2011年05月10日

天皇の島ペリリュー島へ10

ホテルには、日本人が、コロール島に戻る日までに、私を含めて、四名だった。
二人の男性は、ツアーに参加した、戦跡の写真を撮る人と、ダンビングに来た人、そして、政府関係の仕事をしている、男性である。

それぞれの、人のことは、省略する。
ただ、政府関係で、中部太平洋の島国に、漁業指導や、資源調査をしている、男性は、私と同じ、定期便で、コロールに戻った。

朝、10時出発の定期船である。

私は、9:45に、ホテルを出た。
ママさんが、いいですよと、言うが、私の荷物の一つを持ち、見送る。
また、来てね
待っていますよ
なんとかこんとか・・・

子供たちが、喜んだよ・・・
ママさんの、一番下の女の子も、その中にいたのである。

ネクストタイム・スティヒア
と、私は、言って、お別れした。

矢張り、船は、難民船の如く。
荷物と、人と一緒である。
そして、なんと、一緒に乗ってきた人たちが、乗っていた。

あらっ・・・
皆さん、私のことを、覚えていて、挨拶。
なんとかこんとか・・・なんとかこんとか・・・
どうぞ、と、差し出された、お菓子は、手作り。

この、定期船は、荷物だけではなく、本島に手紙も、運ぶ。
一人のお婆さんが、手紙を持参して、受付の男の子に、渡している。

ハンサムな受付の男の子は、非常に、ニヒルだ。
女の子にも、興味を示さず、淡々として、業務をこなす。
そして、一人の囲いを作っている。
何とも、南国のムードではない。

ただ、私が、
ユーハンサムボーイと、言った時だけ、笑った。

船が出発した。
私は、その時、操縦室の横に、腰掛けていた。
船長が、なんとかこんとか・・・それで、なんとかこんとか・・・と、言って笑った。
私も、笑った。

だが、長くは、そこに居られない。
揺れと、振動が激しいのである。

矢張り、一番下の、荷物を積んである場所に、移動する。
そして、ゆっくり進む、浅瀬の時は、少し寝た。

三時間半の我慢と、思った。が、三時間で、到着した。

船の中で、ホテルで一緒だった、政府関係の仕事をしている方から、重要な、情報を得た。

それは、中部太平洋の島国の、衣服事情である。
何と、大半が、古着を、売っているそうである。
アメリカの古着が、大量に送られて、それを卸で買い、古着店として、堂々と、営業していると、言う。
それなので、古着も、関税の対象になったという。
これは、ボランティアで、差し上げる衣類だといっても、信用されないという。

商売だと、決め付けられて、関税の対象になるから、注意してくださいとのこと。
更に、日本の古着も、送られてくるようになったと言う。

それは、膨大な量であると、言う。
古着でも、新品と、同じ感覚なのである、と言う。

今、支援が必要なのは、バングラディシュ、パキスタン、ネパールだと、教えられた。そこは、寒い時期があるからだと、言う。

東南アジアも、山岳地帯は、寒くなっていますと、言うと、へーと、驚いていた。

バングラディシュと、ネパールには、行く予定である。
ただ、パキスタンは、非常に、難しい。危険である。

危険を、恐れはしないが、パキスタンの情報が、無いのである。

さて、船が港に着くと、ホテルのドライバーが、待っていてくれた。
ありがたい。
本当なら、自分で、タクシーを頼まなければならないのである。
ホテル従業員の、協力である。

ドライバーが、荷物が、一つ足りないと言う。
私の荷物の数まで、覚えていた。
支援物資を渡したので、一つのバッグは、バッグの中に入れてある。
それを、英語で、話すのが、面倒で、オッケー、オッケーを、繰り返した。

昼の、一時を過ぎていた。
丁度良い、時間である。

フロントのお嬢さんは、笑顔で、迎えてくれた。
そして、今回は、三階の部屋ではなく、二階の部屋であり、何と、灰皿が用意されていた。
見られたのである。私が、部屋で、タバコを吸っていたのを。

しっかりと、ゴミ袋に、隠したのに・・・

ここで、二泊して、帰国することになる。
私は、早速、買い物に出掛けた。
スーパーと、弁当屋である。

弁当屋では、そこで、食べることにした。
チャーハンと、おかずを選ぶ。

おかずの、コナーには、色々な、種類がある。

そして、何と、私が、選ぼうとすると、店のお姉さんが、美味しいのは、豚肉の煮た物だと言う。
別に、それを、売りたいために言うのではないことは、解った。
他のものも、まだ、大量にあるのだ。

それでは、と、豚肉の煮物を選んだ。
本当に、美味しかった。

あまりに、素直で、何となく、ほのぼのとした、気分になった。

ホテルに、戻り、その夜の、食事は、初めて、韓国料理の店に行くことにした。
それまで、ゆっくりと、休むことにした。




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2011年05月11日

天皇の島ペリリュー島へ11

ペリリュー島の日本軍の攻撃は見事なまでに無駄がなく、どの兵器を使うときも、決してむやみに撃ってくることはない。日本軍は、われわれに最大限の損害を与えられるタイミングを狙いすまして撃ち、チャンスが去るとただちに砲撃を停止する。このためわがほうの観測兵や航空機は、尾根筋に点在する巧みに偽装された日本軍の陣地を発見するのに苦労した。
スレッジ

