2011年05月01日

天皇の島ペリリュー島へ1

長く連なるカロリン諸島の最西端に位置するパラオ諸島は、いくつかの大きな島と100を超える小さな島々から成っている。最南端のアンガウル島と北端の二つばかりの小さな環礁を除くと、島々は珊瑚礁にぐるりと周囲を取り囲まれている。800キロほどの西にはフィリピン南部が、南へほぼ等距離のところにはニューギニアが横たわっている。
ペリリュー戦記 ユージン・B・スレッジ

米軍海兵隊のスレッジの戦記から、ペリリュー戦を眺めつつ、これを書く。

ペリリュー島は、その珊瑚礁のなかにあって、ロブスターの鋏のように、二本の陸地が延びている。南側の半島は、平坦な土地から北東へ延び、珊瑚の小島とマングローブの生い茂る干潟の入り交じった湿地帯になっている。それよりも長い北側の半島は、中央部を平行して走る隆起珊瑚礁の尾根、ウムルブロゴル山(中央高地)が占めている。
スレッジ

私は、北側の、港の前の、ホテルに三泊した。
港を見渡せ、更に、向こうの無人島が見えて、絶好の景色が、広がる。
実に、美しい。

夕日が、ホテルの左手に沈む様子は、平和で心穏やかな気持ちにさせる。
すべてが、自然の音。

潮騒、虫の音・・・
人工のものは、何一つ無い。

そして、実に不便である。
一件の店があるだけで、私は、すべて、その店から買った。
水も、食べ物も。

街中、ダウンタウンといっても、一本道で、そこにホテルが三件と、店があるだけ。
観光客は、大半が、ダイビングに訪れる人たち。

パラオ空港で、入国、税関を通る。
その際に、日本語で、言われた。
楽しんでください・・・
それだけ。
何の検査もなく、素通りした。

和服の私は、とても、得をする。
夜の、11:30頃に、ホテルの迎えの車に乗り込んだ。

その際も、親切に、若い女性が出てきて、
どこですか
車は、ありますか
ホテルの名前を言うと、わざわざ、調べて、そして、探して、待っていたホテルの男の子を連れてきてくれた。

親日であり、更に、私の和服は、島の人たちの、曾お祖父さんの、時代を偲ばせる姿だったのだ。

一泊、70ドルという、高いホテルだった。
しかし、それでも、安い三流ホテルである。
今までの、旅で、最も高い料金のホテルである。

夜風は、気持ち良かった。
この程度なら、大丈夫だと思ったが、見当違い。
朝から、気温がどんどんと、上がり、32度を超える、暑さである。

パラオ、コロール島と、ペリリュー島の、ホテルは、日本から予約していた。

到着した、翌日は、休み、三日目から、行動する。
そして、四日目に、ペリリューに移動する予定である。

ペリリューには、二泊する予定だった。
が、帰りの日を定期船の、受付の男の子に言うと、その日は、船は無いという。
えっ
11日はなくて、12日、朝10時に、出る。

船が無いと、戻れない。
それで、三泊することにした。
ホテルは、一泊、55ドル。
ここでも、高い。

さて、私は、慰霊と、支援をするために、やって来たのである。
観光はしない。

コロール島では、慰霊碑に出かけ、支援をする予定である。
すべては、車が必要である。

受付の、女の子と、仲良くして、色々と、教えて貰うが、あまり、パラオ、コロールのことを知らない。
それは、彼女は、フィリピン、ビサヤからの出稼ぎだったから。

それでは、タクシーの運転手に、尋ねて、行くことにした。
三日目、朝の10時に、タクシーを呼んでもらった。

いかつい、パラオ生まれの、おじさんである。
南洋特異の体型。
太っている。

訛りのある英語。
大半が、解らない。
一応、行き場所を示して、出かけた。

ホテルから近い、ベラウ・ナショナル・ミュージアムである。
そこには、日本軍の遺物が展示されてあり、更に、慰霊碑もある。

ところが、日曜日で、閉館である。
歩いていた男の子に、尋ねると、昼の一時から、開くとのこと。

実は、タクシー代が、30分で、10ドル。
私は、一時間半の予定で、廻ることにした。30ドル。
追悼慰霊に、金がかかるのは、パラオが一番である。

私は、その玄関前にある、パラオの人たちの犠牲者を追悼する、慰霊碑の前で、祈ることにした。
もう一度、出直すなんていう、お金をかけられないのである。

それを済ませて、運転手に、プアピループル、チルドレンに、衣服をプレゼントしたいと言う。
運転手は、皆、貧しいが、と、車を走らせる。
ところが、暑いせいか、外には、誰も出ていない。

すぐに、海に出た。
小さな港である。

そこで、丁度船を出す、家族連れがいた。
運転手が、彼らはチープだと、言う。プアではなく、チープと言うのが、印象的だった。
子供は女の子と、赤ん坊を抱いた女が、一人、陸にいる。

フラムジャパン・プレゼント・・・
オッケー
そう言うと、嬉しそうに、頷く、親子。

そこで、女の子用と、赤ん坊の衣類と、ぬいぐるみを、渡す。
とても、喜んだ。特に、父親である。

写真を撮る。
皆、きちんと、並ぶ。
何か、あらかじめ、決められたような、対応である。

そして、また、車を走らせた。
オーバーゼーアー
向こう側に行くつもりになった。

だが、女の子が、一人遊んでいるだけ。
その子に、ぬいぐるみや、衣服を渡す。
女の子は、三歳くらい。
私から、受け取ると、隠れて見えなかった、父親が、大きな声で、サンキューと、言った。

