2011年08月19日

神仏は妄想である。348

古代日本の考え方によれば、血統上では先帝から今上天皇が皇位を継承した事になるが、信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、等しく天照大神の御孫でいられる。御身体は御一代毎に変わるが、魂は普遍である。天照大神との関係は、ににぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である。
折口信夫

肉体は、変われど、その肉体から肉体へと継承される、魂は、不変であるという。
そして、その、魂を、永遠の、天皇霊というのである。

血統上ではそこに「皇位」の継承が考えられるが、しかし信仰上からは不変の「魂」の継承のみが基本型であるといっていることである。天皇の魂の不変性を儀礼的に保証するものが、すなわち毎年繰り返し行われる復活鎮魂の祭としての新嘗祭や、大嘗祭なのである。
山折哲雄

しかし、この折口の考え方が、津田の古代史研究の手法、および、天皇と、皇位論と、真っ向から、対立する立場にあると、山折氏は言う。

津田が、記紀神話を、呪術、宗教的儀礼から、廃したのを、折口は、それを通して、解釈したということである。
が、私は、ここで、どうして、それほど、宗教的儀礼という言葉などに、拘るのだろうかと、思う。

結論を言うと、その儀礼は、伝統なのである。
伝統として成長したのである。

津田は、上代において、死者を、カミとして、祭ることもしなかったと、断言する。
当時の人間の間では、肉体から遊離する霊魂のあるこが信じられていたが、されはあくまで、タマと、称せられていた。

私も、そうでいいと、思う。

死せるもののタマ、祖先のタマとして「カミ」として祭礼の対象とはせられなかった。皇室においても同様で、明治時代になるまでは、歴代の天皇のタマを「カミ」として祭ることは無かったのである。だからイセ神宮とても単に皇室の第一祖を祭ったものではなく、それらの祭られたのは太陽とせられていたためである。
津田

そして、カミと、タマの、機能をも、根源的に区別したという。

このことを通して、カミに対する信仰、すなわち祖先崇拝の存在をも否定したという。

津田の残したものは、天皇の地位は、皇位の永遠の尊厳性、すなわち、万世一系のみが、残された。

それに対して、折口は、タマとカミをもって、同根の信仰から発したという。
それは、カミと、オニとは、タマが発した、善と悪の二方面に分化したものであるという。

折口の、考え方には、常世神、まれびと、という、考え方に、行き着く。
常世神とは、海の彼方から、常世の国から、年の一定の時期に、この国にやってくる、神のことである。それが、変化して、山からくる神、空からくる神という、観念ができあがったというものである。

それらの、カミや、オニは、もとを正せば、タマであるという。

であるから、折口は、天皇霊は、カミであると同時に、タマでもあると、考えた。

毎年のように、行われる、タマフリ、タマシズメという、鎮魂儀礼は、天皇霊の永遠の継承を実現するための、聖なる技術であると、考える。

これは、あまり深入りしないでおく。

共に、学者であり、それは、一つの仮説である。
私は、両者共に、納得するものがある。

折口は、民俗学からの、観点であり、津田は、歴史学からの、観点である。

ただ、津田の、先祖崇拝、つまり、祖霊のカミ観念を否定したということに、誤りを見る。

タマが、カミに、変容する。
それが、日本の伝統である。

肉体を失えば、タマ、魂になり、そして、時間を経て、カミに、変容する。
そして、そのカミとは、自然、天地自然のことである。
その、象徴が、太陽である。

太陽崇敬は、上代以前よりの、行為であり、所作である。

日本の、伝統的行為には、宗教観念は、全く無い。
それは、両者共に、同じである。

目に見えるものから、見えないものを、推察した形跡がある。
静かに、自然を見つめていれば、そこに、自ずから為る、姿が、見えてくるという、説明である。

死ぬ、ということを、理解するのに、自然を見つめた。
そこから、自然に隠れるという、考え方に至る。
天地自然の中に、すべてがある。

つまり、天地自然を超えたところには、何も無い。
だから、唯一超越した、存在は、無い。

そして、太陽を崇敬することで、超越した、神観念を必要と、しなかったのである。

記紀神話に書かれる、神々の名は、すべて、想像の産物である。つまり、妄想である。
記紀神話の神は、妄想なのである。

そんな神は、この世の、どこにも、存在しない。
するはずが無い。

存在するのは、生きた人間と、死んだ人間と、天地自然だけである。

神道は、それを、ただ、所作にして、伝えてきた。
伝えて、統べてきた。

天皇の存在は、その所作の象徴であり、その存在は、日本民族の智慧である。

なにごとの おわしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる
西行が、伊勢神宮を参拝した時に詠んだ歌である。
ただ、その天地自然の、かたじけなさ、というものを、感じる心。それが、神道の真髄である。

それは、場所を指定しない。
また、建物も必要としない。

いつでも、どこでも、その、かたじけなさ、という気持ちを、感じることができる。
そこには、一切の妄想はない。




posted by 天山 at 16:48| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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