2011年07月20日

神仏は妄想である。345

神道には、開祖も、経典も、教義も無い。
つまり、欧米の宗教学としての、宗教という概念は、無い。

だから、宗教ではない。
私は、伝統と言う。

だが、しかし、神社神道では、神職を置くことから、それでは、何を基準に、神職とするのか・・・
ということで、古事記、日本書紀の勉強をする。そして、その中の、神話の部分を、覚えるのである。

古事記は、天武天皇の命により、出来たものであり、私は、作為があると、見ている。
つまり、大和朝廷以前の、歴史を、圧縮した。
圧縮して、それを、神話として、作り変えた。
改竄である。

それでは、大和朝廷以前の、歴史とは、何か・・・
文献が無いと、学者たちは言う。
学者とは、学ぶ者であるから、私とは、違う位相にいる。

書かれたものが、ある、ということは、書かれなかったものも、あるということである。

その、書かれなかったものは、何か・・・
それを、勘に頼る、霊感に頼り、鑑みる行為を、道行と言う。
私の言葉である。

道を行くのである。

さて、古事記の神話は、美しい物語である。
その美しい物語を、文学として、評価していい。
だが、そこから、何か、事実を掴もうとするのは、誤りである。

天地の中心に、最初に生まれたのが、天之御中主神、あめのみなかぬしのかみ、となる。
そして、高御産巣日神、たかみむすびのかみ、神産巣日神、かみむすびのかみ、である。

更に、うましあしかびひこじのかみ、天之常立神、あめのとこたちのかみ、である。
以上の五神は、男女の性別がなく、独り神として、身を隠して、姿を現さず、別天神、ことあまつかみ、と、呼ばれる。

これ自体が、物語である。
創作作家がいる。

物語として、お話しとして、受け入れる。
ところが、それらの、神々が、存在すると、信じてしまう人たちがいる。

姿を現はずもない。
存在しないのである。

更に、ニ神の神がいる。
国土の元をなす根源神といわれる、国之常立神、くにのとこたちのかみ、と、豊雲野神、とよくもぬのかみ、である。
そのニ神も、独り神であり、身を現さない。
存在しないからである。

ただし、それから、存在するものとして、拝すると、その想念が、その存在を作り上げるのである。

つまり、拝する人の、想念が、そのような、不気味な神を、作り上げる。

ただし、これは、天地のエネルギーの解釈としては、受け入れられる。
そのような、エネルギーによって、ただ今の、あり様が成ったと、信じるものである。

その後の、10神々は、男女ペアで、現し身の神、つまり、実在の存在として、語られる。

10神々は、一代として、すべての、神のことを、神世七代、かみのよななだい、という。

これらによって、世界は、おおよその形を整えたといわれる。

しかし、完全ではなかった。
ここが、問題である。
完全ではない、とは、何か・・・

そこで、別天神は、イザナギと、イザナミの神をして、国を造らせる。
オノコロジマを作り、そこに、天下って、夫婦の交わりをする。
そして、生まれたのが、ヒルコという、未熟児である。

それは、イザナミが、誘ったからであり、次に、イザナギが、誘い、交わりをやり直して、8つの島を生んだという。

完成したのが、豊秋津根の大八嶋、おおやしま、日本列島である。

日本列島は、一万ニ千年前に、大陸から、徐々に、離れて、島となった。
考古学である。

天地開闢と、国生みの、神話である。

これをもって、神社神道は、教義のようなものを、確立させたのである。

教義のようなものであり、教義ではない。
物語の、延長である。

このようにして、神道は、堕落してゆくのである。
ただ、世界には、神話から、ある種の信仰形態を作り上げるというのが、一般的である。

作り話を、まともに、取り上げる必要は無い。

現みの神は、次々と、山の神、海の神と、数多くの神々を、生んだ。

岩、土、木、風、五穀・・・

要するに、すべては、神が、神々が、作られたのですよ、という、お話しである。
そして、それは、また、すべて、自然である。
自然の成り立ちを、創造するという、行為の、美しい物語である。

古事記が、書かれた頃には、中国大陸、朝鮮半島から、大量の書物が、入っていたので、その影響は、大きい。

そして、また、それらの、弊害も大きい。
ただ、日本にも、このような、美しい、神話が存在するというのが、いい。

神社の中には、天之御中主神を、祭神とするところもある。
それも、微笑ましく思われる。



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2011年07月21日

神仏は妄想である。346

イザナミの神が、最後に、火の神を生んだときに、ホト、女陰を、焼いて死ぬ。

これが、面白い。
女陰を焼いて、死ぬという、神話である。

とても、まともな神経ではない。
まあ、それに、意味づけするのが、アホな学者たちである。

たいした意味は、無い。ただ、死ぬというところである。意味のあるところは。

それから、イザナミと、イザナギの神の、戦いである。
死の国に入った、イザナミに、イザナギが、逢いに行き、そこで、イザナミの醜い姿を目にして、驚き、逃げる。
そして、追われる。
ついに、逃げ切る。

そこで、イザナギは、穢れを清めるために、禊をする。

その際にも、多くの神を生んでいる。
男神が、生む・・・

要するに、神話だから出来る芸当である。
実に、荒唐無稽なお話し。

そして、完全に清くなった、イザナギが、最後に、左目を洗うと、天照大神が、右目からは、月読命、つくよみのみこと、鼻から、スサノオの命が、生まれる。

これは、完全に、大和朝廷以前の、存在していた、現し身の、つまり、実在の人物を、物語化したのである。

物語・神話の形にして、登場させるという、手、である。

ここで、一気に、飛躍すると、この、天照大神が、皇室、天皇の、神として、その後に、認定されるが、違う。

もし、天皇の神とするならば、皇室の、本来の祖霊神は、高御産巣日神、たかみむすびのかみ、である。
たかみむすびのかみ、とは、神産巣日神、かみむすびのかみ、と、対になり、独り身の、神である。

