2011年08月01日

タイ、イサーンの姿6

タイは、楽しく、食べ物が美味しい国である。
普通の観光なら、最高の国。

しかし、どこの国もそうであるように、危険が、一杯ある。

私の泊まった、ホテルの玄関前に、喫煙場所のコーナーがある。
東屋のような造り。

そこでは、何気なく、麻薬の密売が行われている。
勿論、私が、タバコをふかしていても、誰も、勧誘はしない。

人を見ている。
薬物中毒の白人の、おじさんたちがいる。

ある時、日本の若者が、どういうわけか、勧誘されたようである。
馬鹿な若者は、日本の友人に電話している。

あのさー、日本では、罪に問われるけど、タイなら、大丈夫なのか
この馬鹿が・・・
タイでも、罪に問われるし、日本より、厳しい法律がある。

更に、まだ、真っ当に売春行為を行うならば、いいが、立ちんぼ、といわれる、売春婦を相手にするのは、危険過ぎる。
エイズは、タイでは、益々広がっている。

無知とは、恐ろしいものだ。

ホテル周辺は、比較的静かである。
私は、それもあり、価格も安いから、もう一つの、定宿にした。

普通に楽しんでも、実に楽しい。
それ以上を、求める馬鹿がいる。

二泊して、ナナプラザ近くの、ゲストハウスに、移動する。
そこは、600バーツ、1800円である。
その付近の、ゲストハウスも、この価格では、中々見当たらない。

ラブホテルに使用する人たちもいるほど。

多くは、アラブ人たちが、利用する、ゲストハウスである。
その、横の通りは、黒人の若者が、たむろする。
アフリカ系の人たち。

一時期、日本人が、黒人詐欺に遭うことが、多発した。

私は、別に危険なところを、意識して、泊まる訳ではない。
ただ、安いこと、地元の屋台が多くある、ことである。

その界隈を少し離れると、地元の人たちの屋台や、食堂が多数ある。
とても、安い。
それが、魅力である。

勿論、そのゲストハウスには、日本人は、泊まらない。
泊まれないだろう。
怖くて・・・

ところが、従業員が、ビルマの人たち。
私たちには、親戚のように、接する。
いつも、衣服を渡している。

普通は、しないことだが、私たちが、帰国する朝は、見送りに出てくれる。

ビルマ、マンダーレからの、出稼ぎである。
いつか、マンダレーには、追悼慰霊と、支援に行く。
その時、彼らから、情報を頂く。

現政権が、崩壊して、新しい民主的な政権が、出来るのを、待っている。
この、一年以内に、それが、叶うと、思う。

ミャンマーが、内戦状態であることを、マスコミは、報道しない。
少数民族が、手を組み、現政権打倒に戦う。
更に、市民が加わり、デモを繰り広げる。
多くの死者が照るだろうが、どうしても、現政権を倒さなければ、ならない。

民政政権といわれるが、違う。
アウンサン・スー・チーさんは、また、政治活動を禁止された。

支配層のための、政権である。
国民のため、ではない。

崩壊することを、願う。

さて、私たちは、10月に、チェンマイに行くはずだった予定を変更して、まず必要とされる、メーソートにて、ミャンマー難民の、特に、孤児たちの施設に、支援する。今回は、ミャンマー人による、ミャンマー人の、学校の支援の依頼もある。

更に、12月は、タイ北部の、ミャンマー国境の町に行き、そこから、ミャンマーの東北部の、タチレクに入り、支援をすることにした。

どうしても、バンコクを拠点にしなければ、ならない。
この、ゲストハウスも、その一つである。

どこでもそうだが、私たちの目的を知る人たちは、全面協力を惜しまない。
支援を受けない人たちからも、助けてくださいね、と、言われる。

行って見ること。見なければ、解らない。
それは、頭脳労働ではない。体を使うものである。

時に、重要な情報を得ることもある。
南アジアの最初は、バングラディシュである。
すると、首都ダッカに、協力してくれる、歯科医がいる。

北大に留学して、貧しい人たちに、無料診療と、治療をしている方である。

そのような、人たちの、協力を得られると、活動が、スムーズに行われる。

13カ国から、15カ国に広がる。
私が、動けるまで、続ける。

それは、千年の日本のために
大和心、おほいなる やわらぎの こころ
を、伝えるものになる。


2011年08月02日

もののあわれについて。525

宮には、北面の人繁き方なる御門は、入り給はむも軽々しければ、西なるがことごとしきを、人入れさせ給ひて、宮の御方に御消息あれば、今日しも渡り給はじ、と思しけるを、おどろきてあけさせ給ふ。御門守り寒げなるけはひ、うすずき出で来て、とみにもみえあけやらず。これよりほかの男はたなきなるべし。ごほごほと引きて、御門番「錠のいといたく錆びにければ、あかず」と憂れふるを、あはれと聞し召す。昨日今日と思す程に、三十年のあなたにもなりける世かな、かかるを見つつ、かりそめの宿をえ思ひ捨てず、木草の色にも心を移すよ、と思し知らるる。口ずさびに、
源氏
いつのまに 蓬がもとと むすぼほれ 雪降る里と 荒れし垣根ぞ

やや久しうひこじらひ開けて入り給ふ。




宮の、御宅には、北面した下人の、出入りの激しい、門から、入られるのも、身分に相応しくないことと、西に有る、正門を開けていただくようにと、供の者を中に入れて、宮の元に、案内をこうと、今日は、お越しにならないと、思い召していましたので、驚き、開けるように、命じる。
門番が、寒そうな様子で、慌てて、出て来たが、中々開けられない。他の下男はいないようである。
ごとごと、引張り、門番が、錠がすっかり、錆びて、開きません、と、言うのを、可哀想にと、聞く。
昨日、今日と、思し召しているうちに、もう、三十年も、経ってしまった。世の中は、このように、儚いものと、知りつつ、かりそめの、宿りを、未だに、捨てることが出来ずに、木や草の色にも、心を留めるとは、と、つくづくと、感じる。口ずさみに、
源氏
いつの間に、この邸は、このように、蓬が生い茂って、雪に埋もれた里に、荒れ果ててしまった。
やや、暫く、引張り上げ、開けて、お入りになる。

あはれと聞し召す
その人に対する、感情であり、静かな、心意気である。

源氏という、身分の高い人物を描くので、すべて、敬語で、書かれる。




宮の御方に、例の御物語聞え給ふに、古事どものそこはかとなきうちはじめ、聞えつくし給へど、御耳もおどろかず、ねぶたきに、宮もあくびうちし給ひて、宮「宵まどひをし侍れば、物もえ聞えやらず」と、宣ふ程もなく、いびきとか、聞き知らぬ音すれば、よろこぶながらたち出で給はむとするに、またいと古めかしきしはぶきうちして、参りたる人あり。