もう、時間が無い。
私は、ホテルに戻ることにした。

ところが、事は、急展開する。
いつものことである。

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2011年05月02日

天皇の島ペリリュー島へ2

ホテルに戻ると、受付のお姉さんの、お母さんも来ていた。
お姉さんは、旦那と、お母さんと、三人で、パラオに出稼ぎに来ていたのである。

旦那は、同じ系列のホテルで、働いている。
しかし、とても、給料が安い。
お母さんが、それを嘆く。

三人で、勿論、英語での会話である。
私の英語が、どうして通じるのか、不思議だった。

彼らは、ビサヤの、イロイロから来ていた。
イロイロとは、ネグロス島の、隣の島で、バコロドから、船で行く。

次回は、行きたいと思っていた町。
そこで、私が、バコロドの話しをすると、大いに盛り上がったのである。

私が、慰霊と、衣服支援をしていると、話すと、更に、感激して、喋り捲る、お母さん。

兎に角、疲れるほど話して、部屋に戻った。

大半、相手が何を言ったのか、解らない私。
そして、私も、何を言ったのか、よく解らないのである。

何せ、英語である。
会話の英語は、単語を並べても、通じる。

それに、質問する英語は、よく出来る。ただし、相手の答えた英語が、よく解らない。
向こうは、こちらも、英語が出来ると、信じているし・・・

二時間ほど、部屋で、休み、買い物に、出掛けようと、フロントに下りた。

お姉さんも、お母さんも、居た。
そして、品の良い、おばあさんが、椅子に座っていた。
私を見ると、何と、日本語で、ありがとうございます、と、言うのである。

えっ
そして、英語で、何か言う。
取り出した紙に、日本語と、英語で、何か、書かれている。
それを、私に見せて
英語で、私の友人に、小学校の先生がいますという。

そして、
あなたが、子供の衣服をプレゼントしていると、聞いて、御願いに来ました
と、言う。

おしゃべりな、受付の、お姉さんの、お母さんが言ったのである。
吹聴したのだ。

3歳から、5歳の、子供たちの、クラスに、是非、プレゼントを渡して欲しい。
ああ、こういう、段取りになるのである。
いつものこと。
不思議でも、何でも無い。
段取りされているのである。

渡すために、どうするのか・・・
と、考えていると、こうして、ストーリーが、出来上がる。

明日の朝、八時に、ということになった。
私が、お姉さんに、タクシーと、言うと、おばあさんは、ノー、アイハブカー、それで、迎えに来ます。と言う。

朝、八時なら、間に合う。
明日は、昼12時の、定期船に乗って、ペリリューに行く日である。

約束して、私は、買い物に出た。

ホテル付近は、パラオで、唯一の、ダウンタウンといわれる。
コロール島の、繁華街である。
一本道に、スーパー、レストラン、お土産屋が並ぶ。

私は、地元の人たちが、利用するという、弁当屋に向かった。
その前には、唯一の、大型スーパーがある。

弁当・・・
パラウでも、ベントウと言う。

お握り、海苔巻きが、普通に売られている。
食文化は、日本統治時代からのものである。

それには、驚き、助けられた。
海苔巻きと、いなり寿司のセットと、キムチを買う。
そして、焼き魚を、一つ。
そこで、食べてもいい。

毎日、その店に通った。
そして、スーパーで、ヨーグルトと、ビスケットなどを買う。
パンも豊富で、腹持ちするパンである。

3ドルから、5ドルで、一回の食事が用意できる。
ホテル代が、高いので、それで、何とか、経費を少なくするのである。

外は、日差しが強く、暑い。
それだけでも、汗が噴出す。
一時間も、外にいれば、熱中症間違いなし。

ちなみに、レストランは、和食、鮨屋である、そして、韓国料理、中華料理の店である。
皆、10ドル以上の値段。
私は、韓国料理の店に、二回入ったが、和食、鮨屋には、入らない。
こんなところで、日本食を食べる趣味は無い。
本当は、パラオ料理を食べたいが、パラオ料理などは、無いのである。

だから、地元で捕れた魚を、焼いたものを、よく買った。
醤油の味付け、塩味である。
スーパーで、驚いたのは、日本の醤油、調味料が沢山あったことである。
味覚が、日本と同じなのである。

旅をしていて、一番、大切なことは、食べ物。
それを、どうするかで、旅の楽しみが、変わる。
そして、マッサージ。
パラオでは、マッサージを一件見つけたが、期待出来ない。
韓国式マッサージである。

