2011年03月28日

神仏は妄想である 342

神道は、「救いの宗教」でもなく、「悟りの宗教」でもなく、第一義に、「畏怖の宗教」である、と表現したいのだ。歴史的に見れば、教派神道や神道系新宗教の中には「救いの宗教」的なものも、「悟りの宗教」的なものもある。しかし、神道の原点や原型には厳然と、「畏怖の宗教」の原像が刻印されていると思うのである。
神道のスピリチュアル 鎌田東二

畏怖の感情というのは、非常に理解する。
畏敬といっても、いい。
自然に対する思いである。

だが、矢張り、宗教と、観念するところが、納得できないのである。
神道は、宗教と呼べるか。
現在は、宗教団体、法人として、認められているが、それは、アメリカ占領軍が、神道、神社と、国民を話す狙いでの、処置だった。
更に、天皇と、国民との、乖離を促すものだった。

何度も言うが、西洋哲学系の、宗教学という概念からは、神道は、宗教ではない。
また、多神教の宗教でもない。

この方の、研究には、敬意を持つが、次ぎの段である。

そのことは、端的に、「カミ」という言葉に表れている。本居宣長は「古事記伝」の中で、「世の尋ならず、すぐれたる徳のありて、畏きもの」と「カミ」を定義した。平たく言えば、「すごい!やるう!かっこいい!超00!」と名指しされる「モノ」は、「カミ」となるのだ。・・・その根底に「かしこし!」という畏怖の感情が脈打っているからである。
鎌田

それも、一つの、考え方である。が、この方は、大和言葉を、知らないようである。

大和言葉の、カミという、言葉が、どのようにして出来たのか・・・
それが、問題である。

それは、まず、漢字の意味を探るということから、生じた、誤りであると、言う。

カミという、文字を挙げると、神、紙、髪、頭、上、守、などなど・・・

昔、髪の結い方で、身分が判別できた。
そういう意味で、髪は、帰属する、集団を示した。
守、という、カミは、土佐守、とさのかみ、として、領主のことを言う。
更に、その集団の、長の場合もある。

紙は、古くそれが、使用された時代は、戸籍などで、大量に利用された。

つまり、結論を言えば、日本の、カミという、言葉の、原型は、集団を結ぶものとの、意識である。

大和言葉の世界に登場する漢字とは外来語である漢語とは理解されていません。中国の周辺にある漢字文化圏において唯一日本だけが漢字を訓読みする習慣があると言われています。漢字の音読みとは普通漢音と呉音とに区別されたり、また当然唐音もあったりします。
大和言葉を忘れた日本人 長戸 宏

この国では大和言葉に対して漢字があてられ訓読みされるため、外来語と大和言葉の区別が曖昧になったと言えるでしょう。このため、大和言葉の本来の意味が理解されるのではなく、漢字で表記される字義により解釈する傾向がいつの間にか当然とされたのではないでしょうか。
長戸

カミとは、抽象観念の、集団を結ぶものとして、日本人は、使用していたのである。

決して、神様の、カミではない。

大和言葉は、非常に現実的な行為から、生まれたものである。

手は、古くは、「た」であり、いつの間にか、「て」に変化する。
手を、「た」と、しなければ、大和言葉の意味が解らないことになる。

「た」は、「え」からの、変化であり、その意味は、「え」として獲得された、「た」であり、所有された、労働力である。
物を、得る、のは、「え」「た」と、手「た」がつく。

手枕と、かいて、たまくら、と、読むように、手を「た」と、理解しないと、解らない。

さて、もう一つ、けがれ、穢れは、「け」と「が」を基本にして、け、とは、「食」であり、それに向かう、「が」に、求められる。
食べ物を、作る行為には、「けが」、怪我が伴うという、発想・・・

食べ物を、「い」とし、「つ」作る行為の系列語、「いつ」「いち」「いた」との説明が出来る。
痛いの「いた」は食べ物、「い」を作るのは「た」である。

「いた」の原義が生きている言葉は、「板前」「「・・・いたします」などとなる。

「た」で結ぶ人は、この国の「たみ」である。
そして、「たみ」によって、生み出されたものが「たま」である。
「たま」と「す」は、民によって、生み出されたものを、配る行為を意味する。

「たます」は、分配を意味し、これに対して、の言葉が、「たまる」である。
溜まる、貯まる、という漢字になる。

「たます」行為をもたらすものは、「たまし」になる。
この「たまし」こそ、漢字の、魂、で、表記される。

労働と分配が、共にされるから、「魂」が使われる。

民が生み出すものが、「たま」であるから、これが「て」に変わると、手間に変化する。

「た」から「て」に、変化し、余剰としての、「う」を「つ」作る、手は「うで」になり、腕こそ、古くは「うた」になり、それは、「うつ」行為をもたらし、「た」を意味する。

「うた」も「うつ」行為を助けるもの、「おと」から、踊りが、出る。

踊りは、「うた」を讃える行為となる。

どこか、超越した意味合いを持つ言葉は、一切無いのである。

さて、カミを、もっと、掘り下げると、「かむ」「かみ」「かま」と系列語を作る。
「かま」こそ、継承するもの、それは、竈、釜、鎌に、当る。
沖縄には、「がま」といい、先祖を風葬する場所である、洞窟がある。

大和言葉では、「かみ」以上の上位概念が、「かま」である。

つまり、「かみ」とは、継承する「かま」を、平たくした言葉であるということ。

「かむ」とは、アイヌでも、カイムとして、先祖霊を言う。
それも、一緒くたに、神として、理解しているのである。

全く、神概念が、違うということを、示したかった。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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