2011年04月01日

難民を考える

今年は、敗戦から、67年を、迎える。
三月、東北太平洋沖地震が、発生した。

敗戦後、最大の、災害である。
何か、しなければ・・・
という、思いを、持った人たちは、大勢いる。

しかし、中々手を出せなかった。
専門家による、被災地への、活動の邪魔になる。

私の場合は、古着のみ、扱うので、出番はなかった。

避難生活をはじめた、被災者の皆さんの、悲痛な様子を見て、私は、計画通り、タイ、ミャンマー国境の町、メーソートに、ミャンマー難民支援に出掛けた。

バンコクから、メーソートの中で、多くの人たちに、出会った。
そして、日本の被害について、尋ねられた。そして、励まされた。

ラオス人であり、オーストラリアの国籍を持つ、男性には、ニュージーランドでの、地震の被災者、犠牲者の日本人と、東北地震の犠牲者に対して、篤い、哀悼の意を受けた。

露天、屋台のタイ人の皆さんからの、励まし・・・

更に、メーソートでは、はじめて出掛けた、ミャンマー人学校の代表者から、日本が、このような状態であるのに、私たちのために、来てくださり、本当に、ありがとうと言われた。

実は、その学校に行くときは、支援物資は、何も無かったのであるが・・・

今回は、先に送っていた支援物資が、100キロ、持参したものが、50キロである。
150キロは、足りなかった。

難民キャンプに出掛けたのではない。
支援を受けられない場所、特に、孤児の家、孤児の施設を、中心に、廻った。

そして、メータオクリニックである。
ミャンマー難民のための、無料診療所である。

そこで、前回の時より、人が大幅に増えていた。
子供も、大人も、である。

予定が、そこで、狂ったのである。

まさか・・・
子供たちも、とても、数が増えていた。
診療所に学校が、あるようだった。

皆、着の身着のままである。

更に、山の中、林の中を分け入ってゆくところにある、孤児の家では、新しい子供たちが、増えていた。
それも、小さな子供たちである。

それで、おおよその、支援物資が、無くなったのである。

実は、ミャンマーは、内戦状態である。

選挙を終えて、新しい政権が出来たというが、以前と、変わらない、軍事政権である。

その、政権に、キリスト教カレン同盟と、仏教カレン同盟が、手を結び、政権に、対抗していた。
更に、これから、少数民族の、団体が、合流して、一年以内に、現政権を倒す意気込みである。

メーソートと、結ぶ、ミャワディーとの、国境の橋は、閉じられている。
そこから、ミャンマーには、渡れない。
それでも、川を渡って、ミャンマーから、抜けてくる人たちがいる。

現政権が、続く限り、それは、続く。

タイでは、難民を受け入れるという、明確な表明はしていない。しかし、受け入れざるを得ない。
現地の人は、タイ国王の存在によるものだと、言う。

慈愛の行為である。
しかし、タイ政府は、難民が、田畑などを耕すことを、禁じている。
そこに、住み着かれると、政情不安になるからである。

兎に角、難民なのである。

更に、移民である。
移民と、難民の数を合わせると、200万人とも、言われる。
メーソートには、その中の、20万人以上が、いる。

難民も、大変な状況だが、移民も、大変な生活状況である。
3Kの仕事を、受け持つのが、ミャンマー人である。

町の中では、働く、ミャンマー人が、多く、目立つ。

世界には、多くの難民が、存在する。

アフガン難民も、そうである。
更に、国内難民という、存在もある。
内戦により、国内をさ迷うのである。

更に、難民のような、扱いを受ける、人たちも、数多い。

それは、それぞれの、国の事情による。
そして、それぞれの、国の宗教思想による。

例えば、インドは、ヒンドゥー教により、現在の不幸は、前世の報いによるものと、判断する。

だから、貧しい人たちは、前世で、善い行いをしなかったから、それは、当然であると、考える。

タイの、上座部仏教でも、そのように考える人たちもいる。

この、蒙昧を打ち砕くには・・・

そうとうの、進化が必要である。

様々な、民族と、その宗教の、価値観の中を、私は、旅する。

人は、誰もが、幸せな境遇を得られること・・・
それが、願いである。

そのためには、紛争、内戦、戦争を止める必要がある。
解決の一つの手段として、それを、受け入れない、世界の人たちの、意識の進化を、願うものである。



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2011年04月02日

難民1

前回、メーソートに出かけた時は、実に、苦労した。

飛行機で、スコータイまで行き、そこから、バスを乗り継いで、行った。
ところが、満席のバスであり、次ぎの、ミニバスは、人が多くて、乗れない。バス停に留まっていた、バンコクからの、タクシーに乗って、ようやく、メーソートに着いた。