高い料金で、期待外れだと、怒りそうで、行かなかった。

部屋で、休み、時々、ベランダに出て、と、その繰り返し。
ホテルでは、無料の水があり、更に、コーヒーも、インスタントだが、無料である。
それを、有効に利用する。

毎日の、水の半分は、私が飲んだと、思う。


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2011年05月03日

天皇の島ペリリュー島へ3

翌朝、私は、八時に約束通り、フロントに支援物資を持参して、下りた。
あの、老婦人を待った。

ところが、15分を過ぎても来ない。
20分過ぎた頃、受付のお姉さんが、私に、今、電話があって・・・・

要するに、簡単に言うと、老婦人は、張り切りすぎて、具合が悪くなった。別の日に、して欲しいとのこと。

それでは、ペリリューから、戻ってからと、私は、お姉さんに言った。

部屋に戻り、ペリリュー行きを準備する。
本当なら、荷物は、半分減っているはずだったのに・・・

あっ、でも、お姉さんが、預かるって言ってた。
ということで、一つの、バッグを、ホテルに置いて行くことにする。

11時に、タクシーを呼んで、パラオベイに行くことになっていた。
それまで、私は、部屋で休む。

そして、10時、部屋に電話がきた。
早口の英語である。
よく解らないが、オッケー、オッケーと、返事をした。
一体、誰なのか。
声は、おばさんであるが・・・

フロントの、お姉さんに、聞きに行く。
すると、学校の先生が、これから、私を迎えに来るという。

あらっ・・・
時間、間に合うか・・・
お姉さんも、それを心配する。

それから、お姉さんの、やり取りが始まった。
ボス、ボスと、呼んでいる。
ボスとは、社長のことである。

結果は、ホテルから、パラオ港まで、車を出すということになった。
タクシーは、いらないということに。
要するに、皆で、私を全面協力するということ。

おばさんの先生が、来た。
小錦のような、体型・・・
その、尻の大きさを見て、自分で、尻を拭けるのかと、考えたほど、大きい。

お姉さんが、私の予定を、知らせてくれる。
二人のやり取り・・・全然、分からない。

そして、オッケーと、私を車に乗せる。
オフィスに行くという。
言われるままに、従う。

ホテルから、実に近い場所だった。
そこに、支援物資を、出して、下さいとのこと。

代表の先生が、感謝の言葉を言う。
ペラペラペラ・・・ペラペラペラ・・・・
私は、頷くだけ。
そして、写真を撮る。

子供たちは、別の場所にいるのである。

名簿にサインをして、先生たちとも、写真を撮る。

すると、小錦おばんさが、また、私を車に乗せる。
今度は、子供たちのいる、校舎である。

そこで、子供たちと、写真を撮る。

3歳から、5歳の子供たちが、汗だくで、遊んでいた。
私は、今日から、皆さんと、私は、友達ですと、英語で言うと、先生たちが、ゥワーと、叫ぶ。

子供たちが、皆、私の元に来て、写真を撮る。

つまり、時間が無いから、そのような配慮をしたようである。

時間を心配したが、ホテルに、戻ったのが、11時、20分ほど前である。
これなら、時間がある。

小錦おばさんに、送られて、ホテルに戻ると、お姉さんが、11時まで、休んでいてくださいと、言う。

言われるままに、部屋で、休んだ。
荷物が、減った。

そして、11時に、ホテルの車で、パラオ港に、向かった。
運転手は、フィリピンからの出稼ぎの、おじさんである。
陽気なおじさんで、色々と、話し掛けてくる。
ほとんど、分からないが、相槌を打つ。

定期船を見て、驚く。
普通の漁船並みである。
前方に、車一台が、積まれていた。

そして、船内には、荷物の山。
お客は、その間にある、長椅子に座るか、床に座るのである。
これなら、難民船だ。

おじさんが、私の荷物を、船に積み込む。
そして、5ドルと、荷物代の、3ドル、合計、8ドルを払う。

おじさんは、戻ったら、電話をくれ、迎えに来ると、言う。
まあ、送迎無料になってしまった。ありがたい。

この辺りから、何か、シナリオが、書かれているかのように、先に進む。

さて、薬を飲んでいて、正解だった。
揺れる揺れる・・・
ポンコツ船のような音・・・

地元の人たちと、肩寄せ合って、椅子に座る。
弁当を広げる、おばさんたちも、いる。

風景は、実に美しい。
その中を、ポンコツ船が、走る。

その、振動が、体に、モロにくるのである。


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2011年05月04日

天皇の島ペリリュー島へ4

船の音と、揺れ、そして、振動、薬のせいで、私は、椅子から床に、胡坐をかいて、寝た。
何と、表現していいのか・・・

難民船で、何処か遠くへ、行くような気分である。

そして、気づいて、周囲を見回すと、それはそれは、素晴らしく美しい、パラオの風景である。
小島が、多く、その間を通り抜けて、船が進む。

時計を見ると、二時間半になろうとしていた。
もう、到着だと、思った。
ところが、ペリリュー島を前にして、船が、減速した。

海の下が見える。
浅いのである。
それから、一時間近くもかかった。
三時間半である。二時間半と、案内にあったのに・・・

要するに、ペリリュー島沖は、浅瀬が続くので、船が早く走れない。
減速したまま、ゆっくりと、浅瀬を進む。

日差しが、とても、強い。
船は、テントで覆っているので、直接、日は当らないが、暑い。

私は、ついに立ち上がり、船の上を見学することにした。
カメラを持って。

一番下にいたので、その上の階に上がり、皆さんと、目で挨拶をする。
そして、操縦室のある、一番上に出た。

そこにも、人が座っている。
私が、写真を撮っていると、映しますか・・・と言う、女の子。

彼女の名前は、ウィニー。
パラオで唯一の大学に通う。
夏休みで、帰郷したのだ。

そして、一緒に写真を撮る。
船長さんが、出て来て、撮ってくれる。

私は、ウィニーさんに、島には、タクシーがあるのかと、尋ねた。
無い
えっ、無いの

あらっ・・・どうしよう・・・
実は、私は、慰霊と、衣服支援に来たの、車がなければ、出来ないね
ああ、じゃあ、私が運転して、連れてゆくは・・・
えっ、本当
いいよ
お礼は
ああ、いいです

そんな会話をしているうちに、船が、北の港に到着。

それでしゃ、後でね
私は、そう言って、下に降りた。

船が岸壁に接岸して、迎えの人たちが、それを手伝う。
何とも、皆、手馴れた様子。

私が、荷物を陸に上げると、一人の男の子が、近づいて、
ミスターキムラ
と、声掛ける。
私は、頷いた。
すると、男の子は、私の荷物を運ぼうとする。

ちょっと、待って
と、ウィニーさんを探す。
ここで、逸れては、大変だ。

ウィニーさんは、もう、すでに降りていた。
彼女は、何も荷物が無いのである。

そこで、私は、彼女に、荷物を見せて、これをねー子供たちに、渡したいのー
と、言った。
オッケー
明日の朝、10時でいい・・・
オッケー

私は、その前のホテルに泊まるから・・・
ええ

だが、しかし、驚いた。
男の子が、荷物を運び、ホテルに到着し、ママさんが、出て来て、
ウエルカム・・・ナントカコントカ・・・
部屋に、案内してくれた。
そして、ママさんは、カムカム・・・店は、一件ね・・・
と、私を案内すると言う。

そのまま、階下に下りると、ウィニーさんがいる。
えっ、あんたーーー日本語である
ママさんが、マイ・ドーターと言うのではないか。
ここの、娘さんだったのだ。

男の子は、彼女の弟である。

こんな風に、シナリオが出来ているのである。

そして、彼女は、子供の頃から、島にいるので、島の中は、自由自在に知っている。
更に、子供服の支援も、ママさんの、手配で、小学校の3歳から、5歳の子供たちの、教室に行くことになるのである。