日本軍は大砲や迫撃砲を撃ち終わると、洞窟陣地に入り口に取り付けた鋼鉄の防護扉を閉じ、われわれの大砲や艦砲、八一ミリ迫撃砲などが岩山に砲弾を撃ち込んでいるあいだ、じっと身をひそめて待つ。・・・ただ心に焼き付いているのは、左翼方向から浴びせられる熾烈な砲火と、日本軍がその気になれば、われわれはいつでも木っ端みじんに吹き飛ばされてしまうという、いたたまれない思いだけだ。
スレッジ

彼は後半で、
軍事的優秀さを求めるひたむきさにかけては、日本軍もアメリカ海兵隊に劣らなかった。
と、書く。

印象的なのは、
彼らが天皇に献身的であると同様に、われわれもアメリカという祖国に献身的でなければならない。これこそが、第二次世界大戦における海兵隊精神の真髄だったと思う。それが正しかったのは、歴史が証明している。
と、書くのだ。

しかし、そこに至るまでに、彼は、様々な体験をする。

あっという間の出来事だったにもかかわらず、握ったカービン銃に視線を落として我に返る瞬間があった。たった今、自分は至近距離から一人の男を殺した。私の撃った弾丸が男に当ったとき、その顔に浮かんだ苦痛の表情がありありと見てとれたことがショックだった。ふいに、戦争がきわめて個人的な問題になった。男の表情が私を恥じ入らせ、戦争と、それに伴うあらゆる悲惨さに対する嫌悪感でいっぱいになった。
スレッジ

歩兵にとっての戦争はむごたらしい死と恐怖、緊張、疲労、不潔さの連続だ。そんな野蛮な状況で生き延びるために戦っていれば、良識ある人間も信じられないほどの残忍な行動がとれるようになる。われわれの敵に対する行動規範は、後方の師団司令部で良しとされるものと雲泥の差があった。
スレッジ

戦場における、敵味方の、様々な、非人道的行為が、書かれている。
だが、
人肉粉砕機に放り込まれた者にとって戦争は恐怖の地獄であり、死傷者が増え、戦いが延々と長引くにつれて、二度とここから逃れられないという思いが募る。
スレッジ
のである。

そして、
歩兵は消耗同然なのだ・・・
と、嘆き、
自分の命など何の価値もないと思い知るのは、孤独の極みというべきだった。惨めなことこのうえもない体験だった。
と、書き綴る。

まだまだ、スレッジの、戦記は、終わらない。
が、どこかで、終わらなければならない。

戦場など、知らない者にとって、戦記とは、その理解度によって、様々に、受け取られる。
だが、スレッジの戦記は、具体的で、更に、戦場の様々な、状況を目の前に見せてくれる。

彼は、沖縄戦も体験して、最後に書く。
戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である。戦闘は、それに耐えることを余儀なくされた人間に、ぬぐいがたい傷跡を残す。そんな苦難を少しでも埋め合わせてくれるものがあったとすれば、戦友たちの信じがたい勇敢さとお互いに対する献身的な姿勢、それだけだ。海兵隊の訓練は私たちに、効果的に敵を殺し自分は生き延びよと教えた。だが同時に、互いに忠誠を尽すこと、友愛をはぐくむことも教えてくれた。そんな団結心がわれわれの支えだったのだ。
やがて「至福の千年期」が訪れれば、強国が他国を奴隷化することもなくなるだろう。しかしそれまでは、自己の責任を受け入れ、母国のために進んで犠牲を払うことも必要となる。―――私の戦友のように。われわれはよくこう言ったものだ。「住むに値する良い国ならば、その国を守るために戦う価値がある」。特権は責任を伴う、ということだ。
スレッジ

日本には、賢い馬鹿で、溢れている。

21歳のスレッジが、戦場で、学んだものを、生かさない手は無い。

世界は、未だに、戦争から、抜けていないのである。
つまり、大量殺人である。

日本の国を、守るために、若者が、その命を、捧げるということの無いことを、極みに祈る。

だが、どんなに、ニヒルに構えたところで、万が一、戦争に突入したならば、ニヒルは、叩き潰され、そして、肉体を切り刻まれるような、死を体験することもある。

戦争体験者は、もう、80歳近くの人たちだ。
本当に、その体験者が、いなくなった後、この戦争を語り継ぐ者は、誰か・・・

追悼とは、追体験することであり、慰霊とは、その戦争で命を失った方々の、思い、念い、を、霊位として、奉ることである。

ユージン・B・スレッジは、19歳で、海兵隊に入隊し、歩兵として、従軍した。
戦後は、アラノバ州モンテヴァロ大学で生物学教授、専門は、鳥類学である。
2001年没。

心から冥福を祈る。

私は、コロール島の、パラオ唯一の、ダウンタウンで、二泊して、帰国する。
朝、四時の便であるから、ホテルを夜中の二時に出た。
私は、一時に出る予定を立てたが、ホテルのドライバーが、大丈夫、二時で、オッケーと言うので、従った。

来るときも、30分ほど、早く着いたが、帰国便も、早かった。

そして、行きも帰りも、体を横にして、寝ることが、出来た。

私は、英霊に守られて、これからも、追悼慰霊の行為を、続ける。
再度、パラオに出掛けることにもなるだろう。

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