それで、今回は、メーソートに、飛行機が飛び始めたということで、小さな飛行機に乗ってゆくことにした。

19席あり、16席だけを使用する、プロペラ機である。
実に、恐ろしい・・・

そして、乗った。
その音の、煩いことといったら、なかった。
それでも、バスで、9時間かけて、メーソートに行くより、いいと、それにしたのである。

一時間半。
何とか、耐えて、メーソートに到着する。

空港は、小さな家・・・
すでに、テラの会メーソート支部に成ってくださった、広倉さんが、待っていてくださった。

本当に、心強いことである。
現地に人がいるということは、とても、安心なのである。

バッグは、全部で、六個。
皆、支援物資である。
自分たちの、物は、ほんの少し。

勿論、それには、追加料金がかかった。
3300円である。
私たちには、結構高い料金である。

でも、50キロ。
そして、広倉さんに、100キロを送っていた。

それを、持って、一日で、支援と、慰霊をする予定である。

飛行機が、週に、三便しかないので、どうしても、その予定が、一番理想なのである。
長居をすると、広倉さんに、迷惑を掛けると、思うのだ。

何から、何まで、助けてくださるので、安心と、甘え過ぎるのが、怖いのである。

ホテルに、荷物を置いて、三人で、麺類を食べる。
私たちは、日本のラーメンに慣れているからと、広倉さんは、いつもの、倍に麺を入れてと、注文してくれた。

タイの、麺類は、日本のラーメンの、三分の一程度の、量なのである。

これで、明日の、予定を、決める。

最初は、メータオクリニックである。
ミャンマー難民の、無料診療所である。

現在は、イギリスと、フランスから、ボランティアの医者が、二名来て、診療に当っていると、いう。

カルテの、10バーツを支払えば、後は、すべて、無料である。
入院しても、無料。
だから、患者の家族も、一緒だという。

更に、広倉さんは、この頃は、貧しいタイ人も、来ていると、言う。

貧しくても、健康であれば、何とかなるが、病気だと、どうしょうもない・・・

そんな中で、この、病院は、希望である。

ところが、私は、昨年同様の、人数を予想していて、十分に、支援物資があると、安心していたのである。

勿論、見事に、裏切られた。
人々が、溢れていたのである。

それで、その診療所を作られた方に、ご挨拶をしたいと、思ったが、何やら、調子が悪いらしく、お会いすることが、出来なかった。
診療所にも、いないので、少し心配した。

だが、患者さんたちは、多い。

私の、支援する人たちは、入院患者さんたちである。

最初に、一番奥の、入院病棟に行った。
病棟といっても、単なる、部屋である。

三人の方がいらした。
二人は、男性で、一人は、寝たきりである。足が、不自由なのである。
そして、もう一人は、とても、痩せていた。
更に、寝たきりの、おばあさんである。

おばあさんは、私が、タイ語で、サワディーカップと、声を掛けると、涙を流して、上半身を、起こした。

大きな、タオルを渡すと、日本の人から、これも、これも、貰いましたと、言う。
そして、日本の人たちの、写真を示した。
おばあさんの、横には、色々な日本の方が、写真に写っていた。

とても、喜び、歓迎してくれている。

男性二人にも、それぞれ、上下の、衣服を渡した。
そして、写真を撮った。

また、来ますね
コータが、通訳する。
ありがとう、ありがとう・・・

それからである。
その人数に驚くことになる。

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2011年04月03日

難民2

広倉さんが、食堂で、働いている人たちも、難民ですと、言い、食堂に案内してくれた。

丁度、昼の食事時であり、入院患者たちが、食器を、持って並んでいた。
そこで、衣服を出したものだから、働いている人たちだけではなく、入院患者さんたちにも、差し上げることになった。