産巣日、むすび、とは、魂、とも、書く。
産霊、むすびれい、それは、魂結び、たまむすび、であり、霊魂を体内にこめる、鎮魂の法である。

むすび、を、特に、貴んだのが、天皇家、皇室であるから、当然、産巣日、の神である。

実在の、天照る神とは、富士王朝、高天原府の、中興の大政頭、まつりごとかしら、であった。
唯一、女性の、大政頭である。

その、弟が、月読命で、彼は、姉に、その位を譲り、自身は、山を統治する頭として、高天原府を出る。

スサノオは、別物である。
大陸から、富士王朝を、攻めるために、来たものである。

そして、天照る神に、恭順を示すことになる。
それが、神話として、描かれる。

これを知らない人たち、研究家は、天照大神を、男神だと、判定するようである。
その、男神に、仕えていた、巫女である女性が、天照大神とされたと、言う。

何とでも、いえるので、何とでも、言う。

ある、書籍には、
母権社会から父権社会への転換という大きな流れに沿って、一つにまとめあげられた。それは、北方的・父権的文化を列島にもちこんだ天孫族による、古い日本文化の取り込み、そして支配を意味するものであった。

と言う。

大和政権にとって、都合の良い解釈をする必要があったと、言うのである。

つまり、それは、縄文期から、各地で行われていた、太陽祭祀を一本化するための、方法であったとする。

研究家たちは、持統天皇の代に、男神から、女神への、差し替えが行われたとする。
違う。

天皇家が、伊勢神宮の斎宮に、皇女を差し出していたのは、意味がある。

祟神天皇の代に、富士王朝から、天照の鏡を、奪い、皇居に、奉る。
だが、世の中騒がしく、疫病が流行り、自らの、体調も良くない。
それゆえに、皇居から、鏡を、他の場所に移すことにした。
その際に、皇女を、その守りとして、斎宮を置くことにしたのである。

そして、次期天皇、第十一代垂仁天皇の、皇女である、倭姫の命が、その鏡の、奉る場所を求めて、旅をし、伊勢の地に、お奉りすることになる。
それが、伊勢神宮の前身である。

富士王朝は、大和朝廷以前に、機能していた、王朝である。
勿論、初代神武天皇から、富士王朝の、血族である。

富士王朝は、神都として、九州王朝は、天都として、機能していた。
これについては、古神道に際に、詳しく書く。

確かに、持統天皇の時代に、伊勢神宮を取り巻く環境に、多くの変化があった。
それまで、神宮の祭司を勤める、度会氏が、外宮である、豊受大神の禰宜に代えられ、内宮の、天照大神を祀る、禰宜には、中臣系の荒木田氏が、任命された。

ここに、策略があるとの、見方をする。

持統天皇の存在意義を、男神から、日女、ひるめ、つまり、日神である、男神から、女神へと、変更することで、天武天皇の妻であった、日女が、天皇になったために、日女、ひるめ、を、神にしたという、説である。

天皇家は、すでに、そんなことをしなくても、安泰だった。
持統天皇と、天照大神を、重ねる必要は無い。

日本書紀には、それを、裏付ける記述があるというが、それも、作為あるものであれば、何のことは無い。

つまり、天照る神を、おおひるめ、おおひるめむち、としているというのである。

それは、日神に仕える、巫女という、立場である。

それは、古代史を知らないからである。
富士王朝の存在を、知らない者の言うことである。

持統天皇は、唯一、伊勢神宮に行幸した、天皇であるが、この時に、幣帛、新羅からの、貢物を、伊勢神宮だけではなく、大和神社、おおやまとじんじゃ、など、いくつかの、大社に、奉るのである。

伊勢神宮だけが、別格の扱いを、受けた訳ではない。

ただ、事実として、古代末期から、中世初期に、女神として、定着したと言われている。

それ以後、日本中に、伊勢神宮の存在が、伝わり、広がる。

明治になり、政府によって、国家神道としての、伊勢神宮の神が、絶対神として、強調された。
これが、実に誤りであったことは、見てきたとおりである。
第二次世界大戦の際には、軍部によって、それが、天皇陛下と共に、利用されたのである。

天照る神は、太陽信仰、日の崇敬を、特に人神の時代から、勧めた、人物である。
それは、縄文期から、各地で行われていた、太陽崇敬に、よく、表れている。

大昔、古代、人は、神、かむ、として、意識された。
後に、それが、人が死ぬことは、神になることだとの、意識になるのである。

日本には、唯一、超越した、絶対的存在の神というものは、存在しない。
存在するのは、自然であり、そして、祖霊の神、カムなるものである。

祖霊は、自然の中に、隠れて存在し続けると、認識された。

古事記、日本書紀の、最初の、神話の部分は、神話であり、それは、古代の歴史を、その中に、封印したものと、認識していいのである。

神の名前の、天照以前のものは、創作である。
その後では、何とでも、意味づけ、解釈することが、出来る。

それが、堕落なのである。
要するに、妄想なのである。


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2011年07月22日

天皇陛下について。79

昭和20年、1945年、日本は敗戦した。

広島、長崎と、原子爆弾が投下され、その後、ソ連が日ソ中立条約を破棄して、宣戦布告した。
主要都市は、廃墟となり、陸海軍の戦力も、崩壊した。

敗戦を決めたのは、8月9日と、14日に行われた、御前会議での、天皇陛下の、御聖断であらせられる。

ポツダム宣言受諾と、無条件降伏を決していた。

8月15日、玉音放送により、終戦の詔勅が流れる。
戦争が終わった。

ポツダム宣言には、天皇、憲法に対する、根本的な問題には、言及していない。
それが、日本側に、恐怖を与えた。

昭和天皇の処遇・・・
全く、皆目検討が着かない、状態である。

だが、じつは英米政府は、太平洋戦争中から日本研究を重ね、天皇の政治利用を狙っていたのだった。
英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎

それを、裏付ける、複数の文書があるという。

一つは、1944年1月2日、駐米英国大使館が、本国に送った「ウィークリー・ポリティカル・サマリー」政治報告、である。

日本の将来像について新たな議論が出てきた。国務省内部では、ミカドと協力し、神道を連合国寄りに修正する可能性も話し合われている。ホーンベック(元極東部長)のみが、ミカドの有用性を妄想と考えているようだ。・・・
グルー(元駐日大使)は、新たな太平洋戦争の火種を防ぐため、敗戦後の日本は十分な経済市場を与えられるべきとしている。

