2011年08月17日

天皇陛下について。86

日本では、古来、天皇を「おおやけ」といい、これを漢字で書く時「公」の字をあててきた。これは、天皇を単に一私人とみず、国そのものを一身に体現なさる唯一の公人とみたからだ。この唯一の公人にお仕えする者を「おおおみ」即ち大臣といったのであるが、日本国憲法はこの歴史的伝統を活かして、これに民主主義を加えたものとみなければならぬ。だから、大臣というのは、古くから単なる私臣ではなく、国臣、言いかえると、公僕とされたのである。
里見

今から、30年ほど前に、天皇は、無用であるという、考え方が、マスコミを通して、広がったことがある。
その時、私は、それに対して、何か特別な考えはなかった。また、それを、論じることの言葉の世界も、持たなかった。

ただ、大人たちの、話を聞くだけである。
たが、どうも、それらも、天皇について、本質的なことを、知ることにはならなかった。
勿論、学校でも、全く、天皇に関しての、話はなかった。
あるとすれば、天ちゃんなどという、先生が、ちゃかす程度である。

全くもって、不敬であったと、思う。

天皇は、毎日のんびりと、暮らしている・・・程度の、認識である。

ところが、天皇陛下について・・・知ることになると、仰天する。
昭和天皇が、生きておられた時代である。

更に、昭和天皇崩御に際して、私は、戦慄を覚えた。
特に、共産、社会主義に影響を受けた人たちの、態度を見て、唖然とする。

そして、彼らの話を聞いて、彼らは、本質的な天皇の存在を知らないと、判断した。
それは、正しかった。
彼らは、軽い洗脳を受けていたのである。

何か、社会の、悪いこと、すべてが、天皇によりなったという、感覚を持っていた。
特に、戦争責任・・・

その後、長崎市長の発言である、天皇戦争責任・・・
そして、右翼系の男に、市長が、銃撃されるという、事件である。

遅まきながら、私は、天皇の戦争責任について、調べるようになった。
つまり、戦争の開始から、敗戦までの、流れである。

日清、日露戦争から・・・
明治維新・・・
天皇の存在と、その考え方・・・

そして、大東亜戦争のこと・・・

どんどんと、新しい情報が、公開される。
私は、戦争責任は、国民にあると、判断した。

すべての、国民に、戦争責任がある。しかし、国民の一人一人には、それを、阻止する力などない。その国民を煽ったのが、マスコミ、特に新聞である。

更に、深めて行くと、アメリカの策略である。
日本を、戦争へと、追い込むための、計画。

昭和天皇に対する、尊敬の念が、畏敬の念に変わる。
更に、拝するという、思いに変わる。

世界に、唯一の君主であらせられた、昭和天皇の、有り様である。

君主とは、この方のことを、言うのだという、思い。
誠の、君主であらせられた。

名のみの、君主は、数多いが・・・
そして、矢張り、私は、君主というより、天皇という、称号、尊称が、最も、真っ当であると、判断した。

天皇は、世界に一人のみ。それが、日本の天皇である。

天皇の歴史の中で、国民を、公宝、おうみたから、などと、呼ぶ、君主は、どこの世界にも、居ない・・・

支配する者と、支配される者・・・

自分の利益にならない国民ならば、その人権、人命などは、物の数ではないという、君主を、多く知る。

昭和天皇の、お言葉に、歴代の天皇は、国民が、決定したこと、つまり、国民に選ばれた政治家が、決定したことに、反対することは、なかった、云々・・・とある。

すでに、日本は、古来から、民主的であった。
それを、天皇が、自然発露として、行っていた。

更に、大東亜戦争開始に、天皇は、考え抜いて、そして、了承する。
その前には、戦争回避の、徹底した、行動を取られた。
更には、この身が、あれば、国民を救えるとの、思いである。

敗戦。
御前会議の、後で、涙を流す、陸軍大臣に、私が、国民を救う・・・と、言明する陛下。

クーデター、内戦を、嫌い、その身を、かけて、国民と、日本を守るという、気概。
まさに、我らが天皇陛下で、あらせられた。

私は、それを、知った。
それは、私が、独自に学んだものである。
誰に教えられたのではない。

昭和天皇は、天皇というものの、存在の、真髄を体現せられて、生きるという、使命を頂いたのだという、思いがした。

戦後、天皇陛下は、死ぬまで、針の筵に、生きたと、思う。
それは、すべての、責任を、一身に負うという、覚悟である。
このような、天皇を、頂く日本国民は、実に、幸せであると、確信した。

私は、天皇制云々に関して、語る者ではない。
ただ、私は、天皇を、上、かみ、とし、私を、下、しも、として、認識するものである。
陛下の、御心に、適うように、生きたいと、思うのである。
それが、私の日本人としての、誇りである。

日本は、天皇陛下を、頂く伝統の国です。
私は、海外にて、そのように、説明する。

それでは、天皇とは、何か・・・
天皇とは、御親、みおや、つまり、祖霊の思いを、代弁する存在です。

何を言うのか・・・
英語にすると、スピリチュアル・ロゴス・セイ・スーパーエンペラー
イッツ・ジャパン・ナンバーワン・スピリット・スーパーエンペラー

そして、宗教ではなく、伝統の国であると、繰り返す。

それは、キリスト教、イスラム教徒、あらゆる宗教に対して、決して、敵対するものではないとの、思いからである。



posted by 天山 at 21:05| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月18日

神仏は妄想である。347

大正時代から、昭和にかけて、精力的に、記紀神話の研究を続けた、津田左右吉という、学者がいる。

津田は、最終的に、二つのことを、結論付けた。

その一つは、日本の上代において、宗教的性格を持つ、祖霊崇敬の観念はなかったこと。
つまり、伊勢神宮の祭祀は、太陽神崇敬が本来のものであり、皇室の祖先崇拝の根本であるとするのは、後世の創作である。

その一つは、日本の政治的君主にカミの性質があるというのは、その地位についてのことであり、その地位にある、君主が個人として、カミではない。皇室の地位が、永遠の存在であるのは、太陽が永遠であることの、象徴としてみられたことである。

津田は、徹底的に、記紀神話の解釈に、宗教的解釈の要因を持ち込むことに、反対した。実証的合理精神である。

これに対して、深い呪術と、宗教的解釈を、試みたのが、折口信夫である。

しかし、両者の目の付け所が、違う。
私は、両者の説を取る。

折口信夫は、その伝統行為の中に、それを、見出したのであり、津田左右吉とは、別のテーマの取り方である。

津田は、カミの語源について、ミという、語根に、カという、プレフィックスがついた言葉であるとした。

本体の、ミは、霊威ある有形の霊物、無形の精霊であり、それ自らが、呪力を持つと、信じられたという。
また、祭祀祈祷の対象とされたものを指す、呼称である。

山を、ヤマツミ、海を、ワダツミと呼ぶ。
その、ミである。

ミを精霊と考えたという。
カミは、人の形をとることができなかったゆえに、古い先祖や、人間を示すということがなかった。

カミが、擬人化されるのは、カミの代の物語が、作られてからである。
つまり、創作である。

アマテラスオオミカミは、天を照らす大いなるカミという、カミは、第一祖としての、太陽であった。が、神代の物語が成立する過程で、この太陽という、カミは、説話上の人間として、登場するという。