バッグ一つでは、足りないので、送っていた、ダンボール箱を持ってきた。
一つのテーブルの上に、衣服を置くと、さあ大変である。

皆さん、自分に合うものを、取ってくださいと、声を掛けた。

人たちが、殺到する。

更に、ダンボール箱を追加する。

中には、子供の物も、必要とする人たちがいた。
子供用も、出すことにした。

テーブルに置いた物は、大半が無くなった。

私は、汗だくになる。

次ぎは、子供たちの部屋にということで、向かうと、すでに、子供たちが、部屋にいて、座って待っていた。

こんなに・・・

幼稚園児ほどの、子供たちが、沢山いた。
一つ一つを、手にして、一人一人の子に合うサイズを、渡す。

子供たちは、騒がず、静かに、受け取る。
とても、良い雰囲気である。

着ているものは、汚れていた。
だから、なお更、私は、渡すことを、喜んだ。
良かったねーーー

声を掛けて、渡す。
体に合わせて、渡す。

子供は、未来だ。
未来に、衣服を渡す。

衣服支援の、醍醐味である。
私は、すでに、報いを受けていた。
静かに、はにかむ子供たち。喜ぶ子供たち。

良かったねーーー

そして、一通り済んで、空になったバッグをたたむ。
部屋から出て、写真を撮ると、その後ろから、子供たちが・・・

まだ、渡していない、子供たちがいたのだ。

車から、子供用を再度、持ってきてもらい、外で、皆に手渡す。
赤ん坊もいる。

曇り空だが、次第に、暑くなる。
私も、汗だくである。

写真を撮る。
皆、写真に収まる。

これで、終わりですかと、広倉さんに、尋ねると、終わりですと、言うので、車に戻る。

事務所の前には、若者たちが、たむろしていた。
彼らに渡すものは、無いのである。

残る物は、大半が子供用である。
孤児たちの家のためである。

日本語で、さようなら・・・
さようならと、声を掛けて、メータオクリニックを後にする。

それから、追悼慰霊のために、ミャワディ川に向かう。

私は、何気なく、空模様を見た。
薄く、日差しがある。
晴れてきた。

そして、自由戦士の碑の前に着いた時は、晴れ上がったのである。
カレン族の人たちと、戦いを共にした、三名の日本人の若者の碑である。

日の丸を掲げて、祝詞を献上する。
更に、今回は、戦いの跡である、川沿いまで出て、そこで、清め祓いを行う。

いつも、偶然に晴れるのである。
太陽に対して、拝し、清めの言霊、音霊を、唱える。

ミャンマー側には、歩いて渡れるほど、近い。

広倉さんの、息子さんは、ミャンマー側にいる、母親の元に、時々、ご飯を食べるために、川を渡って、出掛けるそうである。
年老いた、おばあさんの、世話をするために、ミャンマー側のミャワディに滞在しているそうだった。

タイ側では、採砂作業をしていた。
国境の橋の辺りで、タイ側が、河川の工事をしていて、それが、ミャンマーの不満を買っているとのこと。
つまり、タイ側が、国境を広げていると、解釈されているのだ。

この、国境の町では、以前も、書いたが、麻薬の、取引場所であった。
前の首相のタクシンの時代に、多くの人が、麻薬密売容疑で、殺された。
その数は、八千人とも言われる。
そして、全く、関係ない人々も、多く、殺されたのである。

ところが、その大元が、政府だったというから、驚き、呆れた。
そして、地元警察も、介入していたのである。
警察官は、給与の他に、麻薬関係取引での、手数料も、得ていたという。