ウィニーさんは、色黒で、エキゾチックな美人である。
島の人口は、200人より、少ない。
誰もが、顔見知りである。

ママさんも、私に、よく色々と、喋って、教えてくれた。
ちなみに、私だけが、単独の客で、ツアー客が、一人、翌日にも、一人来て、もう一人の方は、国際関係の仕事をしている、天下りの人。彼が、そのように言った。

全員、日本人で、四名の客になった。
ホテルは、部屋が、六つしかない。モーテルと呼ぶそうだ。

私は、唯一の店から、すべてを買った。
水と食べ物。
島の街中には、一度も、行かない。


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最後の沈黙を破る 54

平成23年2月
インドネシア・スラバヤにて、詠める歌

梅雨時期の
雨降る 降るスラバヤの
日本に似たる
ことの不思議さ

一斉に
モスクから出る
イスラムの
祈りの声が
街を覆いて

何かしら
悲しげなる
礼拝の
祈りの合唱
あはれ誘いて

雨音と
イスラム教徒の
祈る声
重なり重なり
深くしてゆく

祈る声
時計の如く
規則あり
日に四度の
時刻知るなり

日本にも
ジャワにも昇る
太陽に
雲の流れと雨の音あり

信仰を
洗脳とは
言わぬこと
紙一枚の
それ 差こそあれ

枝を折り
植えれば根のつく
ジャワ島の
山の強さを
誰 生きるかな

騒がしき
スラバヤ路地の
スラムには
若き母あり
裸体の女児と

ベチャに乗り
衣服手渡し
スラバヤの
貧しき路地に
水浴びの子ら

朝風の
食事を限りと
するなれば
一度一度の
人生ありて

ジャワカレー
ジャワには
カレー無きものに
いずれのジャワか
思い巡らす

知らぬ国
知らぬ路地裏
出会う人
渡す衣服に
心を込めて

恐れるな
言葉通じぬ
人にこそ
心を作る
衣服輝く

五年ほど
歩き廻りて
十カ国
友情広げ
豊かになりて

遥かなり
アジアは広く
されど果て ありても人は 
旅して悔いなし

感謝より
知人となりて
声掛けて
同じ血を持つ
人として会う

物乞いの
心を育て
三歳の
子が手を出して
兎に角しゃべる

貧しさに 
負けて生きるは
あはれなり
貧しきゆえに
多く得るなり

旅の最中にニュージーランドにて、地震あり。

地震あり
ニュージーランド
刻々と
日本の死者の
数増すなりて

旅の途中で、ふっと、考える。
下手な歌を書きつけて、無事を感謝する。

私は、歌人ではない。
素人の、歌を詠む。


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2011年05月05日

天皇の島ペリリュー島へ5

島は南北が約9メートル、東西は約3キロメートル、南部のほぼ平坦な開けた土地に、日本軍は数字の「4」の字に似た滑走路を持つ飛行場を建設していた。
ウムルブロゴル山と飛行場を除く島の大半はジャングルに覆われ、野生のヤシの木立と草地がわずかに点在するばかりだ。密生するジャングルのため、航空写真を見ても、上陸前に潜水艦が撮影した写真を見ても、情報将校たちは峻険な島の地形をまったく見抜けなかった。
スレッジ 改行は、私。

南洋の島では、あっという間に、ジャングル化する。
その成長は、とても、早い。
私も、海岸近くに、ヤシの実が、根を張り、芽を出して、これから成長するであろう、姿を多く見た。

ホテルの前、つまり、北の港の前には、無人島がある。
ガドブス島といい、日本軍は、そこへも、橋を掛けて、飛行場を作った。
その、橋の跡が、今も残る。

スレッジが書いているのは、南側の飛行場のことである。

米軍は、その南側から、上陸した。

「戦闘は激しいがすぐに終わる」という噂は繰り返し聞いていた。われわれは、そうした噂に師団長がお墨付きを与えたことで勇気づけられていたことになる。作戦がずるずると長引いて、ガダルカナルやグロスター岬の二の舞になるのは真っ平だったのだ。われわれの士気は高く、どんな苦しい状況にも立ち向かえるよう訓練は受けてきた。それでもわれわれは、さっさとけりがつくことを願っていたのだ。
スレッジ

みな、寝床についた。だが、私はなかなか眠れなかった。郷里のこと、両親のこと、友だちのことが頭に浮かんだ。そしてーーー自分は任務を果たせるだろうか、負傷して体の自由を失うのだろうか、それとも殺されてしまうのだろうかという思いが心を領していった。戦死するなんてあるはずがない、なぜなら神はこの私を愛しているのだからと私は自分に言い聞かせた。しかし、すぐにまた別の思いが私をとらえたーーー神は私だけではなく、万人を愛しておられるのだと。明日の朝には、そしてその先にも、多くの者が死んでしまうか、傷を負うか、心を打ちのめされてしまう、いや、心も体もずたずたにされてしまうのだと。私は胸苦しくなり、冷や汗がどっと噴き出した。結局、「おまえはどうしようもない臆病者だ」と自分を罵り、自分に言い聞かせるように「主の祈り」を唱えながら、私は眠りに落ちていった。
スレッジ

スレッジは、この時、21歳である。
そして、日本兵も、多く二十代の若者たちだった。

若者たちを、戦わせて、戦争とは、笑わせる。
彼らは、何の憎しみも、恨みも無い、相手を、敵として、殺すことが、任務なのである。

玉砕した、日本兵は、1万9千人。
捕虜は、302人だった。が、兵士は7人、水平は12人であり、残りは、アジア各地の労働者である。

米軍の死者は、精鋭の第一海兵師団は、戦死者1252人、負傷者は5274人。
第一師団に属する、部隊は、第一海兵連隊、第五海兵連隊、第七海兵連隊、歩兵連隊である。
陸軍第81師団は、戦死者が542人、負傷者2736人。
だが、米軍の場合は、戦死者は、その場で、死んだ人の数であり、負傷者が亡くなった場合は、戦死者と、数えないのである。
だから、戦死者は、もっと、多い。