それが、オオヒルメノミコトであり、大いなる光明であり、高貴の地位にいる人である。

上記、私は、宗教的観念がないというのに、賛成する。

ただし、二つ目の、説には、反対する。

津田は、大和朝廷以前の、富士王朝の存在を知らない。または、それ以前の、古代史は、正史となり得ないとの判断であろうか。

大和朝廷以前の、歴史的事実を、記紀神話が、凝縮して、物語化したのである。

カミの、言の葉を、分析すると、かアみイ、である。
母音が、ア、イ、である。

以前、大和言葉のカミを説明したが、それに加えて、私は、言う。
アとは、開く、拓く、啓く、披く、意味である。
イとは、受ける、請ける、享ける、意味である。

つまり、カミとは、開いて、受けるという、意味になる。

さて、天照は、カミであると、同時に、ミコト、つまり人間でもあるという、両面で、考えられるようになったと、津田は、言う。

それは、第一祖にして、言えることで、第二祖からは、ミコトであるとの、説である。

それではなぜ第一のカミたるアマテラスがミコトとして擬人化され、第二祖以降の皇祖であるかのように説話化されたのかといえば、それは明らかにこの神代の物語が皇室の由来を語るために作られたものであり、日本の国家の統治者としての君主の由来を語るために作られた政治的フィクションであったからである。
日本人の霊魂観 山折哲雄

ということになる。

それがあって、当然である。
統治者は、物語を必要とする。
その由緒が、由来が、必要である。

それは、統治者が変更するたびに、変更される。
しかし、日本の場合は、幸せなことに、今に至るまで、変更されていない。
それが、神話的共同幻想として生きているのである。

国家としては、実に幸せなことである。

津田は、伊勢神宮の祭祀が、太陽崇敬が本来のものである、というが、伊勢神宮だけではない。
日本のすべての、神社、神宮は、それである。

出雲大社のみ、大国主命である。

後世、様々な、カミを奉じるようになったが、それらは、すべて、創作、妄想のカミたちである。

そして、それは、あたかも、そのカミが、存在するかの如くに、振舞う、所作を行うことにより、その地域社会を、安定させてきたのである。
つまり、祭りである。

私が言いたいことは、津田の宗教的観念が一切ないという、考え方である。
そして、それが、伝統として、機能したことを、特に言う。

日本には、宗教的・・・西洋の宗教学で、言うところの、宗教の観念は無いのである。

それを、明確にしなければ、すべてを、誤るのである。
つまり、神仏は妄想なのである。

posted by 天山 at 20:34| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月19日

神仏は妄想である。348

古代日本の考え方によれば、血統上では先帝から今上天皇が皇位を継承した事になるが、信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、等しく天照大神の御孫でいられる。御身体は御一代毎に変わるが、魂は普遍である。天照大神との関係は、ににぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である。
折口信夫

肉体は、変われど、その肉体から肉体へと継承される、魂は、不変であるという。
そして、その、魂を、永遠の、天皇霊というのである。

血統上ではそこに「皇位」の継承が考えられるが、しかし信仰上からは不変の「魂」の継承のみが基本型であるといっていることである。天皇の魂の不変性を儀礼的に保証するものが、すなわち毎年繰り返し行われる復活鎮魂の祭としての新嘗祭や、大嘗祭なのである。
山折哲雄

しかし、この折口の考え方が、津田の古代史研究の手法、および、天皇と、皇位論と、真っ向から、対立する立場にあると、山折氏は言う。

津田が、記紀神話を、呪術、宗教的儀礼から、廃したのを、折口は、それを通して、解釈したということである。
が、私は、ここで、どうして、それほど、宗教的儀礼という言葉などに、拘るのだろうかと、思う。

結論を言うと、その儀礼は、伝統なのである。
伝統として成長したのである。

津田は、上代において、死者を、カミとして、祭ることもしなかったと、断言する。
当時の人間の間では、肉体から遊離する霊魂のあるこが信じられていたが、されはあくまで、タマと、称せられていた。

私も、そうでいいと、思う。

死せるもののタマ、祖先のタマとして「カミ」として祭礼の対象とはせられなかった。皇室においても同様で、明治時代になるまでは、歴代の天皇のタマを「カミ」として祭ることは無かったのである。だからイセ神宮とても単に皇室の第一祖を祭ったものではなく、それらの祭られたのは太陽とせられていたためである。
津田

そして、カミと、タマの、機能をも、根源的に区別したという。

このことを通して、カミに対する信仰、すなわち祖先崇拝の存在をも否定したという。

津田の残したものは、天皇の地位は、皇位の永遠の尊厳性、すなわち、万世一系のみが、残された。

それに対して、折口は、タマとカミをもって、同根の信仰から発したという。
それは、カミと、オニとは、タマが発した、善と悪の二方面に分化したものであるという。

折口の、考え方には、常世神、まれびと、という、考え方に、行き着く。
常世神とは、海の彼方から、常世の国から、年の一定の時期に、この国にやってくる、神のことである。それが、変化して、山からくる神、空からくる神という、観念ができあがったというものである。

それらの、カミや、オニは、もとを正せば、タマであるという。

であるから、折口は、天皇霊は、カミであると同時に、タマでもあると、考えた。

毎年のように、行われる、タマフリ、タマシズメという、鎮魂儀礼は、天皇霊の永遠の継承を実現するための、聖なる技術であると、考える。

これは、あまり深入りしないでおく。

共に、学者であり、それは、一つの仮説である。
私は、両者共に、納得するものがある。

折口は、民俗学からの、観点であり、津田は、歴史学からの、観点である。

ただ、津田の、先祖崇拝、つまり、祖霊のカミ観念を否定したということに、誤りを見る。

タマが、カミに、変容する。
それが、日本の伝統である。

肉体を失えば、タマ、魂になり、そして、時間を経て、カミに、変容する。
そして、そのカミとは、自然、天地自然のことである。
その、象徴が、太陽である。

太陽崇敬は、上代以前よりの、行為であり、所作である。

日本の、伝統的行為には、宗教観念は、全く無い。
それは、両者共に、同じである。

目に見えるものから、見えないものを、推察した形跡がある。
静かに、自然を見つめていれば、そこに、自ずから為る、姿が、見えてくるという、説明である。

死ぬ、ということを、理解するのに、自然を見つめた。
そこから、自然に隠れるという、考え方に至る。
天地自然の中に、すべてがある。

つまり、天地自然を超えたところには、何も無い。
だから、唯一超越した、存在は、無い。

そして、太陽を崇敬することで、超越した、神観念を必要と、しなかったのである。

記紀神話に書かれる、神々の名は、すべて、想像の産物である。つまり、妄想である。
記紀神話の神は、妄想なのである。

そんな神は、この世の、どこにも、存在しない。
するはずが無い。

存在するのは、生きた人間と、死んだ人間と、天地自然だけである。

神道は、それを、ただ、所作にして、伝えてきた。
伝えて、統べてきた。

天皇の存在は、その所作の象徴であり、その存在は、日本民族の智慧である。

なにごとの おわしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる
西行が、伊勢神宮を参拝した時に詠んだ歌である。
ただ、その天地自然の、かたじけなさ、というものを、感じる心。それが、神道の真髄である。