そして、それを、政府ではなく、国王直轄の、枢密院に、訴えたのが、在住の日本人数名である。

それで、公になったのである。
その経緯については、省略する。



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2011年04月04日

難民4

慰霊を終えた後、元来た道を、戻る。
舗装のされていない道路は、とても、揺れる、揺れる。

運転をしてくれている、中野さんの、お孫さんも、体が揺れると、言っていた。

そして、山の中に向かう。
林の道を、クネクネと、走り、暫くして、ようやく、孤児たちの家が、見えてきた。
前回と同じである。

そして、子供たちが、連絡していたので、皆、外に出て、待っていた。

小さな子のグループの、男児、女児、そして、大きな子たち。

サワディーカップ
こんにちは

子供たちは、ミャンマー語であるから、あまり通じない。

小さな子の、男児から、はじめることにした。
昨年よりも、数が多い。

二人の男児は、大人用のTシャツ一枚を着ているだけだった。
それだけ・・・

私は、早速、大きさを合わせて、渡してゆく。
次々と・・・

よかったねーーー
いいねーーー
一人で、喋って渡す。

今回は、女の子たちに、櫛を持ってきた。
それを最初に、渡す。
手に手に、櫛を取る。
静かに、喜ぶ。

丸太で、出来たテーブルの上に、衣服を乗せて、次ぎは、女児たちである。

うわーーー綺麗だね・・・
そう言って、子供たちに、渡してあげる。
よかったねーーー

そして、大きな子供たちである。
中学生くらいか・・・
だが、栄養不足のためか、小さい。

大きな子は、笑顔で、受け取る。
テレは、無い。

コープチャイ
ありがとうと、ビルマ、カレン語である。

シャツ、ズボンを渡す。
大きさを確かめて、オッケーと、尋ねると、オッケーと、応える。

そして、子供たちを、世話している、おばさんたちも、数名いる。
その人たちにも、どうぞ、好きなものをと、指し示す。

先生も、来た。
派手なワンピースを取り出したが、先生が、遠慮する。

私は、一度、車に戻り、支援物資を確認したが、何と、大半無くなっているのだ。
あららら
これなら、次の孤児たちの家には、あまり物が無い。

だが、広倉さんは、次の街中にある、孤児たちの家に行きましょうと、言う。
赤ん坊のものが、少しあるが、どう考えても、足りない・・・

それなである。
今回は、難民の学校にも、向かう予定だった。
これでは、何も、渡す事が出来ない。

それでも、予定変更せず、広倉さんに、従って、向かった。

子供たちと、再会を約束して、また、林の中を戻る。

街中の、孤児たちの家・・・

お昼ね時だった。
前回も、そうだった。
しかし、大きな子供たちは、起きて、私たちを歓迎してくれた。

そして、代表の男性も、再会を喜んでくれた。
私は、残った少しばかりの衣類を持参して、二階の部屋に、上がった。

赤ん坊の寝ている、横に、使い捨ての、オシメを置いた。
代表は、英語が出来る。
英語で、色々と、話をしてくれる。

今回は、あまり、物がありません
いいです、いいです、これだけでも、十分です

私は、失礼かと思いつつ、代表を呼んで、少しばかりの、金額をお渡しした。

次回は、もっと、先に船便で、送っておきたいと、思った。

歓迎の、お水を頂き、すぐに、失礼した。
もう一人の、女性の、代表の方は、留守だったので、よろしくと、伝えて貰った。

もう、支援物資は、何も無い。
広倉さんは、学校の代表の方と、顔だけでも、合わせましょうと言うので、それに従った。

矢張り、街中で、車ですぐの、所にあった。

代表の方にお会いして、次に来る際に、必要な衣類関係を尋ねた。
そして、連絡先などを交換して、数名の先生たちとも、少し歓談した。
皆、ミャンマー難民である。
つまり、生徒も先生も、ミャンマー難民の皆さんなのである。

今回は、予想もしなかった、人の多さだった。
全く、足りなかったのである。

そこで、私は、この辺りが、寒くなる季節、11月頃に、もう一度、来ることを、広倉さんに、約束した。
そして、寒い時期の、衣類を沢山持参する、また、船便で、送ることを、約束した。