宮の、御方で、いつものように、お話しの相手をされる。宮は、昔話を、取り留めなく始め、いつ果てるともなく、続くのだが、源氏は、面白くなく、眠いが、宮も、あくびをして、女五「早くから、眠たくなりして、お話もできません、と、おっしゃると、鼾というか、聞き慣れない音が聞えるので、幸いと、立ち上がろうとすると、また、酷く年寄りくさい、咳払いをして、近づいて来る者がいる。




「かしこけれど、聞し召したらむと頼み聞えさするを、世にある者ともかずまへさせ給はぬになむ。院の上は、おばおとど笑はせ給ひし」など、名のり出づるにぞおぼし出づる。源内侍のすけといひし人は、尼になりて、この宮の御弟子にてなむ行ふ、と聞きしかど、今まであらむとも尋ね知り給はざりつるを、あさましうなりぬ。




恐れならが、更に、ご承知の事かと、あてに、しておりましたのに、生きているとも、お考え下さらないので、恨めしく存じます。上皇さまは、おばあさまと、おっしゃり、笑いあそばしました、なとど、名のりを上げたので、思い出した。
源内侍のすけという人は、尼になり、この宮の弟子になって、勤行していると、聞いていたが、今まで生きているとは、気にもかけずにしたが、呆れてしまった。





源氏「その世の事は、みな、むかし語りになり行くを、遥かに思ひ出づるも心細きに、うれしき御声かな。親なしにふせる旅人と、はぐくみ給へかし」とて、寄りい給へる御けはひに、いとど昔思ひ出でつつ、旧り難くなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにたる口つき思ひやらるる声づかひの、さすがに舌つきにて、うちざれむとは、なほ思へり。




源氏は、あの時分のことは、何もかも昔話になってゆくが、遠く思い出すのさえ、心細く、懐かしい声だ。親もなく寝ている旅人と、思い、可愛がってくださいと、言い、物に寄りかかって、くつろいだ様子を察して、いっそう、昔の事を思い出したようで、変わらず、しなをつくり、すぼんだ口元が、思いやられる声であり、変わらずに、甘ったるく、戯れるようである。




源典侍「いひこし程に」など聞えかかるまばゆさよ。今しも来たる老のやうになど、ほほえまれ給ふものから、ひきかへ、これもあはれなり。この盛りにいどみ給ひし女御更衣、あるはひたすら亡くなり給ひ、あるはかひなくて、はかなき世にさすらへ給ふもあべかめり。入道の宮などの御齢よ、あさましとのみ思さるる世に、年のほど身の残り少なげさに、心ばへなども、みのはかなく見えし人の、生きとまりて、のどやかに行ひをもうちして過ぐしけるは、なほすべて定めなき世なり、と思すに、もののあはれなる御気色を、心ときめきに思ひて、若やぐ。

典侍
年ふれど このちぎりこそ 忘られね 親の親とか いひし一言

と聞ゆれば、うとましくて、
源氏
身をかへて 後も待ち見よ この世にて 親を忘るる ためしありやと

たのもしき契りぞや。今のどかにぞ聞えさすべき」とて立ち給ひぬ。




尼は、人のことを申しておりましたのに、私も、すっかり、などと、気を引く様子には、こちらの顔が赤くなる思いがする。まるで、今、急に年を取ったような、言い草だと、おかしくなるものの、考えてみれば、これもまた、先ほどとは、別の意味で、あわれである。この女の盛りの頃に、寵愛を競っていた、女御更衣は、あるいは、とっくの昔に亡くなり、あるいは、見る影もなく、落ちぶれている方もあるだろう。入道の宮、藤壺などの、寿命の短さ。嫌な思いばかりの、人の世に、年からしても、余命ありとも、見えず、頼りなく思えた、この人が、生き残り、勤行をして、暮らしていたとは、やはり、定め無き、世の姿だと、思うと、感無量の様子。
しかし、内侍は、勘違いして、気もそぞろに、はしゃぐ。


幾年経ても、あなたとの縁はが、忘れられません。お祖母さんと、呼んで下さった言葉を思い出してください。

と、申すので、気味が悪く、
源氏
行く末遠く、あの世に生まれ変った後までも、待っていてください。この世で、子が親を忘れるたとえが、あるかどうか。

頼もしいかぎりです。いずれゆっくり、お話ししましょうと、仰せられて、立ち上がる。

この尼は、昔、源氏を、誘った源典侍である。
今でも、源氏が、気があると、勘違いしている。

もののあはれなる御気色を
源氏は、尼を見て、もののあはれ、の、気色だと、感じ入る。
が、それも、また、勘違いするという、尼である。



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2011年08月03日

もののあわれについて。526

西面には御格子まいりたれど、いとひ聞え顔ならむも如何とて、一間ニ間はおろさず。月さし出でて、薄らかに積もれる雪の光あひて、なかなかいと面白き夜のさまなり。ありつる老いらくの心げさうも、よからぬものの世のたとひとか聞きし、と思し出でられてをかしくなむ。




西面では、御格子を下ろしたものの、源氏のお越しを、厭う顔も如何なものかと、一間ニ間は、そのままにしてある。月が上がり、うっすらと積もった雪が、月の光に映えて、なかなか面白い風情である。源氏は、先ほどの、老女の懸想ぶりを思い出されて、よからぬものの例に引かれると聞くと、おかしくなる。




今宵はいとまめやかに聞え給ひて、源氏「一言、憎しなども、人伝ならで宣はせむを、思ひ絶ゆる節にもせむ」と、おり立ちて責め聞え給へど、昔われも人も若やかに罪ゆるされたりし世にだに、故宮などの心よせ思したりしを、なほあるまじくはづかしと、思ひ聞えてやみにしを、世の末にさだすぎ、つきなき程にて、一声もいとまばゆからむ、と思して、さらに動きなき御心なれば、あさましうつらしと思ひ聞え給ふ。




今宵は、大変に真面目に、お話をされて、源氏は、せめて一言、嫌いだという、お言葉だけでも、ご自身で、お聞かせ下されば、それを思い諦めるきっかけにも、しましょうと、折り入って、せがむが、昔は、互いに年が若く、少しのあやまちも、大目にみともらえた頃でさえ、亡き父宮などの思し召しもあったが、それでも、話に乗るまい、相手になるまいと思って、何もなく終わったのに、盛りも過ぎ、年も取り、似合わしくない頃になって、一声聞かせるのも、恥ずかしいと、思われて、全く応じる気配もなく、あきれ果てた冷たい方だと、思うのである。




さすがにはしたなく、さし放ちてなどはあらぬ、人伝の御返りなどぞ心やましきや。夜もいたう更け行くに、風のけはひ烈しくて、まことにいともの心細くおぼゆれば、さまよき程におしのごひ給ひて、