かねて英米政府は、明治以来の国家神道が日本の軍国主義の温床になったと見ていた。天皇と協力して、その軌道修正を図ろうという考えだった。
徳本栄一郎

もう一つは、同じ年の、1月13日の、グルーが行った、スピーチを基に、英国外務省が作成した、日本の天皇制存続の展望、という、レポートである。

その中では、日本が無条件降伏をした場合、軍の強硬派が、穏健派を抹殺し、クーデターを起こすのではないか、というものである。

いかなる場合も、無条件降伏と連合軍の占領後、日本の皇室の威信を考える必要がある。天皇は世俗的王位ではなく、個人的人気があるかどうかは分からない。だが、彼は国家の崇拝物で、護符でもある。
レポート

上記を、見ても、よく解る通り、欧米の国々は、日本、そして、天皇の存在を、本当に知らないし、理解も出来ないのである。

人は、自らの、思考以外のことは、考えられないのである。

だから、天皇を理解できるのは、日本人しかいないのである。

更に、神道に関しても、全く、不案内である。
彼らの、宗教的概念でしか、理解し得ない。
それが、また、彼らの傲慢であるところのもの。

その以前も、それ以後も、彼らが、いかに、人種差別行為を、繰り返したかを見れば、一目瞭然である。
更に、である。
今も、その野蛮な思考方法は、変わっていない。

人間に、野獣性というものが、あるならば、それは、彼らの中にある。

さて、敗戦から、三ヶ月後の、1945年11月29日の、東京に進駐した、英国政府代表団が、本国に、長文のレポートを送った。

タイトルは、日本占領の問題点と方針、である。

それは、
いかに英国の利益を確保するか分析した内容だった。
徳本栄一郎

天皇制が、トップ上げられている。

連合の道具として天皇を残したのは、疑問の余地なく正しかった。日本国民は8月15日の詔勅を、全員玉砕するまで戦えとの命令と考え、それに従うつもりでいた。・・・
天皇の権威そこが、平和裏の占領を可能にした。

精神的シンボルとしての天皇の力は、物質的不幸で却って高められた。天皇は残された唯一の財産であり、他国にないシンボルである。

現在の天皇の退位は、戦争犯罪と関連して議論されてきた。彼は協力的な真面目な人物で、自分に出来る範囲で軍部に抵抗しようと試みた。天皇の退位は決して有益ではない。

興味深いのは、すでにこの時点で英国政府が、天皇を「シンボル」(象徴)に利用すべきたと提言している事だ。
徳本栄一郎

上記の、分析は、正しい。
しかし、問題なのは、英国の利益なのである。
根本は、英国の利益によって、理解されたものなのである。

皇室の、英国王室に、対する、対応と、考え方は、全く違う。
それは、利益ではなく、王室に対する、敬意なのである。
しかし、王室も、彼らも、全く、日本の皇室と、天皇の、存在意義を知らない。

ここで、天皇と、イギリス王というものに、天と地の差があることが、解るだろう。

言えば、イギリス王は、大地主であり、天皇は、日本全土を、何一つ持たなくても、天皇という権威のうちに、国民から、崇敬される、存在なのである。

日本全土を、覆う、その大御心なのである。
そのように、捉える。

その、天皇陛下が、わが身、いかになろうとも、日本と、その民のために・・・
と、仰せられる。
それは、天皇だから、出来ることなのである。

イギリス王ならば、わが身を、大切にするゆえ、亡命する。

日本の天皇の存在を、ある程度、理解出来る国がある。
タイ国である。

タイ国王は、国民から、世界の王として、認識されている。
それ以外の、王は、いないのである。

王様とは、タイ王のことである。
彼らに言わせれば、王様は、タイに、いる。
天皇は、日本にいる、ということになる。

それ程、権威というものが大事なのである。

タイの軍隊は、国軍ではない。
王様の軍隊であると、胸を張る。

ちなみに、タイ国王陛下在位60周年記念行事に、参加された、今上天皇、皇后陛下は、どの場面でも、国王のお傍に、置かれた。
当日は、全日テレビ中継で、その様子が、流れた。
私は、バンコクで、その映像を見ていた。

国民が、見られない場面でも、タイ国王は、つねに、天皇陛下をご案内していたというから、驚く。


posted by 天山 at 05:33| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月23日

天皇陛下について。80

日本を民主主義国家に改造するマッカーサーの切り札、それが大日本帝国憲法の抜本的改正だった。
徳本栄一郎

1946年2月3日、GHQ民生局長の、コートニー・ホイットニー准将は、次長のチャールズ・ケーディス大佐、法規課長のマイロ・ラウエル中佐らを呼び出した。
そこで、極秘の指示を出した。
最高司令官は、つまり、マッカーサーは、われわれに憲法草案を書くよう命令された。毎日新聞の記事を見ても、日本政府の憲法案はあまりに保守的で、天皇の地位を何ら変更していない。

日本側の、憲法草案は、明治憲法の枠を出ない保守的なもので、特に、天皇の条項は、明治憲法と大差なく、GHQ側を、激怒させた。
ゆえに、マッカーサーは、ホイットニーに、新憲法の草案の指針を手渡したのである。

2月19日、日本政府は、閣議で、GHQ草案を提示した。
侃々諤々の議論の末、結果は、その案に沿った、憲法を作る方針を決定した。

間髪を入れず、マッカーサーは声明を発表した。
「天皇、政府によって作られた新しく開放的な憲法が、日本国民に予の全面的承認の下に提示された事に深く満足する」
まさに、完璧なやらせだった。
徳本栄一郎

1946年3月8日、東京の英国代表団が、本国に至急電報を打った。
この草案は明らかに英語で作成され、日本語に翻訳されたものだ。トーンがあまりに米国的すぎる。・・・特に軍備を禁じた条項は、将来の改憲議論の焦点になるだろう。
憲法改正を急がせた理由は不明だが、極東委員会と対日理事会を無視する意思が背景にある。この草案が国会で可決されてしまうと、外部の介入は困難である。
1946年3月8日、英国外務省報告

