2011年03月24日

神仏は妄想である 338

イエスの場合、「取税人や罪人」と呼ばれる人々の中で生活を送っていた。その位置から、「義人」と「罪人」という区分けをする圧力に反撥したのである。マタイは逆に「「義人」の側から「罪人」を眺めている。そして、「憐れみ」をかけてやるつもりなのだ。自分たちはまさにパリサイ派よりももっと大きな「義」を持っている者だ、と自信に満ちて考えているのだから。
田川建三

如何に、イエスと、マタイが、遠い存在か・・・

また、山上の説教のはじめの祝福の言葉において、「飢えている者こそ幸いなのだ。必ずや満腹する日が来よう」という元来はすさまじい憤りの句、「飢え」というもっとも具体的な生活の危急をかかえた憤りがほとばしり出ている句を、手もなく精神化してしまって、「義に飢え渇く者こそ幸いだ。そういう者が満ち足りるようになる」と、「義」という語を付け加えて意味を変える。

マタイにとっては、腹が減って明日食えるかどうか、ということではなく、飢え渇くようにして「義」を求める、ということが大切だったのだ。そういうマタイが、イエスとは違って、自分(たち)を「義人」の系列の中に置いて見ていたことは間違いない。したがってマタイの立場としては、(イエスが)義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」という句は修正せざるをえない。

しかしマタイも一方では、単に自説を言いつのるだけの著者ではなく、自分の意見にあてはまろうとなかろうと伝承の言葉遣いを尊重し得る編集者でもあるので、ここではこの句をまったく抹殺するようなことはしない。その代わりにホセア6・6の引用を付け加えることによって、我々義人はそういう「取税人、罪人」を憐れんでやらねばならない、という方向に話しを転換させてしまう。
田川
改行は、私。

つまり、イエスは、取税人、売春婦、罪人といわれる、人々が、国民の指導者よりも、刑法で、差別される者の方が、神の国に入る、権利があることが、当然なのであるというのである。
この世で、苦労した者が、せめて、あの世で、楽をするのだという、逆説を、言うのである。

なんと言う、反逆者か、イエスという、人物は。

結局、結果を言えば、マタイは、上からの目線で、罪人などを、憐れむ、憐れんでやろうという、意識なのである。

イエスの、考え方とは、全く違うのである。

自分たちの、社会的位置は、そのままに、キリスト教という、新しい組織の中で、ユダヤ教、及び、キリスト教徒に対して、こちらが、一番、正しいのだと、いう。

田川氏は、その神学者としての、知識と、教養を持ってして、徹底的に、解説、説明しているが、それは、これくらいにしておく。

私の、言いたいことは、イエスの言葉の解釈の問題であり、更には、イエスの言葉の、改竄である。

イエスの、逆説的な、「罪人こそ神の国にはいる」という主張を、マタイは、罪人も、義人になれば、神の国に、入れますという、極めて常識的な論理に行き着かせたのである。
そして、ユダヤ教指導者は、もともと、義人ではなかったのである。

マタイの福音
はっきり言っておく。取税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、取税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。

マタイにとっての「愛」や「憐れみ」の位相がはっきりしてくる。それはむしろ、「取税人や罪人」なんぞは駄目な人間であるから憐れんでやろう、という視点から語られる。自分自身は取税人や罪人の位相にはいないのである。
田川

何しろ、こんな悪い奴でも、何とか許してやらねば、とむきになって努力しているのだから。問題は、彼の腹の中の、この「こんな悪い奴ら」という断罪の思いなのである。
田川

現代の、キリスト教徒は、どうか。
大半は、信仰により、自ずと、憐れみの心が、引き出されると、生半可な、ムードによる、憐れみの、情を持つ。

まさに、上から目線である。
異教徒に対しても、本当の神を知らない、憐れな人々である。
彼らのために、祈りましょう、程度の、感覚である。

要するに、心の中での、葛藤、戦いが、無いのである。

マタイは、罪人を、上から目線で見下ろすことにより、自分自身は、彼らの反対側に立っているということを、自ずから、暴露する。
これが、実践の観念論であり、出発点である。

平たく言う。
憐れみをかける人がいて、はじめて、憐れむという、心を持つ、また、行動する。
そこには、憐れむべき人が、いなければ、成り立たない。

助けるためには、差別され、苦難の人々が、いなければならない。
その彼らを、支援して、解放するという・・・

決して、自分たちは、痛む場所には、いないのである。

キリスト教の、矛盾であり、信徒の矛盾である。

傲慢なのである。

その、傲慢を、信仰によって、打ち消すのである。

神様のために、素晴らしいことを・・・
マザーテレサは、言う。
そして、貧しい人、捨てられた人、死に瀕する人に、向かう。
マザーテレサを、聖人に仕立て上げたのは、そういう、人々である。

そういう、人々が、存在しなければ、マザーテレサの存在も無い。
そして、彼女は、カトリックという、偉大なるバックの元で、身を粉にして、活動した。それが、イエスの、求めたことだと、信じたのが、彼女である。

イエスは、そんなことを、言うのではない。
社会に対して、徹底的に、反抗し、攻撃した。

すでに、マザーテレサは、高みにいたのである。
ローマ法王認可としての、高みである。

イエスが、最も嫌った、権威の、象徴である。

彼女に、現れたイエスの霊は、魔物に近い霊だったともいえる。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。