源氏
つれなさを むかしにこりぬ 心こそ 人のつらきに 添へてつらけれ

心づからの」と宣ひすさぶるを、げにかたはらいたしと、人々、例の、聞ゆ。

朝顔
あらためて 何かは見えむ 人のうへに かかりし聞きし 心がはりを
昔にかはることは習はずなむ」と聞え給へり。




それでいて、突き放してという、程の、取次ぎを使っての、御返事で、気が揉める。夜も、すっかりと、更けて行くにつれ、風の吹き様子が、烈しく、まことに心細い感じがする。品よく、涙を拭いて、
源氏
冷たいお心を、昔から知りながらも、懲りずに、今も同じ私の気持ちが、あなたの辛さに加えて、辛いことです。

これも、自分のせいですが、と、口ずさんでいるのを、本当にお気の毒なと、女房たちは、例によって、姫君に、申し上げる。

朝顔
心をあらためて、今更、お目にかかることなど、出来ません。よその方は、そんなこともあると、聞きますが、気が変わるなどとは・・・

昔と違うことなど、存じませんと、おっしゃる。

源氏に、口説かれる、朝顔であるが、全く、受付ない様子である。




言ふかひなくて、いとまめやかに怨じ聞えて出で給ふも、いと若々しきここちし給へば、源氏「いとかく世のためしになりぬべき有様、漏らし給ふなよ。ゆめゆめ、いさら川などもなれなれしや」とて、せちにうちささめ語らひ給へど、何事かあらむ。人々も、「あなかたじけな。あながちに情おくれても、もてなし聞え給ふらむ。かるらかにおし立ちてなどは見え給はぬ御けしきを。心苦しう」といふ。




何とも、せんない様子で、真剣に怨みごとを言って、立ち去るのも、若造のようで、宣旨に、源氏は、とかく、世間の物笑いの種になりそうなことは、どうか、内証にしてください。必ずや、いさら川、などとは、慣れ過ぎです、と、仰せになり、しきりに女房たちが、ささやく声が聞える。何を言っているのだろうか。
女房たちも、本当に勿体ないこと。どうして、むやみに、冷たくお持て成しになるのだろう。軽々しく、扱うことなどということは、ないお方なのに。お気の毒なこと、という。

いさら川
古今集より
犬上の ところの山なる いさや川 いさと答へよ わが名漏らすな
人に問われても、知らないと言え。我が名を漏らすな。

なれなれしや
との、源氏の言葉は、恋人に言う言葉。そこで、源氏は、反省して、言うのである。




げに人の程の、をかしきにもあはれにも思し知らぬにはあらねど、物思ひ知るさまに見え奉るとて、おしなべての世の人の、めで聞ゆらむ列にや思ひなされば、かつは軽々しき心の程も見知り給ひぬべく、はづかしげなめる御有様を、と思せば、なつかしからむ情も、いとあいなし、よその御返などは、うち絶えで、おぼつかなかるまじき程に聞え給ひ、人伝の御いらへ、はしたなからで過ぐしてむ、と深く思す。年頃しづみつる罪うしなふばかり御行ひを、とは思し立てど、にはかにかかる御事をしも、もて離れ顔にあらむも、なかなか今めかしきやうに見え聞えて、人のとりなさじやは、世の人の口さがなさを思し知りにしかば、かつ侍ふ人にもうちとけ給ふ。御はらからの君達あまたものし給へど、ひとつ御腹ならねば、いと疎疎しく、宮の内いとかすかになりゆくままに、さばかりめでたき人の、ねんごろに御心をつくし聞え給へば、皆人、心を寄せ聞ゆるも、ひとつ心と見ゆ。




本当に、人柄をご立派なこととも、やさしいとも、お解かりにならないのではないのだが、情けに、応えして、世の人が、君を誉めることと、同じことに思われる。
そして、身分に相応しくない、自分の心の動きを、見通されるだろう。身が縮むほど、ご立派な方である。と、思し召すと、やさしくても、どうにもならない。せめて、礼儀通りのお返事だけでも、引き続き間遠くならないようにと、取次ぎをおいての、ご返事を、失礼のないようにと、思うのである。
長年遠ざかっていた、罪が消えるほどの、勤行をしたいと思うが、急に、君との仲のことも、打ち切り顔に振舞うのも、かえって、今めかしきように、見えるし、聞えるので、世間が、取り沙汰するのではないかと、世の中の評判好きを知っているので、一方では、侍女たちにも、気を許さず、用心しつつ、次第に、お勤めに、励む。
ご兄弟の君達も、大勢いらっしやるのだが、腹違いの方々なので、すっかり、疎遠になり、御殿の中は、寂れて行くにつけて、侍女たちも、あのような、ご立派な方が、熱意を込めて、お心を寄せて下さるので、皆揃って、源氏に味方するのも、誰も、同じ気持ちである。

侍女たちが、源氏に心を寄せるのは、朝顔と、結ばれることを、願うからである。

次第に、朝顔の心も、源氏に傾くのである。


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2011年08月04日

もののあわれについて。527

大臣は、あながちに思し焦らるるにしもあらねど、つれなき御気色のうれたきに、負けて止みなむも口惜しく、げに、はた人の御有様、世のおぼえことにあらまほしく、物を深く思し知り、世の人のとあるかかるけぢめも聞き集め給ひて、昔よりもあまた経まさりて思さるれば、今更の御あだも、かつは世のもどきをも思しながら、むなしからむはいよいよ人わらへなるべし、いかにせむ、と御心動きて、二条の院に夜がれ重ね給ふを、女君「たはぶれにくく」のみ思す。忍び給へど、いかがうちこぼるる折もなからむ。




大臣、源氏は、ひたむきに執心というのではないが、冷たい仕打ちが腹立たしいのに、引き下がるのも、癪に障る。それに、源氏自身、品格といい、世間での評判といい、実に、申し分なく、深い分別もあり、世の人の、その時々の、判断も知り、若い頃よりは、経験を積んだと、思っている。
今更、浮気沙汰も、世間の非難を招くと知りつつも、このまま、空しく引き下がっては、いよいよ笑い者になる。どうしたものかと、迷うと、二条の院にも、帰らない夜が重なり、女君、紫は、戯れにくく、と、思うばかり。がまんしているが、悲しみに、涙のこぼれる時もある。