それは、場所を指定しない。
また、建物も必要としない。

いつでも、どこでも、その、かたじけなさ、という気持ちを、感じることができる。
そこには、一切の妄想はない。


posted by 天山 at 16:48| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月20日

神仏は妄想である。349

「神道」という言葉は面白い言葉である。しかしよくわからない。とても単純な言葉であるのに、その意味内容がよくつかめない。そのような言葉である。
神道スピリチュアリティ 鎌田東二

そんなことは、ない。
第三十六代孝徳天皇が、仏教と、区別するために、初めて、名づけたものである。

上記のように、考えるようになったのは、紛れも無く、西洋宗教学によるものである。

「神道」を素直に読むと、「神の道」と読める。それでは、その「神の道」とは何か?「神」は道を持っているのか?「神」はその「道」を作ったのか?「神」もまた「道」を辿る存在なのか?そもそもいったい、その当の「神」とは何ものなのか?そして「道」とは?
鎌田東二

そして、鎌田氏は、言語明瞭意味不明の「神道」を、二つの読み方を通して定義したい、と、書く。

一つは、「神からの道」もう一つは、「神への道」という。
「神からの道」とは、古来、日本人が「カミ」と呼び習わしてきた存在から生み出され、開けてきた「道」の謂であると、言う。
その意味では、「カミ」は「道」の元であり、「道」は「カミ」の転形である。「カミ」は存在の本質、「道」はその現象と言ってもいい、となる。

要するに、「カミからの道」とは、世界がこのようにあることの存在論やコスモロジーを表した言葉なのである。世界・宇宙・自然がかくのごとくに存在する。その存在のありさまを「カミからの道」として、「神道」と呼んだ。
鎌田

日本最古の存在論。「神道」の根幹に自然信仰があるのは、それゆえに、理の当然のことであり、そこには世界(自然)がかくあることの神秘不可思議への畏怖畏敬の念がもっとも素朴な形で表出されている、と、言う。

神道という言葉を、説明し、定義したいという、お気持ちは、理解するが、単に、神道とは、仏教と、区分けるための言葉である。

鎌田氏が、これほどに、言葉を尽すのは、饒舌な西洋思想に、影響を受けて、更に、作家的発想を持つからである。

まあ、それで、納得する人もいるのだろうが、最初の、カミ観念からして、欧米の神観念に、似るものである。

以前に、書いた、大和言葉の、カミという言葉の、意味を読み直して頂きたい。

日本の、カミという言葉は、日本の言葉である、大和言葉によって、説明するのが、正しい。

神道を、説明しようとする、熱意は、勿論、否定しない。
また、神話に関しても、誰が、どのように、解釈しても、いい。
専門家、学者だけが、正しいという訳ではない。
百人百様の、考え方があって、いいのが、神話である。

もう一つの「神への道」とは、「カミ」から発してきた存在の一つである人間が、存在の根源である「カミ」に還ってゆく「道」である。そこに祈りや祭りや感謝やお供えが生まれる。芸能・儀式・祭祀が発生する。人々の願いや反省や希求が現れ出る。
鎌田

このような、観念的なものではなかったはずである。
現実的、実際的なものだった。

あえて言えば、カミと、総称する場合は、祖霊たちのことである。
どうしても、神という存在の、観念論に、陥っている。

いや、神という言葉に、捉われている。
日本には、神というものは、存在しないと、言う。
その方が、すっきりする。

江戸時代に、国学として、屁理屈を捏ねた、その亜流に陥る危険である。
それは、仏教の教義に対決するために、言葉の世界を構築した、努力があるが、その必要は、無かったのである。

何せ、教義などは、皆無である。
そして、説明すれば、するほどに、神道から、遠のくのである。

理屈と、解釈を、重ねれば、重ねるほど、本質と、離れるのが、神道である。

何故、言挙げせず、と、宣言したのか・・・
それは、説明すれば、するほど、本質と、遠のくからである。
では、どうすれば、いいのか。

感じること以外にない。
それでは、説明にならない・・・
とは、西洋哲学の思考に慣らされた人たちが、言う。

説明好き、理論的・・・などなどと、そのような、観念を植え付けられたからである。
説明がつかないことが、あってもいいとは、考えない。
すべてを、説明し尽くすことが、正しいと、信じるのである。

人と人の、出会いなども、説明し尽くすことは、できないのである。
そして、説明しようとすると、変になる。
言葉にすると、伝わらなくなる。
沈黙することが、自然体なのに、騒ぐ事を、教えられたせいである。

言えば、言うほど、書けば、書くほど、遠のく・・・

それでは、私も、その一端を担うことになるのか。
違う。
私は、神道を、説明しているのではない。
神仏は妄想である、を、書いているのである。

それは、存在の本質とか、存在の歴史という意味を内包している。
鎌田

神道という言葉には、それがあると、書く。
それは、鎌田氏の自由であり、否定はしない。
そして、その努力も、賞賛に値するものである。

だが、私は、違う。
人間の考えることは、尽きることである。
書くことがあるとは、書けないこともあることを、言う。

何度も言うが、神道という言葉の、発生は、仏教と、区分けするために、出来た言葉であり、それ以外の意味を、みつける行為は、哲学的行為であり、思想的行為である。
否定はしないが、それでは、神道を誤る。