更に、負傷者といっても、その状態は、瀕死の場合もある。
そして、障害者になる場合も。

私は、このスレッジの、ペリリュー・沖縄戦記を、時に感じては、読む。そして、戦争の蒙昧に感じ入るのである。

精鋭の海兵隊・・・
ペリリューをめぐる攻防は、海兵隊が戦ったなかで最も苛烈な戦闘であることに変わりない。
スレッジ

兎に角、ペリリュー戦は、誰もが、敵も味方も、死力を尽した攻防戦だったと、認めている。

ペリリュー島の戦いは、その後の戦闘に甚大な影響を及ぼしたという点でも見過ごすわけにはいかない。なぜなら、この珊瑚礁の島でわが軍と対峙した日本軍は、従来の戦法を転換していたからだ。上陸するわが軍を総力を挙げて水際で撃滅する戦術に見切りをつけた日本軍は、とりわけウムルブロゴル山(中央高地)を中心に、島の内陸奥深くに洞窟やトーチカを配置した堅固な防御陣地を築き、それぞれの陣地同士が互いに援護できる複雑な防御態勢を敷いたのである。
スレッジ

それまでの、日本軍は、バンザイ突撃を繰り返し、自滅するのである。
猛然として、突進する日本兵を、海兵隊は、ただ、撃ち殺せばよかったのである。

バンザイ突撃が、成果を上げたことは、一度も無かったのである。

日本軍の、指揮を執ったのが、中川州男、なかがわくにお、大佐である。
名将である。

島そのものを、一つの前線に見立てて、完璧な、縦深防御、じゅうしんぼうぎょ、の態勢を築いたのである。
そして、最期の守りが、落ちるまで、日本軍守備隊は、徹底抗戦を続けたのである。

三日で、落ちなかった。
二ヶ月あまりを、費やした米軍である。

それゆえ、天皇の島と、呼ばれたのである。

日本兵の、心、精神にあったものは、何か。
何故、徹底抗戦が、続けられたのか。
その精神力は、どこからのものか。

私は、非常に興味を、持った。
死ぬのは、いい。
しかし、戦う、戦い続けるという、意思の強さである。
死んでも、戦う。
死んだ場合は、魂となって、日本を守るという、意識、意思。

ここに、天皇の存在を通り越した、皇祖皇宗への、思いを感じる。
つまり、祖霊に対し奉る思いである。

米兵が、神に祈る。
日本兵は、祖霊に対し奉り、その命を捧げる。

その、象徴が、天皇陛下万歳となるのである。
ペリリューでは、である。


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2011年05月06日

天皇の島ペリリュー島へ6

われわれは海岸へ向けて進発する合図をじりじりしながら待っていた。その時間は永遠に続くかとも思え、張りつめた空気に我慢が限界を超えそうだった。戦場では待機する時間がかなりの割合を占めるものだが、後にも先にも、ペリリュー島への進攻の合図を待っていたあの耐え難い拷問のような時間ほど、極度の苦悶に満ちた緊張と不安を味わったことはない。
艦砲射撃が苛烈になるにつれて、いやが上にも緊迫感が募り、体じゅうから冷や汗が噴き出した。胃がキリキリと痛む。喉が詰まってつばを飲み込むのもままならない。膝から力が抜けそうで、私はアムトラックの舷側に弱々しくしがみついているしかなかった。
吐き気も襲ってきた。今にも胃のなかのものをぶちまけて、自分が臆病者であることをさらけ出してしまうに違いないと、不安がよぎる。
しかしまわりの兵士も、まさに私と同じ心境のようだった。
私はとうとう耐え切れなくなり、あきらめにも似た安堵感と、こみ上げてくる怒りの入り交じった思いで、われわれ上陸第二派の指揮をとる海軍士官の方を見やったそのとき、士官が海岸に向かって旗を振るのが見えた。アムトラックの操縦手がエンジンをふかす。キャタピラーが海水を撥ね上げ、われわれは進撃を開始したーーー上陸部隊の第二派として。
スレッジ 改行は、私。

日本兵の手記には、あまり書かれない、描写である。
日本兵の、若者たちも、きっと、同じような心境を感じていたのではと、思う。

死ぬか、生きるか・・・

殺すか、殺されるか・・・

そんな極限状態を、体験する必要は無い。
しかし、70年前に、それを体験した兵士が数多く存在したのである。

私は身震いし、息が詰まった。
怒りと苛立ちと無念の思いがこみ上げ、激しい嫌悪感に襲われる。それは、仲間が窮地に陥っているのを目にしながら、何一つ手が打てず、みすみすやられてしまうのを見守っているほかないときに、いつも私の心を苛む感情だった。
私は一瞬自分が置かれた窮状を忘れ、吐き気を覚えた。
「なぜ、なぜ、なぜ?」と神に問いかける。顔を背け、目の前に繰り広げられている光景が幻影であってほしいと願った。
これが戦争の酷薄な真実の姿だった。
戦友たちがなすすべもなく殺戮されていく。私の胸に嫌悪感が溢れていった。
スレッジ 改行は私。

米軍の上陸は、日本軍の攻撃に、晒され、乱され、多くの犠牲者を出した。
徹底的に、米軍は、攻撃を受けた。

全員が地面に伏せ、私は浅い窪みに飛び込んだ。中隊は完全に釘付けにされた。いっさい身動きがとれない。砲弾が次々と降ってきて、ついには一つ一つの爆発音が区別できなくなった。間断なくすさまじい爆音が轟き、ときおり砲弾の破片が頭上すれすれで宙を切り裂いていく音が、喧騒のただなかに聞えてくる。煙と塵でかすんで視界が悪い。全身の筋肉がピアノ線のように張り詰めていた。
発作にでも襲われたように、ガタガタと身震いがした。
とめどもなく汗が噴出す。私は祈り、歯を食いしばり、カービン銃の銃床を握りしめて、日本人を呪った。・・・
日本軍は攻撃の手を緩めようとせず、迫撃砲の集中砲火はいつ終わるとも知れなかった。弧を描いてあたり一面に落下してくる大型の砲弾が恐ろしかった。いずれこの窪地も直撃弾を食らうに違いない、と私は思った。
スレッジ 改行は、私。