たはぶれにくく
古今雑体俳諧歌
ありぬやと 試みがてら 会ひみねば 戯れにくき までぞ恋しき
冗談として、すまされない思いである。




源氏「あやしく例ならぬ御気色こそ、心得がたけれ」とて、御髪をかきやりつつ、いとほしと思したるさまも、絵にかかまほしき御あはひなり。




源氏は、妙にお顔の色が、すぐれませんが、どうなさったのか、とおっしゃり、紫の御髪を撫でながら、いとおしいと思っている様子は、絵に書きたいような、間柄である。

最後は、作者の言葉。




源氏「宮うせ給ひて後、上のいとさうざうしげにのみ世を思したるも、心苦しう見奉り、太政大臣もものし給はで、見ゆづる人なき事しげさになむ。この程の絶え間などを、見ならはぬことに思すらむも道理にあはれなれど、今はさりとも心のどかに思せ。おとなび給ひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見知らぬ様にものし給ふこそらうたけれ」など、まろがれたる御額髪ひき繕ひ給へど、いよいよ背きて物も聞え給はず。源氏「いといたく若び給へるは、誰が慣はし聞えたるぞ」とて、常なき世にかくまで心おかるるもあぢきなのわざや、とかつはうちながめ給ふ。




源氏は、宮、藤壺が、お亡くなりになってからは、主上が、何をする元気もないようで、お気の毒に、拝し、太政大臣もいらっしゃらないので、仕事を任せる人もなく、忙しいのです。その間、こちらに帰れないのを、今までにないことと、恨むのは、もっともなこと。だが、もう、安心してください。大きくなり、まだ人の気持ちが解らず、私の心もわからないようですが、かわいらしい、と、涙にもつれた、御額髪を直して差し上げる。が、ますます横を向いて、何も言わない。
源氏は、こんなに、子どものようにいらっしゃるのは、一体、誰の躾のせいか、と、仰せになり、こんな定めない世に生きて、こうまで、この人から隔てられるのは、辛い事だと、考える。

この当り、源氏の、我がまま、勝手気ままな性格が、見える。
紫は、単に、源氏が懸想している女がいることに、嫉妬しているだけで、当然である。
それを、常なき世にかくまで心おかるるもあぢきなのわざ・・・
自分勝手すぎる。とは、現代の私の考え。

恋愛に対する考え方に、大きな違いがあると、思う。

当時は、何人の女がいても、当たり前の時代。
源氏の、地位にあれば、側室など、何人いてもいいのである。




源氏「斎院にはかなしごと聞ゆるや、もし思しひがむる方ある。それはいともて離れたることぞよ。おのづから見給ひてむ。昔よりこよなう気遠き御心ばへなるを、さうざうしき折々、ただならで聞えなやますに、かしこもつれづれにものし給ふ所なれば、たまさかの答などし給へど、まめまめしき様にもあらぬを、かくなむあるとしも憂へ聞ゆべき事にやは。うしろめたうはあらじと、思ひ直し給へ」など、日一日慰め聞え給ふ。




源氏は、斎院は、たわいもないことを申し上げたことを、もしや、取り違えているのかもしれない。それは、大変見当違い。いずれ、お解かりになるだろう。昔から、至って、そのような事は、疎い方で、騒々しい折々に、お手紙を差し上げて、困らせることもあるだろうが、あちらも、退屈して、たまに、お返事を下さることもあるが、真っ当なお返事ではないものを、一々、打ち明ける事でもない。心配などないと思い直してください。と、一日がかりで、ご機嫌を取るのである。

源氏の、懸命な言い訳が、面白い。
 
はかなしごと聞ゆるや、もし思しひがむる方ある

儚いことを、申し上げたが、それが、勘違いされて、大そうなことになっている・・・
という、源氏の、嘘。
紫の上を、騙せると、思うのである。

まめまめしき様あらぬ
特別な話しではない。
それを、一々、報告する必要もないだろう・・・

浮気をする男の、言い分であろう。
いつの世も、同じか・・・

そして、とても、のんびりした、物語になっている。


posted by 天山 at 05:08| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月05日

もののあわれについて。528

雪のいたう降りつもりたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮に、人の御かたちも光まさりて見ゆ。
源氏「時々に着けても、人の心をうつすめる、花紅葉の盛よりも、冬の夜のすめる月に雪の光りあひたる空こそ、あやしう色なきものの身にしみて、この世のほかの事まで思ひ流され、面白さもあはれさも残らぬ折なれ。すさまじき例に言ひ置きけむ人の心浅さよ」とて、御簾巻上げさせ給ふ。




雪がたいそう降り積もった上に、更に、ちらつく中、松と、竹の対照的なのが、面白く見渡せる夕暮れである。源氏の姿も、一段と輝いて見える。
源氏は、四季折々の中でも、人が特に、心をひかれる花や、紅葉の盛りより、冬の夜の、冴えた月に雪の照り映えた空が、実に、色のない眺めながら、心に沁みて、この世の外の事までが、思いやられ、面白さも、あわれさも、これに過ぎるものはない。それを面白くないことにしている、昔の人の、心の浅いこと、と、おっしゃり、御簾を巻き上げさせる。




月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前裁のかげ心苦しう、遣り水もいといたうむせびて、池の氷もえもしはずすごきに、童女おろして、雪まろばしせさせ給ふ。をかしげなる姿、頭つきども、月に映えて、大きやかに慣れたるが、さまざまのあこめ乱れ着、帯しどけなき宿直姿なまめいたるに、こよのうあまれる髪の末、白きには、ましてもてはやしたる、いとけざやかなり。ちひさきは、童げてよろこびはしるに、扇なども落として、うちとけ顔をかしげなり。いと多うまろばさむと、ふくつけがれど、えも押し動かさでわぶりめり。かたへは、東のつまなどに出で居て、心もとなげに笑ふ。




月がくまなく照り、あたり一面、真っ白に見える。その中に、萎れた植え込みの、かげも痛々しく、遣り水も、むせび泣くようだ。池の氷も、何とも凄い。
女童、めのわらわ、を、庭に下ろして、雪のまろばしをさせる。かわいらしい姿や、髪の様子が、月に映えて、大きなものなれた女童たちが、色とりどりの、あこめ、を羽織り、袴の帯も、しどけない、寝巻き姿は、色っぽいのである。長く垂れた髪の先が、白い雪に、一段と映えて、鮮やかである。小さな連中は、子どもらしく、喜び跳ね回り、扇なども、落とし、御前も忘れて、遊んでいる顔が、いかにも、可愛らしい。もっと沢山丸めて、雪を転がすうちに、動かせなくなり、困っている。一部の人は、東の縁先に出て、気を揉みつつ、笑っている。