キリスト教神学が、ギリシャ哲学を元に、膨大に、語るが、果たして、それは、神学なるものに、かこつけた、人間の妄想力ではないかと、私は、言う。

神道に、スピリチュアリティを見出す行為は、それぞれの、自由である。
霊的なものを、感じるのも、個人の自由である。
人に強制しなければ、どんなに、妄想逞しくしても、いい。


posted by 天山 at 13:27| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月21日

性について。183

ユスティニアヌス帝の書から

余が臣民のうちにある者は、従来売春より得たる利益に満足せず、余が帝国の版図をひろく馳せめぐり、若き乙女の貧困と無経験につけこみ、美麗なる衣装およびこれと同種の物品を与えることを約し、彼女らを巧みに誘惑するに至っていることは、余の耳に達した。彼らは、乙女らがみずから適当と認める期間は常にその経営する娼家にとどまる旨を約定せしめ、これに署名させるという手段をもって、娼家に彼女らを留置している。不幸なる彼女らは、自由を剥奪され、衣食も事足らず、いかなる客も拒むことなくこれに春を売っている。しかも、その報酬たる金銭も決してみずからの手にするところとはならず、もっぱら周旋業者の手中に帰している。この人身売買の安全・確実を図るべく、彼女らに保証人を立てしめることが通例であり、この保証人あるがゆえによく彼女らを拘束しえているのである。それというのも、憐れみの心から彼女らを不幸な運命から救い出し、これと結婚せんとする男性の現れることもすくなからず、このため彼女らをこの種の牢獄から奪いさられるがごときことをなからしめ、ただ金銭によってのみ購いうるものとするためである。いまだ満十歳にも達せざる少女にも売春させるための、汚辱にみちた振る舞いも余の耳に達している。かかる一切の極悪非道の所業も、その他の多くの所業も、ただこの都市の下層地域において行われていることにとどまらず、都市の周辺にあっても行われているのである。
535年法典勅令

都市とは、コンスタンチノーブルのことである。

上記を読むと、どんな状態だったのかが、想像できる。
要するに、児童買春も、堂々と行っていたのである。

皇帝が、人身売買業者、ヒモ、売春斡旋業者に対する、戦いと名づけたほど、それが、酷い状態だったのだ。

そして、遂に、娼家の閉鎖であった。
売春の目的で女性を、いかなる場所にも、閉じ込めることが、禁止され、娘たちは、解放された。

そして、レノンと呼ばれる、売春関係者には、強制労働を課した。更に、再犯者は、死刑である。

だが、問題が起こった。
開放した、売春婦を、どのように扱うかである。

次代を継いだ、皇帝の妻である、テオドラ女帝は、深い慈悲を持って、彼女たちを収容することに、専念した。

そのうち、五百人以上の売春婦を、生活に再適用できるように、極めて快適な保護施設に収容したのである。

テオドルの、こうした憐れむべき女たちに対する扱いは、ちょうどみずから目の当たり罪業を味わい、ずっと後になって立派な生活に戻った多くの婦人たちのそれに似ていた。だが、売春婦の方は、ほとんど礼儀など仕込まれてもいないし、およそ忍耐力に乏しかったから、歴史の語るところでは多くの女たちはこの収容所を去ったとのことである。
ガブリエル・マンシニ

その後、聖王ルイ、ルイ九世によって、宗教と慈善事業によって、売春を抑止する方法が、繰り返された。
これも、現代につながる、貴重にものである。

だが、売春は、無くなるものではなかった。

ヨーロッパ中世では、あきらかに、売春は、禁止されていた。
だが、奴隷制が存続し、その結果、売春婦の数が、増加したのである。

全体として、農村には、農奴制があり、役に立たない人間は、解放された。中でも、女子労働力は、男子より、収益を上げることがなかったため、女子たちが、開放された。

飢えや、様々な生活困窮により、若い娘たちは、職業的な売春斡旋人の手に、委ねられた。

この時代は、古代文明のいっさいの追憶を喪失した時代であったし、彼女らも、嫌悪の的とされるまでに至った。
ガブリエル・マシンニ

つまり、集団的住居現象が現れることにより、増加傾向の放埓な売春婦に対する、法と、世論が、非難をすることになるのである。

506年に公布された、アラリック法典は、西ゴート、フランク王国国王アラリックの名を付した、フランク族の法典であるが、それは、ローマ文明の影響を受けた時代の、ゴール族の売春禁止を強化するものだった。

それによると、淫奔な女、つまり、売春婦は、苔刑三百回に処せられた。
更に、女の雇い主も、非難されていることと、その両親も同罪であり、いずれも、苔刑百回の罰を受けた。

カール大帝、フランク王国、西ローマ皇帝、カロリング朝の基礎を築いた、シャルルマーニョ大帝は、絶対に売春を禁じた。
これを規定した、大帝勅令は、この売春禁止法令の、最初の記念碑として、理解していい。

それには、売春婦には、特に刑罰が重く、公共の広場で、鞭打ちの刑に処せられる旨が、規定された。
だが、売春宿の経営者は、小額の罰金で、刑を免れた。
そして、刑の宣告を受けた女を、肩に担いで、刑場まで運ぶという作業が、課せられたのである。

だが、それでも、売春が無くならないというのは、貧困と、営利を求める人たちが存在するということである。

売春を生み出す原因は、今、現在も、その多くの理由は、貧困である。
更に、抑圧された少数民族の、女たちである。
つまり、収入の道が無いからである。

そのため、それらの、女たちに、職を身につけさせる方法が、取られていたり、慈善団体による、技術の指導がなされている。

後進国、最貧国などに、日本のボランティア団体が、技術指導や、伝統の織物などを、再確認させて、仕事場を作るという、活動をしている。

もっと、問題なのは、児童買春問題である。
最貧国に、接する、国境地帯では、今なお、それが闇の中で行われているという、状態である。

これは、世界的に、認識を深め、更に、法的手段によって、規制することが、まず、重要なことである。

posted by 天山 at 07:56| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月22日

性について。184

16世紀の終わりごろには、宗教的倫理は浄化され、貴族の堕落とともに、聖職者の側から習俗の放縦に対して反動が巻き起こされる。1560年のオルレアン三部会の判決で、「淫売宿」は廃止され、この時代の風潮のうちに、性病撲滅の規則が設けられるが、それもともかく強制的手段で行われることがあきらかになる。性病患者は、棒打ちの刑にされ、溺死刑で脅かして追放される。
ガブリエル・マンシニ

1665年、パリ城外の、サン・タントワーヌに、休養矯正施設が、作られる。
いわゆる、女子感化院である。

1684年、フランスの政治家、ルトリエの発した、条例で、売春婦処罰のため、不身持な女、身を持ち崩す恐れのある女は、サルペトリエール館に、監禁されるべきだとして、身体の力の及ぶ限り、最も激しい重労働に服せしめる、とされたのである。

ヴェルサイユに宮廷が、おかれたところから、その付近の野営地にいる兵士に、女を提供した、多くの売春斡旋の男たちが、やってきた。
ルイ14世は、軍隊を立派に訓練された部隊として、強く望み、そこで、恐ろしい手段を講じた。