マッカーサーが、本国政府の許可なしに行動しているのは明らかだ。われわれの不満を表明し、彼に対処させるべきである。
1946年3月19日、英国外務省報告

19世紀以来、インドやアフリカに広大な領土を誇った英国は、老獪な植民地経営に長けていた。時には、現地の文化や歴史も巧みに利用する。それだけに、短期間で国家改造を押し付けるマッカーサーに、大きな危うさを感じていた。
徳本栄一郎

連合国は、壮大でかつ野心的な実験を行おうとしている。支配と教化で国民の政治的体質を変え、これまでの知的伝統を破壊または大きく修正できると考えている。可能かもしれないが、歴史上、そのような前例は聞いた事が無い。・・・われわれが望むのは、日本が攻撃的な全体主義から民主主義国へと生まれ変り、国民が基本的権利を享受し、経済政策が相反しない事である。・・・それが自国の利益にも適うと理解させるため、日本に圧力をかけるのは適切かつ合理的だ。しかし、教室で細部の処方まで与える手法は信用できない。日本人に、われわれが望む結果だけを伝え、やり方は彼らに委ねるべきである。
1946年3月26日、英国外務省報告

敗戦後、一度も、改憲せずに来た。
それは、奇跡的である。

平和憲法という名の、美名に酔ってきたのである。
そして、多くの矛盾を、兎に角、辻褄を合わせて、ここまで、来たのである。

イギリスが、言うように、日本民族は、攻撃的ではない。
羊のように、大人しい。
そして、羊のように、従順である。
だから、憲法改正も、進まないのである。

徳本氏は、60年前の、英国政府の懸念が、的中したと、言う。

われわれが日本に採択させるべきは、立法府と個人の権利を尊重する、アングロサクソン型民主主義である。これはキリスト教の教義に由来する個人の自由の伝統から、長い時間をかけて発展してきたものだ。それが、産業革命後の裕福な中流階級により、十九世紀に拡大してきた。同じ条件が整わなければ、日本で同じ発展が起きるとは思えない。

考えられるのは、日本を1868年の明治維新の状態に戻し・・・リモート・コントロールする事である。すなわち、国際社会復帰が認められるまで、欧米列強の監視下に置き、不平等条約も改正しない。
1946年3月26日、英国外務省報告

いかにも英国的な経験主義アプローチである。日本の国民性を無視してやみくもに改革に突き進むGHQは、彼らに子供同然に映ったのだろう。と、徳本氏が、言う。

私は、違う。
ここまで、傲慢なイギリスの、本性を見るものだ。

アメリカの、魔的なものと、イギリスの魔的なものとは、違う。
産業革命後・・・裕福な中流階級・・・
それが、すべて、植民地からの、搾取による。

そして、それが、アングロサクソン型民主主義であり、キリスト教に由来する・・・
呆れる。
それが、可能だったのは、何か。
多くの植民地政策であり、人権無視、更に、人種差別の何物でもないのである。

彼らの、優越意識は、付ける薬がないほど、である。

イギリスは、どれほどの、悪行をして来たのか・・・
その意識さえない。

欧米列強の監視下に置き、不平等条約も改正しない・・・
さらに、日本の、植民地化である。

アメリカより、狡猾、更に、傲慢、優越意識・・・

イギリスは、今も、多くの国に、君臨する。
イギリスを、宗主国としている、国が、今も多く存在する。

そして、そこは、今も人種差別に、晒されているのである。

だが、兎に角、世界は、そのように、動くということである。
国益・・・
その、国益のためには、相手国が、どうなろうとも、いや、殺さない程度に、生かして、搾取するという。
そこに、思想がある。
実に、恐ろしい、思想である。

posted by 天山 at 11:00| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月24日

天皇陛下について。81

何故、マッカーサーが、新憲法制定を急いだのか。

前年の12月27日、モスクワで開かれた米英ソ外相会談で、ワシントンに極東委員会、東京に対日理事会を設置する事が決まった。前者は連合国十一カ国で構成される日本管理の政策決定機関で、後者は、連合国軍最高司令官の諮問機関だ。いわば、日本占領のお目付け役である。極東委員会の一部のメンバーは拒否権を持ち、その中にはソ連など天皇制に反対する国も含まれた。さすがのマッカーサーも無視する訳にはいかない。彼らが介入する前に、憲法改正の目処をつける必要があった。
徳本栄一郎

日本国憲法は、1947年5月3日に、施行された。

草案作成者たちは、旧憲法で天皇が保持した絶対的権限への批判を考慮し、彼の権限を影の力に縮小した。天皇は国のシンボルと表現されている。
九条の戦争放棄は、縁起が悪いが、(武力による国際紛争解決を禁じた)ケロッグ不戦条約に従っている。・・・これが実施されれば、日本は国連の安全保障体制に貢献する事もできない。
1946年7月19日、極東委員会文書

マッカーサーが進める日本改造に、次第に英国は警戒心を強めていった。
徳本栄一郎

1946年4月10日、新選挙法による、戦後初の総選挙が、行われ、鳩山一郎率いる、日本自由党が、第一党に躍進した。
鳩山内閣が、確実になった。
そこに、GHQが、介入した。

4月25日、対日理事会の非公式の会合が開かれた。
議長は、ジョージ・アチソン、戦前の中国に駐在した、米国人外交官である。
彼は、政治顧問として、日本に、派遣された。

アチンソ議長は、
連合国軍最高司令官は、特定の候補者や政党を支持するつもりはない。しかし、好ましからざる人物の首相に、閣僚就任には介入していく。
との、言葉に、各国の代表は、耳を疑った。

連合国軍最高司令官は、鳩山一郎を受け入れられない。幣原善重郎が最も妥当な洗濯だが、吉田茂や戸田均も可能性がある。
1946年4月25日、英国外務省報告

5月4日、GHQは、日本政府に、鳩山の公職追放覚書を発した。
戦時中の、軍国主義的発言などが、主な理由である。

選挙で信任を得た人物の総理大臣が、GHQの一言でひっくり返ったのだ。
そしてこの時も、日本国民には一言の相談もなかった。新憲法制定、総理大臣選出は、確実にごく一握りの米国人によって、決定づけられたのだった。
徳本栄一郎

