2011年07月20日

神仏は妄想である。345

神道には、開祖も、経典も、教義も無い。
つまり、欧米の宗教学としての、宗教という概念は、無い。

だから、宗教ではない。
私は、伝統と言う。

だが、しかし、神社神道では、神職を置くことから、それでは、何を基準に、神職とするのか・・・
ということで、古事記、日本書紀の勉強をする。そして、その中の、神話の部分を、覚えるのである。

古事記は、天武天皇の命により、出来たものであり、私は、作為があると、見ている。
つまり、大和朝廷以前の、歴史を、圧縮した。
圧縮して、それを、神話として、作り変えた。
改竄である。

それでは、大和朝廷以前の、歴史とは、何か・・・
文献が無いと、学者たちは言う。
学者とは、学ぶ者であるから、私とは、違う位相にいる。

書かれたものが、ある、ということは、書かれなかったものも、あるということである。

その、書かれなかったものは、何か・・・
それを、勘に頼る、霊感に頼り、鑑みる行為を、道行と言う。
私の言葉である。

道を行くのである。

さて、古事記の神話は、美しい物語である。
その美しい物語を、文学として、評価していい。
だが、そこから、何か、事実を掴もうとするのは、誤りである。

天地の中心に、最初に生まれたのが、天之御中主神、あめのみなかぬしのかみ、となる。
そして、高御産巣日神、たかみむすびのかみ、神産巣日神、かみむすびのかみ、である。

更に、うましあしかびひこじのかみ、天之常立神、あめのとこたちのかみ、である。
以上の五神は、男女の性別がなく、独り神として、身を隠して、姿を現さず、別天神、ことあまつかみ、と、呼ばれる。

これ自体が、物語である。
創作作家がいる。

物語として、お話しとして、受け入れる。
ところが、それらの、神々が、存在すると、信じてしまう人たちがいる。

姿を現はずもない。
存在しないのである。

更に、ニ神の神がいる。
国土の元をなす根源神といわれる、国之常立神、くにのとこたちのかみ、と、豊雲野神、とよくもぬのかみ、である。
そのニ神も、独り神であり、身を現さない。
存在しないからである。

ただし、それから、存在するものとして、拝すると、その想念が、その存在を作り上げるのである。

つまり、拝する人の、想念が、そのような、不気味な神を、作り上げる。

ただし、これは、天地のエネルギーの解釈としては、受け入れられる。
そのような、エネルギーによって、ただ今の、あり様が成ったと、信じるものである。

その後の、10神々は、男女ペアで、現し身の神、つまり、実在の存在として、語られる。

10神々は、一代として、すべての、神のことを、神世七代、かみのよななだい、という。

これらによって、世界は、おおよその形を整えたといわれる。

しかし、完全ではなかった。
ここが、問題である。
完全ではない、とは、何か・・・

そこで、別天神は、イザナギと、イザナミの神をして、国を造らせる。
オノコロジマを作り、そこに、天下って、夫婦の交わりをする。
そして、生まれたのが、ヒルコという、未熟児である。

それは、イザナミが、誘ったからであり、次に、イザナギが、誘い、交わりをやり直して、8つの島を生んだという。

完成したのが、豊秋津根の大八嶋、おおやしま、日本列島である。

日本列島は、一万ニ千年前に、大陸から、徐々に、離れて、島となった。
考古学である。

天地開闢と、国生みの、神話である。

これをもって、神社神道は、教義のようなものを、確立させたのである。

教義のようなものであり、教義ではない。
物語の、延長である。

このようにして、神道は、堕落してゆくのである。
ただ、世界には、神話から、ある種の信仰形態を作り上げるというのが、一般的である。

作り話を、まともに、取り上げる必要は無い。

現みの神は、次々と、山の神、海の神と、数多くの神々を、生んだ。

岩、土、木、風、五穀・・・

要するに、すべては、神が、神々が、作られたのですよ、という、お話しである。
そして、それは、また、すべて、自然である。
自然の成り立ちを、創造するという、行為の、美しい物語である。

古事記が、書かれた頃には、中国大陸、朝鮮半島から、大量の書物が、入っていたので、その影響は、大きい。

そして、また、それらの、弊害も大きい。
ただ、日本にも、このような、美しい、神話が存在するというのが、いい。

神社の中には、天之御中主神を、祭神とするところもある。
それも、微笑ましく思われる。



posted by 天山 at 00:32| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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