売春の後押しをした者は、何人であれ、耳と鼻を削ぎ落とすと、された。
これが、軍法会議の決定とし、客引き行為は、起訴されるのである。

売春婦を、家においていた、ホテル経営者も、罰せられた。
罰金は、550リーヴルである。

更に、売春婦は、鞭打ちの刑と、裸馬の上に乗せて、晒し者にされる。

だが、警察が、売春宿経営者と、結託した結果、弊害が生じた。そこで、1713年、ルイ14世自らの、勅令により、取り締まり強化がなされた。

その、一般条文には、売春婦たちだけを、激しく攻撃している。
彼女たちは、道徳的、宗教的に、大いなる罪人とされ、家族にとっては、悪夢のような存在で、一切の悪の根源とされた。
だが、ひも、については、言及されていないのである。

いつの時代、どこの場所でも、売春は、尽きることがない。
買う人がいて、売る人がいる。

そして、多くの場合は、貧しさが、その根底にある。
しかし、稀に、娼婦として、生まれたような、女もいる。

もう一つは、斡旋する者たちの存在である。
いつの時代も、最も、悪質である。

生来の、悪というものを、身につけている。
その証拠が、児童を使う者たち。
後進国で、多く見られる。

現在も、国境付近、あるいは、売春街で、行われている。

貧しさに、付け込み、子供を金で買う。
そして、抵抗する子供には、電気ショックを与えて、客に渡す。
その、悪魔的行為には、慄然とする。

だが、買う人がいる。
私が、知るところでも、フィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー、そして、ネパール、バングラディシュ・・・

欧米人から、日本人まで・・・

それには、各国が、連携し、法制化して、取り締まる以外にないのである。

他国で、行っても、自国で、裁けるように、である。

さて、
ナポレオン一世は、まだ若い砲兵中尉であったころ、客引きにしつこく誘われた時のいまわしい事件の証言を今日に残している。この時代の習俗を奇妙な形であきらかにしたいまひとつの事実は、こうである。1790年のパリ市長シルヴァン・パイィ氏および国民会議に提出されたパリの「娼婦」の嘆願である。その内容は、バレ・ロワイヤルの二千人を越える女性たちが、警察や役人の使う言葉が卑猥だと嘆いて、苦情を申し立てたというわけである。売春婦たちは、「淫売」とか「売女」とか、「尻軽」だとか「淫売屋のかみさん」とかいった言葉、「不名誉な呼び名」を自分たちに投げてよこすことの抗議しているわけである。
ガブリエル・マンシニ

更に、その後、1960年にも、パリにて、同じような事件が起きている。
売春婦たちは、パレ・ブルボンの前で、デモを行った。
その要求は、ショートタイムの連れ込み宿を、自由に使用させろ、ということである。

この裏には、まさに、売春ホテルの経営者が、ひも、と手を結んでいるという事実を、表し、それを、攻撃しているのである。

革命時代が、やってくる。
その最初は、1791年の法律である。

売春取り締まり規定が、組織立てられる。
それは、売春行為の基準として、その行為が、人々に周知であること、何度も同じ売春行為を繰り返していることの、二点である。

革命後については、売春の歴史はもはや綴るには及ばない。その理由は、売春が組織された公娼制度の一部となったからであり、あえて売春を論ずるには及ばないからである。
ガブリエル。マンシニ

公娼制度は、1960年になり、公式に終わりを告げる。

綴るべきものはその属性、客引き行為、売春仲介および放埓行為である。近代国家は、ひとしく公娼制度を組織することになり、19世紀において売春に対して採用されるに至る方策は、売春条例による禁止体制にむすびつくか、あるいは登録制度つまり監督つきの公認という体制にむすびつくかいずれかになってゆく。もちろん後者の方が一般的である。ようやく20世紀半ばに至って、女性の監視――娼家にしばりつけ、鑑札制度を採用するといったーーを廃止しようという廃娼論が姿を現すに至るものである。
ガブリエル・マンシニ

しかし、売春禁止制度が、法制化されても、売春は、廃れない。それは、人間が、そういうモノだからである。
人間の、本能の欲求なのである。
それに、どう対処するかということを、国家、指導者が、考え続けてきたが、その本人でさえ、その、欲望に翻弄される。

人類が、続く限り、売春は、無くならない。

更に、売春と、結婚・・・という、制度自体が、変容してゆく時代に、突入している。
売春の、定義と、観念が、変わるということである。


posted by 天山 at 15:00| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月23日

もののあわれについて。529

源氏「この数にもあらず貶しめ給ふ山里の人こそは、身の程にはややうち過ぎ、物の心など得つべけれど、人よりことなるべきものなれば、思ひあがれるさまをも見消ちて侍るかな。いふかひなき際の人はまだ見ず。人はすぐれたるは難き世なりや。東の院にながむる人の心ばへこそ、ふり難くらうたけれ。さはたさらにえあらぬものを、さる方につけての心ばせ人にとりつつ見そめしより、同じやうに世をつつましげに思ひて過ぎぬるよ。今はた、かたみに背くべくもあらず、深うあはれと思ひ侍る」など、今昔の御物語に夜ふけゆく。




源氏は、あの物の数にも、入らないと、蔑んでいる、山里の人は、身分には、過ぎるほど、物の道理も心得て、何分、人々と同じ扱いは、できない。気位の高いのも、見て見ぬ振りをしています。お話にもならない、生まれの女は、まだ、世話をしたことがない。人というものは、優れた人は、中々いないものだ。東の院に、寂しく暮らす人の気立ては、いつも変わらず、愛らしい。あのようには、とても、出来ないものだが、あの人の、性質を美しいと、思い、世話をして以来、変わらぬ態度で、遠慮深く暮らしている。今となっては、お互いに、別れることもなく、心から、可愛いと、思っています、なとど、昔のお話、今のお話に、夜が、更けてゆく。

山里の人とは、明石の君。
さる方とは、花散里のこと。




月いよいよ澄みて、静かに面白し。女君、


こほりとぢ 石間の水は ゆきなやみ 空すむ月の かげぞながるる

外を見出して、すこし傾き給へる程、似る物なくうつくしげなり。かんざしおもやうの、恋ひきこゆる人のおもかげに、ふとおぼえて、めでたければ、いささか分くる御心もとりかさねつべし。鴛鳶のうち鳴きたるに、

源氏
かきつめて むかし恋しき 雪もよに あはれをそふる をしのうきねか




月が、いよいよと、澄んで、あたりは静まり、趣が深い。女君

紫上
地には、氷に閉ざされて、石間の水も、流れかねております。天上では、月が冴え渡り、滞りなく、西に流れて行きます。

外を眺めて、少し頭を傾ける様子は、比べるものがなく、美しい。その髪の具合や、面差しが、恋しい方の、面影かと、思われて、美しいので、少しは、よそに動いていた心も、紫の上への愛情に加わるだろう。そこに、おしどり、が鳴く。