兎に角、一日で、すべてを済ます事が出来た。
広倉さんと、中野さんの、お孫さんの、お陰である。

私たちは、ホテル近くに戻り、四人で、遅い、昼食をとることにした。


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2011年04月05日

難民5

遅い昼の食事は、三時を過ぎていた。
つまり、おおよそ、五時間活動していた、訳である。

広倉さんの、知り合いの、中華系の人の、中華料理店である。

ここの、中華系の人は、20年前は、屋台で、やっていたという。
それが、今では、店を構えるほどになった。

中華系の人たちは、勤勉で、我慢強い。

私は、東南アジアを回り、中華系の人たちを、嫌った。
今も、嫌う。
しかし、彼らは、実に、勤勉で、我慢強く、頭が良い。

それが、時に、我々だけが・・・
中華系の人たちだけが、良ければという、感覚になる。

だが、よく考えてみれば、それも、理解する。
辛抱して、他国で、商売を成功させるには、それなりの、努力が必要である。

私が、中国系の人たちを、ゴキブリのような・・・と、表現することを、少し反省する。

良い人たちも、大勢いるのである。

最初は、少し話しをしたが、皆、疲れて、たた、食べることに、集中した。

私も、コータも、黙々と食べた。

広倉さん、中野さんの、お孫さんは、私が、料理に手をつけるまで、一切、箸をつけないので、私は、積極的に、箸をつけなければならなかった。

たっぷりと、食べた。
本当に、満腹である。

そして、これで、最後である。

本当は、一日置いての、活動が、理想的である。
しかし、メーソートの場合は、一日で、すべてをこなす。

迷惑をかけたくないという、想いも、ある。

次の、計画を話して、それで、十分に、気持ちが通じる。

中野さんの、お孫さんは、大学を卒業して、軍隊に入る。
ただし、大学卒業をすると、半年の任期であるという。

婚約している女性もいて、結婚の際は、是非、私に教えて欲しいと、言った。
もし、お祝いに、参加できれば、参加したい。

彼は、翌日、私たちを、空港まで、送ってくれた。
勿論、広倉さんも、である。

広倉さんは、私達が、搭乗するまで、付き合ってくれた。
そういう人なのである。

だから、あまり、迷惑をかけないように、と、私は、活動を一日にした。

メーソートという、ミャンマー国境の町。
向こうには、ミャンマーの、ミャワディーという町が見える。
出来れば、その町にも、入国して、ミャンマーの人たちにも、支援をしたいと、思う。

だが、国境が封鎖されている。
どうしょうもない。

前回も、コータが、国境を越えようと思ったが、駄目だった。

いつ、自由に、行き来が、出来るのか・・・

早く、その日の来るのを、待つ。

私は、マンダレーにて、戦争犠牲者の追悼慰霊を、したいのである。

ビルマ戦線で、亡くなった方々の、慰霊である。

申し訳ないが、現政権が、崩壊して、ミャンマーに入国できるのを、期待する。
ただし、もし、それが為されなければ、私は、タチレクという、国境の町から、マンダレーに向かうことを、考えている。

タイ、国境の町、メーサイから、入る。
メーサイには、三度出掛けた。

ビルマは、日本に近い。
近いというのは、感覚的に、近いという意味である。
ビルマの人々は、日本人を歓迎する。

同じ、仏教徒である。
まあ、同じといっても、日本の仏教と似ても似つかわしくない、仏教であるが、ビルマの人は、同じと、考えている。

マンダレーは、ビルマ人の、仏教の聖地でもある。

そこには、日本兵士の、慰霊碑が、多くある。
それも、次第に、消滅の運命なのである。
兵士の遺族が、亡くなり、慰霊碑の、管理も、行き届かない。
現地の人たちが、それを管理するという。