童女は、召使たちである。
あこめ、という着物は、単衣と、下重ねの間に、着るもので、童女は、上の衣を着ないので、あこめ、が、表衣となる。

乱れ着、とは、しっかりと、着ないこと。

童げて
幼い様にて。




源氏「一年、中宮の御前に雪の山つくられたりし、世にふりたることなれど、なほめづらしくもはかなき事をしなし給へりしかな。何の折々につけても、口惜しう飽かずもあるかな。意図気遠くもてなし給ひて、くはしき御有様を見ならし奉り事はなかりしかど、御まじらひの程に、うしろやすきものには思したりきかし。うち頼み聞えて、とある事かかる折につけて、何事も聞え通ひしに、もて出でて、らうらうじき事も見え給はざりしかど、いふかひあり、思ふさまに、はかなき事わざをもてなし給ひしはや。世にまたさばかりの類ありなむや。やはらかにおびれたるものから、深うよしづきたる所の、並びなくものし給ひしを、君こそは、さいへど紫のゆえこよなからずものし給ふめれど、すこしわづらはしき気添ひて、かどかどしさのすすみ給へるや苦しからむ。前斎院の御心ばへは、またさま異にぞ見ゆる。さうざうしきに、何とはなくとも聞え合せ、われも心づかひせらるべき御あたり、ただこの一所や、世に残り給へらむ」と宣ふ。




源氏は、ある年、中宮の御前に、雪の山が作られていたが、幾度も繰り返されてきた遊びだが、この折り、あの折りにつけて、亡くなられたことが、残念に思われる。
お傍に、近づけなく、詳しい様子を知ることはなかったが、宮中においでの頃は、心安い相談相手と、思ってくださった。私も、頼りにし、何かあるときは、何事もご相談申し上げたが、目立つほど、立派なことはなかったが、申し上げた甲斐があった。感心するほど、ちょっとしたことでも、仰せになった。
この世に、二人といない、あのような方はいないだろう。いかにも、女らしく大様で、その反面、奥深い心の、趣は、たぐい稀であり、あなたこそ、なんと言っても、紫のゆかり深くして、少しうるさいところもあり、気かんきが勝っているのが、困り者。前斎院の性格は、また様子が違っている。所在無いとき、用事がなくても、便りをしあい、こちらも、気を使わずにいられない、という方は、もう、このひと方だけ、今日には、残っていらっしゃる。と、おっしやる。

紫の上と、藤壺は、叔母、姪の関係である。

朝顔は、源氏に、心のありようを、正させるという。




紫上「内侍のかみこそは、らうらうじくゆえゆえしき方は人にまさり給へれ。あさはかなる筋など、もてはなれ給へりける人の御心を、あやしくもありける事どもかな」と宣へば、源氏「然かし。なまめかしう容貌よき女の例には、なほ引き出でつべき人ぞかし。さも思ふに、いとほしく悔しきことの多かるかな。まいて、うちあだけすきたる人の、年つもり行くままに、いかに悔しきこと多からむ。人よりはこよなき静けさと思ひしだに」など、宣ひ出でて、かんの君の御事にも、涙すこしは落とし給ひつ。




内侍、ないしのかみ、は、何事にも、行き届いて、奥ゆかしいことでは、どなたよりも、優れています。浮ついたところなど、ありませんでしたのに、変な噂が、何かとございました、と、おっしやる、と、源氏は、そうだ。色っぽくて、美しい人の例としては、矢張り引き合いに出さなければならない。そう思うと、お気の毒で、残念なことが、沢山ある。まして、浮気な発展家は、年を取るにつれて、どんなに後悔することが多いだろう。人より、遥かにおとなしいと思う、私でさえ、こうなのだから、などと、口にする。
内侍の君のために、少しは涙を落とすのである。

内侍の君、とは、朧月夜の君である。

人よりはこよなき静けさと思ひしだに
自分は、移り気ではなく、静かに暮らしてきたと、言う、源氏。

まあ、なんと言う、厚かましさか・・・
それこそ、色々な女に、移り気に、接してきたはず。だが、それなりに、皆を、心に掛けていたということは、言える。


posted by 天山 at 06:06| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月06日

霊学29

アイデンティティ、パーソナルな同一性というものの、起源について、小此木氏の、記述を見る。

母親が子どもに対して持っている人格像をみることを通して子どもが自分を認識していくときに、「おれはこういう人間なのだ」と心に抱くようになるわけです。世に有名な天才、偉人の伝記には、フロイトの場合のように、その人が生まれる前のエピソードがつきものです。その読み取り方としては、親の中にその子どもに対しての生まれる以前からのこうしたイメージや期待があって、それが本人の中に人並みはずれた巨大な自己像を形成し、はぐくんだという解釈も成り立つわけです。
小此木

ところが、それが、曖昧で、あまり、意識の無い人の場合は、どこかで、心が、変形するようである。
成功したが、何となく、劣等感にさいなまれる。社会的地位を、得たが、不安感がある。また、その、逆に、尊大無礼になる。
傲慢になる。
本当は、自分に自信がないのだが、虚勢を張る。

負けず嫌いだから、知らないということが、許せないので、猛勉強をする。
しかし、いつか、力尽きるのである。

自我虚構の、自我拡大意識と、私は、言う。

子どもが自分の全体的な自己像を自分のものにしていく過程には、ことに母親が子どもに対してもっている一貫した子ども像と自分を同一視して、その見方で自分のことをみるようになります。そしてその自己像を自分のものにしていくということがあります。
小此木

この、自己認識の仕方を、明確にしたのが、ラカンの「鏡像段階」という。

鏡に映る、自分の全体像を見て、これが自分だと、固定して、映る自己イメージと、自分を同じものと同一視する。そこで、全体的な、自己表象、自己像というものが、出来あがるという。

ここで大切なことは、二つあって、一つは全体的で一貫性のある自己像というものは、鏡に映って初めて認識できるということです。ですから、それを子どもの体験に即していうと、母親がいつも自分のことを同じ自分だと見ている同一性と一貫性が大切なわけです。
小此木

子どもは、今日と、昨日の自分が、ばらばらなものとして、体験している。
そこで、母親が、一貫して、子どもに対する、人格像があることが、子ども自身の、一貫性した、自己像を作る助けになる。

不変性と一貫した自己像を持つのが、大人の心に、一貫して続く、アイティンティティということになる。

もし、これが、うまくいかないと、心は、分裂する。
それが、神経症になるのか、他の精神疾患になるのか・・・

そして、面白いことは、次である。

もう一つ、このような自己像は、無味乾燥な知覚とか認知のような知的な認識だけでできあがるものではないということです。まさにそれはあのナルシスの神話通りに惚れ込みの対象としての自己像がはじまるということです。つまりその起源において、自分の存在を知ることは、惚れ込み対象としてしかあり得ない、ということです。惚れ込み対象としての自分と意識・認識の対象としての自己は、この起源的な状況ではまったく一つのものなのです。
小此木

もし、憎しみ、嫌悪、無関心の対象としての、自分しか、見出せないとすれば、そこに、全体的な自己像を作り出すことが、出来なくなる。
つまり、同一性と、一貫性が、見出せない自分となる。

