2011年08月08日

がんばらなくていい東北 宮城松島被災地の旅 3 (代筆・事務局長)




 仙石線のどんづまりまで辿り着いた。
 正確には次の駅まで開通しているが、その先へ行く者は、ここで降りなくてはならない。
 松島海岸駅である。

 代行バスは改札を出てすぐの駐車場から出ていた。
 乗ろうとすると、ちょうど満席になり、次を待ってほしいと言われた。
 仕方なく、バス待ちの列に並んだ。

 後に知ったのだが、代行バスは1時間に1本か、2本しか出ていない。
 逃せば次をじっと待たなくてはならない。
 それを知ってか知らずか、乗り遅れた中年の男が、バスの係員にくってかかった。
 ものすごい剣幕で「納得がいかない」と怒りをぶつける。小さな孫を連れていた。地元の人だろうか。しかしいくら怒鳴ったところで、かいはない。係員は黙ってきいていた。やがて運良く臨時バスが到着した。

 バスに乗ると、こんどはがら空きだった。
 前のバスは満員だったのに。
 怒鳴っていた男も孫と一緒に乗った。

 バスの乗客数がまちまちである以上、本数を増便すれば、それだけ赤字バスが出るだろう。
 JR東日本も、赤字覚悟で代行バスをやっているのは、一目瞭然だ。客も会社も苦しいところだ。互いに痛み分けである。私のような旅行者には、しかし無いと困る。タクシーを使えば、東名まで2千円はかかる。

 バスの窓から、今夜の宿である大松荘が見えた。ほんとうに駅の真ん前である。てきとうに選んだのだが、幸運だった。

 走りだしたバスの客をそれとなく確かめる。
 何国人かわからない、おしゃれな服を着た黒人青年。ばっちりヒップホップ系のファッションで決めた、不良っぽい若者。ボランティアらしい女の人もいた。
 
 山と海が接している。日本一の名勝、松島の絶景が窓の外に展開する。観光客の姿もちらほら見える。西行法師もひき返したという、陸奥(みちのく)へ入っていく。
 かつての仙石線の盛り土が見えた。これは、ダメだ、と思った。津波の来た海岸線にぴったり寄りそい過ぎている。運行再開の見通しが立たないのも道理だ。もう一度津波が来たら、どうするのか。いまはJR東日本社内でさまざまに検討しているらしい。

 うねりながら続く山道が、いくつかの峠を越した。とつぜん視界がひらけた。そこがその日の活動場所、東名であった。

 永松さんに携帯電話で連絡すると、活動場所はバス停留所のすぐ近くだという。永松さんのご実家の庭である。走って迎えに来てくれた。1時に着く予定だったが、代行バスの遅れなどで、2時ごろについた。炊き出し開始は3時である。

 東名に来るのはもちろんはじめてだ。予備知識は全くない。国道が集落のあいだを一本通っていて、山側と海側を分けている。どうやら港もあるようだが、バスを降りたところからは分からない。津波がほんとうに来たのか、ぴんと来なかった。山側の集落は一見して無傷に見える。

 永松さんに連れられて活動場所に着いた。二階建ての一軒家である。一階は、たたみがはがされており、床下が丸見えである。冷蔵庫やガスコンロの他は、家財道具はいっさい取り払われている。ご両親は仮設住宅に移った。

 荷物は二階に置いて下さい、と言われるままに二階にあがった。以前、来た人が下に荷物を置いていると、支援物資と間違われたのか、誰かに持っていかれたのだとか。二階にはたたみが残り、テーブルや、テレビもあった。バルコニーに荷物を置かせてもらう。二階の窓から見える近所の家は、そこかしこが崩れて半壊の有様だった。珍しく思い、デジタルカメラで写した。まだ私も現実が見えていなかった。

 3時の活動開始まで、少し時間があったので、永松さんにことわって、辺りを視察に行った。川の向こうに行くといいですよ、いろいろ見れますから…、永松さんはさらりという。かるく返事をかえして歩き出した。
 
 川のほとりに駅らしいものがあった。
 被災地では、○○らしいもの、にたくさん出会う。
 線路はなく、草の茂るにまかせてある。まさか、かつての仙石線東名駅じゃないよな、と訝しく思いつつ、通り過ぎた。そこがれっきとした駅だったのは、後に永松さんから知らされた。

 橋を渡った。欄干がひしゃげ、竣工昭和39年とある石が、横倒しになって、川におちる寸前で止まっている。そこから先の光景は、果たして正確に描写できる作家が日本にいるのか、疑わしいものだった。

 いろいろ見れますから、という一言の重みがじわじわと感じられてきた。



がんばらなくていい東北 宮城松島被災地の旅 2(代筆・事務局長)


 はじめ、被災地入りは、2泊3日の予定だった。
 しかし7月31日の宿がとれず、8月1日のみ空きがあった。
 現地に食堂があるかもわからなかったので、二食付で予約した。
 