やれることと言えば、ひたすら耐えて、生き残れるように祈るばかりだ。あの火炎渦巻く嵐のなかでは、立ち上がるのはまさしく自殺行為に等しかった。
スレッジ

いかに、日本軍の、攻撃が激しかったのかが、解る。
そして、21歳の、海兵隊のスレッジの、あまりにも、素直な恐怖の形相である。

そうして、何でも無かったはずの、日本軍と、日本人を、呪うようになってゆく、過程である。

顔も知らない、日本兵と、米兵との、対峙・・・

戦争なんて、遠い時代のこと・・・
私には、そうは、思われないのである。

戦跡を回り、その場所に立つことで、感じるものがある。
そこで、命を失った兵士たちの、思いである。

それは、遠い時代のことではない。
つい先ほどのことだった。

私の、祖父母の時代である。
同時代のことである。

もう少し、スレッジの、戦記を見る。

われわれは低木の密林を進撃し、あちこちにひそむ敵の狙撃兵に対して、一瞬たりとも警戒を怠ることはできなかった。空き地に出て、停止するよう命令が下されたところで、私は初めて敵の死体に遭遇した。―――日本軍の衛生兵一人とライフル兵二人の遺体だった。衛生兵が救護しようとしていたところ、砲弾を受けて戦死したに違いない。衛生兵のわきの救急箱は開いたままで、包帯や薬が丁寧に収納されている。衛生兵は仰向けに倒れ、裂けた腹が口を開けていた。珊瑚の細かい粉が付着してきらきらと輝く内臓に、私は怖気立ち、ショックに打ちのめされた。これが生きた人間だったのだろうかと、私は苦悶した。人間の内臓というより、子供のころに狩猟で仕留めて解体したウサギやリスの臓物のようだった。日本兵の遺体を見つめながら、私は吐き気に襲われた。
スレッジ

こうした、死体に関する、記述も多い戦記である。

戦争は、異常事態である。
実に、残酷なことが、行われる。しかし、それに、拘り、捉われていては、先に進まない。兎に角、敵兵を一人でも、多く殺すことなのである。

そうでなければ、終わらないのである。
終わらせるためには、殺し続けなければならない。
そして、どちらかが、降参か、又は、全員殺すまで、続けられる。

ペリリューでの、救いは、現地の人たちが、日本軍によって、避難させられたことである。
武器も持たない、島民が、巻き添えになる悲劇は、避けられた。

だが、どちらが、勝利しても、気が重い。

戦争を理解すれば、するほど、気が重くなるのである。
大量殺人・・・
それが、難なく許される、戦争というもの。


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2011年05月07日

天皇の島ペリリュー島へ7

朝、10時前に、階下に下りてゆくと、ウィニーさんが、すでに、居間で、待っていた。

私は、ペリリューの地図を出して、戦闘が始まった、西南方向と、中央高地の中に行くことを言った。

日本軍防空壕、大砲跡、日本軍戦跡、日本軍司令部跡、日本軍戦車、そして、オレンジビーチにある、米軍第81歩兵師団慰霊モニュメント、南面にある、ペリリュー平和記念公園、そして、神社跡と、新しいペリリュー神社である。

祈る場所は、米軍モニュメントと、平和記念公園である。
そして、神社では、その横にある、霊社と共に、祝詞を上げる。

ペリリューの山の中には、標識が一切無い。
知らなければ、方向も分からなくなる。

ウィニーさんは、慣れたもので、どんどんと、車を飛ばす。

上記に書いた所を、順番に回り、それぞれで、車を降りて、写真を撮る。

あまり、喋らなくても、いいのが、楽だった。
片言の英語で、時々、話す程度である。

戦車や、装甲車などが、無惨に残る跡は、実に生々しい。
日本軍が、洞窟の中に作った、攻撃用の、機関銃が、そのままである。

米軍のモニュメントでは、深く黙祷した。
祈りの言葉、空しくて、である。

そして、アンガウル島が、見える、平和記念公園で、日の丸と、御幣を作り、祝詞を上げる。
その様子は、ウィニーさんに頼んで、写真に撮ってもらう。

兎に角、彼女は、機転が利くので、本当に、助かった。
カメラの扱いも、熟知していた。

歌詠み
命捨て 南の島に 残るのは 祖国を思う 武士の魂 もののふのたま

今は亡き 戦士のなきがら 草木にて 隠れてありし 姿なくして

太陽の 日差し強くし 立ち向かい よくぞ戦い よくぞ砕けた

ありがとう ありがとうとも 幾たびも 頭下げたり 追悼慰霊

祈りなど もっての外の 傲慢と この世の地獄 しかと見るなり

沈黙す 言うな語るな 愚かしき 人の世のこと ただにあはれか

一時間ほどの、予定と考えたが、何と、三時間も、かかっていた。

最後の神社跡と、新しい神社、ペリリュー神社にて、祝詞献上し、更に、その横にある、霊社の前で、清め祓いを行う。

新しい神社には、伊勢神宮の神札と、靖国神社の神札、そして、何処かの、護国神社のお札が、入っていた。
扉がなく、雨風に辺り、散乱していたので、それらを、整理して、更に、黙祷した。

