持ちは、嬉しく、面目をほどこしたと思うのだ。
大将が、盃を差すので、すっかり酔っ払う顔つきは、本当に痩せこけている。大変な、変わり者であり、学問の割には、世に用いられず、貧乏だったのを、源氏の目に留まり、このように、特別に、お召し出しになったのである。
身分に余るほどの、御好意を頂戴し、殿様のお陰で、急に生まれ変ったようになったのだ。だから、将来は、それ以上に、並ぶ者がないほど、名声を得るだろう。

最後は、作者の言葉である。

当時の、勉学の様子がよく解る。
漢籍を読み、覚えることが、学問の道だった。

大学寮の試験が受かると、擬文章生となる。

大内記とは、中務省の役人であり、詔勅を作り、位記を書く。
正六位上相当である。

乙女の巻は、夕霧の物語へと、移行してゆく。


posted by 天山 at 07:38| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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