2011年08月09日

がんばらなくていい東北 松島被災地の旅 5



 われ言はん言葉もなくていたづらに口を閉じたり、いと口惜し―――『笈の小文』の一文である。松尾芭蕉が旅の第一の目的地、松島についたときの心中を吐露したもの、と言われる。

 芭蕉は松島の風光明媚さに心をうばわれ、このように思った。
 私は、松島海岸から一本道を奥に入った、東名の被災ぶりを見て、同じことを思う。
 表す言葉がないのである。美しさの極みも言葉にならないが、もの凄まじさの極みも、同じく言葉にならない。

 言語化の野心を今はあきらめ、率直に旅の先をしるした方がいいだろう。
 東名の集落を一周したあと、川を渡って、活動場所である永松さんの実家へもどった。
 すでに炊き出しははじまっていた。
 それまで人を見るのがまれだったのに、どこからともなく現地の人々が集まってくる。
 庭にはブルーシートがひかれ、キャベツやチンゲン菜などの野菜、台湾から来た台湾茶などの支援物資が積まれている。ひと家族一個まで、と立て看板がある。とはいえ決まりはゆるやかなようで、人によってはいくつも持って帰っていた。活動の最後に、少し余りが出るほど、野菜類は豊富だった。

 山形の新庄から来たらしい、そばの炊き出し隊がそばをゆでる。中華そばのような麺である。大鍋もあり、手馴れた様子だった。

 ゆで上がるまでに少し時間があった。
 永松さんが、子供たちとすいか割りをやるという。
 道の真ん中にビニールシートが敷かれ、すいかが置かれた。
 そこで問題が起きた。すいかがあっても、叩く棒がない。
 
 何かかわりになるものが無いか、探し出す永松さんだった。
 木刀のような、ちょうどいい棒…
 いざ探すとなると、見つからないものである。
 庭の脇に、角材があった。長すぎるので、ボランティアの男の人が、ひざを使ってへし折った。少し細すぎて、すいかが割れるか、心もとなかったが、仕方ない。すいかと棒がそろい、すいか割り大会がはじまった。

 子供たちが、大盛り上がりしている。
 一列に並び、自分の番をいまかいまかと待っている。
 両脇には親御さんが立ち見している。

 活動のはじまる前、永松さんから、かるく今回の目的をうかがっていた。
 何とか人の集まる機会をつくりたい。互いに情報交換ができる場が欲しい。
 情報交換が、被災地において、どれほど重要か、翌日にくわしくきいた。

 炊き出しや、支援物資の手渡しを通じて、散り散りになった人と人をつなげようとしている、と私の目にはうつった。

 すいか割り大会がはじまった。
 子供たちの歓声があがる。
 しかしふと、何かが足りないと思った。
 盛り上げ役が永松さん一人しかいない。
 催しものにつきものの、司会役などがいないのである。永松さんは主催者、場所の提供者、さらに司会の、一人三役以上やっている。そこで私は思いついて、二階へ上がり、手荷物から笛を取り出した。

 超初心者なので言うのもおこがましいが、私はお祭囃子の笛吹きである。
 こういう子供たちの賑わいには、BGMがあるとなおよい。
 もちろん無いなら無いでいい。しかしあると、ちょっとは雰囲気が出る、はず。
 
 おかめ、ひょっとこを踊らせる、ノリのいい曲を吹き出した。永松さんは、やってくれとも、やるなとも言わない。もともと笛を吹くのは私の日課なので、自然とそれをやったまでのこと。

 きかせるでもなく、子供たちの、棒を振り上げ、振り下ろすに合わせて、笛を吹く。太鼓のばちの上げ下ろしと同じなので、何のことはなく合う。まさかこんなところでお祭囃子の経験が生きるとは。

 てきとうなところで吹き止め、笛を手にして立っていると、おじいさんが寄ってきた。「あんた、神楽やるのかい」ときた。神楽というか囃子をやります、というと、「神楽の囃子かい」と、うなずいている。少し違うが、まあいい。こちらにも神楽あるんですか、ときくと、あるある、という。意外なところから、現地の人との交流がはじまった。

 おじいさんは笛を手に取り、穴は七つか、と眺める。その一言で、祭りのわけ知りとわかった。日本の祭笛には、大きく分けて七つの穴があるものと、六つのものとがある。たとえば大阪のだんじり囃子だと六つである。それぞれの地域によって、七つと六つの違いがある。
 つまりおじいさんのやる神楽(?)では、笛の穴は六つなのだ。
 仙台のお祭でやるという。笛はやるんですか、ときくと、やらないと言いつつ、穴をふさいで息を吹きこむ。音が出た。普通、笛は、多少なりと経験がないと、少しも鳴らないものだ。おじいさんは笛の経験があるのが、それでわかる。

「長いね」とおじいさん。
「ええ、うちの方では、長くて大きい方が音が大きいというので」
「いやいや、そんなことはない。短くても、高い音がよく鳴るもんだ」

 大先輩から言葉をもらい、嬉しくて何度も相づちを打った。

 芸というのは、こうして人との交流のきっかけになる。そばがゆで上がった。おじいさんは、「いい匂いがしてきた」と、笛を返してそばを食べにいった。花より団子。やっぱり万人を喜ばすのはおいしい食べ物だ。