ここで、南太平洋の、更に、中部太平洋の、戦死者は、247、000名であり、遺骨の戻らぬ兵士の数は、174、350名であることを、言う。

17万人以上の、遺骨が、祖国に戻っていないのである。

戦没者の総数は、240万人。
遺骨の戻らない総数は、1、143、000名である。

ちなみに、戦争犠牲者は、320万人である。

私は、遺骨は、自然と同化している。大切なことは、慰霊だと、思うのである。

遺骨に拘り過ぎると、誤る。
大切なものは、その霊位であり、魂である。

すべてを廻り、街中のスーパーに行きたいと言った。
ビッグスーパー
ノー
大きなスーパーは無いのである。

そこで、一件の店に立ち寄るが、ホテルの前の、店よりも、品数が少ないので、驚く。
私が、フードというと、店にいた、男が、ベントウは、ノーと言う。

ベントウ・・・日本語が残っている。

ウィニーさんは、ホテルに戻り、その店の前で、車を止めた。
その店で、ベントウを買い、すべて、終了である。

私が、車から降りて、部屋に戻ると、ウィニーさんも、上がってきた。
タバコが吸いたいと言う。

私は、日本からの二種類のタバコと、コロールで買った、アメリカのタバコを出した。
ウィニーさんは、アメリカ製を選んだので、それを、差し上げた。

二人で、タバコをふかす。

大学終わったらどうするの
と、私が聞く。
アメリカに行く
結婚は
アメリカボーイとしたい
アメリカ人になるの
いや、それは・・・

多くの若者が、アメリカに出稼ぎに出るという。
更に、アメリカ籍を取る者も。
人口が、二万人を切っているから、国外に出ているのだろう。

私は、50ドル札を出して、ウィニーさんに、渡した。
とても、喜んだ。
だが、喜ぶのは私である。
ママは、一時間、50ドルだと言っていた。
三時間なら、150ドルになる。

ウィニーさんの、好意に感謝である。

実は、慰霊の前に、最初に小学校へ寄って、3歳児と、5歳児の教室で、衣服支援を行った。
それは、写真を見てもらえば分かる。
子供たちは、次々と出される、ぬいぐるみと、衣服に、目を丸くして、見ていた。
そして、ハグして欲しい子供たちを、抱きしめた。


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2011年05月08日

天皇の島ペリリュー島へ8

慰霊を終えて、私は、部屋で休んだ。
やや、興奮ぎみであった。

本当は、これで、明日、コロール島に戻るはずだったが、船が出るのが、あさってであるから、二泊しなければならなくなった。

それは、それで、別に問題なかった。

さて、その夜のことである。
追悼慰霊をして、心霊現象は、今まで一切なかった。
ただ、カンボジアの体験は、一度あったが、それほどのものではなかった。

酒を飲まないので、夜の食事をして、早々に寝る。
八時半頃、もう、ベッドに入って寝た。

深夜、である。
引っ張られた。
それが、毛布なのか・・・体なのか・・・

目覚めた。
時計を見ると、二時四十五分頃である。

朧な意識でいると、シャリンシャリンと、鍵の束を持つような音がする。
こんな時間に、誰か・・・
そして、その音を聞いていた。
その音が、私の部屋の前で、止まった。

はっと思い、起き上がろうとしたが、体が、動かない。
確信した。
霊的現象である。

金縛り状態になる前に、すでに、気づいて、それを避けることが、出来ていたが、今回は違った。

三度目の、気合で、半身を起こし、すぐに、清め祓いのための、祝詞を唱える。
その時、私の部屋の戸の前から、兵士たちが、階段、そして、ホテル前に、120名ほど存在するのを、感じた。

私の部屋は、二階である。
階段の前には、広めの踊り場があり、そこで、タバコを吸うことになっていた。

私は、起き上がり、部屋の戸を開けた。
そして、まず、君が代斉唱を二度した。

更に、日の丸を取り出して、部屋を出て、二階の踊り場の手すりに、日の丸をつけた。
そこで、更に、清め祓いの、所作をした。

心を鎮めて、兵士たちに、語り掛けた。
それは、省略する。

およそ、一時間ほどの時間をかけて、所作を終える。

私の泊まるホテルの並びには、最期の電信を打った、洞窟がある。
千人洞窟といわれる場所である。

さくら散る
それは、玉砕の合図だった。

そこには、コロールに帰る日の朝、出掛けて、黙祷した。

電灯が、少なく、暗い、ペリリューの夜中である。

出来るだけ、音を出さないようにと、所作を行った。

四時近くになって、私は、ベッドに横になった。
そのまま、朝を迎える。

潮騒や 月影さやか 慟哭が 消えて儚き 大和魂

ペリリューの 海に果てたる 将兵の 御霊安かれ 緑燦燦

パラオにて 海の清さに 祓われて 兵士よ帰れ 日の本の国へ

敗戦の 六十七の 年数え あはれなり 潮引く如く 遠のく記憶

さくら散る 最期の報に 祖国愛 捧げて散った 皇の兵士 すめらのへいし

天皇の 島と讃えて あっばれと 敵も認めた その心意気

何よりも 勝たねばならぬ 国のため 父母はらからの 為なればこそ

爆弾を 体に巻きて 体当たり その根性は どこからのもの

その日は、時々、頭痛がした。
そのような、頭痛は、しない私である。

私は、最期の夜、再び、彼らが現れるのかと、心配した。
現れてもいい。しかし、私の追悼慰霊の心、届かないのか・・・
それが、悲しい。

しかし、最後の夜は、何事もなく、朝まで、眠った。
ああ、通じた・・・
と、信じた。

今日もまた 撃たれて死ぬを 泣く人が 世界のどこか 確実にあり

平和主義 一度撃たれて みるがいい 次ぎは鬼とし 化すこと固し

私は、その日、一日、考えた。
この戦争犯罪者は・・・・誰か

A級戦犯は、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニー、イギリスのチャーチル、そして、アメリカのルーズーベルトである。

更に、アメリカは、悪魔の国である。
国際法など無視して、一般人を殺し尽すという行為である。

原爆投下は、その50年前から、決定していた。
その、原爆の威力を確認するために、日本に投下したのである。

私のエッセイ、天皇陛下について、を、参照してください。


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2011年05月09日

天皇の島ペリリュー島へ9

この間、私は身じろぎもせず、口をつぐんだまま、ただ茫然とその場に立ちつくしていた。二人の古参兵が背嚢とポケットをまさぐるために引きずり回した日本兵の死体は、大の字のまま投げ出されていた。私は思ったーーー自分もいずれ、敵兵の死体をこれほど無頓着に扱えるほど、感覚が麻痺してしまうのだろうか?あんなに冷然と敵兵の遺品を略奪できるほど、戦争は私からも人間性を奪っていくのだろうか?そのときはわからなかったが、やがて、露ほども気にしなくなる時が私にもやってくる。
スレッジ