敗戦から、67年を経る。

あの、悲劇が、忘れられることが、悲しい。

私の、祖父母の世代、今の若い人の、曾祖父母の時代の、出来事である。

しかし、それを、思い起こすことで、戦争を回避する、心が、生まれる。

二度と、あのような、戦争をしないためにも、忘れてはならないのである。

私は、そのために、この活動を続けている。

あはれなる
戦のことの
悲しみを
今こそありて
伝え統べるか


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2011年04月06日

難民6

メーソートに滞在中は、相変わらず、ホテル並びの食堂に通い、市場に出掛けて、果物や、お菓子、茹でとうきびなどを買って食べた。

ホテルでは、一切食事は、しなかった。
インスタントコーヒーでも、30バーツ、90円である。
街中では、きちんと、煎れたコーヒーでも、25バーツである。

私の場合は、タイ料理に慣れて、何でも、美味しい。

ちみなに、マニラと、バリ島が、一番不味い。
どうして、こんなに、不味いものを作れるのかと、感心するほど、不味い。

バリ島を離れた、インドネシアでも、美味しい。
パダン料理、そして、マカッサルの魚の美味しさ。
勿論、屋台である。

レストランには、決して入らない。
高くて、不味ければ、目も当てられない。

私は、もう、食べ物に、当らないのである。
仏陀の言う、如来に近づいたようである。
仏陀は、最後に食べた、豚肉の炒め物で、命を落とすことになる。その時、それを作った者に、これを食べて大丈夫なのは、如来であると、言う。

仏陀さんも、如来でなかったという・・・

私は、知ったかブッダであるが・・・

さて、タイの、民間機は、変更が多い。
案の定、バンコク行きの、飛行機が、変更である。
それも、遅いのではなく、早くなったのである。

一時発が、朝の11時に変更である。

二時間も、早い。

バンコク、メーソート間は、二つの飛行機会社が、飛んでいる。
勿論、安い方を選んだ。

広倉さんと、中野さんの、お孫さんが、朝の11:30に、ホテルに来てくださることに。

であるから、私は、急いで、市場に行き、イカの干したものを買いに出た。
タイのイカは、沢山種類がある。それが、楽しみ。
ただ、それらは、皆、炙って食べるものらしい。私は、そのまま、食べる。
コータは、怖がり、食べない。

マンゴーも、美味しいが、バンコクにもあり、買わない。
でも、バンコクの、半額の値段である。

さて、空港に向かう。
ホテルから、15分ほどである。

小さな空港であるから、簡単である。
荷物も、一つのバッグに、まとまった。

搭乗手続きをして、広倉さんと、コーヒーを飲みつつ歓談する。
最後まで、付き合ってくださるのである。

広倉さんは、多くマスコミの取材を受けるが、名前は、匿名にする。
私は、了解を取って、書いている。
私の場合は、特別扱いである。

国境の町、その周辺の話しは、尽きないほど、情報量を、持っている。

国王直属の、枢密院に訴えた人の、一人である。
今は、広倉さんのみ、残っているのだ。

私の質問に、答えないことは、一つも、なかった。
ここに、書けないことも、多々ある。

いよいよ、アナンスがあり、搭乗口へ・・・
そこで、広倉さんに、お別れする。
また、11月以後に、参りますと、今回の、お礼を言う。

お客は、10名程度。
大丈夫なのか・・・という、プロペラ機。
まあ、これなら、落ちても、死ぬことはないと思う。

ゆっくり、落ちるだろうと、楽観的である。

それが、また、大音響である。
低空飛行なので、下に風景が見渡せるが、見るのは、止めた。
兎に角、目を瞑り、見ない。

バンコク、ドムアン空港に着くまで、そうしていた。

ドムアン空港は、昔の空港で、今は、国内線のみである。
スワナプームが、国際空港になった。また、一部の国内線も、飛ぶ。

そして、バンコクでは、今まで泊まったことのない、ルンビニ公園近くのホテルである。
珍しく、ゲストハウスではない。ホテルである。
918バーツという、奇妙な料金。
2700円程度である。二千円以上のホテルには、あまり、泊まらないのであるが。

二泊のみ利用することにした。
その付近の、ホテルでは、一番安い。

その付近のことが、知りたかった。
麻薬密売と、売春である。
詳しく書かないが、麻薬密売は、現場を何度か見ることが、出来た。

売春は、何と、隠れゲイのスポットだった。
一組の、男女のカップルがいれば、五組の、ボーイと、白人男のカップルがいるという。

更に、私は、それで出会いの、現場も、確認した。

タイ・・・
何ゆえに、ゲイが多く、更に、レディボーイが多いのか・・・
不思議である。
夜は、コータが、レディボーイの取材に出かける。
私は、寝る。

部屋に鍵は、掛けない。
決して、私たちの、真似はしないで欲しい。

私から、奪うものなど、何も無い。
お金・・・
そんなもの、たかが、知れている。
後は、命・・・
そんなもの、たかが、知れている。


posted by 天山 at 00:00| 旅日記 難民 メーソート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月07日