1947年1月21日、ロンドンから、新任に駐在英国代表である、アリバリー・ガスコインが、東京に入っていた。

マッカーサーからの、昼食の誘いを受けて、二人は、じっくりと、話すことが出来た。

マッカーサーは個人的意見として、裕仁は、現政権や国民の誰より民主的、進歩的だと語った。彼によると、天皇を残して利用する1945年の連合国の方針は百パーセント成功した。また天皇を戦犯として投獄、召還する事は道義的に間違いだった。裕仁自身は、戦争の立案、実行に関わっておらず、西園寺や牧野ら側近や軍国主義の完全な支配下にあったと言う。
1947年1月22日、英国外務省報告

そして、マッカーサーの話は、天皇との、会見の話しに及んだ。

ガスコインは、平静を装いながら神経を集中させた。マッカーサーは、以前から抱いていた疑問を、直接天皇にぶつけてみたと言う。
「そこまであなたが戦争に反対していたなら、なぜマイクの前に立ち、その旨を宣言しなかったのか」
天皇が答えた。
「歴代の天皇で、側近の意見に反して行動した者はいません。1941年の時点で、もし私がそんな行動を取れば、間違いなく首をかき切られていました」
英国外務省報告
以上、徳本栄一郎

昭和天皇独白録
かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦った方が良いという考えが決定的になったのは事前の勢と云わねばならぬ、もしあの時、私が主戦論を抑えたならば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ちながら、ムザムザ米国に屈服すると云うので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデターが起こったであろう。
現代語訳は、私。

英国政府は、マッカーサーが天皇を高く評価している事、日米開戦の直前、天皇が本気でクーデターを心配し、それが開戦に反対しなかった理由と分析したのだった。
徳本栄一郎

さて、実に面白い話がある。

1948年7月6日、駐バチカン英国公使館は本国外務省に、一通の報告書を送った。ローマ教皇と天皇の接触を知った英国政府は、教皇庁幹部に確認を迫った。全世界のカトリック信者の頂点と天皇の関係は、見逃す訳にはいかなかった。
徳目栄一郎。

実は、天皇は、戦争終結の場合の、手段を、想定していたということである。
その具体的な手段として、ローマ法王庁を想定していた。

昭和天皇独白録
開戦后、私は「ローマ」法王庁と連絡のある事が、戦の終結時期において好都合なるべき事、又世界の情報蒐集の上にも便宜あることならびに「ローマ」法王庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なることを考えて、東条に公使派遣を要望した次第である。
現代語訳は、私。

昭和17年4月、特命全権公使となったのは、原田健である。

ともかく、このローマ法王庁への公使派遣は、天皇が開戦まえに、その「戦争終結」にさいしての手段を予め考えていたという意味で、畏るべき思考である。改めていうが、能吏ではあるが軍人官僚の東条には、こういう思考はまったくなかった。「知性」の人であっても、政治家としてはまことに力量の劣る近衛文麿にも、この種の発想はなかった。
畏るべき昭和天皇 松本健一

ということで、天皇は、法王と、どのような、関係を築くことになったのか。
非常に、面白いのである。


posted by 天山 at 00:08| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月25日

天皇陛下について。82

ジョバァンニ・モンティーニ大司教によると、フロジャックは、過去四十年間で日本に「ベタニアの家」という偉大な組織を作り上げたフランス人神父である。
彼は天皇からいくつかの土地譲り受け、農業試験場や療養施設を開いている。1947年9月8日には、天皇・皇后の二人がここを訪れた。
ローマを訪れたフロジャックは、教皇に謁見し、天皇からのメッセージを渡した。彼は返礼として、教皇の写真を天皇に渡す事を希望した、それに教皇も同意した。
全てはフロジャックの個人的熱意からで、この自体に何ら政治的重要性はないとの説明だった。
1948年7月6日、英国外務省報告

モンティーニ大司教は、バチカンの国務長官、つまり、首相の代理を務めていた。
後に、パウロ六世になる。

ローマ教皇は、我々の旧敵国への支持でしばしば非難されてきた。些細な出来事だが、報告に値すると判断するものである。
英国外務省報告

英国が、バチカンを警戒するのは、当時の、ピウス12世の、連合軍への、強い不信感である。

彼は、ヒトラーの教皇とも、呼ばれ、ユダヤ人への迫害、虐殺を黙認したことで、知られる。

背景には、共産主義を公然と敵視した、ナチスへの、親近感がある。
特に、ロシア革命後、ソ連は、宗教は、アヘンだとして、多くのキリスト教聖職者を弾圧した。それに対して、教皇庁は、嫌悪していたのである。

1952年、サンフランシスコ講話条約調印を受けて、バチカンと、日本は国交を回復した。

ローマ教皇庁は、軍国主義の崩壊により、日本にイデオロギー上の空白地帯が生まれたと見ている。共産主義に対抗して、教皇庁は、それを埋めたい考えだ。・・・天皇裕仁がカトリックに改宗する可能性が出た事も、教皇庁の動きに拍車をかけた。
1952年4月18日、英国外務省報告

イギリスの、ガイスコン駐日代表は、天皇が、カトリックに改宗する可能性について、本国に報告している。

もし、そうなれば、甚だしい、影響がある。
日本国民が、雪崩れるように、カトリックになる。

また、一方、共産主義のソ連は、1952年1月、スターリン首相が、日本国民に、メッセージを送る。
「外国の占領に伴い不幸な状態に陥った日本人民に対し、ソ連国民は深い同情をよせている」というもの。
実に、白々しい。

日本という、新しい市場を巡り、キリスト教と、共産主義が、鎬を削っていたのだ。



posted by 天山 at 05:52| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月26日

天皇陛下について。83

東京のマッカーサーは、海外からのゲストを天皇に近づけない事で知られた。日本に着任して二年目のガスコインですら、天皇との個人的会見は実現していないのだ。キラーン卿は喜んでマッカーサーの提案を受け入れたのだった。
徳本栄一郎

キラーン卿とは、明治末期、駐日英国大使館で、二等書記官として、勤務し、1921年、皇太子時代の昭和天皇が、欧州を歴訪した際に、彼も、英スコットランドに同行した。英国外務省の、日本専門家の一人である。