米兵だけではない。日本兵も、同じように、そうしたのである。
敵兵の、死体を侮辱する行為を、平然と、行うのである。

そこからわずか数メートル離れた浅い小さな谷間で、友軍の衛生兵が負傷兵の治療をしていた。私は歩み寄って、熱い珊瑚の地面に腰を下ろした。衛生兵は膝立ちで、たった今担架の上で絶命した若い海兵隊員の上にかがみ込んでいた。死んだ兵士の首半分が血染めの包帯に覆われている。品がよくハンサムな、少年のようなその顔は、血の気が失せて青白かった。「これほど哀れで、無駄なことがあってもよいものか。まだ十七歳そこそこだったろうに」―――そう私は思った。少年の母親がこの光景を目にしなかったことを私は神に感謝した。衛生兵は死んだ兵士の顎を左手の指でそっと支えながら、右手で十字を切った。声を押し殺してすすり泣く衛生兵の、埃にまみれて、日焼けし、悲しみに歪んだ頬を涙が伝っていた。
スレッジ

それが、毎日続く。
日本兵も、同じである。

何故、こんな無駄なことが・・・
スレッジの、思いが、胸に迫る。

さらに数人の日本兵がマングローブの茂みから走り出した。ライフルがいっせいに火を噴き、敵兵は海水を撥ね上げ一人残らず倒れた。「そうだ。その調子だ」と軍曹は唸るように言った。
スレッジ

こうした状況の中で、精神を保っているのは、至難の業である。
米兵も、日本兵も、矢張り、狂う兵士が出るのである。

精神に異常をきたした、兵士を、戦友は、気絶させる。
でなければ、敵に気づかれる。

例えば、一瞬、その戦いの間に、正気に戻り、我が身を振り返る。
一体、何をしているのだ・・・
どうして、こんな状況の中にいるのだ・・・

どうして、こんなことになったのか・・・
様々な、疑問が、湧き起こる。
しかし、銃声が鳴ると、その感覚、思いを、停止させて、戦う。
その繰り返しである。

砲弾の甲高い咆哮がいよいよ間近に迫ると、私は歯をぎりぎり言わせて食いしばった。動悸がし、口が渇き、自然と目が細くなる。全身を汗が流れ、呼吸は乱れて短い喘ぎに変わり、息が詰まるのを恐れてつばも飲み込めない。あとは祈ることしかできなかったーーー
ときには声に出して。

集中砲火を浴びたときや、長時間にわたって敵の攻撃にさらされているとき、一発の砲弾が爆発するごとに、心身はいつにも増して大きなダメージを受ける。私にとって、大地は地獄の産物だった。巨大な鋼鉄の塊が金切り声を響かせながら、標的を破壊せんと迫りくるーーーこれ以上に凶暴なものはなく、人間の内に鬱積した邪悪なものの化身と言うしかない。
まさに暴力の極みであり、人間が人間に加える残虐行為の最たるものだった。私は砲弾に激しい憎悪を覚えるようになった。銃弾で殺されるのは、いわば無駄なくあっさりとしている。しかし、砲弾は身体をずたずたに切り裂くだけではなく、正気を失う寸前まで心も痛めつける。砲弾が爆発するたびに、私はぐったりして、力をなくし、消耗せずにはいられなかった。
スレッジ 改行は私。

実は、これは、序章である。
本格的な、戦いは、これから始まるのである。

ペリリュー島の飛行場を突破する攻撃は、私がこの戦争を通じて味わった体験の中でも最悪のものだった。間断なく炸裂する砲弾のすさまじい爆風と衝撃―――その苛烈さは、ペリリュー島と沖縄で直面したどんな恐ろしい体験をも超えていた。
スレッジ

私は、この戦記を読んでいると、心底、スレッジを、抱きしめたくなる。
勿論、彼は、もうこの世にいない。

あはれ あはれ あはれ

そして、日本兵も、同じように、恐怖に震え、更に、それを無視して、攻撃し、攻撃されるのである。

日本軍の夜襲は悪夢だった。
私が受け持つ戦闘区域では、前夜(上陸初日の夜)は飛行場の上空に撃ち上げられた照明弾が敵の潜入を防いでいたが、ほかの戦闘区域では、われわれが今対処を迫られ、その後島を去るまで夜ごとに襲われたあの身の毛もよだつ恐怖を味わっていた。日本軍は夜襲の戦法に長けていたが、ペリリュー島ではその戦法に一段と磨きがかかっていた。
スレッジ

米軍は、南から、西から、東からと、徐々に、戦闘区域を広げていく。

島全体が、戦場と化す。

オズワルドは脳外科医を志していた。その明晰な頭脳が、ちっぽけな金属の塊によって無惨にも破壊されてしまったのだ。こんな無駄があっていいものか。国民の最も優秀な人材を台無しにしてしまうとは。組織的な狂気とも言うべき戦争は、なんと矛盾した企てだろうか。
スレッジ

更に、彼らは、敵兵、日本兵の、遺体を見て、思う。
彼も、理想や希望を抱いていたはずである。
それが、どうして・・・

米兵の中にも、心優しい兵士がいて、撃たれた日本兵を、かわいそうに思うと言う者がいる。しかし、それは、即座に、怒鳴られる。
「馬鹿を言うな・・・やるかやられるかなんだぞ・・・」

もし、戦争がなければ、よい友人になっていたかもしれない。
そして、世界のために、共に、その能力を使うことが出来たかもしれない。

戦争が無い時代に、パラオに来て良かったと、心底、思う。

私は、この戦記と、もう一つ、日本人側のことを書いた、戦記を持参してきていた。
しかし、それは、一度も、開くことがなかった。

開く必要がなかったともいえる。

posted by 天山 at 00:00| 旅日記 天皇の島ペリリュー島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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