健康な、自己愛というものを、育てなければ、生きるに、とても、大変であり、時には、精神疾患、犯罪に関わる人格を育てる。

それでは、孤児などの、場合は、絶望的であろうか。
違う。
母親に、代わる存在があればいい。

人は、人によって人になる、ということである。

母親が、内面的に確実な存在となり、外部にも予測可能な存在になる。
その体験の一貫性、連続性が、同じ体験であること。
それが、自我同一性の基礎となる。

この発達が一定の段階に達すると赤ん坊はほほえむようになる。
エリクソン

自己愛から、始まる、人間の心の成長である。

最初に、母親の愛を受けて、自分を愛することを、知る。
自分を愛することに、成功できた人は、人生の逆境にあっても、強く歩むことができる。
何故か。
自分を愛しているからである。

絶望的な状況の中でも、それを、超える力は、自己愛なのである。

母と子の関係は、探れば、探るほど、面白いが、省略する。

原始時代は、その、自我の意識が、曖昧だったのは、そこまで、母と子の関係が、進化していなかったのである。

自我と、自然との、一体感などの、原始的体験は、また、それで、自然の中に生きる人間を、進化させた。
更に、人間の大脳化である。

さて、この自己愛から、愛の意識が、拡大していく。
自分と、関わりあるものに対する、思いである。

親兄弟は、勿論、祖父、祖母、そして、親類・・・
さらには、友人、知人・・・
そして、地域社会に対する思い。
更には、国に対する思い。
愛国心である。
それは、教育せずとも、自然発露の形で、成長する。
ただし、止められた場合は、歪められる。
敗戦後の、日本人は、愛国心を、止められたといえる。だから、日本人が、歪になった。自然発露であるところの、思いが、歪められると、自虐的になる。
自虐史観などは、その最たるもの。


posted by 天山 at 05:09| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月07日

霊学30

そもそも自己愛は自体愛的な原始的な自己感覚にその起源があるように、何か温かみがあって居心地が良くて、住み慣れていて、ある種のくさみがあるようなーーー言語以前のものでみちている自己感覚と密着したものであり、しかもそのような自分の隠れ家であり、安全装置であり、防御でもあるようなものです。
小此木

言語以前の自己感覚・・・
これは、心と深いつながりがある。
身体意識とも言う。

心は、脳が作った・・・という、人が多くなった。脳科学のお陰である。
しかし、脳以前の、感覚、それを、私は、身体感覚と呼び、それを、心のあり様として、捉える。更に、言語以前ということが、大切である。

言語というのは、左脳によるもの。
それでは、身体感覚は、右脳である。

では、心は、右脳か・・・
違う。
身体感覚のうちでも、それは、心臓である。

これに関しては、後々に、詳しく書く。

今は、自己愛である。

ところが、人間はプライバシイとか、秘密の自分とか、自分ひとりにしかわからないひそかな自己愛とともに、対人関係における相互性とエロス的コミュニケーションの中で、現実の経験の裏づけを受けて発達する社会に是認された自己愛=アイデンティティをもつようになる。
小此木

さて、ここでは、対人関係と、エロス的コミュニケーションである。
対人関係における、相互性とは、制度化したり、社会化したりした形での、維持するアイデンティティである。

それを、共有した人たちとの、連帯した感覚であり、その関わりが、アイデンティティとなるのである。
国家、宗教、主義、主張である。

単独では、アイデンティティにはならない。

エロス的コミュニケーション・・・
これは、また、大変なテーマである。
簡単に書いているが、これを、説明するために、費やす言葉は、大量になる。

エロスの定義から、始めなければ為らない。

ですから、人間が健康な自己愛をみたして発達させるには、このようなミューチュアルな関係を、どけだけ多く発見し、経験し社会化していくことができるかが課題になるのです。
小此木

そこで、フロイトの、自律性の発達段階が、出てくる。
肛門期、男根期・・・

小此木氏は、幼児的でプリミティブな自体愛を捨てさせて、その代わり、より発達した社会性をもった、自己愛を与えることが、子供の教育に必要であると、説く。

さて、相互性とは、対人関係や、社会に限らず、根源的には、自然と人間との間にも、成立する、調和した、感覚なのであるということだ。

人間の強さとは、相互性への、信頼をどのようにして、身につけるか、どうやって、相手、それは、自然から、人間、社会、歴史まで、含めて、相互性を見出すということ。そして、それを、確立してゆくかということになる。

相互性を持った自我と、社会の出会いに成功するか、否かが、その人物の人生の、別れ道になる、場合が、少ない。

そこで、この、自己愛の、本来のテーマは、現代人の、自己愛を、考えるものである。
つまり、病的な自己愛が、肥大化した人間の様を、考えることである。

健康な、自己愛ならば、語ることもない。
それが、損なわれ、傷つき、その防衛の代償としての、自己愛が、跋扈するから、問題なのである。

通常の、心理学の教科書をお勉強するなら、これを、書く必要は無い。
良い教科書は、多々ある。

その病的で、自己愛が肥大化すると、どうなるのかである。

そして、小此木氏も、それが、テーマなのである。

それを、知ることにより、自己回復を促す。
そして、健康な自己愛を、取り戻すことなのである。

端的な例を、上げる。

学業優秀で、見た目も、ハンサムな男が、ある程度の、出世をした。
ところが、彼は、成長の過程で、健全な自己愛を、創造できなかった。
非常に、現代に多く見られる傾向である。

最初から、勝ち組にいるような、錯覚から、言葉、態度に、人を軽蔑、卑下した見方をする。

最初から、つまり、生まれながらに、自分は、他の人間と違うのだという、明らかに、病的な自己愛を作り上げてきたのである。

その、最大の、根拠が、学歴、学業優秀なのである。
勿論、そのように、努力したのであるが、それが、唯一の自己愛の、拠り所となる。
そして、幾つになっても、対人関係では、納得しない、満足出来ない、人間関係しか出来ない。

それは、結婚生活でも、そうである。
妻は、我に従うべきモノ。
妻にさえも、歪んだ自己愛を、投影するのである。

更に、悪いことは、他人をも、歪んだ自己愛からしか、理解できないのである。
だから、指導的立場にしか、立てないのである。
だが、誰も、それを、望まない。
そして、悲劇が起こる。
孤立である。