敗戦以来、天皇が英国要人と単独で会うのは、初めてのことである。

明らかに天皇は、戦後初めて、英国の旧友を迎えた事を歓迎していた。拝謁は、ひと時も途切れる事無く二時間続き、天皇は、1920年の訪英時の個人的出来事を話し続けた。訪英が、いかに彼の心に強烈な印象を残したか証明された。
1949年1月25日、英国外務省報告

天皇は、先の大戦を遺憾に思っている事、自分は常に反対していたが、周囲の環境や状況に逆らえなかった事を断定的に語った。また、日本人が与えた苦しみや被害に、心から遺憾の意を表した。
上記に同じ

天皇は、わずかながらも外部の空気を吸う機会を得て喜んでいた。言葉には発しなかったが、天皇は強い親英感情を抱き、再び英国とのコンタクトを得て心から喜んでいる気持ちを伝えようとしていた。
上記に同じ。

天皇は、英国国王夫妻に敬意を表する挨拶文を送りたい旨を、繰り返し表明した。自分は、この要請を然るべき筋に伝えると返答した。
上記に同じ。

それは、世界大戦により、途絶えていた、英国王室、特に、国王ジョージ六世との、メッセージの交換である。

だが、それは、大変難しいものだった。
天皇の、状況が、定まらないうちに、英国との、関係を密にすることは、英国に不利益をもたらすことにもなる。
更に、終戦から、三年を経ても、英国にとって、日本は、講和条約も締結していない、敵国であり、戦争中、日本軍が、英国戦争捕虜を虐待したとのニュースも溢れて、英国民の対日感情は、最悪だった。

戦争状態にある点を考慮し、宣伝を防ぐため、私的な返答は避けるべきである。天皇のメッセージを受け取った旨は、駐日代表を通じ口頭で先方に伝えるべきと考える。
1948年8月12日、英国外務省報告

東京の、ガスコイン駐日代表は、ジョージ六世のメッセージを、単独会見が出来ない以上は、口頭で、伝えることも、無理であるとして、天皇の弟である、オックスフォード大学に留学した、秩父宮を、経由して、伝えることとした。

敗戦から、三年目は、東京裁判の判決が出た年である。
A級戦犯七名に、絞首刑を宣告された。

更に、天皇陛下の、全国巡幸が、行われていた。
焼け跡で、天皇陛下を国民は、熱狂的に、歓迎した。
それは、以前書いたとおりである。

終戦直後のマニラで、キラーン卿がマッカーサーと会った時、天皇の評価が話題に上がった事がある。マッカーサーは「天皇は今の日本で最も民主的考えを持ち、極めて扱いやすい男だ」と答えた。1946年7月11日、英国外務省報告
徳本栄一郎

日本の、国家改造には、欠かせない人物、天皇の存在である。

その後、天皇退位論などが、出てくるが、結果的に、昭和天皇は、退位しなかった。

そして、それが、最も理想的なものだった。

以上、英国外務省報告を、眺めた、徳本栄一郎氏の、書籍に助けられた。

こうして、昭和天皇の、姿を、検証してゆくと、昭和天皇が、いかに、すぐれた政治的感性の持ち主であったかが、解る。
そして、何より、歴代天皇に、鑑みて、己の姿を、絶えず、客観視していたことである。

側近、つまり、政治家が、決めたことは、そのまま、受け入れて、承認するという、姿勢。これは、歴代天皇の御姿である。

そして、それを、辿ると、大和朝廷以前の、富士王朝時代にまで、遡るのである。

大和朝廷の、前身である、富士王朝から、9000年の歴史を、誇る。
神武天皇から、建国2670年を迎える。
世界で、唯一の、歴史の国である。

それは、大政頭、おおまつりかしら、から、大王、そして、大君、天皇と、続いた歴史でもある。

富士王朝では、政、まつりごとの、場を、高天原府として、置いた。
それが、高天原という言葉の、発祥である。

そして、その後、九州に政治を司る、府を置くことになる。
それも、血族であるから、万系一系の天皇の、歴史である。

九州王朝を、天都とし、富士王朝を、神都として、神武東征まで、続くことになる。

それについては、いずれ、書き付ける。

もう少し、昭和天皇の姿を、見て、天皇というものの、存在というものを、考えたい。
学問的には、天皇制という、制度であると、言われるが、天皇は、制度ではない。
伝統である。

制度という、観念が出来る前から、天皇の存在があり、それが、日本を形作っていったのである。
伝統と、言うほかないのである。

更に、西欧の、君主制と、決して、同じくして、理解できないものである。
最も、反対の、絶対君主制なとども、全く別物である。

民族が、生み出した、知恵である、伝統としての、天皇の存在である。


posted by 天山 at 02:44| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月27日

タイ・イサーンの姿

今回の旅は、タイ、バンコクから国内線で、東北部・イサーンに行き、そこから、バスにて、国境を越えて、ラオスに入る計画だった。

ところが、私たちは、ラオス行きを、断念した。

バンコクで、一日を、過ごして、と・・・
その間に、軽い熱中症になったようである。
更に、私は、出発の日の、朝まで、眠らずにいた。
あることで、色々と、書き込んでいたからである。

それもあり、タイに、夕方到着し、いつもの、マンションホテルに、到着して、ダウンした。外に出る気にもなれず、私は、日本から持参した、おにぎりを食べて、寝るのが、精一杯。

熱中症と、疲労・・・
イサーンの、ウボン・ラチャタニーに到着しても、それは、変わらなかった。
しかし、取り合えず、翌日の一日を、休んでいた。
それでも、いつも通りの状態に、取り戻せなかった。

であるから、四日目の朝に、ラオス行きを断念した。

とても、残念だった。

だが、タイ、東北地方である、イサーンは、最も、貧しい地域である。
更に、ウボン・ラチャタニーという町は、イサーンの中心的町である。
では、その中心的な町を、見て、イサーンの状況を理解したいと、思った。

丁度、ラチャタニー滞在の間に、総選挙が、行われていた。
その投票速報を、イサーンの食堂で見た。

この、イサーンは、前首相タクシンの、支持基盤である。
更に、北部地方は、タクシンの出身地であるから、その両方の地域が、おおよその、支持基盤となる。
そして、貧しい。