源氏
何もかも、すべて集めて、昔のことを思う、この雪の夜に、ひとしお、あはれを添える、おしの、鳴き声。




入り給ひても、宮の御事を思ひつつ大殿籠れるに、夢ともなくほのかに見奉るを、いみじくうらみ給へる御気色にて、藤壺「漏らさじと宣ひしかど、うき名の隠れなかりければ、はづかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」と宣ふ。御いらへ聞ゆと思すに、おそはるるここちして、女君の、「こはなどかくは」と宣ふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおき所なく騒げば、おさへて、涙も流れ出でにけり。今もいみじく濡らし添へ給ふ。女君、いかなる事にかと思すに、うちもみじろがで臥し給へり。

源氏
とけて寝ぬ 寝ざめ寂しき 冬の夜に むすぼほれつる 夢の短かさ




寝所に、入っても、宮のことを思い、休まれたので、夢ともなく、かすかに、お姿を拝するが、大変、恨みのある様子である。その、藤壺が、口にしないと、おっしゃっていましたが、浮き名が漏れてしまいました。顔向けも出来ず、苦しい目にあっております。辛く思います、と、おっしゃる。お返事をするときに、モノに襲われる気がして、女君が、これは、どうして、こんなことに、と、おっしゃる声に目が覚め、いいようなく、名残惜しく、胸騒ぎがする。じっとしていても、涙まで流れるのである。今も、泣き濡れている。
女君は、どういうことかと、身じろぎもしないで、横になっている。

源氏
安らかに、眠られず、ふと、覚めた寂しい冬の夜に、わずかに見た夢の、短いこと。

藤壺の宮が、夢に現れて話すのである。




なかなかあかず悲しと思すに、とく起き給ひて、さとはなくて、所々に御誦きょうなどせさせ給ふ。「苦しき目見せ給ふ」とうらみ給へるも、さぞ思さるらむかし。行ひをし給ひ、よろづに罪軽げなりし御有様ながら、この一事にてぞ、この世の濁りをすすい給はざらむ、と、物の心を深く思したどるに、いみじく悲しければ、何わざして、しる人なき世界はおはすらむを、とぶらひ聞えにまうでて、罪にもかはり聞えばや、など、つくづくと思す。かの御ために、とり立てて何わざをもし給はむは、人とがめ聞えつべし。内にも、御心の鬼に思す所やあらむ、と思しつつむ程に、阿弥陀ほとけを心にかけて、念じ奉り給ふ。おなじ蓮にとこそは、

源氏
なき人を したふ心に まかせても かげ見ぬみつの 瀬にやまどはむ

と思すぞ憂かりける、とや。




なまじ、お姿を見た事が、悲しみの思いを、癒したので、早く起き上がり、それとは、言わずに、所々で、読経などするのである。苦しい目に遭わせると、恨んだことも、さぞ、そのように思っているだろう。勤行を行い、何につけても、罪障は軽く、お見受けした様子。だが、この秘密のために、この世の、濁りを清められないのか、と、深く物の道理を、思うと、たまらなく、悲しい。どんな手立てでもして、知る人のない、世界においでなので、探して、罪も代わって差し上げたいと、思いに沈む。
かの宮のために、取り立てて、法要などを行っては、世間の疑惑を招くだろう。主上も、気が咎めて、事実を、知られるかもしれない、と、用心するので、ただ、阿弥陀仏を、熱心に念じて、同じ蓮の上に、と、思うのである。

源氏
なき方を、慕うままに、訪ねても、姿も見えぬ、冥土の川のほとりで、迷うだろろう。

と、思うのが、辛かったとか、いう、お話しでした。

内にも、御心の鬼に思す所やあらむ
内とは、主上である。その、主上が、事実を知る。源氏と藤壺の、密通である。
そして、源氏の子であることを。

同じ蓮にとこそは
来世で、夫婦が、一つの蓮の花の上に、生まれかわるという。

かげ見ぬみつの 瀬にやまどはむ
亡き人は、川を渡るという。

まどはぬ
迷うだろう。

朝顔を、終わる。

源氏の、お話しは、まだ、続く。


posted by 天山 at 11:38| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月24日

もののあわれについて。530

乙女

年かはりて、宮の御はても過ぎぬれば、世の中色あらたまりて、ころもがへの程なども今めかしきを、まして祭の頃は、大方の空の気色ここちよげなるに、前斎院はつれづれとながめ給ふ。お前なる桂の下風なつかしきにつけても、若き人々は思ひ出づる事どもあるに、大殿より、源氏「みそぎの日は、いかにのどやかに思さるらむ」と、とぶらひ聞えさせ給へり。
源氏「今日は、

かけきやは 川瀬の波も たちかへり 君がみぞぎの 藤のやつれを

紫の紙、立文すくよかにて、藤の花につけ給へり。折のあはれなれば、御返りあり。

朝顔
ふぢ衣 着しは昨日と 思ふまに 今日はみそぎの 瀬にかはる世を

はかなく」とばかりあるを、例の御目とどめ給ひて見おはす。




年が明けて、藤壺の宮の、一周忌も終わり、世の人は、喪服を脱ぎ、衣更えの頃など、華やかである。葵祭りの頃は、ふと仰ぐ空の眺めも、清清しく感じる。
しかし、斎院は、所在無く、物思いに、耽る。庭先の、桂の木の下を吹く風が、何となく、懐かしく感じられるにつけて、若い女房たちは、思い出すことが色々とある。
そこに、大臣、源氏から、禊の日は、どんなにどんなにか、静かにしていられるのでしょう、と、お見舞いがあった。

源氏
今日の日は、加茂の川波が、今年再び寄せてきて、禊をされる、あなたの喪服姿を。
紫色の紙に、立文を折り目正しく、藤の花につけられた。折も折、感動を覚えて、お返事がある。

朝顔
喪服を着たのは、昨日と思っていました。もう、それを脱ぐと言う、禊をするとは、世の移り変わりの激しいこと。

儚いことです、とだけあるのを、源氏は、いつも通り、じっと見詰める。

君がみそぎの 藤のやつれを
藤のやつれ、とは、喪服のことである。

ここで、立文、たてぶみ、とは、懸想文ではなく、用事の文となる。




御服なほしの程などにも、宣旨のもとに、所せまきまで思しやれる事どもあるを、院は見苦しき事に思し宣へど、をかしやかに、けしきばめる御文などのあらばこそ、とかくも聞え返さめ、年ごろも、おほやけざまの折々の御とぶらひなどは、聞えならはし給ひて、いとまめやかなれば、いかが聞えも紛はすべからむ、と、もてわづらふべし。