それは、周囲の人たちにも、問題がある。
学歴の高い彼を、尊敬しなければならないという、無意識の意識が、働くからである。
誰も、彼のことを、批判出来ないのである。

だから、更に、孤立する。


posted by 天山 at 07:02| 霊学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

がんばらなくていい東北 松島被災地の旅(事務局長代筆) 1



 4月ごろから、震災アレルギーがつづいていた。

 テレビやラジオで、新しく見つかったご遺体の数をきくたび、耳をふさぎたい気分だった。

 そのうち新聞も手にとらなくなった。どうせ見たって、昨日と今日と矛盾したことを読まされて目が疲れるだけ。

 そうして一ヶ月ほど過ごした。余震も数え切れないほどあった。もちろん今も続いている。映像や文章、写真で知る大震災関連ニュースには、心底いや気がさしていた。芸能人やスポーツ選手が避難所を訪れた話も、右から左にききながした。

 大震災のことを忘れるように、海外活動にうちこんだ。
 6月の終わり、パプア・ニューギニアから帰った後のことだ。
 原因不明の頭痛に襲われた。

 耳の付け根あたりから、首ねっこのところが、万力でしめつけられるように痛む。こらえるため、床によつんばいになって、喘息患者が息を必死で吸うように、身体全体で呼吸して、やっとこらえられた。

 熱を測っても微熱で、帰国後原因不明の下痢もつづき、もう体力も精神力も、保つのが精一杯だった。

 そんなさなか、もうろうとした意識の中で、心が決まった。
 被災地へ行かねばならない。
 そうしないとこの症状は改善しない。
 何故かそう確信した。

 そのころ不可解なことも身に起きた。
 いちばん辛いとき、東北の民謡をやたらとききたくなった。
 三味線や尺八、こぶしのきいた歌をきいて、大粒の涙をこぼした。
 明らかに、まともではない。

 そうしているうちに、宮城の被災者の方から、テラの会にメールが来はじめた。札幌で犬の調教をやっている知人が、被災地で迷子になった犬のための支援活動をしていて、私たちを紹介したという。

 それから宮城県矢本の「あったかいホール」という震災支援に使われている施設に、夏物の衣類などを送るようになった。受け取りの相手は、永松美幸さんという方で、東松島の人だという。

 外から来たボランティアではなく、地元の有志であり、「笑顔プロジェクト」を立ち上げた女性だった。

 永松さんのおかげで、7月31日から8月2日まで現地入りすることが、とんとん拍子に決まった。

 はじめはあったかいホールに宿泊できる、ということだったが、ただの倉庫みたいなものなので、寝泊りの設備はなく、諦めた。つぎは永松さんのご実家が、ご両親ともに仮設住宅へ移られており、空き家なので、嫌でなければ使って欲しいといわれた。

 夜、被災した集落の空き家で過ごす気分とは、どんなものだろう。
 幽霊が怖いということはない。余震も怖くない。
 ただ、誰もいない被災地のただ中で、ひとり過ごす夜は、考えすぎて内に入り込みそうで不安だった。まだ見ぬ震災の爪あとがどんなものかもわからなかった。

 だから、松島海岸に宿をとることにした。少々高くなるが、被災地の人の食べ物を横取りしたくないので、13.600円の、夕食・朝食付きのコースにした。

 古くからある大松荘である。こんな時期に松島にいく人など、いないだろうと思っていたら、どっこい、31日は満室だという。その9割が震災復興関連だとは、後で知った。1日は月曜日だったのもあり、予約がとれた。

 これで宿は確保できた。
 あとは用意して行くだけである。
 きっと被災者に渡す機会もあるだろうと、少年用のズボンや、ハンドタオルを、持っていけるだけかばんに詰めた。

 テラの会代表の木村は、「自分のやることじゃない」といって、同行しなかった。
 被災地では何より体力がいるだろうし、行って熱中症で倒れていては、逆に迷惑がかかると。

 そういう成り行きで、8月1日わたしは東北の被災地へ向けて出発した。
 支援の名のもとに、自分の震災アレルギー改善をはかる腹づもりもあった。

 またどんなボランティアが来ているのかも知りたかった。
 とあるラジオ関係者からオフレコの情報をもらっていた。
 被災地ボランティアは、昔のW大学のスーパーフリーみたいだと。

 そういう混乱もしっかり見届けたかった。

2011年08月08日

がんばらなくていい東北 宮城松島被災地の旅 2(代筆・事務局長)


 はじめ、被災地入りは、2泊3日の予定だった。
 しかし7月31日の宿がとれず、8月1日のみ空きがあった。
 現地に食堂があるかもわからなかったので、二食付で予約した。
 
 震災後いち早く営業再開した、「大松荘」である。
 松島海岸駅の目の前にあり、JR仙石線で被災地入りする場合、至便である。
 仙石線松島海岸駅〜矢本駅間は、津波で線路がめくれ、運行できない。

 いまはおよそ一時間に一本、代行バスが出ている。
「大松荘」はそのバス発着所からも、目と鼻の先だった。
 むろん予約するときは、そんな事情はわからない。たまたま電話をかけただけである。一泊二食付きで13.600円は、観光客ではない私には正直高かった。それでも、お金を使うことも復興支援になると思い、迷うことなく決めた。

 さて宿も決まり、あとは行くだけという段になって、永松さんより連絡があり、31日に東名(とうな)で炊き出しがあるという。その時に衣服支援をしてはどうか、ということで、夏物のズボンや、ハンドタオルをバッグ2個分詰めた。

 8月1日。朝8時に事務所を出た。
 くもり空で、それほど暑くはなかった。
 通勤客で満員の東海道線で東京駅に向かう。

 東京駅で東北新幹線に乗り換える。
 ホームでは、停車中の新幹線の周りに、人だかりができていた。
 駅員にきくと、人気のある「はやて・こまち号」だった。
 鉄道マニアが群がっていた。
 全席指定なのであきらめ、隣のホームで、山形の新庄まで行く便の自由席車両に乗り込んだ。仙台出身の友人に、仙台止まりの便より、もっと先まで行く便の方が速いときいていた。

 自由席はがらがらで、三人分の席を一人占めできた。
 一人分のスペースが広く、椅子の背中もその分ながながとリクライニングできる。
 ボタンが二つついていて、Bボタンを押すと、座椅子部分も前の方にスライドする。
 楽ちん至極。

 自由席車両に乗る前に、指定席車両の中が見えたが、かなり席は埋まっていて、きゅうくつそうだった。高い指定席より安い自由席の方がいいとは、盲点である。ひとり、得した気分になって、思い切り身体を伸ばし、終点の仙台まで高いびきをかいた。

 途中、福島に止まった。
 原発事故がいまだ収束しない福島である。
 くもり空であったせいか、どことなく沈うつに見えた。

 横須賀に住んでいる知人の話だ。
 家の近くに、核燃料の倉庫がある関係で、放射能測定器があるという。
 ふだんは、基準値以下の、ゼロ近くを這っている測定線が、震災の後、いきなり急上昇して、上限をふりきってしまった。2日、3日と経つうちに、半分に減り、4分の1に減りしていったが、いまだ震災前の数値にはもどっていない。