タイで、最も、人口が多く、投票権の多い場所。
その、二つを手に入れれば、選挙に勝つのである。

そして、タクシン派が、勝った。
それについては、後で、詳しく書く。

私たちは、市内と、近郊の村々に出掛けて、衣服支援をすることにした。

勿論、手引きする人はいないから、暗中模索の中で、する。
まあ、いつものことである。

ラチャタニーには、五泊した。
到着から、三日目の日、活動を開始した。

その間に、私は、ベッドメークのおばさんと、実に、親しくなった。
そこで、コータに、おばさんと、話しをして欲しいと、頼み、支援が必要な場所を、尋ねることにした。

朝、出勤した、おばさんを、部屋に招いて、尋ねた。
まず、おばさんの、家族のことから・・・

おばさんは、どうして、そんなことを、聞くの・・・と、言う。
そこで、実は、私たちは、衣服を皆さんに、差し上げるために来たと言う。
おばさんは、それなら、私が、その場所に連れてゆくと、言うではないか。

おばさんが、手の空く時間、昼過ぎに、トゥクトゥクに乗り、出掛けることにした。

こうして、いつも、地元の人のお世話なる。
それは、また、実に、よいことだった。
地元の人と、一緒に行動することは、それだけで、信用される。

その、支援をすることによって、私たちは、タクシン時代の、イサーンに対する、政策を聞くことも、出来た。
また、それは、大規模な、選挙違反の話にもなる。
この、おばさんを、参考人にして、タイの選挙管理委員会に、連れて行けば、今回の選挙の、結果は、ご破算となるはずである。

おばさんは、まず、自分の住む地域に、私たちを連れた。
私は、その場所を見て、それほど、貧しさを感じなかった。
何せ、建物、家が、立派なのである。
しかし、それが、大問題だったのだ。
それを、後で、おばさんから、聞くことになる。

兎に角、そこで、衣服を広げて、おばさんが、皆さんを呼んだ。
老若男女が来た。

子どもたちも、来て、靴を見て大喜びしていた。
それは、親たちも、同じである。

だが、この支援は、二度目である。
実際は、その前に、孤児院に出掛けている。

それは、後で、書く。

兎に角、皆さんに行き渡り、私たちは、次の場所に行くことにした。
だが、おばさんは、仕事中であるから、そこで、ホテルに戻ると、言う。
すると、皆さんが、私たちに、障害者の施設に行ってくれ、と言うのではないか。

その通り、障害者の施設に行くことにした。
トゥクトゥクの運転手に、その旨を告げた。

ここで、書きたくないが、その運転手が、次の場所に行くなら、倍の料金、200バーツだと言うのである。
本当は、100バーツでも、高いのだが、彼らは、外国人から、少しばかり、高く取っていないと、たいした、利益にならない。
だが、倍とは・・・

私は、150バーツと、コータに言わせた。
すると、運転手は、すぐに、オッケーと、言う。
彼も、疚しい気持ちがあったのだろう。

そして、障害者施設に向かう。
そこで、私たちは、大歓迎を受けた。

2011年07月28日

タイ、イサーンの姿2

障害者施設は、実に立派な建物だった。
しかし、中は、がらんどうである。

私たちが、到着した時、一人の女性が玄関にいた。
挨拶すると、挨拶を返す。

運転手が、私たちの、目的を話すと、女性は、急ぎ、施設の中に入った。
私たちは、バッグを持って、その後を追った。

すぐに、大きな部屋がある。
そこに、車椅子に座った、二人の女性がいた。
挨拶すると、嬉しそうに、手を合わせて、正式の挨拶を返す。

奥の方から、続々と、人が出てきた。
全員女性である。
三人の女性が、先生だった。

とても、喜んだ。
何せ、衣服を渡す前に、写真を撮りたいと言う。
更に、衣服の支援は、初めてのことだと、言う。

写真を撮り終わり、早速、私たちは、衣服を一つのテーブルの上に、乗せた。
持参したもの、すべてである。

皆さんの、目が輝く。
でも、慣れていないので、ただ、見つめるだけである。

私は、一つ一つを、取って、それぞれに合うサイズを、体に当てて、差し上げた。
皆さん、はにかむ。

一人の先生が、何か言うと、それぞれが、手を出し始めた。
30分ほど、そうして、手渡しをした。

そして、また、私たちも、写真を撮ることにした。
日の丸を掲げて、皆さんと、撮る。
全員揃っていないとのことで、残ったものも、欲しいと、先生が言うので、そのまま、テーブルの上に、置いてきた。

最後に、一人の先生から、
いつでも、いらしてください。何も、私たちに、プレゼントがなくても、いらしてください。心から、歓迎します
コータが、タイ語が、出来るのが、本当に幸いした。

私の言葉も、しっかりと、タイ語に、訳されて、伝わる。

実は、到着した、日、私たちは、孤児院にも、出掛けた。
それは、空港からの、タクシーに乗った時に、運転手に尋ねた時、運転手が、孤児院があると、言ったからだ。
しかし、私は、タクシーだと、料金が高い、トゥクトゥクにしようと、思い、その後で、トゥクトゥクの運転手に言うが、誰も、孤児院の場所を知らなかった。

しかたなく、タクシーの運転者から貰った、電話番号に、電話した。
すると、運転手が、ホテルまで来て、説明するという。
つまり、仕事が欲しいのだ。
自分の車を使って欲しいがために、ホテルまで、やってきた。

本当は、夕方、子どもたちが、いるであろう時間帯に、伺いたかった。
が、運転手が、来てしまった。

昼過ぎである。
しかたなく、料金を交渉して、出向くことにした。
200バーツは、とても、高いと、知っているが、しかたがない。

市内にある、孤児院は、二人の女性によって、建てられた。
更に、支援も二人の女性によってである。

私たちが、玄関にいた、女性に、衣服支援を申し出ると、本当に、感激した面持ちで、両手を合わせて、ありがとうございますと、言った。

何と、支援を受けるのは、初めてと、言うのではないか。

14名の子供たちが暮らす。
10歳から、高校生まで。

彼女は、全員の大きさを知っていて、私が取り出すものを、一つ一つ、確認し、それは、受け取ります、それは、小さいですと、言い、区分けしつつ、受け取った。

二人の女性以外からの、支援は、無く、高校を卒業した、子どもたちが、仕事をして、支援をしてくれるという。

一番、必要なものは、何ですかと、問うと、衣服と、文具だと、答えた。
それでは、次に来た時に、文具も、持ってきますと、私が言うと、両手を合わせて、コープクンカーと、感謝する。