喪服を脱がれるときなど、宣旨の所へ、始末に困るほどの、源氏からの、心遣いの品々が届くので、斎院は、困り、口にもするが、思わせぶりな、手紙などがあれば、何とか申し上げて、お返しする。長年、表立って、何かの折の、お見舞いなどは、差し上げていらして、今日も、非常に真面目な文面であり、どうして、断ることを、申し上げるかと、宣旨も、困っている様子。




女五の宮の御方にも、かやうに折すぐさず聞え給へば、いとあはれに、女五の宮「この君の、昨日今日の児と思ひしを、かくおとなびてとぶらひ給ふこと。かたちのいと清らなるに添へて、心さへこそ人には異に生ま出で給へれ」と、ほめ聞え給ふを、若き人々は笑ひ聞ゆ。




五の宮の、御方にも、このように、折を逃さず、お手紙を差し上げるので、いとあはれに、感心して、女五の宮は、この君は、つい昨日まで、子どもだと思っていたのに、こんなに一人前にお見舞いくださるとは、器量がまことに、よい。その上、気立てまで、他の人と、違うと、誉めるのを、若い女房たちは、笑う。

いとあはれに
深く、感心する、感動する。深く感じ入るという、状態である。
いと、は、強調である。




こなたにも対面し給ふ折は、女五の宮「この大臣の、かくいとねんごろに聞え給ふめるを。何か、今はじめたる御心ざしにもあらず。故宮も、筋異になり給ひて、え見奉り給はぬ嘆きをし給ひては、思ひ立ち事をあながちにもて離れ給ひしこと、など宣ひ出でつつ、くやしげにこそ思し折々ありしか。されど故大殿の姫君ものせられしかぎりは、三の宮の思ひ給はむことのいとほしさに、とかく言添へ聞ゆる事もなかりしなり。今はその、やむごとなくえさらぬ筋にてものせられし人さへなくなられにしかば、げになどてかは、さやうにておはせましもあしかるまじ、とうちおぼえ侍る」など、いと古代に聞え給ふを、心づきなしと思して、朝顔「故宮にも、しか心ごはきものに思はれ奉りて過ぎ侍りにしを、今更にまた世になびき侍らむも、いとつきなき事になむ」と聞え給ひて、はづかしげなる御けしきなれば、しひてもえ聞えおもむけ給はず。




朝顔にも、対面される時には、女五の宮が、この大臣が、こんなに誠をこめて、お手紙を下さるよし。まあ、今に始まった求婚でもありません。亡き宮も、他家にご縁を結ばれたので、婿にできないと、嘆きなって、望んでいたことが、叶わなかった、などと、後悔していらした事が、ありました。けれど、故太政大臣の姫君が、いらっしゃつた間は、三の宮が、気にされるのが、気の毒で、とやかく、口添えをしてあげる事もしなかったのです。今は、その、歴然とした、お方としていらした方まで、お亡くなりになったのですから、本当に、父宮の言った通りに、なさっても、別に悪くは、ありませんでしょう。そのように、思いますし、改めて、今このように、熱心におっしゃるのも、そうなるはずの、定めかとも、思います、など、とても古風なことを言うのも、嫌な話だと、朝顔は、亡き父宮にも、そんなに強情と思われていましたのに、今になって、改めて、皆の言うようになりましても、おかしなこと、と、おっしゃり、それ以上は、言えない雰囲気で、無理に勧めることも、できないのである。

いと古代に聞え給ふ
大変、古風に、古めかしく、聞える。

はづかしげなる御けしき
現代の、恥ずかしいという、状態ではない。何とも、威厳のあるという、雰囲気である。


posted by 天山 at 17:06| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月25日

もののあわれについて。531

宮人も上下みな心かけ聞えたれば、世の中いとうしろめたくのみ思さるれど、かの御みづからは、わが心をつくしあはれを見て聞えて、人の御けしきの、うちもゆるばむ程をこそ侍ちわたり給へ、さやうにあながちなるさまに、御心破り聞えむなどは思さざるべし。




邸内の人は、上下揃って、殿、源氏に心を寄せているので、姫宮は、毎日が心配で、たまらない。あのお方は、自分の心の真をかけて、愛情を見せ、朝顔の気持ちが和らぐのを、持っている。心配するように、無理強いに、自分が考えているようなことに背くことなどは、思っていないだろうと、思う。

これは、作者の考えであろう。




大殿腹の若君の、御元服のこと思しいそぐを、二条の院にてと思せど、大宮のいとゆかしげに思したるもことわりに心苦しければ、なほやがてかの殿にてせさせ奉り給ふ。右大臣をはじめ聞えて、御叔父の殿ばら、みな上達部のやむごとなき、御おぼえ異にてのみものし給へば、あるじ方にも、われもわれもと、さるべき事どもは、とりどりに仕うまつり給ふ。おほかた世ゆすりて、所せき御いそぎの勢なり。




太政大臣の、姫の若君、つまり、夕霧の、元服である。
その準備をなさる。源氏は、二条の院でと、思うが、大宮、太政大臣の妻である、が、見たがっているのも、無理は無いと、見せなければ、気の毒だと、やはり、そのまま、あちらの邸内で、執り行うことに。
右大臣をはじめとして、叔父の殿たちは、皆立派な上達部で、帝の信任も厚い方ばかりである。主人側も、一同競って、必要なことは、すべて思い通りにしてあげる。
世間中が、大騒ぎして、大変な、準備の、威勢である。

夕霧は、葵の上が生んだ子である。




四位になしてむと思し、世人も、さぞあらむと思へるを、まだいときびはなる程を、わが心に任せたるよにて、しかゆくりなからむも、なかなか目なれたる事なりと思しとどめつ。あさぎにて殿上にかへり給ふを、大宮は飽かずあさましき事、と思したるぞ、ことわりにいとほしかりける。




源氏は、夕霧を、従四位下にしようと、思った。世間の人も、そのように思った。しかし、源氏は、まだ夕霧は、幼い年頃である。自分の思いのままになる、天下で、そのように突然、四位にすることは、かえって、平凡すぎると、思いとどまった。
それで、六位のあさぎり色の冠で、殿上に帰ると、大宮は、六位は満足できない。あまりにも、酷いと思い、気の毒である。

当時は、生まれの身分が一番である。
だが、源氏は、夕霧に、教育を十分にさせて、と、考える。




御対面ありて、この事聞え給ふに、源氏「ただ今かうあながちにしも、まだきにおいつかすまじう侍れど。思ふやう侍りて、大学の道に、しばしならはさむの本意侍るにより、いまニ三年をいたづらの年に思ひなして、おのづからおほやけにも仕うまつりぬべき程にならば、いま人となり侍りなむ。みづからは九重の内に生ひ出で侍りて、世の中の有様も知り侍らず、夜昼お前に侍ひて、わづかになむはかなき書なども習ひ侍りし。ただかしこき御手より伝へ侍りしだに、何事も広き心を知らぬ程は、文の才をまねぶにも、琴笛の調にも、ねたらず、及ばぬ所の多くなむ侍りける。