 震災後いち早く営業再開した、「大松荘」である。
 松島海岸駅の目の前にあり、JR仙石線で被災地入りする場合、至便である。
 仙石線松島海岸駅〜矢本駅間は、津波で線路がめくれ、運行できない。

 いまはおよそ一時間に一本、代行バスが出ている。
「大松荘」はそのバス発着所からも、目と鼻の先だった。
 むろん予約するときは、そんな事情はわからない。たまたま電話をかけただけである。一泊二食付きで13.600円は、観光客ではない私には正直高かった。それでも、お金を使うことも復興支援になると思い、迷うことなく決めた。

 さて宿も決まり、あとは行くだけという段になって、永松さんより連絡があり、31日に東名(とうな)で炊き出しがあるという。その時に衣服支援をしてはどうか、ということで、夏物のズボンや、ハンドタオルをバッグ2個分詰めた。

 8月1日。朝8時に事務所を出た。
 くもり空で、それほど暑くはなかった。
 通勤客で満員の東海道線で東京駅に向かう。

 東京駅で東北新幹線に乗り換える。
 ホームでは、停車中の新幹線の周りに、人だかりができていた。
 駅員にきくと、人気のある「はやて・こまち号」だった。
 鉄道マニアが群がっていた。
 全席指定なのであきらめ、隣のホームで、山形の新庄まで行く便の自由席車両に乗り込んだ。仙台出身の友人に、仙台止まりの便より、もっと先まで行く便の方が速いときいていた。

 自由席はがらがらで、三人分の席を一人占めできた。
 一人分のスペースが広く、椅子の背中もその分ながながとリクライニングできる。
 ボタンが二つついていて、Bボタンを押すと、座椅子部分も前の方にスライドする。
 楽ちん至極。

 自由席車両に乗る前に、指定席車両の中が見えたが、かなり席は埋まっていて、きゅうくつそうだった。高い指定席より安い自由席の方がいいとは、盲点である。ひとり、得した気分になって、思い切り身体を伸ばし、終点の仙台まで高いびきをかいた。

 途中、福島に止まった。
 原発事故がいまだ収束しない福島である。
 くもり空であったせいか、どことなく沈うつに見えた。

 横須賀に住んでいる知人の話だ。
 家の近くに、核燃料の倉庫がある関係で、放射能測定器があるという。
 ふだんは、基準値以下の、ゼロ近くを這っている測定線が、震災の後、いきなり急上昇して、上限をふりきってしまった。2日、3日と経つうちに、半分に減り、4分の1に減りしていったが、いまだ震災前の数値にはもどっていない。

 放射能量計の針がふりきれたとき、テレビでは福島の原発建屋が爆発する映像が流れていた。どう考えても、放射能量の急上昇は、その爆発と関係があるとしか思われない。それなのに政府は、人の一年に浴びる放射線量以下の数値だの、X線検査で照射する程度だのと繰り返す。
自分たちも被爆させられたのだ、と彼は思い知った。

 そう、私たち、震災のとき関東にいた人間は、被爆したのである。
 広島・長崎と同じ被爆者になった。
 だからといって、どうという話でもない。
 30才以上の成人は人生を自分で決めるべき、という考えに私は賛同する。
 ただ、乳幼児や、子供たちとなると、話は別である。

 主にヨーロッパから来た在日外国人が、本国からの緊急通知で、あわてて被爆圏外に逃げたのも、今から思えばあながち間違ってはいない。外国の政府やメディアは、日本国民との利害関係が薄いので、ありのままを発表したのだろう。

 もし自分が外国に出ていて、同じ目に遭ったら、もちろん脱出する。
 ただ今回は他でもない、自分の国の領土内でのことだ。
 何が起きても、どこへ脱出する場所もないし、そんな気もない。

 福島のことから横道にそれた。
 旅の先を急ごう。
 仙台に着くと、在来線に乗り換え、松島海岸駅へ向かった。
 地図で見るとよくわかるが、JR仙石線は、今回津波の来た海岸線をずっと石巻までつづいている。松島の海岸線を通っていく。
 松尾芭蕉があまりの美しさに、俳句をつくる気にならなかったというほど、日本で有数の風光明媚な路線なのだが、今回はそれが災いした。松島海岸駅から矢本駅まで、復旧に5年はかかると言われている。また、観光資源でもある、松島の島々が、津波から人々を護った話しも、後にきくことになる。

 仙台の街並みは、震災など何もなかったように、普段と全く変わらない。
 本当に自分は被災地へ向かっているんだろうか。
 キツネにつままれたような気分だった。

 それが、塩釜を過ぎたあたりから、少しずつ津波の爪跡が見えだした。
 窓の外の海ぞいの風景が、じわりじわりと異様さを増してくる。
 いよいよか。肌が粟立つのを感じた。

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