難民7

バンコクでの、最後の3日間は、コータが、タイ語の勉強のために、住んでいた、アパートマンションである。

バンコクの下町である。
以前は、一泊、600バーツ。だが、新装したので、700バーツになっていた。2100円である。

アジアに出て、二千円以上の、ホテルは、わたしたちには、高いのである。
しかし、馴染みの人たち・・・
部屋も、綺麗になっているし・・・

また、食事も、一回、百円以内で、済む。
その、アパートマンションの、食堂では、大半のものが、30バーツである。90円で、食べられる。

また、近くに、沢山の、屋台がある。
更に、買って来て、部屋で、食べる方法も。

兎に角、わたしたちの、旅は、お金がかからない。
マッサージも、地元の人が行く店。
二時間、250バーツ。750円である。

水は、最初に、二本ほど、ペットボトルの水を買う。その後は、1,5リットル、1バーツ、三円の水を自動販売機から、買う。

飲んでも、全く問題ない。

タイでは、食堂で出される、水も、氷も、大丈夫である。
三年前までは、私も、注意していたが、今では、全く、問題がない。

ただし、カンボジアや、ラオス、ミャンマーなどは、まだ、危険である。
氷が危ない。

さて、私達は、何故、用もないのに、バンコクに滞在するのか。
簡単である。
格安航空券の期間が、10日間だからである。

折角だから、10日間、滞在する。
そして、その間は、何もしない。

何もしないということが、どんなことか。
とても、苦痛に感じることがある。

本も、読まない。
物も書かない。
ただ、一日を、過ごす。
私には、修行である。

毎日、本を読み、物を書くという、生活から、離れるのである。
不安になる。

今、私は、生業、職業というものを、持たない。
持ちたくない。
それでは、何で、食べているのだ・・・という、ことになる。

だが、フリーターではない。

やろうと、思えば、色々な仕事がある。
しかし、あえて、限定しないで、生きている。

私は、和芸家元である。
それは、茶の湯、いけばな、舞踊、着付け・・・その他諸々・・・
そして、占い師である。
更に、霊能者である。
だが、霊能者というのは、便宜である。

解ることはあるが、解らないことの方が、多い。

私は、何者でも、何様でもない。

ある程度の、子供が、人の心を読むように、私も読む。
ただし、それを、私は、信じない。
信じる必要がない。

その人を、やることを見れば、その人が解るのである。

行為が、その人の、すべてである。

何を言うのかではない。何をやるのか、が、問題である。

私は、死ぬことを、望んでいる。
いつも、死ぬことを、考えている。
即座に、死ぬこと。

私の、人生の、最大のテーマは、死ぬことである。

だから、戦争犠牲者の、追悼慰霊をする。

死後の世界がある、無いは、全く関係が無い。
私の興味は、生死になる。
生死を、確実に、受ける人間とは、何か、である。
死を意識するのは、人間だけである。

それは、人間の大脳化ゆえである。

それは、進化である。
人間は、その進化から、逃れられないのである。

それでは、進化とは、何か。
進化とは、人間であるということである。

進化した、人間の、あはれさ、は、極みである。
その、極みとは、何か。

必ず死ぬと言う事を、知る者であるということ。

そして、堂々巡りをする。

大脳化によって、人間は、妄想力を得た。

私は、それに、非常に興味がある。
そして、それは、いずれ、人間を解放するか、滅ぼすのである。

日本から、出掛けた時は、東日本震災の只中。そして、バンコクに着くと、寒い。更に、ベトナムでは、雪が降り、タイ、南部では、乾季であるのに、大雨による、豪雨である。

異常気象・・・
アホだろう
地球は、いつも、異常気象である。
そして、人間は、いつも、危機的状態にある。

歴史は、いつも、激動である。

何も、恐れることは、無い。

私も、何も、恐れない。
死ぬだけではないか・・・
死ねば、済むことではないか・・・

生きるということは、実に、アホ臭いのである。

死ぬことが、怖くない私には、この世のことで、怖いものが無いのである。

死んだら、やってやる・・・

と、そう、思っている。

おしまい
でも、追伸がある。


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2011年04月08日

難民8

帰国してから、タイ政府に、変化が起こった。

60年以上に渡る、ミャンマーの少数民族紛争により、四世紀半もの間、タイへの、流入が続く、ミャンマー難民の、問題に、タイ政府は、国内9箇所の、難民キャンプを閉鎖し、ミャンマーへ、帰還させる方針を打ち出した。