最後に、写真を撮る。

彼女と、並び、日の丸を掲げる。

私は、本当は、子供たち一人一人に、渡したかったのですと、言うと、次は、是非、そうしてくださいと、答える。

実は、市内といっても、一部の場所だけが、建物が新しく、町並みとして、整えられているのが、ウボン・ラチャタニーである。

更に、大型の建物の、建設が続いている。
これは、前首相タクシンの、政策が、イサーンの主たる町として、機能させたいとの、計画から、そのようになった。

実際、ホテルのベッドメークのおばさんから聞いた話しは、すべて、その地区の家を建てるというもので、政府の支援金と、15年で、30万バーツを返済するというもの。
おばさんによると、一ヶ月、日本円で、一万から、二万の収入の人たちが、15年で、30万バーツ、90万円を返すというのは、大変なことで、皆、家は、立派でも、とても、貧しいと、言うことだった。

そして、その地区を、抜けると、大変な有り様なのである。
それは、コータが、見つけた。
目立たないように、森に隠れた処の、家々は、まさに、イサーンの貧しさを表しているものだった。
私も、バンコクに戻る前日の夜に、タクシンが造った、大きな橋の下の、家々を訪ねたが、それはそれは、驚くほどの、家、いや、小屋だった。

本当に、驚いた。

見苦しいものは、隠して、人が見るであろう場所は、調えると言う・・・
呆れた。


2011年07月29日

タイ、イサーンの姿3

私たちの、泊まったホテルは、いつも通り、安いホテル。
350バーツ、千円である。
だが、昔の造りで、部屋が大きく、エアコンも、温シャワーもある。

そして、目の前は、市場である。
それが、大変良かった。
市場には、屋台がある。そこで、一日一度は、食事をした。
30バーツ、90円で、山盛り食べられる。

ラオスで、三泊の予定が、ならなくなり、私たちは、五泊することになった。
その間に、オーナーから、その家族、従業員たちと、実に親しく付き合った。

特に、ベッドメークのおばさんは、実に親切だった。

朝早く起きる私は、隣の、高いホテルの朝食の時間に行き、コーヒーを頼む。
それを、外のテラスで飲みつつ、タバコをふかす。

朝は、市場に活気がある。
人々は、市場に買出しに出る。
野菜、魚、肉が、売られる。
果物のカットしたものがないのが、残念だった。

ホテルに、そのままを買ってきて、食べることはできない。
バンコクなどの、都市なら、必ず、カット果物の、屋台がある。
10バーツ、30円で、食べられる。

田舎の町の人たちは、英語は、通じない。
更に、タイ語も、違うという。
ラオス語に近い言葉である。というのは、ラオス語が、ここから、出たと、いう。
イサーン語である。

更に、イサーンは、タイ演歌の発祥の地。
モーラムといい、タイ全土で流行る。

モーラムの流れている処に、イサーン人ありということになる。

日本の演歌に影響されたものである。
だが、タイの人は、それを知らない。

ウボン・ラチャタニーは、勿論、寺院が多いが、モスリム、カトリックも、入っていた。
ここで一つ、バンコクから、遠くなると、仏教寺院が、ヒンドゥーの影響を大きく受けているということに、気づく。

仏陀ヒンドゥーと、呼ぶ。
例えば、寺院の壁面に、ヒンドゥーの神々が、彫られていたりする。

そして、この、仏陀ヒンドゥーを批判することは、出来ない。
とても、微妙な問題である。

ただ、一つだけ、気になることは、転生輪廻を信じて、現在の有り様は、過去生によるものであり、来世を幸せにするためには、タンブン、つまり、寺に、布施をしなければならないということ、である。

貧しい人を、助けるより、寺に寄付すること・・・
これは、現在のインドの考え方でもある。

更に、本当に苦しい人たちも、そのように、信じる。
そして、信じることで、辛うじて、生きられるという、事実。

ここに、問題がある。

だから、タイの福祉事業が、寺院に託されるということも、理解できる。
寺は、多くの布施を受けて、莫大なお金を得る。
それで、福祉政策を行わなければ、終わった思想となる。

私たちが、廻った、施設は、皆、個人の寄付によって、成り立っていた。
国が、政府が、福祉というものを、考えるべきだが、まだ、タイは、遅い。

それに比べると、日本とは、雲泥の差である。

日本の福祉事業は、充実している。

孤児が、街を一人で、うろつくことはない。
更に、物乞いもいない。

タイでは、それらの、人たちが、溢れるように存在する。

私は、町の一部を、バッグを持って廻った時、物乞いの人たちを、見た。
知的障害のある人、高齢者が、多い。

驚いたことは、一人の、知的障害の男に、衣服を差し上げた。
彼は、それを、受け取ったが、私が、彼の物乞いの袋に、お金を入れると、何と、衣服を返したのである。

その意味が、解らなかった。
お金を与えなければ、衣服を貰った。
お金を与えられたので、衣服まで、貰わない・・・

そこで、高齢の男に、衣服を差し上げて、お金を渡さなかった。
すると、彼は、正式な挨拶をして、私に感謝し、それを受け取った。

彼らにも、分相応という、感覚が、自然と身につけているのか・・・

だが、転生輪廻の考え方が、誤りであることを、伝えるのは、至難の業である。

単に、一人の人間が、生まれ変るということは、ない。
その人間の、霊が、その一部が、分霊して、新たに生まれる。
それを、理解するのは、容易ではない。

霊とは、四つの、総称であり、それを、魂と、呼ぶ。

私が、生まれ変って、次の人間になるということは、有りえないのである。
だから、この人生が、最初で、最後の人生なのである。

そして、簡単に言えば、未熟で、まだ、現世に在り、知るべきことがある、霊の一部分が、転生するのである。
分霊として。
一人の人間には、多くの分霊があると、考えてもいい。
要するに、肉体は、借り物なのである。


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