2011年08月26日

もののあわれについて。532

なほ才をもととしてこそ、やまとだましひの世に用いらるる方も強う侍らめ。さしあたりては、心もとなきやうに侍れども、つひの世のおもしとなるべき心おきてをならひなば、侍らずながらも、かくてはぐくみ侍らば、せまりたる大学の衆とて、笑ひあなづる人もよも侍らじと思ふ給ふる」など聞え知らせ給へば、うち嘆き給ひて、大宮「げにかくも思し寄るべかりける事を、この大将なども、「あまりひきたがへたる御事なり」と、かたぶき侍るめるを、この幼なごごちにもいと口惜しく、大将、左衛門の督の子どもなどを、われよりはげろふと思ひおとしたりしだに、皆おのおの加階しのぼりつつ、およずけあへるに、あさぎをいとからしと思はれたるが、心苦しく侍るなり」と聞え給へば、うち笑ひ給ひて、源氏「いとおよずけても恨み侍るななりな。いとはかなしや、この人の程よ」とて、いとうつくしと思したり。源氏「学問などして、すこし物の心え侍らば、その恨みはおのづから解け侍りなむ」と聞え給ふ。




やはり、学問を土台として、思慮分別の能力が、世間に重んじられることも、強みです。当初は、もどかしく思われましょうが、将来、国の重鎮になるための、心得を身につけたならば、私がいなくなった後も、安心できます。今のところは、官位も、軽いものですが、私が面倒を見ていますから、貧乏な大学の学生と笑い、馬鹿にする人は、いませんでしょう。と、思います。などと、説明する。
大宮は、ため息をつき、なるほど、そのような考えがあってのこと。当然ですね。こちらの大将、昔の頭の中将のこと、なども、夕霧官位が、あまり例のないことと、納得がゆかず、不審に思っているようです。本人の幼い心も、大変残念で、大将や左衛門督の子供たちなどを、自分たちより身分が低い者と、見くびっている者でさえ、皆それぞれ、官位が進み、出世して一人前になってゆくのに、六位のあさぎ、を、大変辛いと思っていますのが、気の毒で、かわいそうに思われるのです、と、申し上げる。
源氏は、笑い、たいそう、生意気になって、不平を言うものですね。本当にたわいのないこと。まだ、そんな年頃なんですねと、言い、まあ、かわいいものです、と、源氏は、思う。
学問などして、少しものの道理がわかってきましたら、その恨みは、自然となくなるでしょう、と、大宮に、申し上げる。

やまとだしひ
ここでは、思慮分別の能力を言う。世間を渡る才能や、常識的な判断力、政治的な所作のことである。
大和心と、同じ意味である。
だが、後世、大和魂は、日本人の、精神的支柱として、武士道などから、その観念が発展してゆく。
日本人として、備え、身につけるべき、心得である。




あざなつくることは、東の院にてし給ふ。東の対をしつらはれたり。上達部殿上人、珍しくいぶかしき事にして、われもわれもと、つどひまいり給へり。はかせどもなかなか臆しぬべし。源氏「はばかる所なく、例あらむに任せて、なだむることなく、きびしう行へ」と仰せ給へば、しひてつれなく思ひなして、家よりほかに求めたる装束どもの、うちあはずかたくなしき姿などをもはぢなく、おももち、声づかひ、むべむべしくもてなしつつ、座につき並びたる作法よりはじめ、見も知らぬさまどもなり。




字、つまり、あざな、をつける式は、東の院でなさる。
東の対を設備された。
上達部、殿人上は、めったにないことと、どんなものか見たいと、我も我もと、集まった。博士たちも、これでは、かえって、気後れするだろうと、思われる。
源氏は、遠慮せずに、決まりがある通りにして、容赦なく、厳格に行えと、仰せられたので、無理に、平静を装い、借り物の、衣装が身に付かず、不恰好な姿も、恥ずかしがらず、顔つき、声までも、わざと、儀式ばり、ずらりと並ぶ。皆、見たこともない、連中である。

字、あざな、は、文章道に入学する者が、中国風に、好きな文字を選び、自称とするもの。



posted by 天山 at 17:28| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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