軍政から、民政移管という、名目だが、ミャンマーは、何も変わっていない。

何故、少数民族が、タイに逃れるのか・・・
事は、簡単である。

少数民族に対する、差別と、暴力、そして、虐殺である。

タイ政府は、4月11日に、難民キャンプの閉鎖と、難民送還の検討に入ったという。

そして、すでに、ミャンマーのテイン・セイン新政権との間で、難民10万人以上を、帰還させる方向で、協議しているという。

タイ側の難民は、25年以上も、生活しており、我々にとっても、負担になっていると、国家安全保障会議のタウィン事務局長が言う。

また、タイ政府は、帰還を促すために、アンタックや、欧州連合などによる、難民支援打ち切りを、求めているという。

驚いた。

タイ国王が、高齢であり、政治関与しないというのが、残念で、ならない。
実際、国王の、慈愛の御心が、難民を、受け入れるものとなっていたのである。

タイの難民キャンプには、14万5千人が暮らすという。

勿論、ミャンマー難民、移民を入れると、200万人以上の、ミャンマー人が、タイにいる。

数としては、少ないが、問題は、受け入れるという、ミャンマー政府の対応である。

実に、危険である。

その歴史を、俯瞰すると、民族紛争の起源は、ビルマの英国からの独立にさかのぼる。
1948年である。

人口約五千万人のうち、ビルマ族が68パーセント、その他は、シャン族、カレン族、ラカイン族なので、少数民族である。

政権は、少数民族に、ビルマ族と、同じ権利を認めなかったのである。

このために、分離独立を求める、カレン民族同盟が、49年に、武装決起して以来、様々な民族グループが、武装闘争を行った。

そして、これにより、難民が発生し、84年から、難民キャンプに収容されている。

カイン州では、昨年の11月、国軍と、カレン族の武装組織の一部が、衝突し、約一万五千人が、タイへと、避難した。

武力衝突のみならず、軍による、強制労働、移住、女性に対する暴行などの、人権侵害も、難民流出の要因だった。

私は、タイ政府に、御願いする。
彼らを、悪魔の巣に、戻すことなかれ。

実は、タイには、政府の他に、国王直属の、枢密院がある。

その、枢密院に申し出て、何とか、難民を帰還させないようにと、願い出てて欲しい。

今、現在、ミャンマーは、内戦状態であり、それに、多くの国民が、デモを繰り広げ、千人以上の死者を出しても、政権を倒すという、意気があれば、一年以内に、政権は、倒れると、私は、予想する。

だが、誰が、死にたいものか・・・

ビルマ族の人たちが、少数民族を、差別するのではない。
政権が、差別し、彼らを、迫害し、虐殺を行うのである。

そして、その、政権の後ろには、中国共産党が、支援するという・・・

いま、ミャンマーでは、商売をするためには、中国語を身につけなければならないと、言われる。
それほど、中国人が、跋扈している。

人権無視の、中国共産党は、まさに、悪魔である。

中国共産党を打倒し、そして、ミャンマー政権を、打倒する以外に、方法は無い。

だが、武力闘争は、私の願うところではない。

真っ当な、民主的、政権を求める。

何故に、このような事態が、起こるのか。
それは、数名による、既得権益を、守るためである。

そして、言いたくないが、ミャンマー仏教の、政権と、結びつく僧侶たちである。

彼らは、政権に、密告するのが、仕事なのである。

唾棄すべき、僧たち。

それも、高僧といわれる、馬鹿馬鹿しさである。

確かに、ミャンマー難民は、タイの国民の、負担である。
だが、彼ら難民は、遠慮して、生活している。
その、苦難に甘んじて、生活している。

何とか、タイ政府が、国王の御心に、従い、慈悲の心を持って、対処して欲しいと、願う。

私は、タイ国王陛下に、敬意を表するものである。



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