 放射能量計の針がふりきれたとき、テレビでは福島の原発建屋が爆発する映像が流れていた。どう考えても、放射能量の急上昇は、その爆発と関係があるとしか思われない。それなのに政府は、人の一年に浴びる放射線量以下の数値だの、X線検査で照射する程度だのと繰り返す。
自分たちも被爆させられたのだ、と彼は思い知った。

 そう、私たち、震災のとき関東にいた人間は、被爆したのである。
 広島・長崎と同じ被爆者になった。
 だからといって、どうという話でもない。
 30才以上の成人は人生を自分で決めるべき、という考えに私は賛同する。
 ただ、乳幼児や、子供たちとなると、話は別である。

 主にヨーロッパから来た在日外国人が、本国からの緊急通知で、あわてて被爆圏外に逃げたのも、今から思えばあながち間違ってはいない。外国の政府やメディアは、日本国民との利害関係が薄いので、ありのままを発表したのだろう。

 もし自分が外国に出ていて、同じ目に遭ったら、もちろん脱出する。
 ただ今回は他でもない、自分の国の領土内でのことだ。
 何が起きても、どこへ脱出する場所もないし、そんな気もない。

 福島のことから横道にそれた。
 旅の先を急ごう。
 仙台に着くと、在来線に乗り換え、松島海岸駅へ向かった。
 地図で見るとよくわかるが、JR仙石線は、今回津波の来た海岸線をずっと石巻までつづいている。松島の海岸線を通っていく。
 松尾芭蕉があまりの美しさに、俳句をつくる気にならなかったというほど、日本で有数の風光明媚な路線なのだが、今回はそれが災いした。松島海岸駅から矢本駅まで、復旧に5年はかかると言われている。また、観光資源でもある、松島の島々が、津波から人々を護った話しも、後にきくことになる。

 仙台の街並みは、震災など何もなかったように、普段と全く変わらない。
 本当に自分は被災地へ向かっているんだろうか。
 キツネにつままれたような気分だった。

 それが、塩釜を過ぎたあたりから、少しずつ津波の爪跡が見えだした。
 窓の外の海ぞいの風景が、じわりじわりと異様さを増してくる。
 いよいよか。肌が粟立つのを感じた。

がんばらなくていい東北 宮城松島被災地の旅 3 (代筆・事務局長)




 仙石線のどんづまりまで辿り着いた。
 正確には次の駅まで開通しているが、その先へ行く者は、ここで降りなくてはならない。
 松島海岸駅である。

 代行バスは改札を出てすぐの駐車場から出ていた。
 乗ろうとすると、ちょうど満席になり、次を待ってほしいと言われた。
 仕方なく、バス待ちの列に並んだ。

 後に知ったのだが、代行バスは1時間に1本か、2本しか出ていない。
 逃せば次をじっと待たなくてはならない。
 それを知ってか知らずか、乗り遅れた中年の男が、バスの係員にくってかかった。
 ものすごい剣幕で「納得がいかない」と怒りをぶつける。小さな孫を連れていた。地元の人だろうか。しかしいくら怒鳴ったところで、かいはない。係員は黙ってきいていた。やがて運良く臨時バスが到着した。

 バスに乗ると、こんどはがら空きだった。
 前のバスは満員だったのに。
 怒鳴っていた男も孫と一緒に乗った。

 バスの乗客数がまちまちである以上、本数を増便すれば、それだけ赤字バスが出るだろう。
 JR東日本も、赤字覚悟で代行バスをやっているのは、一目瞭然だ。客も会社も苦しいところだ。互いに痛み分けである。私のような旅行者には、しかし無いと困る。タクシーを使えば、東名まで2千円はかかる。

 バスの窓から、今夜の宿である大松荘が見えた。ほんとうに駅の真ん前である。てきとうに選んだのだが、幸運だった。

 走りだしたバスの客をそれとなく確かめる。
 何国人かわからない、おしゃれな服を着た黒人青年。ばっちりヒップホップ系のファッションで決めた、不良っぽい若者。ボランティアらしい女の人もいた。
 
 山と海が接している。日本一の名勝、松島の絶景が窓の外に展開する。観光客の姿もちらほら見える。西行法師もひき返したという、陸奥(みちのく)へ入っていく。
 かつての仙石線の盛り土が見えた。これは、ダメだ、と思った。津波の来た海岸線にぴったり寄りそい過ぎている。運行再開の見通しが立たないのも道理だ。もう一度津波が来たら、どうするのか。いまはJR東日本社内でさまざまに検討しているらしい。

 うねりながら続く山道が、いくつかの峠を越した。とつぜん視界がひらけた。そこがその日の活動場所、東名であった。

 永松さんに携帯電話で連絡すると、活動場所はバス停留所のすぐ近くだという。永松さんのご実家の庭である。走って迎えに来てくれた。1時に着く予定だったが、代行バスの遅れなどで、2時ごろについた。炊き出し開始は3時である。

 東名に来るのはもちろんはじめてだ。予備知識は全くない。国道が集落のあいだを一本通っていて、山側と海側を分けている。どうやら港もあるようだが、バスを降りたところからは分からない。津波がほんとうに来たのか、ぴんと来なかった。山側の集落は一見して無傷に見える。

 永松さんに連れられて活動場所に着いた。二階建ての一軒家である。一階は、たたみがはがされており、床下が丸見えである。冷蔵庫やガスコンロの他は、家財道具はいっさい取り払われている。ご両親は仮設住宅に移った。

 荷物は二階に置いて下さい、と言われるままに二階にあがった。以前、来た人が下に荷物を置いていると、支援物資と間違われたのか、誰かに持っていかれたのだとか。二階にはたたみが残り、テーブルや、テレビもあった。バルコニーに荷物を置かせてもらう。二階の窓から見える近所の家は、そこかしこが崩れて半壊の有様だった。珍しく思い、デジタルカメラで写した。まだ私も現実が見えていなかった。

 3時の活動開始まで、少し時間があったので、永松さんにことわって、辺りを視察に行った。川の向こうに行くといいですよ、いろいろ見れますから…、永松さんはさらりという。かるく返事をかえして歩き出した。
 
 川のほとりに駅らしいものがあった。
 被災地では、○○らしいもの、にたくさん出会う。
 線路はなく、草の茂るにまかせてある。まさか、かつての仙石線東名駅じゃないよな、と訝しく思いつつ、通り過ぎた。そこがれっきとした駅だったのは、後に永松さんから知らされた。

 橋を渡った。欄干がひしゃげ、竣工昭和39年とある石が、横倒しになって、川におちる寸前で止まっている。そこから先の光景は、果たして正確に描写できる作家が日本にいるのか、疑わしいものだった。

 いろいろ見れますから、という一言の重みがじわじわと感じられてきた。

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