大宮が、源氏に会い、この事を申し上げると、源氏は、今すぐに、夕霧をこのようにしてまでも、元服させて、まだ早いものを、大人っぽくしたくはないと思いますが、元服させました。
私には、考えるところありまして、夕霧を、大学寮に入れて、しばらく学問をさせたいと、前々から、考えていました。ニ三年を、無駄に費やすと考えて、自然に、朝廷にも、仕えるようになったら、夕霧も、まもなく、一人前になるでしょう。私も、宮中で、成長しまして、世の中の様子も、知りませんでした。昼夜と、帝に仕えて、ほんの少し、漢籍などを、習いました。しかし、直接、帝の御手から、教えられたことでさえ、何事も、広い知識を身につけないことには、学問を学ぶにしても、琴や笛の調べにしても、力不足で、人には、及ばないことが、沢山ありました。




はかなき親にかしこき子のまさるためしは、いと難き事になむ侍れば、ましてつぎつぎ伝はりつつ、へだてりゆかむ程の、行く先いとうしろめたなきによりなむ、思ひ給へおきて侍る。高き家の子として、つかさうぶり心にかなひ、世の中盛りにおごりならひぬれば、学問などに身を苦しめむ事は、いと遠くなむおぼゆべかめる。たはぶれ遊びを好みて、心のままなる官爵にのぼりぬれば、時に従ふ世人の、下には鼻まじろきをしつつ、追従し、けしきとりつつ従ふ程は、おのづから人とおぼえて、やむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人に立ちおくれて、世おとろふる末には、人に軽めあなづらるるに、かかり所なき事になむ侍る。




つまらぬ親に、賢い子が、優れていることは、めったにないことです。まして、子々孫々と、次々に伝わってゆくうちに、その隔たりが広がり、その将来が、たいそう気がかりなので、考えて決心しました。
身分の高い家の子をして、官職と、階位が思いのままで、この世での、自分の栄華に驕り高ぶる癖がついてしまうと、学問などで、自分の身を苦しめることは、大変、縁の遠いことだと、きっと、思うようになるでしょう。
また、戯れ遊ぶ事を好み、思いのままに、官位が上がると、時勢に従う世間の人が、内心では、鼻であしらいつつも、媚び諂い、機嫌を取りながら、従っているうちは、自然と、ひとかどの人物らしく思われて、立派な人に見えても、威勢が変わり、最後の頃になると、世間の人に、軽んじられ、侮られるようになります。すがるところさえも、なくなってしまいます。


posted by 天山 at 23:01| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月26日

もののあわれについて。532

なほ才をもととしてこそ、やまとだましひの世に用いらるる方も強う侍らめ。さしあたりては、心もとなきやうに侍れども、つひの世のおもしとなるべき心おきてをならひなば、侍らずながらも、かくてはぐくみ侍らば、せまりたる大学の衆とて、笑ひあなづる人もよも侍らじと思ふ給ふる」など聞え知らせ給へば、うち嘆き給ひて、大宮「げにかくも思し寄るべかりける事を、この大将なども、「あまりひきたがへたる御事なり」と、かたぶき侍るめるを、この幼なごごちにもいと口惜しく、大将、左衛門の督の子どもなどを、われよりはげろふと思ひおとしたりしだに、皆おのおの加階しのぼりつつ、およずけあへるに、あさぎをいとからしと思はれたるが、心苦しく侍るなり」と聞え給へば、うち笑ひ給ひて、源氏「いとおよずけても恨み侍るななりな。いとはかなしや、この人の程よ」とて、いとうつくしと思したり。源氏「学問などして、すこし物の心え侍らば、その恨みはおのづから解け侍りなむ」と聞え給ふ。




やはり、学問を土台として、思慮分別の能力が、世間に重んじられることも、強みです。当初は、もどかしく思われましょうが、将来、国の重鎮になるための、心得を身につけたならば、私がいなくなった後も、安心できます。今のところは、官位も、軽いものですが、私が面倒を見ていますから、貧乏な大学の学生と笑い、馬鹿にする人は、いませんでしょう。と、思います。などと、説明する。
大宮は、ため息をつき、なるほど、そのような考えがあってのこと。当然ですね。こちらの大将、昔の頭の中将のこと、なども、夕霧官位が、あまり例のないことと、納得がゆかず、不審に思っているようです。本人の幼い心も、大変残念で、大将や左衛門督の子供たちなどを、自分たちより身分が低い者と、見くびっている者でさえ、皆それぞれ、官位が進み、出世して一人前になってゆくのに、六位のあさぎ、を、大変辛いと思っていますのが、気の毒で、かわいそうに思われるのです、と、申し上げる。
源氏は、笑い、たいそう、生意気になって、不平を言うものですね。本当にたわいのないこと。まだ、そんな年頃なんですねと、言い、まあ、かわいいものです、と、源氏は、思う。
学問などして、少しものの道理がわかってきましたら、その恨みは、自然となくなるでしょう、と、大宮に、申し上げる。

やまとだしひ
ここでは、思慮分別の能力を言う。世間を渡る才能や、常識的な判断力、政治的な所作のことである。
大和心と、同じ意味である。
だが、後世、大和魂は、日本人の、精神的支柱として、武士道などから、その観念が発展してゆく。
日本人として、備え、身につけるべき、心得である。




あざなつくることは、東の院にてし給ふ。東の対をしつらはれたり。上達部殿上人、珍しくいぶかしき事にして、われもわれもと、つどひまいり給へり。はかせどもなかなか臆しぬべし。源氏「はばかる所なく、例あらむに任せて、なだむることなく、きびしう行へ」と仰せ給へば、しひてつれなく思ひなして、家よりほかに求めたる装束どもの、うちあはずかたくなしき姿などをもはぢなく、おももち、声づかひ、むべむべしくもてなしつつ、座につき並びたる作法よりはじめ、見も知らぬさまどもなり。




字、つまり、あざな、をつける式は、東の院でなさる。
東の対を設備された。
上達部、殿人上は、めったにないことと、どんなものか見たいと、我も我もと、集まった。博士たちも、これでは、かえって、気後れするだろうと、思われる。
源氏は、遠慮せずに、決まりがある通りにして、容赦なく、厳格に行えと、仰せられたので、無理に、平静を装い、借り物の、衣装が身に付かず、不恰好な姿も、恥ずかしがらず、顔つき、声までも、わざと、儀式ばり、ずらりと並ぶ。皆、見たこともない、連中である。

字、あざな、は、文章道に入学する者が、中国風に、好きな文字を選び、自称とするもの。

posted by 天山 at 17:28| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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