2011年06月20日

パプアの叫び

戦争犠牲者追悼慰霊と、衣服支援を続けて、五年と半年が過ぎた。
過ぎれば、あっと言う間。

そして、その度に、旅日記を記録として、書き続けてきた。

今回は、パプアニューギニアである。
まさか・・・行くとは・・・
そう思う。

目的は、慰霊と、支援。
私は、こんな人間だったのか・・・
素朴な感情である。

なぜするのか、と、問われても、もう、答えられない。
最初は、明確に、答えていた。
答えられた、はず。
しかし、今は、答えられない、答えられなくなったのである。

解りやすく言う。
成仏したのか・・・
そんなことは、分からない。

そして、支援も、役に立ったのか・・・
それも、分からない。
ただ、続けることは、確かである。

物事には、動機がある。
そして、動機の深さというものがある。

だが、この活動は、動機はあったが、続けてゆくための、哲学も思想も無い。

言うならば、心の赴くままに、である。

そんな得にもならないことを、何故・・・
分からない・・・

パプアニューギニアに出掛けて、更に、それが、解らなくなった。

そして、解ったことは、とんでもないことを、しているという事実だ。

首都の、ポートモレスビーは、とても、危険であるとの、外務省の情報である。
以前は、渡航の是非を検討して欲しい。
それから、一つ下がって、注意勧告である。

強奪、スリ、更には、ピストルを突きつけられての、物取り・・・
確かに、安全のために、金をかけていることは、最初に泊まった、ホテルで、解った。

セキリティ会社が、完全にガードしていた。
部屋は、監獄のように、窓も無い。
部屋に入る前に、廊下の扉も、鍵を使う。
そして、鉄格子で、全体が覆われている。

最も、危険地域の、街中だった。
そして、私は、その最も危険な、スーパーや地元の人たちのフード店の、並ぶ場所で、衣服支援を行った。

その前日、丁度、同じホテルに泊まる、日本人の男性から、声を掛けられた。
昔、ニューギニアで、仕事をしていて、今は、フィジーに住んでいると言った。
その方に、支援をしたいと言うと、赤十字に渡すことですと、言われた。

そのスーパーの前では・・・
駄目です。一番、危ない。強奪されますよ・・・

だが、私は、そこで、行った。
日の丸を掲げて・・・

同行のコータは、目立つのは、良くないと、言ったが、私は、逆に、日の丸で、目立つように、出掛けた。
そして、皆さんから、熱烈歓迎を受けた。

これは、あまり書きたくないことだが、中国人と、間違われないようにと、アドバイスを受けていた。
全国的に、中国人の、排斥運動が、展開されているとのこと。

それで、日の丸の出番である。

日本と、日本人に対して、パプアニューギニアの人々は、とても、親日感に溢れていた。

道を歩いているだけで、皆さんから、声を掛けられる。
ハロー
モーニング
時には、日本語で、こんにちは、である。

ラバウル、ココポから、戻り、二日を過ごしたホテルの、近くには、セトルメントと呼ばれる、スラムがあった。
一番、危険な、地域である。

部族間抗争も、激しい。
しかし、私たちは、そこに出掛けた。

二つの部族の人たちが、暮らしていた。
そして、矢張り、最初に、挨拶して、握手したことと、写真を撮ったことを、奥にいた部族の、オサが、気分を悪くしたようで、酒によっていたせいもあり、難癖をつけ始めた。

だが、そこから、無事に出た。

多くの写真を撮り、多くの人たちと、握手をした。
私は、言った。

パプアニューギニア、エンド、ジャパン、ベストフレンド
彼らは、とても、喜んだ。

そして、次に来る時は、沢山の、プレゼントを持ってきます。
子供たちの、衣服も、ね・・・

サンキューサンキューと、繰り返し言われた。

私は、アホのせいか、むやみに、恐れない。
最悪の場合は、死ぬだけである。
そんなことは、怖くもなんとも無い。

死ぬのが、怖くて、この活動は、出来ない。

ただし、流しのタクシーには、乗らなかった。
怖いから・・・
その怖さは、拉致などされて、日本国に、迷惑を掛ける、怖さである。

国に、面倒を掛けるほどの、活動ではない。

殺されたら、死体になるだけで、それは、保険で、すべて、片がつく。

この、旅日記は、ランダムに書き付けてゆく。




posted by 天山 at 00:00| 旅日記 パプアの叫び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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