がんばらなくていい東北 松島被災地の旅 4



 この稿を起こすにあたって、非常に悩んでいる。
 自分の見た光景を、正確に表すことはできるとは思えない。
 雰囲気を知るためなら、写真を見た方がはやい。

 しかしこれだけは言える。
 テレビのニュース、ネット映像、雑誌の写真、そのどれ一つも、被災地の真の姿を伝えきれていないと。
 それがメディアの限界であり、もし情報発信者が限界に気付いてないとするなら、それは傲慢というものだ。
 それから、もう一つ。
 どんなメディアも、大手になればなるほど、あらゆる利害関係が絡んでくる。視聴者、読者に提供する情報にも、バイアスがかかる。震災に限らず、報道とはそうしたものだ。自分はなにも偉そうなことを言うわけじゃない。
 ただ、個人的な体験において、これまで持っていた被災地のイメージと、じっさいに目で見、肌に感じたそれとは、全く異なっていた、と言いたいだけだ。

 東名の活動場所、永松さんの実家付近から、橋をわたり、川向こうに出た。
 視界はどこまでも開けている。
 沖合いの小島まで見える。
 北東を向くと、どこまでも干潟のようなものがつづいていた。
 佐賀県の有明海を、どことなくほうふつとさせる光景だった。
 てっきり、もともとそういう土地なのだと思っていた。
 実のところは、その干潟らしき広大な浅瀬は、水田だった。
 水田が、ずっと矢本の方まで広がっていたようだ。

 言葉が見つからず、もどかしい。
 どう見ても海辺の浅瀬にしか見えないものを横目に、両脇に半壊、全壊した家屋の立ち並ぶ未舗装の道路を歩いて奥に入りこんだ。二階の屋根が地面に落ちている。電信柱が横倒しになっている。鉄のかたまりになったトラクター。農耕用なのは、自分の育ったのも米どころだったのでわかる。
 漁協の庁舎があった。
「解体OK」と貼り紙のある廃屋。「見かけました」、「探しています」の貼り紙。飼い猫の三毛猫をよく見かけるので、誰か飼い主を知っていたら連絡下さい、とある。また、自分の飼っていたシャム猫をさがしている、もし見つけたら連絡を。

 ペットも被災したのだ。
 飼い犬や、飼い猫のための、ドッグフード、キャットフードも、支援物資として届く。
 札幌で犬のしつけサービスの店をしている知人も、ペット支援で被災地入りした。
 誰しも、まず自分の大切にしているものを手がかりに、被災者のことを心配するのだろう。
 子供のいる人なら、子供は大丈夫か、と思うはずだし、車が好きな人なら、車は大丈夫かと思う。

 そういった意味で、私がどうしても気になったものがある。
 それは、神社である。
 東名の集落の奥は、港になっていた。
 へりは海に没しており、使いものにならない。
 その中に、赤い小さな鳥居があった。
 海に面と向かって、八大龍王の石碑がある。
 江戸時代の年号が刻まれているので、よほど古いものだとわかる。
 誰かが津波のあとに建て直した形跡はない。
 鳥居と石碑が、これだけ海に面していながら、倒れなかったのは、今から思うと不思議でならない。
 
 さて、集落の人が散り散りになった今、誰が祀り事をするのか。
 気がかりだった。

 もっと気になる神社も近くにあった。
 そちらの方が由緒ある古社のようだ。
 平らかな集落の中で、そこだけ団子を置いたように、丸山と呼ばれる山がある。
 そこが鎮守の森になっていて、後で調べたことだが、塩竈神社があった。
 山の参道へつづく道の前に、古い石の鳥居があった。
 げたの歯のような、ニの字の鳥居の上の一本だけ、消えていた。

 神様も被災したのだ。
 東名集落の、祖霊社のようなものだったはずだ。
 つまり村を切り拓いた先祖を祀る神社である。
 漁師町というのは、神事や祭りを大切にするものだ。
 先祖の祀りを絶やすということは、自分の足首から下をなくすようなもの。
 放っておいていいはずはない。

 集落の中心あたりに、墓地の残骸もあった。
 墓石はみな倒れ、どれが誰のかもわからない。
 初老の女性が、ぼんやりと入り口あたりにたたずむのを見た。
 無縁仏がたくさん出ていないといいが…

 塩竈神社跡に入ろうとすると、くもの巣が頭に絡み付いてきた。それ以上なかへ踏み込めなかった。そうしたものを目にするにつけ、ふつふつと、被災地でやるべきことが浮かんできた。

 神社は、必ず系統がある。たとえば八幡様なら、その大本は大分県の宇佐八幡である。全国に4万社を数える八幡社も、すべて宇佐八幡から分祀され、さらに分霊し、と分かれたものだ。

塩竈神社と名があるなら、きっと塩竈市の大社、塩竈神社からの分祀であろう。

 何百年前に分祀したのかはわからない。それでも祀る人がいなくなり、とうぶん戻って来ない以上は、いちど本社へお返しするべきではないか。神様も、迷子になると、荒れる。妙な神がかりなど起こすのは、たいてい迷子の神様である。戦前に、国家に叛旗をひるがえし、弾圧を受けた大本教の教祖にかかったのは、祀られなくなったアイヌの神だと言われている。

 大量の無縁仏も、どこかの寺が引き取った方が無難だろう。
 目に見えない世界のすじを正すべきだ。
 どうして、目に見える家屋の解体も済んでいないのに、目に見えないものまで気にかけるのか、と言われるかもしれない。ぴんと来ない人は、来ないだろう。それでいい。それぞれこだわるものは違う。人の食べ物も行き渡ってないのに、ペットフードを配ることが、問題ではないのと同様だ。

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